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アーデルハイトは胸の奥に苦いものを感じて、目を伏せた。急に昨朝の出来事が生々しく思い出され、鼻の奥に硝煙の匂いを嗅いだような錯覚に陥る。
壁に手を突いた格好で、背を向けて並んでいた男たち。
鼓膜を震わせる銃声、地面に伸びていた死体、空気に混じる微かな血の生臭さ。
「でも、イルマはそんな風には見えないけれど」
「本気でそう言っているの?」
イルマの口調には、馴れ合いを許さない厳しさがあった。言葉の鞭でぴしりと頬を叩かれたみたいだ。まるでしつけの悪い犬みたいに。どうしてイルマ・グレーゼに近づこうとすると、いつもこんな結果になってしまうのだろう。
「でも、でも……、クララは違うと思うけど」
かすれた声でそう抗弁するのが精一杯だった。ありがとうと涙を浮かべていたクララ。ハチミツの香りがする口付け。彼女の魂が死んでいくなんて信じたくない。
イルマ・グレーゼは首を横に振った。
「今はそう見えるだけよ。そのうち、嫌でも分かるわ。じゃあ訊くけれど、あなたは昨日のようなことを目の前で見て、それでもここにいるつもり? だとしたら、なんのため?」
「私は……」
アーデルハイトは両手を固く握り締めた。
「自分だけが逃げ出したくないから。クララやカオルの苦しみを分かち合いたい、一緒に苦しみたい、そう思ったから」
「そう、ご立派ね。それはあなたの優しさかもしれないけれど、そういう優しさがいつも良い結果をもたらすと思ったら大間違いだわ。結局、自分も周りも不幸にすることだってある。昔からあなたは……」
イルマはそう言いかけて、口をつぐんだ。うっかり口を滑らせたとでもいう風に一瞬苦い表情になる。それから右腕を横から前へと一振りすると、手のひらにあのトンファーという武器が握られた。どこから出しているのか、見当もつかない。禍々しい光を帯びた刃は、この知識の小箱ともいえる図書室に、不似合いな事この上なかった
イルマは黙って、トンファーの刃を眺め、じっくりと仔細に検め始めた。おそらく、何処かに刃こぼれや歪みがないか調べているのだろう。分厚く堅い自分の殻の中に、彼女は再び閉じこもってしまった。
打つ手なしといった態で、アーデルハイトはため息をついた。
初めての時もそうだったが、彼女に話しかけるといつもそれを激しく後悔させられる。しかしこのまま「はいそうですか」と尻尾を巻いて逃げだすのも悔しい。
劣勢を少しでも立て直そうと、息を整えて向きを変え、背後にあったガラス張りの書架扉を見つめた。おびただしい書物を収める幾多の書架の中で、窓に近いこの書架だけが特別製のガラス扉で覆われ、厳重に鍵を掛けられていた。
ガラス一枚の向こうにはフロイト、ハイネ、アインシュタイン、マルクス、ブレヒト、トーマス・マン等の著書が並ぶ。いずれも五年前の焚書で焼かれ、発禁処分となった著書ばかりだ。
そのうちの一冊、エーリッヒ・ケストナーの詩集に目を留めた。エーリッヒ・ケストナー、『エーミールと探偵たち』の作者。ドイツでも一・二を争う人気児童小説作家だ。
ドイツの子どもで『エーミールと探偵たち』を読んでいない子は、おそらくいないだろう。映画化もされて、ハンナや母と一緒に何度も観に行った。アーデルハイトが七歳か八歳のころだ。ミュンヘンの映画館は子ども連れの大人たちで大賑わい、連日満員御礼の大人気ぶりだったという。
そのケストナーがどういうわけか焚書・発禁の対象となり、児童書を除く小説や詩がドイツの全土で焼かれた。ドイツでの発刊を禁じられたケストナーは、現在スイスの出版社から本を出すことで作家活動を続けている。何度も警察に逮捕され、それでも亡命を拒んでいるという。
ケストナーは母のクララが大好きな作家だった。『エーミールと探偵たち』は寝る前に何度も読み聞かせてくれて、度々こう言っていたのだ。
「友達を大切にするのがドイツ人の良いところっていうけれど、きっとこのケストナーという人は、本当のドイツの心を知っている人なのだと思うわ」
アーデルハイトに読ませる子ども向けの本だけでなく、詩集や大人向けの小説もせっせと読んでいた。小説の感想をハンナと話し合うところを、何度も耳にしたものだ。
