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6-3

 ヴェディング地区プレッツェンゼーは、《プレッツェン湖》がそのまま地名になった場所である。ゼー(湖)通りを行けばケスリナー通りからは十分もかからない。今日でベルリンの学校は夏休みが終わる。夏休みの終焉を満喫すべく、湖畔には多くのキャンプ客がテントを広げているだろう。先週のアーデルハイトたちのように。


 たった先週のことが、今では遥か遠い昔に思えてしまう。刑務所に向かうバスの中で、ぼんやりとアーデルハイトはそう考えた。

 逮捕された四人の男たちは刑務所に収監され、裁判を受けるのだろうか。だがどのような裁判であれ、総統暗殺計画など死刑に値する。もし運よく死刑を免れたとしても、ダッハウかザクセンハウゼンなどの収容所行きだ。


 アーデルハイトは腕時計を見た。もうすぐ午前五時、屋敷を出発してそろそろ一時間になる。彼らが刑務所に入るのを見届けて、見学は終了するはずだ。間もなく夜が明ける。

 やがてバスがスピードを落とし、大きく旋回した。扉が開かれ、バスから降りる。まず目に入ったのが、四方を囲む赤い煉瓦を積み上げた高い壁だった。広い中庭に、夏の草が勢いよく繁っている。中庭には二つの小屋があり、壁と同じ赤煉瓦で作られていた。


 先に着いたトラックと車の傍らに、シェパード連れの親衛隊員が立っており、彼の後ろに男たちが相変わらず手を頭の後ろで組まされている。その一人とアーデルハイトの目が偶然合った。男は


「最近の親衛隊員は女学校の引率もするのか。大変だな」


 と言ってにやりと笑った。アーデルハイトの頬にかっと血が上る。こんな薄汚い男に辱められたと感じた。


「いいから行け」


 と親衛隊員の指示で、彼らはぞろぞろと中庭の真ん中を横切り、煉瓦造りの壁に並ばされた。


「壁に向かって手をつけ!」


 とアーデルハイトたちのバスを運転した兵士が命令した。言う通りにした彼らの前に、ライフルを持った兵士たちが人数分並んだ。一人はバスの運転手、二人は親衛隊員とさっき一緒だった。もう一人は親衛隊の乗っていた車の運転手だ。四人の男たちがこちらに背を向け、壁に手をついていた。少し離れた場所から、四人の兵士が銃を構える。


(なんだか、これって……)


 どこか現実離れした光景に、アーデルハイトは考えた。


(これって、まるで銃殺刑みたい)


 そう、どこかの映画で見たことがある。なんだったろう、よく思い出せない。それよりも、これは現実なのだろうか。もしかして、どこかにカメラが隠してあって、実は全部映画の撮影とかだったりして……。


「撃て」


 アッシェンバッハの声が静かに命じた。銃声が轟き、辺りを霞ませるほどの硝煙が立ち込めた。霞の向こう、壁に並んでいた男たちは一人残らず地面に転がり、動かない。かすかに生臭い血の匂いをかいだような気がした。

 誰も何も言わなかった。銃声の後で沈黙は重みを増し、アーデルハイトの肩にのしかかる。男たちはピクリとも動かなかった。先ほどアーデルハイトと目があった男が、仰向けになって眼を剥いている。その瞳は硝子のように何も映していなかった。


(本当に、これは映画の撮影なんかじゃないんだ)


 そう認識したとたん、アーデルハイトの身体が小刻みに震えはじめた。ぐっとお腹に力を入れてみるのだが、手も足も自分のものではないように言うことを聞かない。全身からさっと血の気が引き、耳鳴りがする。

 その時、背後でどさりと言う音がして、


「あ!」


 とクララが驚きの声を上げた。振り向くとカオルが、真っ青な顔で地面に倒れている。


「カオル、大丈夫?」


 クララとグレーテルの二人がかりで助け起こし、胸元のネクタイを緩める。その様子を見ているうちに、アーデルハイトの胃の底から何かが逆流して、胸のあたりへとせり上がってきた。だが、ここで吐くわけにはいかない。たかが銃殺刑を見たくらいで気分が悪くなるなど、醜態すぎる。

