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まだ眠っている都市を、バスは走っていた。アッシェンバッハ少尉がどこかから借り受けてきたという小型のバスは、闇の中でもそれと分かる灰色に塗られていた。車内は清潔で、席もゆったりとした間隔でしつらえてあり、移動は快適であった。カーテンが引かれているので外を見ることは出来ないが、行く先は分かっている。
ヴェディング地区ケスリナー通り。それが今日の実地訓練の目的地である。バスに揺られながらアーデルハイトは腰のヴァルターP38にそっと触れた。
バスに乗り込んで開口一番、アッシェンバッハ少尉に、現地に着いたら安全装置を外すようにと言われていた。その一言だけで、その場所がどれだけ危険なことなのか予想がつく。
ヴェディング地区は古くから、労働者階級の街として発展した。貧しく、治安が悪く、ほとんどの家にはシャワーも風呂もない、そんな安アパートが並ぶ地域だ。そして、総統閣下が政権を取られるまでは、共産党の活動拠点地区でもあった。街の人間のほとんどが共産党員であり、通りでは度々突撃隊との流血騒動が持ち上がったという。
共産党の活動が非合法化され、主だった共産党指導者たちが逮捕された今も、ここは大小さまざまな地下活動組織の根城となっている。その中には当然ユダヤ人も多くいた。これから向かうケスリナー通り十番地を拠点とする組織も、リーダーがユダヤ人ということだ。
誰も一言も口をきかなかった。カーテンを開けることは禁じられ、外を見ることは出来ない。だが、ヴェディング地区までのおおよそのルートは想像できた。この日のために、ベルリンの地図を頭に叩き込まれている。
おそらくフーベルトゥス湖を過ぎ、ハレン湖を過ぎて、クーダムへ出るだろう。クーダムをしばらく東へ走って、ベルリン動物園を過ぎ、ティーアガルテン通りに入る。そのまま進み、ティーアガルテンに添う形で左へ曲がり、ヘルマン・ゲーリング通りを北へと。
ブランデンブルグ門を右手に過ぎてから右折、ドロテーエン通りを東へ進むと、やがてフリードリッヒ通りへと突き当たる。
左折してからフリードリッヒ通り、ショッセ通りをひたすら走り、ミュラー通りを少し過ぎたあたりで右折する。ライニッケンドルフ通りに入れば、目的地はもうすぐそこだ。
ヴィーゼン通り、パンク通り、ライニッケンドルフ通りの三つの通りに挟まれる形で、ケスリナー通りはひっそりと存在している。ここらあたりは、ヴェディング地区でも指折りの貧民街だ。角を曲がるたびにバスが徐々にスピードを落とし、やがて停まった。
「諸君」
運転席の後ろに座していたアッシェンバッハ少尉が、その時初めて口を開いた。
「これから我々が向かうのは、総統閣下暗殺計画を企てているユダヤ人地下組織だ。奴らは非常に危険極まりない。予想外の抵抗も考えられる。先ほども言ったが、銃の安全装置は外して、いつでも発砲できるようにしておきたまえ」
アーデルハイトその他一同は、揃って頷いた。
「既に警察と親衛隊の者が到着している。君たちは直接逮捕に関わるわけではないが、油断は禁物だ。アジトのアパートには、爆発物が隠されているという情報もある。十分注意するよう」
アッシェンバッハ少尉の話が終わるのを待って、運転席のヘルメットを被った兵士が
「降りますか?」
と訊ねた。少尉の「ヤー」という返事に、バスの扉を開けた。
闇の裾に薄明をにじませて、紫と藍が混ざり合った夜と朝の境目に一行は降り立った。
夜でも灯りが絶えることのないクーダムやポツダム広場と真逆で、ここの通りは殆どの住人が電灯をつけない。貧しくて電気料金を払えないからだ。街路のガス灯は壊れているのか、沈黙したままだった。アーデルハイトは懐中電灯を握りしめた手に、思わず力を込めた。
「うー」
