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七月の肌寒い雨は火曜日の午後に上がった。そして季節は本格的な夏へと、一気に駆けあがって行く。制服の下に着たリネンの肌着が心地よい。スカートを揺らす風が涼しげに腿を撫で、最初は慣れなかったこの短さが、今となってはありがたかった。
その週、《白薔薇十字団》にとって、とても重要な通達が二つあった。
ひとつは、七月最後の土日に予定されていた孔雀島の宿泊研修が、一週間早くなった。そしてもう一つは、七月最後の土曜か日曜日に、軍事教練の「実地研修」があるということだった。
「本格的な活動が始まって二カ月だが、諸君はみな頑張って、よくついて来ている。ゲッベルスさまも大変満足されているようだ」
広間で整列した団員達を前に、アッシェンバッハ少尉はそう告げた。
「諸君も知っているが、我々は十一月に予定されている大規模な計画に参加予定だ。そこである程度の結果を出すことが、この団の今後の存続にかかってくる。そこで、十一月の計画実行までに、二度の実地訓練を行うことにした。一度目が、七月最後の土日のどちらか。二度目が十月の上旬を予定している。まずは七月の訓練を目指して、技術と精神の向上を目指してほしい」
少尉の言葉に、団員たちの間を緊張が走る。クララがすかさず手を上げた。
「その実地訓練ですが、どのようなものになるのか具体的に教えていただくことは出来ますか?」
「うむ」
少尉は答え、両手を後ろで組んだ。
「七月の実地訓練は、あるユダヤ人地下組織の、捜査と摘発を一緒にしてもらう予定だ。だが、君たちは何もする必要はない。見学が目的だ。それでも、自分たちがどのような敵と戦うのかを詳細に知るだろう。それはとても大切なことだ」
見学……。アッシェンバッハ少尉の言葉に、正直アーデルハイトはほっとした。
いくら訓練とはいえ、実際に逮捕や捜査にかかわれば、そこには責任が生じる。自分がもし何か失敗をしたら、それは個人の失敗だけにとどまらず、《白薔薇十字団》全体の失態となってしまうのだ。それが何より怖い。いつかはそれを引き受けなければならないのだろうが、まだ胸を張って大丈夫だと言える自信はなかった。
ベルリンの学校は既に、六月の末から夏休みに入っていた。だが《白薔薇十字団》には夏季休暇はない。
「夏休み返上のつもりで、七月の実地訓練に向けておおいに頑張ってもらいたい。以上だ」
その日から、軍事教練はライフルの射撃訓練が始まった。
ライフルはカラビーナー98クルツが一人一人に支給され、軍事教練としては初めて屋外での訓練となった。
歩いて二十分ほどのところにある個人所有の広い敷地で、遥か遠くの小さな的を撃つ。言うのは簡単だが、これが実に難しい。自分で嫌になるほど、思い通りに撃てなかった。
クララは射撃に才能があるようで、全ての的に弾を当てていた。精度を上げるのはこれからの課題だと、少尉は満足げに頷く。
訓練所の近くには馬場があり、上流階級特有の優雅な雰囲気をまとった紳士淑女たちが、仕立ての良い乗馬服に身を包んで馬を駆っていた。土地の所有者は競走馬を何頭も所有しているのだと、少尉は言った。
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孔雀島はベルリンの南西、大ヴァン湖に浮かぶ小さな島である。名前の通り、島に放し飼いにされたたくさんの孔雀が、まるで農家のアヒルの如くあちこちを無造作に闊歩し、あの美しい羽を広げている。
そのかみ、十八世紀にプロイセン王だったフリードリヒ・ヴィルヘルム二世がこの島を購入し、愛人だったヴィルヘルミー・エンケのために廃墟風の城を建てた。まるでおとぎ話に出てくるような白い小さな宮殿は、現在この島のランドマークとなっている。
漁色家で、その女性遍歴の多さから「肉の機械」と揶揄された王だったが、本当に愛したのはエンケ一人だけであり、度々この島を訪れては二人きりの時を過ごしたそうだ。
十九世紀になると、息子フリードリヒ・ヴィルヘルム三世の命により、フランスはパリにある動植物園をモデルとして、宮廷庭師ピーター・ヨゼフ・レネとカール・フリードリヒ・シンケルが現在の姿へと整えた。
現在の孔雀島は、ベルリン市民の格好のハイキング場だ。
ヴィルヘルム三世の愛妃、ルイーゼをしのぶギリシャ風の神殿や、修道院風の建物、《騎士の館》と呼ばれるゴシック調の建築物などが島に点在し、手つかずの自然の中に佇んでいる。島を訪れた者たちはそれらの光景に、まるで時間が隔絶された別世界へと紛れ込んだような、不思議な感覚に捕らわれる。
