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エーリッヒ・ケストナーの『エーミールと探偵たち』のあらすじはこうだ。
ドレスデンのノイシュタットに住んでいる少年エーミールが、ベルリンに居るお祖母さんのもとを訪ねる。お祖母さんにわたすための、百四十マルクという大金を預かって。
ところが、である。ベルリン行きの列車でうっかり眠ってしまったエーミールは、たまたまコンパートメントに乗り合わせたグルントアイスという男に、お金をそっくり盗まれてしまった。
動物園駅で降りたグルントアイスを追って、路面電車に乗るエーミール。カイザー通りの《カフェ・ヨスティ》で悠々と昼食を取るグルントアイスを見張っている時、ベルリン子のガキ大将、グスタフが現われた。
グスタフはどろぼうを捕まえるというエーミールに協力し、子分をかき集めてグルントアイスを見張らせる。昼食を終え、タクシーに乗るグルントアイス。彼をやはりタクシーで追うエーミールたち。
辿りついた先は、ノレンドルフ広場にある《ホテル・クライト》だ。ホテルに泊まったグルントアイスを見張りながら、彼らはどうやって金を奪い返すかの作戦を練るのだった。
ところがこのグルントアイスには、ある重大な秘密があったのだった―
「でもさ、調べてみたんだけど、カイザー通りの《カフェ・ヨスティ》って、もうないらしいの」
グルーネヴァルト駅から動物園駅まで行く列車の中で、アーデルハイトはイルマにそう告げた。
幸いなことに天気には恵まれ、八月の太陽は衰えを知らず、焼けつくような光線を地上に降り注ぐ。それでも車窓から見上げた空は昨日よりも高さを増して、確実に近づいている秋の気配をにじませていた。
イルマは黙って耳を傾けていた。列車は満席で、座りきれずに立っている人々がたくさんいた。たかだか九分くらいの乗車時間なのだから、混雑など少し我慢すればいいことだ。
列車が停まり、サヴィニー広場駅でたくさん人が乗り込んできた。自然に隣に立つイルマの身体にぴったり密着する格好になり、アーデルハイトは顔を赤らめた。なんの花の香りか分からないが、とてもいい匂いがする。車内の空気が、急に濃厚になったように感じた。
「ポツダム広場にあった《カフェ・ヨスティ》も、ずっと前に移転しちゃったんだって。今はね、ポツダム広場から北のヘルマン・ゲーリング通りにあるの」
列車が動物園駅に着いた。大勢の乗客と一緒に、アーデルハイトとイルマも降りる。エーミールはここからグルントアイスを追って、路面電車に乗るのだった。電車賃を新聞記者のケストナーさんから借りて。
「《カフェ・ヨスティ》はもうないけど、一応カイザー通りの駅まで行ってみようよ。こういうのは、雰囲気を楽しむんだから」
「いいわよ、好きにして」
イルマは答えた。
二人で動物園駅から路面電車に乗った。グルントアイスが降りたのは、カイザー大通りとトラウテナウ通りが交差する場所だ。このトラウテナウ通りはニコルスブルク広場とプラーク広場をつなぐ短い通りで、動物園駅から路面電車で十分ほどのところにある。
二人で車両の一番後ろに乗った。両脇にそびえる石造りの建物が、中天へと上っていく太陽の光を受けて白々と眩しい。嵌められた硝子に、たなびく雲と空が鏡のように映る。
植えられた街路樹は歩道に影を落とし、道行く人々は涼しさを求め、隠れるように木々の下を歩いていた。なにもかもが、いつもと変わらない夏の日だ。でも、今日と同じ日は二度と来ない。
隣に立つイルマ・グレーゼは手すりを握りしめ、銀色の髪を吹き込む風になびかせている。電車はカイザー大通りを真っ直ぐに南へと進んでいった。降りる人と乗り込む人々がすれ違い、一瞬だけの邂逅を果たす。
ここに乗り合わせた人々は、自分とイルマ・グレーゼが今日この日、この時間に電車に乗っていたことを、後から思いだすこともないだろう。それでも、アーデルハイトにとってはこの瞬間を、永遠に頭の中に刻みつけておきたかった。
