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そこからは四人での混声合唱になった。クララがソプラノ、アーデルハイトがメゾを歌い、カオルとグレーテルがアルトを担当する。『ローレライ』に続いて、『流浪の民』を歌う。
ぶなの森の 葉がくれに
宴ほがい 賑わしや
松明あかく 照らしつつ
木の葉しきて 倨居する
これぞ流浪の 人の群れ
やがて右手にニコラス湖を通り過ぎると、ヴァン湖地区はすぐそこだった。ここから北へ一時間ほど歩けば、ゲッベルス一家の住まうシュバーネンヴェルダーがある。ここら辺りはゲッベルス宣伝相他、アルベルト・シュペーアなど党の高官たちの邸宅が並ぶ、ベルリンきっての高級住宅街だ。
こうして歩いている間にも、家族連れや少年団、少女団のグループが、あちこちの湖畔へと列をなして歩いて行き、森の中へと吸い込まれていく。この感じだと、もっとも人気のあるキャンプ場は芋を洗うような賑わいになるはずだ。
眼ひかり髪清ら
ニイルの水に浸されて
きらら、きらら、輝けり……
流浪の民とはすなわち、ロマのことだ。
母が刺繍や編み物をしながらよくこの歌を歌っていたのだが、傍で聞いていたアーデルハイトは彼らについて、美しい幻想を膨らませていたものだ。
実際のロマは、汚らしいことこの上ない。学校の授業や少女団で観た映画は、彼らがいかに不潔で劣等な人種であるかをこれでもかと映していた。
昔ながらの放浪の民と言えば聞こえはいいが、実際は浮浪者と変わらない。物乞いと売春とスリで生計を立て、風呂にも入らず着替えもせず、垢じみた身体はひどく煤けている。
「眼ひかり髪清ら」などとは、いかにもロマン派の文学的表現だ。無知蒙昧だがずるそうに光る目、一度も櫛を通したことのないような、埃まみれのぼさぼさ頭。幼い時からのイメージが崩れた衝撃は大きかった。
真実とは、かくも残酷で苦い。それでも、歌の中では彼らはあくまでも美しい幻影のままだ。母クララはロマを実際に見たことはなかっただろう。それはそれで、本当に良かったのだと思う。
夢に楽土もとめたり
なれし故郷を放たれて
夢に楽土もとめたり
東空の白みては……
歌いながら、信号のところで停まり、ちらりと後ろを振り返った。少し離れて、イルマ・グレーゼが歩いて来ているのを確認する。長い銀色の髪が夏の日差しに照り映えてきらめくさまは、溜息が出るほど奇麗だった。
近づけば近づくほど、彼女という人間が分からなくなる。彼女の本当の心に触れたいと願っても、その扉は堅く閉ざされたままだ。
やっと扉を開けられたと思っても、その扉の向こうにまた扉がある。何度開けても、扉は続き、果てしがない。いつかの夜にイルマが見せた哀しみの表情すら、自分の勘違いではないかと思えてしまうことがある。
それでも……。
先日のようなどこか辛そうな表情を見ると、彼女も機械仕掛けの人形などではなく、血の通った人間なのだと分かるのだ。だからこそ、このまま放っておけない気持ちに否応なしに捕らわれてしまう。
見つめるアーデルハイトに気がついたのか、イルマと視線が合った。視線が合うとふっと逸らす。ただそれだけなのに、少しだけほっとした。少なくとも、迷惑とは思われていないようだ。
(なんだかこれって、恋をしている気持ちに似ているのかな)
恋愛にはそもそも疎く、異性を好きになったことはない。学校の友人には早々と小学生でキスを済ませた子もいるが、アーデルハイトには恋愛というものがよく分からなかった。
それよりも、以前読んだヘルマン・ヘッセの『ナルチスとゴルトムント』に出てくる主人公たちの、至高とも言える情愛に魅かれてしまう。
お互い全く反対の生き方でありながら、魂の深い部分で分かり合い、求め合う二人の話だ。
知性に生きる修道士のナルチスと、愛欲に生きる芸術家のゴルトムント。同性同士で、一歩間違えば同性愛の烙印を押されそうだが、そこには清らかで神聖なものすら感じられた。
アーデルハイトはあまり本を読まないが、女学校のお姉さまが
「とても素敵な小説なのよ」
と貸してくれた。物語の終盤、ナルチスが別れを告げる場面では頬を赤らめ、胸を高鳴らせたものだ。それ以来、アーデルハイトの中で恋愛の理想形は、ナルチスとゴルトムントになっている。
よく恋に恋をする年頃だと言われるが、アーデルハイトがイルマ・グレーゼに抱く感情がなんなのか、自分でも今一つ分からない。クララに対する母への思慕に似たものとも、カオルに対する純粋な友情とも違う。
