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ポツダム広場から再び地下鉄に乗り、今度はフリードリヒ通り駅の花屋まで行った。ここはエーミールの従妹のポニーがお祖母さんと一緒に、ノイシュタットから着くはずのエーミールを待っていた場所だ。
フリードリヒ通り駅の花屋は一軒しかないので、すぐ分かる。
わざわざポツダム行きの予定をずらしてくれたクララやカオルたちのために、奮発してピンクのばらとかすみ草の花束を買った。特にピンクのばらはクララが大好きな花なのだ。
そして最後は、警察に捕まったグルントアイスのことで、エーミールが訪ねて行ったアレクサンダー広場の警察署だった。この警察署はものすごく大きく、大聖堂にも負けない壮麗な建築物だ。屋上の大きな時計のついた大鐘楼が重々しげに、威厳に満ちた姿で広場の人々を見下ろしている。
全ての行程を終え、二人はアレクサンダー広場に立つベロリーナ像の下へと行った。ベロリーナ、つまりこのベルリンを象徴する女神の像は、塔の形をした冠を被り、優雅な仕草で左手を前に差し出している。
この像が出来たのは五十年くらい前で、その時は別の広場にあったらしい。絵葉書で見て想像はしていたけれど、実物はそれを遥かに凌駕する巨大さだった。あまりの大きさに、見上げるアーデルハイトの口がぽかんと開いてしまう。
「この像はこれからも、ずっとここにあるのかな」
アーデルハイトはベロリーナ像からイルマに視線を移して言った。
「きっと私たちがお婆さんになっても、こうしてここに立って、みんなを見守り続けているんだよね」
「この世に確実なことなど、何もないわ。この像だって、私たちの未来だって、いつどこでどうなるかなんて、誰も知らない」
イルマはベロリーナを見上げてそう言った。その横顔は何かを達観しているようにも、達観しきれずに苦しんでいるようにも見える。
以前イルマは自分の魂が死んでいると言っていたが、そんなことは信じられなかった。現に、イルマの心はアーデルハイトの目の前で、こうして柔らかに息づいているではないか。
広間の時計は午後三時を指していた。すぐ近くにあるジョージ教会とベルリン大聖堂の鐘が一斉に鳴る。のんびりと歩いていた広場の鳩たちが、大音響に驚いた様子で一斉に空へと飛び立った。
手回しオルガンを弾いている老婦人が通りかかる。
「一曲どうですか」
と二人に微笑みかけた。イルマは硬貨を渡し、
「なんでもいいのでお願いします」
と物腰柔らかに頼んだ。オルガンはシューベルトの『野ばら』を奏で始める。
オルガンの音に耳を傾けながら、スタンドで買ったアイスクリームを食べた。ワッフルにのったアイスを、落とさないように慎重に口に運ぶ。
アーデルハイトはストロベリーを、イルマはレモンシャーベットだ。広場には《ティエツ》や《ヴェルトハイム》などのデパートが建ち並び、大勢の人々が忙しく行きかう。
オルガンの曲はいつの間にか、ヨハン・シュトラウスの『美しく青きドナウ』に変わっていた。
「一応ここで解散になるけど、イルマはこれからどうする?」
手についたワッフルの滓をはたき落して、アーデルハイトはイルマを見た。
「私は」
とイルマは何かを考える表情になる。
「これから、行かなくてはならないところがあるから」
「うん、わかった」
アーデルハイトは素直に頷いた。これだけ付き合ってくれたのだ、贅沢を言えば罰が当たる。
「あなたは、これからどうするの」
「お昼代とタクシー代とかでけっこう使ったから、夜は質素に簡単なものにするつもり。どこかでホットドックでも買って食べるね」
そう言って笑うアーデルハイトに、イルマは右手を差し出した。
「今日はありがとう。とても、楽しかった」
アーデルハイトはイルマと差し出された右手を交互に見て、しばし戸惑ってから握りしめた。
「わ、私も楽しかった。私こそ、ありがとう」
広場に射しこむ陽光が、太陽を背にしたイルマの銀髪を薄い金色に染めていく。その溢れるほどの眩しさの中で、イルマが微かに笑みを浮かべていた。
アーデルハイトははっとして言葉を失い、彼女を見つめる。