電車がトラウテナウ通りとの交差点で停まり、二人はカイザー大通りに降り立った。新聞スタンドのおじさんに訊ねて、《カフェ・ヨスティ》の跡はすぐに見つかった。
今では別のレストランが入っていて、人々が思い思いに食事をしている。暑さにもかかわらずテラス席にも人が一杯で、日を浴びながらビールやソーダを飲んでいた。
「ニコルスブルク広場まで歩いていこうよ」
ニコルスブルク広場でエーミールたちはそれぞれの役割を決め、みんなから活動費を募る。カフェから広場までは、わずか三分だった。行ってみると別にとりたてて変わったところのない、どこにでもある広場なのだが。
広場の時計はまだ十一時少し前だった。クララやカオルたちは、今頃テーゲル湖に行っているはずだ。
「ねえ、少し座らない? お茶でも飲もうよ」
アーデルハイトはベンチに座ろうとしたが、すぐ側にある看板に目が停まり、思わずぎくりとして動きを止めた。
《注意! ユダヤ人がこの場所に立ち入って事故に遭っても、当方は責任を負いかねます》
少し離れた向かいのベンチには、アーデルハイトと同じくらいの少年と少女が二人で座っていた。少年はアーデルハイトを見ると慌てて立ち上がり、気まずそうな顔をして立ち去った。一緒に立ち上がった少女がきつい目つきでアーデルハイトを睨みつけ、少年の後を追う。
立ち尽くしたアーデルハイトの喉の奥を、苦いものが通り過ぎた。別に自分が悪いわけではないと割り切ろうとしても、投げつけられたものはごまかせないほど重い。
「座らないの?」
そう言ってイルマが先に腰を降ろした。アーデルハイトは隣に腰掛け、肩から下げたキャンバス地のバッグから水筒を取り出す。ホウロウびきの小さなカップを二つ取り出し、冷たいお茶を注いだ。
「いちいち気にしていたら、きりがないわよ」
イルマがお茶を一口飲んでそう言った。
「うん、そうだね」
アーデルハイトも答える。それに今日はイルマと二人きりなのだ。なるべく面倒な考えごとは、遠くの方に置いておきたかった。
「『エーミールと探偵たち』ってね、映画にもなったんだよ、知ってる?」
アーデルハイトは話題を変えた。イルマはお茶をもう一口飲んで、黙って首を振る。空になったカップに、お茶を注いでアーデルハイトは続けた。
「その映画にね、ダックスフントが出てくるんだ。ちびのディーンスタークが飼っている犬なんだけど。この犬がとっても可愛いの。映画を観たのは私が九歳の時だったけど、映画を観た後で、ダックスフントを飼う友達がたくさんいたなあ」
アーデルハイトはそこで言葉を切った。イルマ・グレーゼはじっと話に耳を傾けている。菩提樹の葉が陽光を遮っていても、熱気で汗の雫がアーデルハイトの額を伝い落ちた。
こんなに暑いのに、イルマは涼しげな表情で汗一つ浮かべていない。広場の近くで、アイスクリームを売る男の人の声が聞こえた。食べたい気もするが、今は我慢だ。
「映画と同じくらいに出たケストナーの新作が、『点子ちゃんとアントン』って話なんだけど、それにもダックスフントが出てくるの。ピーフケっていってね、主人公の点子ちゃんの後を、いつも追いかけてるんだ。ケストナーって、犬が好きなのかな。そこのところどうなの?」
「さあ、そういう話は聞いたことがないけど」
「イルマは犬とか、動物は好き? 私もダックスフント、本当は欲しかったんだけど、母の体調が良くなくて」
「犬は好きよ。猫も」
イルマはぼそりと言った。
「ほんとう?」
アーデルハイトは嬉しそうに、イルマの横顔を覗き込んだ。
「今まで飼ったことあるの?」
「飼ったことはない。飼えるような状況じゃないから」
「そうなんだね。私も飼ったことないから、動物って憧れちゃうな」
アーデルハイトは魔法瓶の蓋を閉めた。ホウロウびきのカッから雫を落とし、ナプキンでくるんでバッグにしまう。
立ち上がって、スカートについた埃を払い落した。
「そろそろ出ようか。プラーク街に寄ってから、タクシーに乗ってノレンドルフ広場まで行こうよ。そこから地下鉄でポツダム広場まで出て、ゲーリング通りの《カフェ・ヨスティ》でお昼ごはんね」
イルマ・グレーゼは何も言わず、ベンチから立ち上がった。




