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6-5

 クララはカオルが帰っていないか見てくると、部屋を出て行った。

 シャワーを浴び、団の制服ではなく私服のワンピースに着替えた。ここに来ると決まった時、父がわざわざ仕立ててくれたものだ。襟と膨らませた袖と裾にレース飾りが付いているのが自慢の、白いリネンのワンピース。


タオルで水気をふき取った髪をそのままに、靴下も靴も履かずに裸足で階下へと降りた。いつもより広間はしんとして、フランス窓からの日差しと風にまどろんでいる。

ここにはアーデルハイトを脅かすものは何もなかった。霞む硝煙も、生臭い血の匂いも、死の暗闇もない。あるのは夏の光と日向のにおい、風が運ぶ濃厚な草いきれだ。


フランス窓に寄って外を眺める。庭ではグレーテルが折りたたみの長椅子に寝そべって、背中を焼いていた。黒いブルマーに上半身裸で、頭をタオルで隠して日よけにしている。裸足のまま窓から庭へと出て、グレーテルに近づいた。


「ああ、ハイジ、もういいんだね」


 足音だけで分かったのか、顔をうつ伏せたままグレーテルが声を掛けた。


「悪いんだけどさ、そこに日焼け用のオイルがあるから、背中に塗ってよ」


 長椅子の足元にオイルの瓶が無造作に転がっていた。ふたを開けて手に取り、両手にすりこんでグレーテルの小さな背中に塗った。きめの細かい白い肌が赤みを帯びて、熱を持っている。


「ありがと。クララとは話せたんでしょ?」

「うん」


 アーデルハイトは答えた。こうして居るだけで汗が額から頬へと流れ落ちてきた。

「暑いね」

「うん、暑いね」


 とグレーテルも答えた。グレーテルはうつぶせたままで顔を上げようとしない。ひょっとしたら邪魔をしているのかもしれなかったが、もう少し話をしたかった。


「ねえ、ちょっと訊いてもいいかな。もしお邪魔でなければ」

「いいよ、別に。あたしは日光浴をしているだけなんだから」


 アーデルハイトは草むらに腰を下ろした。

 すぐ横に伏せられたグレーテルの顔がある。華奢な裸身は柔らかな女性らしさには程遠く、ガラス細工を思わせる硬質な輝きを皮膚の下に透かせている。


「グレーテルはさ、ああいうのは平気なの?」


 初めてグレーテルが顔を少し上げた。眩しそうに細められた目でアーデルハイトをじっと見る。そして口角をあげて、にやりと笑った。


「そりゃそうだよ。だって、あたしはグレーテルだもん」


 意味が分からないという表情のアーデルハイトに、グレーテルは続けた。


「ほら、ヘンゼルとグレーテルのグレーテルだよ。グリム童話の」

「グリム童話が、どうかしたの」

「なんだ、ハイジは知らないんだ」


 グレーテルはそう言って頭にのせていたタオルを取り、額と首筋を拭いた。身体を少し起こすと膨らみはじめた双丘が露わになり、アーデルハイトは慌てて視線を逸らす。グレーテルの方は全く無頓着だった。


「グリム童話ではさ、グレーテルが悪い魔女をかまどに押し込んで殺しちゃうでしょ? あの魔女ってのは、ユダヤ人のことだから」

「そうなの?」


 ぜんぜん知らなかった。驚いたアーデルハイトの反応が楽しいのか、グレーテルはいひひと笑った。


「そうだよ。ほら絵本の挿絵に出てくる魔女って、鼻が長い鉤鼻じゃない。あれはユダヤ人のわし鼻が由来なんだ。魔女の集会の《サバト》は、ユダヤ教の安息日のことだしね」

「そうだったんだね。知らなかった」

「まあ、それくらい昔っから嫌われてたってことだよね。だからさ、あたしはグレーテルだから、悪いユダヤ人をかまどに押し込んで、めらめら燃える炎で焼いちゃうってわけ」


 いくらなんでも、それは冗談なのだろうと思った。だが冗談めかした口調に似合わず、グレーテルの目は笑っていなかった。

 言葉を失ったアーデルハイトに構わず大きく伸びをして、体を仰向けにする。手を伸ばしてオイルの蓋を開け、胸と腹にまんべんなく塗った。


「ハイジもそれ脱いじゃって、焼きなよ。こんな絶好のお天気に焼かないなんて、もったいないよ」


 不遜な笑みを浮かべるグレーテルにどう答えようか迷ったとき、フランス窓からクララが二人を呼んだ。


「グレーテル、ハイジ! これからそこまでピクニックに出かけない? カオルも一緒よ」


 その日は結局、イルマ・グレーゼを見なかった。ピクニックから戻り、特別に少し遅くなった夕食にも出てこず、クララに聞いても行き先を知らないようだった。

団には当然門限というものがあるのだが、なぜかイルマには適用されていない。彼女が保安情報部の人間だからなのだろうか。会ったらお礼を言おうと思っていたのにと、アーデルハイトはがっかりしてしまった。