 押し戻そうと何度も生唾を飲み込むのだが、無駄だった。グレーテルがバスから魔法瓶を持って来て、何かカオルに飲ませていた。ここでアーデルハイトまで吐いて、二人に余計な手間をかけさせるのも嫌だった。


(どうしよう……)


 なんら解決策を見いだせないまま、饐えた匂いのする胃液が喉元まで上がってきた。その時誰かに手を取られた。血の気が引いた顔を上げると、隣にイルマ・グレーゼが居る。


「こっちへ。歩ける?」


 イルマの問いに黙って頷いた。彼女の冷たい手がひやりと心地よい。手をゆっくり引かれ、小屋の横を通り過ぎた。植え込みのあたりで止まり、


「ここなら、大丈夫だから」


 と言われた瞬間、腰の力が抜けた。

 がくりと地にうずくまると、喉元まで来ていた胃液が口から溢れ出る。頭の片隅で食事をしていなくて良かったと考えたが、胃の奥を掴まれ、絞り出されるような苦しさで涙がにじんだ。


 吐瀉物が喉に絡み、むせて何度も咳き込む。口元に魔法瓶があてられ、「飲んで」と水を含まされた。水を空になった胃に流し込むと、最後の吐き気がやってきた。飲んだ水ごと吐き出し、肩で大きく息をする。その背中をイルマ・グレーゼが労わるようにさすっていた。


「ゆっくり深呼吸して」


 目を閉じて、必死で酸素を肺に送り込んだ。まるで死にかけた魚になった気分だ。背中をさするイルマの手が心地よく、暴れまわる臓腑をなだめていた。アーデルハイトの息が落ち着くのを待って、イルマは再び水を差し出す。今度は自分で取って飲んだ。冷たい水が空の胃にしみこむ。大きく息を吐き出して、へたりと地面に座り込んだ。


「ハイジ、大丈夫?」


 クララがやってきて、心配そうに顔を覗き込んだ。なんとか笑顔を作ろうとしたのだが、頬が引きつって上手くいかなかった。クララの手が頬に触れる。


「顔色が悪いわ。早くバスに戻りましょう」

「カオルは?」

「バスで休んでる。これからは自由時間にすると少尉もおっしゃっているから、帰ったら熱いお風呂に入るといいわ」

「うん、そうだね」


 クララの手を借りながら、ようやく立ち上がる。吐瀉物が制服にかからなかったのが幸いだった。いつの間にか、イルマ・グレーゼの姿は見えなくなっていた。先にバスに戻ったのだろうか。

 ふらつきながらバスに乗った。カオルが目の上にタオルを当てて、ぐったりと席にもたれている。隣に座っていたグレーテルが、クララに向かって肩をすくめた。イルマ・グレーゼの姿は見えない。アッシェンバッハ少尉もいなかった。


 アーデルハイトを隣に座らせ、クララが運転手に「出して下さい」と告げた。少尉とイルマ・グレーゼが乗り込まないまま、バスは走り出した。彼らがここに残るのには何か理由があってのことなのだろう。それを訊ねるものおっくうで、黙ったまま目を閉じた。


「汚れちゃったわね。拭いてあげるわ」


 クララの声がしたが、目を開けなかった。冷たい水を含んだタオル地が唇に触れる。口元から頬へとなぞる感触が気持ち良くて、そのままじっと動かずにいた。緊張の糸がほぐれたのか、意識が突如として深い穴倉へと落ちる。


And then dipped suddenly down, so suddenly that Alice had not a moment to think about stopping herself before she found herself falling down what seemed to be a very deep wall.


 ――そうしてアリスは青天の霹靂、ウサギ穴に突然落っこちて、何かを考える暇もなく、深いふかーい穴底へと、真っ直ぐ降りていったのでした


 昨日の英語の授業は『不思議の国のアリス』だった。朦朧とした意識の底で、なぜかこのフレーズの切れ端が頭に浮かんだ。続きはええと、何だっけ。

 だれかがアーデルハイトの隣に立っていた。よく見るとジョン・テニエル描くハートの女王だった。手にハートの杓ではなく、赤い煉瓦を持っている。煉瓦?

 女王が突然金切り声で叫んだ。


「この者の首を刎ねよ!」


 目が覚めたのとバスが停まったのが、同時だった。クララがアーデルハイトの髪を梳いて優しく言った。


「ハイジ、着いたわよ」



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