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6-7

 水族館行きは「忙しいから」と断られてしまったが、本を貸すことは承諾してもらった。それだけで、アーデルハイトにとっては大きな成果である。

 目の前で閉ざされていた大きく頑丈な扉が一気に開いたような、何とも言えない爽快さがあった。


 足取り軽く庭へ出ると、クララにシーツの洗濯を頼まれ、グレーテルと一緒に洗って干した。カオルはアンナさんの手伝いをして、台所の銀食器を磨いている。時々こうしてアンナさんやカリンの手伝いをするのが、団の奉仕活動の一環であった。


「本当にいつも助かりますわ」


 と裏口でアーデルハイトから洗濯かごを受け取り、アンナさんはにこにこ笑った。そういえば、今日は朝からカリンの姿を見ない。不思議に思ったのか、グレーテルが所在を訊いた。


「ああ、あの子は今朝からちょっと出かけているんですよ。珍しいこともあるもんですわね」


 そう言って、アンナさんはふっくらとした手をエプロンで拭った。


「そうは言っても、あの子だってまだ若いんだから、もっと楽しまなきゃダメなんですけどねえ。いろいろ気にして滅多に外出しないから、私もヨハンも心配してるんですよ、可哀そうに。昔はねえ……」


 そう言いかけて、うっかりしたというように手を口に当てた。グレーテルの目がきらりと光り


「ね、昔はなんなの?」


 とすかさずにじり寄る。

 アンナさんはふうと息を吐いた。カリンがここに来たのは二年くらい前で、マクダさまの縁を頼ってとのことだった。

 アンナさんが明かした話では、もともとクーダムの劇場で働いていた女優だったのだが、顔に傷を負い女優を廃業して、この屋敷で働くようになったのだという。


「けっこう人気があったらしいですよ、そりゃ綺麗な顔立ちですものねえ。それがあんなことになってしまって」


 と眉をひそめた。

 カリンの顔に傷をつけたのは、当時恋人として付き合っていたユダヤ人の舞台演出家だった。とても嫉妬深い男で、カリンを束縛し、度々浮気を疑って激しい喧嘩を繰り返していた。逆上の末、ペーパーナイフで頬に深い傷をつけた彼は逃走し、今も行方が分からないという。


「本当に、ユダヤ人なんてろくなもんじゃないですよ」


 アンナさんにしては珍しく、怒りを込めて吐き捨てるようにそう言った。



****



 八月は輝かしい夏の煌めきのうちに過ぎていった。

 屋敷の花壇に植えられていた花たちが、色とりどりに咲き乱れてアーデルハイトたちを楽しませた。世話をするヨハンさんは時々好きな花を切らせてくれ、小さな花束がアーデルハイトたちの部屋を飾った。


 街路樹も風もアスファルトも、全てが夏の蒼さに染まると思われるほどの、透明な輝きの中にあった。

 ベルリンを離れて北ドイツ・東プロイセン方面を巡っていた日本青少年代表団は、八月四日にベルリンに戻ってきた。戻った一行に新しい制服が支給され、そのことを新聞で知ったアーデルハイトはカオルと一緒に喜んだ。


 ベルリンに在住する日本人たちの目にも、彼らのいで立ちは《貧弱でみじめなもの》と映ったらしく、それを憂えた日本人会が《日本の名誉》のために、新しい制服をプレゼントしたのだった。

 新しい制服は《ヒトラー・ユーゲント》に倣ったもので、新聞記事によれば


「緑のネクタイにネズミ色のワイシャツ、服の折襟には赤の布切れ、皮ゲートルに編み上げの靴は茶褐色」


 と、ずいぶんと洗練されたものである。

 新しい制服に身を包んだ、彼らの颯爽とした姿を写真で見た時のカオルは、心から満足そうな笑みを浮かべていた。

 一方、ドイツのユーゲント代表団たちは、七月十二日にブレーメンをグナイゼナウ号で出港した後、順調に船旅を続けていた。十六日には横浜に到着する予定である。


 アーデルハイトの方はと言えば、ミュンヘンの実家から『エーミールと探偵たち』が送られてきた。さっそくイルマ・グレーゼに渡し、「返すのはいつでもいいから」というアーデルハイトに、彼女は何も言わずに受け取った。