天気予報のとおり、夕方から雨が降り始め、最初は静かだったそれは激しい勢いへと変わった。自室に引き上げ、目を閉じて、雫が窓ガラスを叩く音に耳を澄ませた。いろいろな考えが雨音と一緒に頭の中を横切る。

再び顔をあわせたカオルは、いつも通りのカオルだった。


「びっくりさせてすまない。体調が優れなかったこともあって、迷惑をかけてしまった」


 申し訳なさそうに頭を下げた。


「いいんだって、私だって吐いちゃったし」


 そう言ってから顔を見合わせて、お互いを労わるように笑った。

ピクニックは楽しく、アンナさんの夕食はおいしく、何もかもが普段どおりに戻っていた。今朝のことなど、取るに足りない出来事のように思えてしまう。名前も知らないユダヤ人が何人撃たれて死のうとも、夏は輝かしい美しさを少しも損なわなかった。


ふいにクララの口付けの感触がよみがえり、唇に指で触れた。もし、あれがイルマ・グレーゼの唇だったらと思いかけ、あわてて考えを振り払う。

雨は夜通し降り続いた。就寝前、試しにイルマ・グレーゼの部屋をノックしてみたが、返事はなかった。



****



 初めての実地訓練から一夜明けた八月一日の朝、朝食の席でイルマ・グレーゼに会った。


「おはよう」


 と声を掛けると、黙って横を向く。ソーセージを食べている様子になんら変わったところはなく、終わるとさっさと席を立ってしまうのもいつもの通りであった。


「ねえ、午後から晴れるって天気予報で言ってたし、お昼を食べたら水族館に行きましょうよ」


 そうクララが提案し、その場にいた全員の賛成で今日の予定が決まった。


「イルマ・グレーゼも誘わない? ハイジ、あなたから声を掛けてくれないかしら」


 クララの頼みに、ハイジはすかさず頷いた。


 朝食を終え、自分の部屋を掃除した。それから鏡を見て髪型を直し、イルマの部屋をノックしたが返事はなかった。

 今日も出かけたのかと思ったが、部屋にいなければ図書室にいるかもしれない。少し胸を高鳴らせて、一階へと降りていった。


 思ったとおり、彼女は真ん中のテーブルに座って銃の分解掃除をしているところだった。部屋に入ってきたアーデルハイトを見ても眉一つ動かさず、黙々と作業を続けた。


「あ、あの、昨日はありがとう」


アーデルハイトは側に寄って声を掛けた。頬が熱くなり、どうしたらいいのか分からずに目を伏せる。


「お礼を言うのが遅くなって、ごめんね」


 顔を上げるとイルマと目が合って、あわてて逸らした。胸がどきどきするのを止められない。なんだか自分がひどくバカみたいに思えた。


「たいしたことじゃないわ」


 イルマ・グレーゼは手元に視線を戻し、つまらなさそうに言った。


「ああいうのは、慣れているから」


 それからめまぐるしい速さで銃を組み立て始めた。軍事教練のときにさんざん見慣れていたが、熟練とも言える手つきに感動すら覚えてしまう。彼女の手のひらでバラバラだった部品があれよあれよという間に形をなし、最後はヴァルターP38として収まっていた。


マガジンを差込み、スライドを引いて前方に構えた。いつの間にか左手にもヴァルターが握られ、まっすぐ横に突き出されている。左右の重みを確かめるように、イルマは二丁の拳銃を構えて前後左右へと突き出す。点検を終えると腰のホルダーにしっかりと差し込んだ。


「私もそのうち慣れるって、クララが言ってた」

「そう……」


 イルマ・グレーゼは気のない返事をしてアーデルハイトを見た。


「慣れるのはあなたの勝手だから別に構わないけど、少しずつ、でも確実に魂は死ぬわね。それでも良ければどうぞ」

「魂が、死ぬ?」

「ええ、人を殺すことに慣れれば慣れるほど、魂は少しずつ死んでいくの。やがては何も感じなくなるわ。私みたいに」



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