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宣伝相がプロデュースしたアイドルを総統閣下はお気に召されたようです  作者: 長谷川蒼銀
第一章 一九三八年五月三日火曜日の、ながい長い一日
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1-3

 それで父の意志は決まった。

 ベルリンは確かに遠いが、熱烈な党支持者の父にとって、宣伝相は遥かに仰ぎ見る雲上人だ。その彼の要望は、神の声にも等しい。

 アーデルハイトの方は、家から出ることに何の異存もなかった。寂しくないと言えば嘘になるが、半年前に新しい母親を迎えてから、家の居心地は正直あまり宜しくない。若い義母はまま娘に関心がないようで、ほとんど話すこともなく、よって意地悪をされたこともなかった。


 表面上は何の問題もない。しかし、あくまでも表面上はだ。父と義母とハンナ、この三人の間に流れる緊張を孕んだ空気に、これ以上アーデルハイトは耐えられなかった。

どうせ女学校を卒業したら、家を出て自立することも考えていたのだ。出られるのなら、一日でも早い方がいい。


「たしかに、この件に関しては全てが極秘扱いだからね。君がなにも分かっていなくても、無理からぬことだ」


 アッシェンバッハは胸を反らし、足を組んで言った。


「この計画はある意味、非常に類まれな発想による計画と言える。別の言い方をすれば、珍奇と言っていい」

「ち、珍奇、ですか?」

「詳しいことは、仮本部に着いてから聞きたまえ。この組織のリーダーが全部教えてくれる。彼女は総統の姪御に当たる方だ。クララ・ミュラー・ラウバルという。君より三つばかり、年上のはずだよ」


 その言葉を聞いて、アーデルハイトは急に気が重くなった。《ドイツ少女団》のお姉さま方には可愛がってもらった方で、アーデルハイトもいいだけ甘えさせてもらった。

 それが出来たのは、NSDAPの「社会的身分による格差をなくす」という信条と、それに基づく気楽さがあったからだ。

 お姉さまの親が誰であろうと、たとえそれが市長や大管区リーダーの娘でも、少女団のなかでは対等に接することができる。それでもさすがに総統の姪御となると、失礼のないようにとの気遣いばかりが先に立ちそうだった。

 アーデルハイトの表情が曇ったことに気付き、アッシェンバッハが笑った。


「心配することはない。総統の姪御さんといっても、不要な気遣いは無用だよ。彼女もそんなことは望んでいない。とても優しくて頼りがいのある人だから、困ったことがあったらなんでも相談するといい」

「クララっていうお名前なんですね」

「そうだが、それがどうかしたのかね?」


 アーデルハイトは膝の上に揃えた両手に目を落としてから、少し恥ずかしそうに言った。


「クララは、私の母の名前なんです。私が九歳の時に、亡くなりましたが」


 黒のホルヒはティーアガルテンを抜けて、クアフュルステンダム(選帝侯通りの意)、通称クーダムを西に走っていた。この辺りはライプツィガー通りにも負けない繁華街であり、《カー・デ・ヴェー》に代表されるデパートや高級ブティック、映画館、カフェ、レビューホールが軒を連ねている。

 ここからさらに西へ進み、グルーネヴァルトというベルリンでも屈指の高級住宅街へと入った。ベルリンは大都会だが、西のグルーネヴァルトは緑と湖に囲まれた閑静な地区で、都会の喧騒からは無縁だ。


 左右の並木が一層間隔を狭めて密度を増し、小さなお城めいた邸宅たちを、隠すように生い茂る。右手にフーベルトゥス湖を眺める道を走り抜け、しばらく走ってから脇道に入る。

 グルーネヴァルト(緑の森)の名にふさわしい、新緑に囲まれた邸宅が軒を連ねる一劃に、ひときわ大きな樺色の屋根を戴く、薄い蜂蜜色の屋敷が見えてきた。黒鉄の門扉は、草花が渦を巻きながら天へと伸びるアールヌーヴォー調で、その前で停止した運転手がクラクションを鳴らす。年配の男性が屋敷から出てくると、門を開け、ホルヒは車寄せへと滑り込んだ。