グレーテルが小さく唸る。顔をしかめて鼻を片手で隠した。たしかにひどい匂いなのだ。塵芥が腐敗する匂いや人の体臭、それに排泄物らしきものの悪臭が混ざり合い、生温かな空気に乗って近隣一帯に漂っている。
アパートの入口に大きなシェパードを連れた親衛隊員が一人と、カービン銃を背負った兵士が二人、近づいてきた少尉に向かって踵を合わせ、右手を上げた。アーデルハイトたちもすかさず倣う。
「どうだ?」
アッシェンバッハ少尉が訊ねた。
「動きはなにもありません。向こうは油断しきっているようですな」
シェパード連れの親衛隊員がそう答える。少尉の後ろに控えているアーデルハイトたちの方を、見向きもしなかった。
「人数は四人と聞いたが」
「一人増えて五人です。昨夜ベルリンを離れていたメンバーの一人が戻ってきていましてね。運の悪い奴です。実は通報者はそいつのカミさんでして。旦那の居ない間に、リーダーひっくるめて一網打尽にしてほしかったのに、肝心の旦那が帰って来た。どうも世の中上手くいきませんな」
「その通報者の亭主はどうするつもりだ」
「仕方ありませんよ。総統暗殺計画のメンバーです。見逃すわけにはいかないでしょう」
「よし、行こうか。君たちはここで待っていたまえ」
少尉とその他三名は、アパートの階段を慎重に上がって行った。運転手の兵士はアーデルハイトたちの横で、カービン銃を胸の前に構えている。静寂の中、アッシェンバッハの声とドアを叩く音が聞こえた。沈黙のあと、再びドアがノックされる。沈黙。
突然、食器が割れる音がした。それも皿一枚どころではない。パリンパリンという破裂音と共に、女性の悲鳴が響き渡る。誰かがののしり声を上げた。こんちくしょうとか、こいつのせいだとかそんなことらしいのだが、どこの方言なのか訛りが強く、よく聞き取れない。
アパートを見上げていたクララが苦々しげに
「イディッシュ」
と吐き捨てるように言った。東方系ユダヤ人が使うイディッシュは知識として知ってはいたが、実際に聞いたのは初めてだ。隣に立つイルマ・グレーゼは、無表情で事の成り行きを見守っている。
破裂音と共に、二階の窓ガラスが割れた。その窓から男がひょいと顔を出し、
「下にもいるぞ!」
と室内に向かって叫ぶ。どこかの部屋から、火がついたような赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
「お願いです、うちの人だけは助けて!」
と泣き喚いているのは、くだんの通報者だろうか。怒号、それから悲鳴、続いて銃声がひとつ、ふたつ。
遠くで犬が怯えて吠えていた。赤ん坊は激しく泣き続けている。アーデルハイトはホルダーに納まるヴァルターのグリップに手をかけた。手のひらはじっとりと汗ばんでいる。
やがて階段を軋ませて、アッシェンバッハ少尉が降りてきた。その後からシェパードを連れた親衛隊員と、兵士に銃口を向けられ、両手を頭の後ろで組んだ男たちが四人。そのうち一人は右の太ももから出血しており、足を引きずりながら歩いていた。一人残らずうす汚れ、疲れきった顔をしている。髭も髪も伸び放題で、削げた頬に目ばかりがぎらぎらと光っていた。
男たちはアパートの近くに停めてあった有蓋トラックに載せられた。トラックの後から、親衛隊員を乗せた車が追うように走り出す。車を見送って、アーデルハイトは騒ぎのあったアパートを振り返った。あれだけの騒ぎがあったのに、誰も窓から顔を出さなかった。
このような逮捕劇は、ここらでは珍しくないのだろうか。自分は一切関係がないと、何も見なかったし聞かなかったことにしているのだろうか。下手に顔を出して、余計なことに巻き込まれるのを恐れているのかもしれない。
「少尉、あの銃声は」
とクララが遠慮がちに訊いた。少尉はクララの問いに
「通報者は亭主と死んだよ」
と答える。
「さあ行くぞ。次の目的地はプレッツェンゼーだ」
東の空がうっすらと白み始めていた。




