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宣伝相がプロデュースしたアイドルを総統閣下はお気に召されたようです  作者: 長谷川蒼銀
第一章 一九三八年五月三日火曜日の、ながい長い一日
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1-2

「昼食はすませたかね」


 アッシェンバッハが訊ねた。車はアンハルター駅からポツダム広場へと向かっている。遠くに見える広場の大時計が、午後一時少し前を指していた。


「いいえ、でもあまり空いてないんです」


 やがて車がポツダム広場に入ると、車と人の渦が一気に勢いを増す。ホルヒも流れに巻き込まれ、のろのろと牛のような鈍足だ。

 広場を縦横に走り抜ける路面電車の隙間を、ぬうように進んでは停まる。すぐ側を、スピードを上げて走る自転車が何台もすり抜けた。左には、天井がガラス張りの二階建てバスが停まり、窓からたくさんの乗客の顔が覗いている。


「ひどい渋滞だろう。でもベルリンではこれが普通だよ」


 そう言ってアッシェンバッハが苦笑した。


「君は、ベルリンは初めてかい?」

「いいえ。二年前のオリンピックの時に、家族と一緒に来ました」

「そうか、あれからベルリンはまた変ったよ」

「そのようですね。新しい建物が、あちこちに建てられているとか」

「新しい総統官邸も現在工事中だ。もうまもなく完成するが。ベルリンが久しぶりなら、少し遠回りをして行こう。ライプツィガー通りからフリードリッヒ通りを抜けて、ウンター・デン・リンデンとティーアガルテンを回ろうか」

「あ、はい、そうして頂けるのなら」


 車の行き先すら知らなかったが、アッシェンバッハの心遣いをありがたく受ける。アーデルハイトは車窓に顔を近づけて、二年ぶりの広場に目をやった。

 左手に見える四角いのっぺらぼうなのが、この広場で最も新しい商業ビルディング、《コロンブスハウス》だ。

 一切の装飾を省き、埋め尽くすように小窓が並んでいる壁面は、まるで昆虫の複眼を思わせる。そのコンクリートとガラスで出来た近代的なたたずまいは、重厚な石造りの建物が並ぶこの界隈で、明らかに異質な光をまとっていた。


 やっとホルヒが路面電車の網の目を抜け、流れに沿って、広場の出口へと走り出す。

 行く手に見えるのは、《ハウス・ファーターラント》。

 このポツダム広場の主ともいうべき存在、ドイツ、いやヨーロッパ最大のレジャー施設である。頂上に巨大なドームを王冠の如く戴き、丸みを帯びた建物の一角を広場に突き出すその雄姿は、さながら大海原を行く船の舳先だ。


 ようこそ《ハウス・ファーターラント》へ! ここにはドイツ全ての歓びがある!


 極彩色の文字が躍る大きなポスターが、通りの円形広告塔を飾っているのが見えた。画面狭しと、太ももも露わにカンカンを踊る女性が描かれている。 

 通りにはその他にもたくさんのポスターが、等間隔で並ぶ広告塔に貼られていた。一階の映画館で上映している映画の宣伝、最上階のレビューホール《椰子の園》での今夜の演目、描かれた黒人のチャールストンダンサーがこちらに笑顔を向け、白くきれいな歯並びを見せている。


 そう、《ハウス・ファーターラント》には映画館、レビューホール、カフェがあるのは当然のこと、彼の魅力はそれだけではない。

 世界中の地域や国をテーマにしたレストランが呼びもので、ヴィーンやスペイン、イタリアは言うに及ばす、トルコスタイルのカフェ、テキサス風のカウボーイサルーン、日本の茶屋まであった。

 ライン川流域をテーマにしたレストラン《ラインテラッセ》には、室内に本物の河が流れているということだ。


 残念ながら、アーデルハイトは一階のカフェ以外、まだ入ったことがない。カフェにはオリンピックのとき、父とハンナにねだって連れて行ってもらった。その時の記憶は、今でも鮮明だ。

 二階まで吹き抜けのホールを彩る、円形の豪華なシャンデリア。桟敷席を模した二階部分は精緻な装飾のバルコニーで仕切られ、まるでカフェ全体が小さなオペラ劇場のようであったのを、今でもありありと覚えている。


 ホルヒはゆっくりと右折する。

 ライプツィヒ広場に入り、左手にヨーロッパ一の大きさを誇るデパート、《ヴェルトハイム》を眺めた。

 広場からこのひとつ先のヴィルヘルム通りをほぼ占有する巨大さと、どこかケルンの大聖堂を連想させるゴシック調で統一された装飾。こうして間近に見れば、その壮麗さに眩暈を覚えるほどだ。出てくる客たちも、皆どこか洗練されたいでたちで、きちんと糊のついたブラウスやシャツに身を包んでいる。分厚い硝子のショーウィンドウには、春を着飾る最新流行のワンピースやスーツ、靴が並んでいた。


 ようやく車の流れが速くなる。きらびやかな建物が左右に並ぶライプツィガー通りを、後ろ髪を引かれる思いで通り過ぎた。左手に見えたコダックの店先に並んだ、ぴかぴかのカメラたち。絹地のワンピースや、ストッキングを並べたショーウィンドウもあった。そして、どの街角にも新聞売りが立っている。なにしろベルリンは、日に百紙を超える新聞が発行されているのだ。


 左折してフリードリッヒ通りに入り、少し進むと商店街の一角に人だかりが出来ているのが見えた。

 信号で車が停まる。

 少し離れた場所に突撃隊が一人立っており、その隣で帽子をかぶった身なりの良い紳士が、首からなにか文字が書かれた板を下げてうつむいていた。角度が悪く、何が書かれているのか、アーデルハイトには分からない。