「さあ、着いたぞ。ここが今日から君の家だ。中で他の団員たちが待っている。行こう」


 アッシェンバッハに促され、車を降りたアーデルハイトは思わずため息をついた。周囲の邸宅を五つくらい合わせても足りないくらいの、広々とした敷地だった。


 青々と柔らかに繁った芝生、植えられたプラタナスや菩提樹、銀杏は敷地に涼しげな影を落としている。大きな噴水に立つ小天使と、彼がかかえた壺から迸るゆたかな水。流水は春の陽光を浴びて軽やかに舞い、砕いた水晶のように輝いていた。

 規則的にならんだ大小異なる窓は、重々しい石造りの邸宅に、華やかさと軽快さを与えている。正面の大きな窓の上に飾られた獅子やグロテスクな異教の神々が、大きく見開いた目で、見上げるアーデルハイトをねめつけた。


「お待ちしておりました、アッシェンバッハ様」


 迎えに出た年配の女性が、アーデルハイトを見て相好を崩す。歳の頃は六十手前といったところか。ふくよかな体つきと人の良さそうな表情が、いかにも世話好きそうな性質を表していた。


「また、なんて可愛らしいお嬢さんでしょう。お屋敷がいっそう賑やかになりますわ」

「はじめまして」


 頬を染めて挨拶をしたアーデルハイトを、ドアを開けたその女性が招き入れる。重厚な木造の扉をくぐり、広間に一歩足を踏み入れた。

 その途端、言葉を失ったアーデルハイトの耳に、澄んだ声に奏でられる歌曲が流れ込んできた。

 あれはそうだ、モーツァルトの『春の憧れ』



* * * *



 我は招かん うるわし五月

 樹木また碧く 萌えいずる

 春の小川に 繰り出せば

 咲きたるすみれの いとあわれ


 アーデルハイトの目に飛び込んできたのは、ばら色の渦とも言うべき、色彩の奔流であった。

 花綵模様を浮き上がらせた、真珠質の光沢を放つ絹地の壁紙は、広間の壁一面を覆い尽くしている。そのあでやかさは、五月に咲き誇る女王の威厳と驕りそのものであった。


 時の流れを飴色のつやに照らす柱や階段、窓枠、扉。それらとばら色が完璧なまでに調和した空間に、ただただ圧倒されてしまう。天井に下がる三つのシャンデリアが、着飾った衛兵のようにアーデルハイトを迎えてくれた。


 その下で二人の少女がもう一人、年かさの少女の指揮に合わせて歌っている。ピアノがないので無伴奏ではあったが、とても綺麗なコーラスだった。

 指揮をする少女は後ろ向きなので顔は見えず、背が高くほっそりとして、腰まで届く長い巻き毛の金髪が、腕の動きに合わせてさらさらと揺れる。

 一人は九歳から十歳くらいのまだ幼い、明るい栗色の髪の少女。首の付け根まで短く切った髪型は、一見するとりりしい美少年のように見えた。


 もう一人は黒と言っても良いくらいの暗い栗色の髪、やや黄みを帯びた肌がどこかエキゾチックな感じのする、とても整った顔立ちの少女だった。耳元の髪を肩の所できちんと切りそろえ、耳から後ろの髪はひとつにまとめて頭の高い所で結び、長く垂らしている。よく見ると、背中にちょっと曲がった長い棒のようなものを担いでいる。

 三人ともお揃いの、黒いジャケットとスカートに身を包んでいる。とすると、これがここの制服に違いない。


 花の香うたうは 春のさち

 五月の歓び 空に満ち

 野をゆく我に 降り注ぐ


 アッシェンバッハの拍手でコーラスは終わり、指揮者の少女が振り向いた。澄んだ緑柱石色の双眸が、にこやかにアーデルハイトを見つめる。

 黒い上下の制服に、膝頭を覆う白い長靴下。褐色のシャツに黒いネクタイ。短いプリーツスカートからちらりと覗く太ももが眩しい。金色の長く豊かな巻き毛は制服にかかって、上質の絹糸にも負けぬつややかさであった。

 アーデルハイトの背筋を、電流にも似たものが走り抜けた。


(なんて綺麗な人なのかしら、まるでボッティチェリの絵に出てくる天使みたい!)