信号を過ぎ、しばらく歩くと両側に湖面を望む橋を渡った。光を一杯に受けた水面には何艘ものヨットが浮かび、帆を膨らませて波間を滑る。帆の白さが、空と湖水の群青のなかで眩しく輝く。汗の浮く頬や首筋を湖からの風が心地よく撫で、湖畔に遊ぶ人々の歓声がここまで聞えてきた。
「なんか、夏って感じだよね」
グレーテルが言った。
「本当ねえ、もうこんなに暑いなんて」
クララがヨットの浮かぶ水面を見晴るかし、脱いだ麦わら帽子で顔を仰いだ。橋の上で少し休憩を取り、水分を補給する。時計を見ると十時近かった。渡し場まであと一時間弱というところだろうか。
橋を何台もの車が通り過ぎる。皆、キャンプ場に行くのだ。荷台にたくさんの子どもを乗せたトラックが通り過ぎ、アーデルハイトたちに手を振った。
予想されていたことだが、孔雀島への渡しはものすごい混雑であった。孔雀島への船は一艘しかなく、運んだ船が島から帰る人たちを乗せてくる。
当然ながら、船には定員というものがあり、島へ運べる人数は限られていた。
炎天下を辛抱強く並ぶこと二十分、ようやく船に乗って島へと渡る。夏休みを最後と張り切る子どもたちの群れで、船は幼稚園のような賑やかさであった。
湖面を撫でるように吹く風は涼しさを通り越し、むしろ冷たいくらいだ。岸辺に降り立ち、再び暑い空気に晒された時はむしろありがたかった。
渡し場から少し歩いたところに噴水がある。暑さを避けてそこで昼食を取ることにした。水を惜しげもなく迸らせる噴水の周囲に人が集まり、各々涼を取っている。正午近くになって、暑気はますます厳しくなってきていた。
噴水から少し離れ、木々が影を落とす草むらに座り、棒のようになった足を伸ばした。
「ふああー、疲れたね」
とアーデルハイトが言えば、グレーテルも
「もうお腹ぺこぺこだよ」
と草むらに寝そべった。
「もう二人とも、ちゃんと敷物をしいて座らないと制服が汚れるわよ」
クララがピクニック用のシートを引いた。
アーデルハイトがピクニックシートを出そうと、地面に置いたリュックを引き寄せた。縛ってあった口を解いたその時、背後でなにかばさりという音を耳にした次の瞬間。
「ぐげっ!」
カエルのような声を上げて、草むらに倒れ込む。
突然、だれかに思い切り背中を蹴飛ばされたような衝撃を感じたかと思うと、すかさず何者かが背中にずしんと飛び乗った。再び
「うぎゃっ!」
と声を上げる。
大きな犬か猫のような重みを感じる背中に、鋭いカギ爪が当たっている。一体なんなんだ、何かの動物か?
「こら、何をするかっ、この孔雀!」
とカオルが叫んだ。
カオルの叱咤で背中のものは降りた。伏せていた顔をようやく上げると、目の前に確かに一羽の孔雀がいた。しかし果たして、これを孔雀と呼んでいいものなのか。
孔雀なら動物園で何度も見たことがあるが、ここまで巨大なのは初めてだ。通常の孔雀の三倍はある。まるで大きな七面鳥だった。
体格も堂々としており、下手をすると中型の犬より大きいかもしれない。それになんというふてぶてしい顔つきだろう。地面に這いつくばる格好のアーデルハイトを、下賤のものと尊大に見降ろしているではないか。
「あー、カール大公だっ!」
それを近くで見ていた少年が叫んだ。近寄ろうとするのを、母親が慌てて引き留める。
か、カール大公?
茫然としていると
「大丈夫、ハイジ?」
クララが助け起こしてくれた。
「あらら、カール大公に目をつけられちゃったね」
グレーテルが気の毒そうな顔をする。
「カール大公は、この孔雀島のヌシだからね。なんかあげてご機嫌取った方がいいよ」
「しかし、あのような巨大な孔雀がいるとは」
カオルは信じられないという表情だった。たしかに、作りものとしか思えない大きさなのだ。
「ここに来る観光客から餌をもらっているうちに、あんなに大きくなったって噂だけど」
クララが苦笑した。
「気に入らないお客を蹴飛ばすとは聞いてはいたけど、実際に見たのは初めてだわ」
「ええ? 私が気に入らないってこと?」
「そそ、基準は良く分からないけど。一度目をつけられたら、何かあげるまで蹴飛ばされるから」
グレーテルの言葉にカオルが呆れた。
「それではまるで、ゴロツキではないか」
「ここの孔雀は保護されているし、傷をつけたらそれこそ警察沙汰になるもの。こっちが手を出せないと分かって、やりたいほうだいなの」
クララが言った。
「わ、分かった。ちょっと待ってて」
リュックを探った。そこではたと気付く。
「孔雀って何食べるの?」
「いいんだよ、なんでも」
とグレーテルが答えた。
「クッキーでも、ハムとかソーセージでも」
その時、うにゃあああと猫が鳴くような声で、カール大公が雄叫びをあげた。




