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プラーク街はニコルスブルク広場からカイザー大通りを挟んで、歩いてすぐのところにある。ここは『エーミールと探偵たち』を書いた当時、ケストナーが住んでいた場所だ。
一九二〇年代には、ユダヤ人の学者や芸術家が多く住み、アインシュタインもその一人だった。
ここでケストナーが『エーミール』の序文にある通り、窓から外を見ていたり、部屋の床に寝っころがり、テーブルの周りを五十三回もぐるぐると回ったりしたのだ。
イルマの話では、ケストナーはユダヤ人だ。でもケストナーだけは、特別な《いいユダヤ人》だと思いたいのは、ムシの良すぎる話だろうか。
二人はプラーク街でタクシーを拾った。お話の通りに、モッツ通りを東へとまっすぐ走り、ヴィクトリア・ルイーゼ広場を通って、ノレンドルフ広場へとたどり着く。
広場にあるグルントアイスが泊まった《ホテル・クライト》は、本当の名前は《ホテル・コッシェル》という。さすがに泊まることは出来ないので、ホテルの外側だけを眺め、その足で地下鉄に乗り、ポツダム広場まで行った。
ポツダム広場は相変わらず人がごったがえして、人と車と自転車の坩堝であった。ここに来たのは、初めてベルリンに来た五月のあの日以来だ。
まだアーデルハイトは自分がこれから何をするのかも知らず、ベルリンの喧騒にただただ圧倒されていただけだった。考えてみれば、あれからまだ四カ月弱しかたっていないのだ。そのたった四カ月の間に、自分がものすごく変わってしまったように思える。
ポツダム広場から北へと伸びるヘルマン・ゲーリング通りを少し歩くと、広場から移転した現在の《カフェ・ヨスティ》がある。そこが今日の二人の遅い昼食場所だった。
そもそも、《カフェ・ヨスティ》は、ポツダム広場の伝説とも言える名店だった。多くの芸術家が集う場所として知られ、ハイネやグリム兄弟も通っていたらしい。その《カフェ・ヨスティ》が、一九三十年にポツダム広場から現在のヘルマン・ゲーリング通りに店を移転させた理由は、良く分からない。
三十年といえば、ドイツが未曾有の大恐慌に見舞われていた頃だ。店の移転は大恐慌のせいなのかもしれない。
日曜日のせいか、昼食時を過ぎているのに店内は混雑していた。
少し待ってから席に座ると、暑いのにきっちりと蝶ネクタイを結んだウェイターが注文を取りに来る。アーデルハイトが半熟たまごの昼食セットを二つ頼むと、ウェイターが親しげな顔でにっこり笑った。まるで、(ええ、あの『エーミール』でグルントアイスが食べていたのですね。承知いたしました)とでも言うように。
通りが見える窓側の席に、二人は座っていた。いつか昔、こんなことがあったような気がして思い出そうとするのだが、どうしてか思い出せない。向かいに座るイルマは両手を組んでテーブルの上に置き、道行く人を見ていた。
「予定よりちょっと遅くなっちゃったね。お腹すいた?」
「そうでもないわ」
このヘルマン・ゲーリング通りを北に行けば、新しく建築中の総統官邸がある。アルベルト・シュペーアさまの設計による新官邸は、それは壮大なものらしい。順調にいけば、来年には完成するということだった。
来年なんてずっと先のことのように思えるが、きっとあっという間だ。その時自分はどうしているのだろう。十一月の計画を無事終えて、任務を全うできた満足感を味わえているだろうか。
一か月先の未来すら不確定で、その不確定さを確実なものにするために、今をひたすら走り続けているようなものだ。
ウェイターが半熟たまごのセットを運んできた。運ばれたアイスティーを一口飲む。イルマは半熟たまごを食べ始めた。
特に話すこともなく、二人で黙々と食事をした。店内は他の客たちの話声でやかましいくらいなのに、このテーブルだけが、別の空気に支配されているような静けさに包まれている。
半熟たまごは美味しかった。付け合わせのグリーンピースの冷たいスープも、どっさりと盛られたザウアークラウトも、水に晒した生タマネギも、どれもが丁寧に拵えられていた。
最後にデザートのバームクーヘンがついてきた。アーデルハイトとイルマは温かい紅茶をひとつずつ頼み、お茶を飲みながらバームクーヘンをゆっくりと食べる。その時、蓄音機からタンゴのメロディーが流れてきた。
小さな喫茶店で、私たちはお茶とケーキを挟んで座る
あなたは黙ったままで、一言も話さないけれど
私たちは全てを分かり合えていた
電子ピアノは優しげに歌う
やがて来る、本当の痛みと悲しみを
小さな喫茶店で、私たちはお茶とケーキを挟んで座る
その歌を聞いて、アーデルハイトはふいに思い出した。いつだったか、イルマとこうして向かいあって座る夢を見たのだ。他の座席に目をやると、席を立ったカップルたちがホールで踊り始めていた。体をぴったりと寄せ合い、誰もが幸せそうな顔をしている。
「ねえ」
アーデルハイトは席を立って、フォークでバームクーヘンを切り分けているイルマに話しかけた。
「私たちも踊ろうよ」
不可解な面持ちのイルマの右手をそっと取った。イルマは
「踊れないから」
と言って横を向いたが、手を振りほどこうとはしない。
「大丈夫、ステップなんて簡単だよ。適当にしていればいいんだから」
そう言って笑うと、イルマは左手で右手に握っていたフォークを取り、席から立ち上がった。握りしめた手を引いて、ホールへと行った。
「あらあら、ずいぶんと可愛らしいお嬢さん方ね」
青いワンピースを着た年配の女性が、二人を見て微笑んだ。女性は夫らしき男性と二人で、仲良く手を取り合っている。
「私がリードするね。イルマは適当に合わせて」
イルマの腰に右手を回し、左手で彼女の右手を取った。
『小さな喫茶店』が終わり、曲は『夜のタンゴ』に変わった。去年公開された映画、ポーラ・ネグリ主演の『夜のタンゴ』で大人気になった主題歌だ。
夜にタンゴを聞けば、あなたへと想いを馳せる
朝の光を見るまでに、じっと耳を澄ませるの
遠くに響く鐘の音に
別に華麗なステップを繰り出したいわけではない。他の人達も曲に合わせて、本当に適当に踊っていた。アーデルハイトも簡単なステップを踏み、イルマはそれに合わせる。イルマのいい匂いのする柔らかな体と体温を感じて、アーデルハイトの胸がぎゅっと締め付けられるように苦しくなった。
別に女の子同士で踊ることなど、珍しくもなんともない。女学校でも、《ドイツ少女団》でもごく普通のことだった。でも今は、この瞬間がとても特別なもので、ものすごく幸せな気分と悲しい気持ちが一緒に溢れ出たような気分になる。
一曲を踊って、二人は席に戻った。
「誰かと踊ったのって初めて?」
アーデルハイトの問いに、イルマは
「いいえ」
と短く答えた。そうして冷めた紅茶を飲んで、バームクーヘンの残りを食べる。
イルマの答えに胸の奥がぎゅっと痛くなる。別に焼きもちをやく筋合いもないのだが、イルマにとって初めての相手ではなかったということだ。
だとすると、イルマと踊った相手って誰なんだろう。店を出るまでアーデルハイトは、そのことばかり考えていた。