「ようこそ、《白薔薇十字団》へ!」


 天使そのままの柔らかな良く通る声で、少女は両手を広げ歓迎の意を示す。寄木細工の床を靴音も高く歩み寄り、傍に寄ると、アーデルハイトより頭一つ背が高かった。ふわりとスズランの、少し青さを含んだ甘い香りが鼻をくすぐる。そういえば、母クララの好きな香水もスズランだった。


「本当に、とっても可愛らしいお嬢さんだこと」


 そうにっこり笑うと、アッシェンバッハに向き直った。


「少尉ありがとうございます。お忙しいなか、わざわざ申し訳ありません」

「いや、これも私の仕事のひとつだ。構わんよ」


 アーデルハイトは隣に立つアッシェンバッハを見上げて、襟元の階級章に目を凝らす。階級章については全然詳しくないが、どうやら星が三つ斜めに並んでいるのが少尉らしい。そんなに偉い人に荷物持ちをさせてしまったことに、今更ながら冷汗が出る思いだった。


「ミュンヘンからの長旅は疲れたでしょう? お昼がまだなら、何か用意してもらいましょうか」

「いいえ、そうでもないんです。昨日は、ドレスデンの祖父の家に泊まったので。ドレスデンから今朝、ベルリン行きの電車に乗ったんです」


 慌てて首を横に振ったアーデルハイトに、クララは眼を丸くする。


「まあ、ドレスデンにおじいさまが? カオル聞いた? おじいさまがドレスデンにいらっしゃるのですって」


 カオルと呼ばれた濃い栗毛の少女が、恥ずかしそうに笑って頷く。カオルなんて、ずいぶん変わった名前だ。日本か中国人の血が混ざっているのだろうか


「カオルはドレスデン出身なのよ。私はまだ行ったことがないのだけど、とても綺麗な所なのですってね」

「はい。ドレスデンは母の故郷なのですが、いつもとても自慢にしていました」


 ドレスデンはエルベ川の谷間にある、長い歴史を誇る古都だ。十八世紀の繁栄を今に伝える、瀟洒な石造りの街並みはレース細工のように精緻で美しく、《エルベ川のフィレンツェ》と称えられている。


「このお嬢さんに先ほど聞いたのだが」


 アッシェンバッハが口を挟んだ。


「君の名前は彼女のお母様と同じらしいよ、クララ」


 アッシェンバッハの言葉に、アーデルハイトは顔から火が出そうになる。全く、どうしてそんな余計なことを言うのかしらと恨めしくなった。こんな絶世の美人だと分かっていたら、そんなことをうっかり漏らしたりはしなかったのに。


「なんだか、とても素敵な偶然ね」


 クララは微笑んだ。


「ねえ貴方のこと、今日からハイジって呼んでもいいかしら?」

「は、はい。それでよろしいのでしたら」

「昨日もグレーテルと言ってたのよ。クララにハイジなんて、『アルプスの少女』みたいねって」

「は、はあ」


 それを言われると恥ずかしさが先に立つ。クララの後ろでグレーテルとおぼしき短髪の少女が、猿みたいに額にしわを寄せ、顔をしかめて笑う。黙っているとお人形のような愛らしい顔立ちなのに、ずいぶんと表情が豊かだ。


「では私はさしずめ、ヤギ飼いのペーターというところかい?」


 アッシェンバッハが苦笑して言った。


「お望みでしたら、アルム御爺でもよろしくてよ。アッシェンバッハ少尉」


 とクララが笑う。


「やれやれ、お嬢さん方のおしゃべりには付き合いきれんよ。では私は宣伝省本部に戻るが、何かあったら連絡をくれたまえ。報告はいつも通り、明日の朝に」

「分かりました。お気をつけて」


 アッシェンバッハが踵をカチリと鳴らして右手を上げる。クララとその他の少女たちが素早くそれに倣うのを、慌ててアーデルハイトも真似をした。


「ハイル! マイン・フューラー!」


 広間に響く少女たちの高らかな声を背に、アッシェンバッハは屋敷を後にした。



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