 一瞬ののち、彼がユダヤ人だということを理解すると、見てはならないものを見てしまったような、苦い気まずさを感じた。ミュンヘンでも何度か見かけたことがあるが、どうしても正視できない。

 ユダヤ人なのだから当然の報いだと、頭では分かっている。それなのに、いつも心のどこかがチクリと痛むのだ。


「この界隈も、もうしばらくすれば綺麗になるよ」


 アッシェンバッハが窓の外を見て言った。


「この辺りのユダヤ人商店は、全てなくなる予定だ。あとにはドイツ人の店が入る」

「は、はい」


 ユダヤ人に蹂躙された経済界をドイツ人の手に取り戻すため、NSDAP(国家社会主義労働党)がユダヤ人を追放しているのは知っていた。勤める銀行の要職を彼らに占有され、それを苦々しく思っていた父にとって、実に喜ばしいことだったに違いない。


(まったくあいつらときたら、まるでイナゴだ。一番実っている所に大挙してやってきては、さんざん食い散らかして行きやがる。後には麦一粒残らんよ。ドイツ人は奴らのおこぼれに与っているのさ。総統はドイツの経済を、根本から変えて下さるよ)


《シュトゥルマー》や党の機関紙である《フェルキッシャー・ベオバハター》を読みながら、父がそう息巻くのを何度聞かされたことか。


「ベルリンのデパートも経営者が変わってね。ユダヤ人はもうほとんど残っていない。ユダヤ人に安い賃金で搾取されるドイツの時代は、もう終わったよ」


 にっこりとほほ笑むアッシェンバッハの眼は、やや濃い栗色だった。


「君のお父上は、ミュンヘン時代からの熱心な支持者と聞いたが」

「はい。ビアホール一揆の時に、少しだけ総統をお世話させていただいたことがあるそうで、それをとても誇りにしています」

「それはとても素晴らしいことだな。そのような方のお嬢さんを預かる身としては、気が引き締まるよ」

「いえ、父は父、私は私ですので。ところで、その……」


 口籠ったアーデルハイトに、アッシェンバッハは手振りで(続けたまえ)と示す。

 いつの間にか車はウンター・デン・リンデンの、眼に沁みるような碧い菩提樹の並木を走っていた。今頃だと、葉の隙間から固く小さな蕾が覗いているはずだ。やがて白い花が咲き、通り一面が甘い香りで満たされる。


「お恥ずかしい話ですが、私、このことについてなにも分かっていないのです。家に来た大管区の方たちもあまり知らないようで、ほとんど説明もありませんでした。とにかく、ベルリンに行けば分かるとだけ……」

「なるほど」

「とりあえずこうして来たのですが、これから何処に行くのか、そこで何をするのかも、私は良く知りません。父もそのことを、たいそう心配していました」


 自宅にミュンヘン=オーバーバイエルン大管区の《ドイツ少女団》指導官が来たのは、今からおよそひと月前のことだ。担当者は二人とも女性で、一人はおそらく五十代の中年、もう一人はまだ二十代と若かった。

 ドイツでは十歳から十八歳の少女たちはみな、それぞれの大管区が管轄する《ドイツ幼女団》と、《ドイツ少女団》に属する。

すなわち、十歳から十四歳の少女たちは《ドイツ幼女団》に、十四歳から十八歳の少女たちは《ドイツ少女団》に入り、ドイツの未来を担う女子としての肉体的・精神的な基盤を築き上げるのである。去年の十月で十四歳になったアーデルハイトは、最近幼女団から少女団に上がったばかりであった。


その《ドイツ少女団》の指導官二人が自宅を訪ね、父とアーデルハイトを前に説明したことを整理するとこうだ。

 少女団の中から、特に成績優秀、文武両道、容姿端麗の団員を選抜し、ある特殊な組織を作るという計画が極秘に進められている。そのテスト・プログラムに参加する一員として、アーデルハイトに白羽の矢が立ったということらしい。


「これは大変名誉なことなのですよ、お嬢さん。なにしろ、三百三十万を超す候補者のなかから、特別に選ばれたのですからね」


 眼を輝かせて身を乗り出す若い女性と対照的に、父はあまり乗り気ではない様子であった。娘を溺愛している彼にとって、一人でやるにはベルリンはあまりにも遠すぎる。しかもその特殊な組織とやらがいったいどういう目的のものなのか、何度父が質問しても、彼女たちは困惑の表情を浮かべるだけであった。


「それが、私たちもあまりよく知らされていないのです。ただ、こちらは政府直轄の、大変重要な組織になるということですわ。ですので、内容は全て極秘扱い、私たちにも詳細は分からないのです」

「しかし、こちらも一人娘でして。そのような目的が曖昧なことでは、たとえそちらの御要望でも、ベルリンまでやるのはどうも……」

「もちろん、お父様のお気持ちは当然のことですわ。大切なお嬢様ですもの」


 渋面を隠さない父に、中年の方が微笑んで頷く。彼女の襟元を飾る、蜜蜂をかたどったブローチが、窓からの光を受けてきらきら光るのをアーデルハイトは見ていた。

 四月になり、ようやく春の温かみを帯びた午後の日差しは、応接室の広い空間に満ちていた。ブローチの石に反射した光は小さな粒子となり、虹色をまといながら白い壁紙に散る。


「ただ、ここだけの話ですけれど」


 と中年女性がいきなり声をひそめた。


「この計画は宣伝相ゲッベルスさま直々の御発案で、お嬢様を選出されたのもゲッベルスさまとか……」



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