焚書がドイツ全土で行われたのは、五年前の一九三三年五月十日だ。母はそのおよそ三か月前、二月二十八日に死んだ。あの国会議事堂放火事件の翌日だ。母がその目でケストナーの著書が焼かれるのを見なかったのは、幸いだったというべきなのだろうか。
そして誰もが一度は耳にしたことのある、彼についてのおぞましい噂。そうだと肯定するものがあり、まさかと否定するものがいて、ケストナーの愛読者たちの見解は二分されている。だが結局真相は分からずじまいのあの噂。イルマ・グレーゼなら、本当のところを知っているのだろうか。
「ねえ、ひとつ訊いてもいい?」
アーデルハイトは声をかけた。
「どうぞ」
刃から目を離さず、イルマは答えた。
「エーリッヒ・ケストナーがユダヤ人っていう噂、あれ本当なの?」
イルマはちらりとアーデルハイトを見た。灰色の瞳には目前にかざす刃にも似た、硬質で冷めた光を宿している。
「ええ、そうよ」
にべもなくイルマは答えた。
「彼は表向き、ドイツ人ということになっているけど、本当は父親がユダヤ人。ケストナーの母親がユダヤ人の医者との間に彼をもうけたというのが、本当のところだわ」
「そうだったんだ」
アーデルハイトは肩を落とした。クララがこのことを知っているのかは分からない。
だが、もしクララの言うとおり、また歴史学や優生学の言うとおりユダヤ人が劣悪な人種なら、ケストナーの著作もやはり劣悪な書物なのだろうか。
母親思いの優しいやんちゃ坊主のエーミール、友情に厚いガキ大将グスタフ、頭脳派眼鏡少年の教授。
おしゃまなエーミールの従妹ポニー、チビのディーンスターク。ドイツの少年少女たちが、まるで自分の友達のように愛した彼らも、やはり劣悪な想像の産物でしかないのだとしたら。
「彼はもともと自由主義と民主主義を擁護する立場だったし、党を批判する文章を何度も発表していたわ。それもあって焚書の対象になった。もっとも子ども向けの本は、党も焚書からは除外したけれど。発禁にするには、彼はドイツの子どもたちに人気がありすぎるから」
「じゃあ、これからも焼かれることはないのかな」
「断定は出来ないけれど、たぶん大丈夫だと思う。ケストナーの児童書は、政府高官の子どもたちも好きだろうし」
「そうなんだ。なんか安心したな」
アーデルハイトは笑顔を浮かべた。
「なぜ? たかが本じゃない」
「だって、自分が子どもの時に大好きだった本が焼かれるのって、自分の友達が焼かれるみたいでちょっと怖いから」
「そう」
イルマはトンファーを卓上に置いた。目を伏せ大きく息を吐く。
「悪いけど、私にはそういう気持は全く分からないわ。子ども向けの本なんて、読んだことないから」
「じゃあ、『エーミールと探偵たち』も読んだことがないの?」
アーデルハイトの質問に、イルマは無言で肯定した。
たしかに、弟から食べ物を奪って生き延びるほどの貧しい生活なら、のんきに本を読むことなど考えられなかったはずだ。口ぶりからだと、学校にも行ってなかったのではないか。それにしては、イルマの成績は非常に優秀だ。読み書きは、何処で習ったのだろうか。
「訊きたいことはそれだけ? 用がないなら、少し一人にしてほし――」
「あ、あのね、イルマ」
慌ててイルマが言い終わらないうちに言葉をかぶせた。
「もし良かったら本、貸そうか?」
なんのことかといぶかる表情のイルマに、
「ケストナーの『エーミールと探偵たち』」
と続けた。
「読まないなんてもったいないよ。すごく面白いよ、ぜったい。保証するから読んでみて」
「でも、」
言いかけたイルマに、
「迷惑かな、子ども向けの本はきらい?」
とたたみかける。
イルマ・グレーゼは沈黙して、しばらく考えていたようだった。庭の方からグレーテルの弾けるような笑い声が聞こえてきた。そういえば、お昼を食べてから水族館に行く話をさっぱり忘れていたことに気付く。
「いいわ」
イルマが口を開いた。
「あなたがそんなに言うのなら、読んでみることにする」
「ほんとう? 嬉しい!」
アーデルハイトは満面の笑みを浮かべた。
「今手元にないから、これから家に手紙を書くね。郵便で送ってもらうよ。それと、今日みんなで水族館に行くんだけど、一緒にどうかな」