 軍事教練はナイフ格闘とプールでの飛び込みと水泳に入っていた。

 ナイフ格闘はもちろん刃のない安全なものを使うのだが、それでも慣れないうちはしり込みしてしまう。アッシェンバッハ少尉はイルマ・グレーゼをほかの皆と組み合わせ、論より体で覚えさせた。


 イルマと互角にやりあえるのはカオルぐらいで、少しは腕に覚えのあるアーデルハイトですら簡単にあしらわれてしまった。それでも授業とはいえ、イルマとこうして何かを出来ることに特別な喜びを感じてしまう。

 クララとは軽い口づけを交わしたが、関係はいつもの通りでなんら変化はない。彼女の方も必要以上にベタベタしたものを望んでいないことは分かる。だから安心して、それまでと同じように母の代わりとして甘えることが出来た。


 新しい制服に身を包んだ日本青年代表団は十二日、ウンター・デン・リンデンにある無名戦士の墓を訪れ、その翌日十三日にシェレジエン、バイエルン地方といった南ドイツ方面へと旅立っていった。

 これから一ケ月かけてゆっくりと南方面を巡り、来月ニュルンベルクにて開催される党大会に出席するのだ。


 ちなみにこの党大会には《白薔薇十字団》からも出席者を二名出すことになっていて、クララとグレーテルに白羽の矢が立っている。

 イルマ・グレーゼから読み終わった本が戻ってきたのはちょうどその日、八月十三日土曜日の午前だった。



****



「はい」


とそっけなく返された『エーミールと探偵たち』を、アーデルハイトは両手で受け取った。本の表紙とイルマ・グレーゼを黙って交互に見つめる。

 突然やってきた現実をにわかに信じがたいといった面持ちのアーデルハイトを、イルマは例の感情の読めない表情で見つめた。

 なにしろイルマ・グレーゼが、自分からアーデルハイトの部屋を訪ねてきてくれたのだ。これで驚かない方がどうかしている。最初は、なにかの間違いではないかと思ったほどだ。


「わ、わざわざありがとう。もっとゆっくり読んでも良かったのに」

「だって子ども用の本だもの。すぐ読めるわ」

「た、確かに、そうだよね」


 アーデルハイトは返された本を両手で胸に抱えた。何か言わなくてはと必死で考えるのだが、上手い言葉が見つからない。ぐずぐずしているうちに、イルマはさっさと部屋から出て行ってしまうだろう。


「座ってお茶でもどう? 台所から持ってこようか」

「別にいらない」


 二人の間に沈黙が流れる。外は妙に静かだった。どこかから、空を駆ける飛行機の機械音が聞こえ、この静寂を余計に際立たせる。ベッドのそばの目覚まし時計が、白々しく時を刻んだ。

 なにか、なにか話さなければと気ばかり焦り、本を抱えた手に力がこもった。気温がぐんぐんと上がり始め、アーデルハイトの首筋に汗が伝わる。夏は今が盛りで、あと二週間もすれば空がぐんと秋めいてくる。熱い風がそよと吹き込み、イルマの長い銀髪を揺らしていた。


