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6-8

 その日は午後から、クララたちとベルリン大聖堂の裏にある博物館島に行き、ペルガモン博物館を訪れた。アッシリアやギリシャ、ローマの美術品を多数所蔵するここはいつも大勢の人で賑わっている。

 人気の高いのは「バビロニアのイシュタール門」で、砂漠の蒼穹にも似た深い青地に浮き彫りにされた獅子や禽獣たちが、星辰を思わせる見事な金色で彩色されている。


 だが、それほど素晴らしい展示品たちを目の前にしても、アーデルハイトの心は来週のイルマ・グレーゼとのことで一杯だった。何を見てもどこかうわの空で、クララやカオルの話をうっかり聞きそびれることが何度もあった。カオルには


「ハイジ、どこか具合でも悪いのか」


 と心配までされてしまったほどだ。


「ねえ、来週の日曜日はアンナさんのお休みの日だしさ、お天気が良かったらどっか遠くへ出かけようよ」


 美術館近くのカフェで、グレーテルがジンジャーエールを飲みながら言った。


「そうね、もうそろそろ夏も終わりだし、どこか湖にでも行きましょうか」


 クララも身を乗り出して賛成する。そこへカオルが紅茶のカップから顔を上げ、

「ポツダムに行くというのはどうだろう」


 と提案した。


「いいわね、それ」


 クララが顔をほころばせた。

 ベルリンの隣市であるポツダムは、都市高速鉄道なら一時間もかからない近さだ。そしてポツダムにはフリードリヒ大王が建てた《サンスーシ(無憂)宮殿》があった。

 十八世紀にプロイセン王フリードリヒ二世によって建設された、ロココ様式の瀟洒な夏の離宮は、階段状の葡萄棚の上にそびえ立つ。絵葉書で見ただけで、アーデルハイトもまだ行ったことはない。


 この季節、サンスーシ宮殿はたしかに美しいだろう。

 庭園を彩る五色の花々、晩夏の少しかげり始めた陽ざしに踊る噴水の水、黄金に輝く宮殿の壁面と浅葱色の大きな丸屋根。カオルの提案はまさに名案と言えた。


「たしか、ハイジもまだサンスーシには行ったことはないのよね」


 クララが微笑んだ。


「とても綺麗なのよ、きっとびっくりするわ」

「私も絵葉書でしか見たことがないのだ。実際に見たいとずっと思っていた」


 カオルも目を輝かせる。

 アーデルハイトは断るのが申し訳ないような気になってきた。ポツダムには行ってみたい。クララたちと行ければ、本当に楽しいだろう。でも今回だけは、どうしてもイルマとの約束を優先させなければ。


「あの、ごめん……。私ちょっと行けなくて」


 申し訳なさそうに小さくなったアーデルハイトを、三人は驚きの表情で見つめた。カオルが


「なにか予定でもあったのか」


 と訊ねるのに、黙って頷いた。


「どこか出かけるの?」


 と不思議そうに自分を見つめるクララに、「うん」と答える。別に悪いことをしているわけではないのだが、なんとなく後ろめたい。


「あの、ちょっとあちこち回ろうかなと思って。ノレンドルフ広場とか、アレクサンダー広場とか、いろいろ」

「なによそれ、『エーミールと探偵たち』ごっこでもする気?」


 グレーテルが茶化すように言った。

 アーデルハイトはこういう時、どうも上手くごまかせない。

 結局イルマ・グレーゼに本を貸したこと、来週二人でいっしょに、物語ゆかりの場所を巡る約束をしたことを打ち明けてしまった。


「驚いたな。そのようなことを、よくイルマ・グレーゼが承諾したものだ」


 カオルが感心したように言った。


「だが、良かった。ハイジの真心がきっと通じたのだな」


 まるで我がことのように嬉しそうなカオルに、頬を赤らめてアーデルハイトは


「ありがとう」


と笑った。


「一緒に行けなくてごめんね。ポツダムはまた今度、別の機会があったら行くから」

「気にするな。せっかく同じ団にいるのだ、仲良くするに越したことはない。きっとイルマ・グレーゼとハイジには、なにか通じ合うところがあるのだろう。クララもそう思わないか」


 カオルに話しかけられたクララが


「え、ええ、そうね」


 と慌てて答える。カオルが一瞬、いぶかしげにクララを見た。


「良かったわね、ハイジ。気をつけていってらっしゃいな」


 そう言ってにっこりと笑ったクララに、アーデルハイトはぎこちない微笑みで返した。何か上手い言葉を口にすることが、どうしても出来なかった。グレーテルが間を取り持つように、


「それならさ、来週はポツダムに行かない方がいいんじゃないの」


 と話題を変えた。

 巧みに隠してはいても、クララは明らかに傷ついていた。自分たちよりも、イルマ・グレーゼを選んだことに。もっと直接的に言えば、クララよりイルマを取ったことに。

 クララの優しい口づけを思いだして、アーデルハイトの胸はちくりと痛んだ。彼女の好意を当然のように受け取りながら、何も返すことのできない自分が少しだけ嫌になる。


 でも、どうしても仕方ないのだ。クララは大切な友人ではあったが、イルマ・グレーゼはアーデルハイトにとって、それ以上の《なにか》だった。両者の間にはどうしても越えることのできない、目に見えない高い壁が存在する。

 自分に嘘をつくことは出来なかった。たとえその正直さが、クララを傷つけてしまうことになったとしても。


 八月十六日火曜日、訪日ヒトラー・ユーゲント代表団の乗ったグナイゼナウ号は横浜港に入港し、翌日十七日に一行は上陸を果たした。

 桟橋には数千人という歓迎陣、田中文部省社会教育長や中井神奈川県知事といった国政の重鎮も待ち構える中、横浜連合青年団によるブラスバンド演奏が彼らを盛大に出迎えた。


 神奈川県庁までブラスバンドの愛国行進曲に合わせて行進した後、自動車で横浜駅へと向かい、電車で東京駅へと旅立った。

 東京駅ではドイツ大使や大使館員、ならびに伊東文部次官、岡田東京府知事、二荒伯爵、在京ユーゲント団員と女子団員の歓迎を受け、駅頭における交歓会は国賓を迎えるに相応しい華やかさに溢れていた。


 歓迎会にて叫ばれる「ハイル・ヒトラー」の歓声は、盛夏にきらめく東京の空を震わせるほどであったという。

 新聞ではその歓迎の賑わいを連日報道し、アーデルハイトたちも東京駅頭の写真に見入っていた。写真には一糸乱れぬ行進をしているユーゲントの様子や、歓迎の人たちでごった返す東京の街並み、参拝した靖国神社などが写っていた。


 カオルは東京には数えるほどしか行ったことがなく、それも小さい時だったのであまり覚えていないとのことだ。

 この後、訪日ユーゲント代表団は北は札幌から南は鹿児島まで、およそ三カ月に渡り日本中を巡歴することになる。

 十九日には東京を出発して吉田富士に入り、翌日二十日、各地から参加した青少年団員たちと共に野営をし、富士山を登頂した。

 

 一方アーデルハイトは一週間かけて、『エーミールと探偵たち』ごっこの計画を練っていた。

 出来ればイルマ・グレーゼにうんと楽しんでもらいたい。そして、結局クララたちのポツダム行きは、アーデルハイトの都合を考慮して、二十七日土曜日へと延期されたのだった。



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