仮本部の屋敷から、ヴァン湖畔にある渡し場までは歩いて約三時間半。グレーテルの体力も考えてのんびり歩こうと、日の出前の五時に起き、早朝の七時に出発した。島で早めの昼食を取り、その後ヴァン湖畔のキャンプ場で貸しテントを張り、キャンプファイアーをして一夜を過ごす予定だ。
幸い天気には恵まれ、朝から暑い。湖で泳ぐための水着もしっかりとリュックにつめた。もちろん、今年流行の赤と白のチェック模様の水着である。
屋敷を南に向かって歩くと、間もなく右手に都会とは思えない程の深い森が姿を現す。このあたりはグルーネヴァルト湖をはじめとした、大小さまざまな湖が点在するベルリンの湖水地帯だ。その最も大きなものが、目指す大ヴァン湖である。
夏休みも終盤を迎えた今週、湖畔のキャンプ場はどこも満杯になるだろう。アッシェンバッハ少尉のコネがなければ、貸しテントの予約を入れることは難しかったはずだ。
少し前方を歩く十五人ほどの制服姿は、地元少年団のグル―プだろうか。小学生くらいの団員たちを、アーデルハイトくらいの年かさの少年が引率していた。
考えてみれば去年の今頃は、アーデルハイトも幼女団のリーダーとして、ハイキングやキャンプの引率をしていたのだ。七月にはミュンヘンで行われた「大ドイツ芸術展」の式典パレードにも参加したのを思い出す。
あれからわずか一年しかたっていない。それなのにあの頃の自分がずいぶんと子どもに思えてしまうのは、それだけ自分が大人になったからなのだろう。
前を行く少年たちが、声を張り上げて歌い始める。ユーゲントの団歌『進め、進め!』だった。
進め、進め! ラッパの音は高らかに
進め、進め! ユーゲントは怖れを知らない
もしぼくらが倒れても、ドイツは輝きのなか立ち上がる
「あらあら、男の子たちは元気ねえ」
クララが微笑ましく眺めた。クララが彼らの声に合わせて歌いだした。アーデルハイトも一緒に合唱する。
進め、進め! ラッパの音は高らかに
進め、進め! ユーゲントは怖れを知らない
たとえ、遥かな高みでも、必ずそこへと辿りつく!
クルンメランケ湖の近くで道を右へと折れ、少年たちは湖畔キャンプ場へと向かった。
規律正しいユーゲントの団員とはいえ、それでもやんちゃ盛りの少年たちだ。道を折れ曲がった時、後ろを歩くアーデルハイトたちに気付いたらしい。一斉に口笛を吹き、手を振った。引率のリーダーが、困ったような笑みを浮かべている。
アーデルハイトたちは右手を上げて敬礼し、にこやかに通り過ぎる。おどけて投げキスをよこす少年がいるのには、つい笑ってしまった。
そういえば、ユーゲントの代表団は先日の十一日、ブレーメン港をグナイゼナウ号で発ち、日本へと向かった。ひと月あまりの船旅を経て、八月にヨコハマに到着する。一ケ月の船旅はさぞ大変に違いない。
一方、日本からの代表団はブレーメンでユーゲント代表団を見送った後、現在北のハンブルクやキールを訪問している。かれらの様子は連日新聞で報道され、その記事を読むのが毎日の楽しみとなった。
「なじかは知らねど、心わびて」
カオルが口ずさむ。
「昔のつたえは、そぞろ身にしむ」
クララがソプラノのパートを重ねた。
さびしく暮れゆく ラインのながれ
いりひに山々 あかくはゆる
『ローレライ』はアーデルハイトが最も好きな歌の一つだ。
詩人ハイネの歌詞はラインの河畔、その夕暮れの美しい情景を、詩情豊かに想像させてくれる。
ハイネの出自がユダヤ人だという理由で、著書は五年前、焚書事件で焼かれてしまった。歌も本当は禁じられていたが、『ローレライ』は今《作詞者不詳》となって、おおっぴらにどこでも歌われている。
うるわし乙女の いわおに立ちて
こがねの櫛とり 髪のみだれを
梳きつつ くちずさぶ
歌の声のくすしき魔力に 魂もまよう
「こぎゆく舟びと歌に憧れ」
と突如グレーテルがやや外れた音程で歌い始めた。他の三人がぴたりと歌うのをやめ、驚愕の態で彼女をみつめた。
あのグレーテルが歌うなんて!
音楽の授業で分かったのだが、グレーテルは実はあまり歌が上手くない。本人もそれは気にしているらしく、音楽の授業か、必要に迫られた時しか歌わなかった。アーデルハイトの歓迎会の時は、前日カオルとクララの二人がかりで特訓したらしい。
「どうしたの、グレーテル」
そうアーデルハイトが聞くと、クララとカオルも揃って心配そうな顔をした。
「大丈夫、グレーテル? どこか具合でも悪いの?」
「熱でもあるのではないか?」
周囲からの大きなお世話に、グレーテルは頬を赤らめて
「ああ、うるさいなあ、もうっ」
と叫んだ。
「あたしだって、歌いたい時くらいあるわよ!」