 ようやく「あの」と話しかけた時、イルマも「ところで」と口を開いて、偶然にも二人の声が重なる。


「ご、ご、ごめん」


 慌ててアーデルハイトは手を振った。なんというタイミングの悪さと、心の中で舌打ちをする。


「い、いいよ、そっちから話して」


 顔を真っ赤にするアーデルハイトに、イルマはそっけなく


「いいからあなたが先に話して」


 と告げた。


「そ、そうだね、うん」


 アーデルハイトは深呼吸をひとつした。少し落ち着けと自分を叱咤する。


「本だけど、どうだった? 面白かった?」


 イルマ・グレーゼは迷うように窓の外に目をやり、アーデルハイトに向き直った。双眸にいつもより少し優しげな色が浮かんでいる。


「面白かったわ、意外だったけど」

「ほ、ほんとう?」


 目を丸くするアーデルハイトに


「ええ」


 と頷く。


「ああ、良かったあ。面白くなかったって言われたらどうしようかって、そればかり思ってたんだよね」


 胸に手を当て、ほっと安堵の表情を浮かべたアーデルハイトを、イルマ・グレーゼは眩しげに見つめた。



「どうしてそんな風に思うの?」


 イルマの問いにアーデルハイトは頬を赤らめて、床に目を落とした。そんなこと、決まっている。もしこの本を貸した相手がグレーテルなら、


「なによこの本、つまんないの」


 と言われてもそれはそれで気にしない。カオルやクララでも同じだろう。どういう感想を抱こうと、それは個人の自由だ。

 でもイルマには、自分が好きなものを一緒に好きになって欲しかったのだ。どうしてなのか、自分でもよく分からないのだけど。


「だってイルマには、この本を好きになって欲しいなって思ったから……」


 答えになっていないのは十分承知だ。それ以上イルマは何も聞かず、腕を組んだまま、黙って窓の外へと視線を彷徨わせていた。その横顔はいつもの頑なさが影をひそめ、どこか頼りなげに揺れ動いているようにも見える。

 初めてイルマに友達になれないかと言った夜、思いがけず見てしまった悲しげな表情がふと重なった。


 再び静けさが戻った部屋に、コガネムシがカーテンの隙間から羽音をうならせて飛び込んできた。でたらめにあちらこちらを飛んだあと、天井の隅に止まってもぞもぞと動いている。その様子を何となく眺めていたアーデルハイトの頭に、ある考えが浮かんできた。


「ねえイルマ。来週の日曜日は、アンナさんのお休みの日だよね」


 イルマ・グレーゼは答えずに、アーデルハイトを見た。


「もし、良かったら一緒に出かけない? ノレンドルフ広場に行ってみたいんだ」


 説明しなくても、イルマには何のことか分かるはずだ。ノレンドルフ広場は『エーミールと探偵たち』の舞台となった場所なのだから。

 エーミールと仲間たちが、彼の持っていた大金百四十マルクを盗んだグルントアイス氏を尾行し、どうやって金を奪い返そうかと作戦を練ったのが件の広場だ。


「探偵ごっこでもするつもり?」


 イルマの言葉に、えへへと照れくさそうにアーデルハイトは笑った。


「ずうっと前から、『エーミールと探偵たち』ごっこっていうのをしてみたかったんだよね。このお話に出てくる場所を、物語の順番に訪ねるの」

「なぜ私も一緒に行かなきゃならないのかしら」

「最初は動物園駅から始まって、最後はアレクサンダー広場で解散ってのはどうかな。お昼はね、《カフェ・ヨスティ》で半熟卵を食べようよ。どう、楽しそうじゃない?」


 コガネムシが羽音を立てながら、イルマの顔の側を飛んだ。うるさそうな顔を一瞬してから、素早くコガネムシを左手で捕まえる。それから風にゆらめくカーテンを繰って、窓の外へとそっと離した。


 そういえばとアーデルハイトは思い出した。

 アンナさんのお休みの日は、イルマは必ず朝早く出かけて、夜遅く帰ってくる。元々の所属先である《保安情報部》へと出かけているのだと、クララやグレーテルは推測していた。ひょっとすると来週もそうなのだろうかと、急に不安になる。


《保安情報部》の所在は公にはされていないが、アンハルター駅近くのプリンツ・アルブレヒト街にあるのだと、前にこっそりグレーテルが教えてくれた。

 イルマはくるりと踵を返して、扉の方へと歩いた。ハンドルに手をかけ、扉を開けて振り向かずに訊いた。


「何時に出発するの」

「ええと、あ、朝ご飯を食べて準備するから、十時はどうかな」


 緊張のために少し裏返ってしまった答えを背中で聞いて、イルマは


「分かった」


 と部屋を出ていった。全身から力が抜けたようで、本を抱えたままベッドに仰向けに倒れた。

 イルマ・グレーゼが、個人的な約束を初めてしてくれた。とても物凄いことだと思うのに、現実感がなくて嬉しいという実感が湧いてこない。


 ベッドに仰向けになったまま、胸に抱えていた本を目の前で開いた。ヴァルター・トリアーが描いた可愛らしい表紙を開くと、物語の出だし「話はぜんぜんはじまらない」が目に飛び込んでくる。

 

「エーミールの話は、まったく思いがけなく、むこうからやってきた。

 ほんとうだ。もともとは、まるでべつの本を書こうとしていたのに」


 余りにも有名な序文を、アーデルハイトは声に出して読んでみた。

 イルマ・グレーゼはどんなことを思いながら、この話を読んだのだろう。お話のところどころで声を上げて笑ったりしただろうか。とにかく、約束を取り付けたからには、しっかりとプランを練らなくては。



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