その時、アーデルハイトとイルマとの間に流れた何かを、言葉で説明することは出来ない。
時間にしてみれば五秒とない、ほんのわずかな瞬間だっただろう。しかしその間、イルマはたしかに微笑み、彼女のもっとも秘められた神聖な部分をアーデルハイトに差し出していた。
いつの間にか、アーデルハイトの目じりに涙が浮かんで、それを指で拭う。
「なぜあなたが泣くの」
「いや、なんか嬉しくて」
照れたようなアーデルハイトの答えに、イルマ・グレーゼは少し悲しげに眼を伏せた。
そして。
月の後半は駆け足で過ぎていった。アーデルハイトはクララたちと一緒にポツダムへと出かけ、華麗なるロココ様式の宮殿と庭園を満喫してきた。
八月末から九月にかけて、ベルリンは気温がころころ変化する。ポツダムから帰ると、晩秋のような肌寒い日が三日続き、アーデルハイトは風邪をひいた。空は日一日と澄んでゆき、遥かな高みに魚影のような雲を吹き流す。
ベルリンの夏は終わりを迎えようとしていた。
イルマ・グレーゼとはあれからたいした進展はなかった。相変わらずいつもは基本的に一人でいることを好み、皆とは打ち解けようとはしない。
それでも二人のあいだは、確実に何かが変わろうとしていた。たとえ図書室で二人きりになり、なにも話さなくても、そこには以前とは違った親しみに満ちた空気が流れていた。
八月が終わり、九月になった。《白薔薇十字団》は十月からが正式な冬服となるが、九月はどちらを選んでも良いことになっている。上旬はまだまだ温かい日々が続くが、それもほんの僅かな間のことだろう。アーデルハイトは衣装ダンスに掛けてあった上着に、丁寧にブラシをかけた。
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九月六日から十二日にかけて、ニュルンベルクで開かれる党大会のスローガンは「大ドイツ」である。
総統のもとでかつての輝きを取り戻しつつある帝国が、いよいよポーランドやチェコに奪われた土地を取り戻すのだという期待が高まっていた頃でもあり、このスローガンは大いに国民たちの気分を高揚させるものであった。
この党大会には、例の訪独日本青年代表団も出席することになっている。もちろん、ドイツ全土から《ヒトラー・ユーゲント》と《ドイツ少女団》の代表者たちも参加する。
ユーゲントや少女団のメンバーは、一切の乗り物を使わず、ニュルンベルクまで徒歩で行く。ドイツから集結した若い男女の間で、短い恋の火遊びがあるのは有名な話だ。大会後、妊娠する少女団の団員も多く、アーデルハイトの父親などはそのために、娘を党大会に参加させなかった。
五日月曜日の朝。
大会に出席するため、アッシェンバッハ少尉とともにニュルンベルクへと旅立つクララとグレーテルを、かつてアーデルハイトが到着したアンハルター駅まで、カオルと一緒に見送りに行った。
ベルリンは党大会を祝う、華やいだ空気に包まれていた。そこかしこの建物から、赤に黒の鍵十字の垂れ幕が賑々しく下がり、街全体がこの二色に染め上げられたみたいだ。
「道中気をつけてな」
「なにかお土産を買ってきてね」
コンパートメントに乗り込んだクララたちに、窓越しにそう声をかける。出発した列車に、アーデルハイトとカオルはいつまでも手を振った。
カオルといえば明日六日に、ドレスデンから両親と弟がベルリンに遊びに来る予定だ。一家はベルリン動物園近くの《エデンホテル》に泊まることになっていた。七日夜にはアーデルハイトも交えて、ホテルのレストランで会食をする。
「両親はハイジにぜひ会いたいと、それは楽しみにしているのだ」
カオルは目を輝かせてそう言った。特別にカオルとアーデルハイトには外泊が許され、七日の夜はカオルと一緒に《エデンホテル》に泊まることが出来る。今からわくわくするほど楽しみだった。
意外だったのは、イルマ・グレーゼがニュルンベルクに行かず、留守番になったことだ。グレーテルいわく《ハイドリヒさまの子飼い》である彼女なら、党大会に行くのは当然だと思っていたのだが。
だが、そんなことはまだ序の口だったのだ。
もっと意外な、思いもかけないことが五日の夕食後、図書室にて起こった。




