5-2
数分後、やっと全てを把握したアーデルハイトは、うめき声を上げて手紙を丸め、部屋の隅へと放り投げた。
よろよろとベッドに歩み寄り、シーツの波へと飛び込むように倒れる。
「うそでしょ……」
呟いた言葉は、誰もいない部屋の静寂に吸い込まれた。
継母とハンナのことで、実家の居心地は決して良くはなかった。早く家を出て自立したかったのも確かだ。
それでもミュンヘンの家は、いつか自分が帰るべき場所と今まで思っていた。早く大人になることを望んでいるくせに、自分の中にあるまだ子供っぽい部分は、やはりハンナや父に甘えることを求めている。彼らに反発しながらも、どこかで無条件に受け入れられると安心しきっていた。
それが今、一瞬で無残にも崩壊してしまったのだ。自分の知っていたあのミュンヘンの家は、この僅か数分で過去のものになった。
継母に赤ん坊が生まれ、彼らはアーデルハイトが全く知らない家族を作るのだ。そこには亡き母クララの居場所はない。そしてクララとの思い出を抱えながら生きてきた、アーデルハイトやハンナは蚊帳の外だ。
もうあの家は、アーデルハイトの家ではなく、これから生まれてくる赤ん坊のためのものだった。クララが弾いていた居間のピアノも、大切にしていたつづれ織りのカーテンやテーブルカバーも、猫足のスツールやソファも。それらは全て継母と、よだれまみれの赤ん坊に支配されるだろう。
母が死んでから止まっていた時間を、見知らぬ大きな手で無理やり動かされたみたいだった。
そうだ、なにもかも昔のままではいられないのだと、目の前に突き付けられたのだ。どんなにアーデルハイトが望んでも、手のひらから零れ、消えていくものがある。それがひどく寂しかった。色も音もない世界に、突然一人で取り残されたようだった。
ハンナのことを考える。彼女の手紙があのような事務的な内容に終始した理由が、分かるような気がした。そこに彼女の、言葉にならない深い絶望を感じる。
以前は、父に束縛された彼女の生き方を蔑んでいた。それでも、自分の気持ちを全て明かすことが出来るのは、そして手を取り合って泣くことが出来るのは、この世でハンナしかいないだろう。
だが、ハンナはここにはいない。その手を取ることもできず、共に泣くこともできず、アーデルハイトは震えながら黙って手のひらで顔を覆った。
降りだした雨がガラスの窓に当たって音を立てる。夕暮れの薄闇が忍び寄る室内で、アーデルハイトはしばらくじっと動かずにそうしていた。どうしてか、涙は一滴も出てこなかった。
孤独の波がようやく彼方へと引き、もそもそと起き上がったアーデルハイトが最初にしたことは、三時のおやつを食べることだった。
こんな時に食欲など起こるはずがないと思っていたのに、時間がたてばしっかりとお腹がすく。たしかカリンが作ってくれたケーゼクーヘンが、台所の冷蔵庫に入っているはずだ。そう、このお屋敷には立派な電気冷蔵庫があって、いろんなものが入れられる。なんて素晴らしいことだろう。
台所へと降りて扉を開けるとカオルが居た。ガス台に小振りの鍋がかかって、小さく湯気を立てている。どこかで嗅いだことのある、甘いむっとした匂いが鼻をついた。
「ハイジ、いたのか」
と少し驚いた顔になる。
「ずっと姿が見えないから、知らない間に出かけたのかと思っていたぞ」
アーデルハイトの顔をじっと見る。それから首を傾げ、心配そうな目で
「どうかしたのか?」
と訊ねた。
「うん、ちょっと」
言葉を濁す。
「何か作ってるの?」
小さく湯気を立てている鍋に寄り、蓋をあけようとする。すかさずカオルが持っていた刀の鞘で、アーデルハイトの手を押さえた。
「申し訳ないが、今が一番重要な時なのだ。赤ん坊が泣いても、決して蓋は開けてはならぬと言われている」
「は?」
アーデルハイトは間の抜けた声を上げ、鍋とカオルを交互に見た。なんだかいつもと違って、カオルの目の色が違う。
「これは日本の米を蒸しているのだ。昨日、母が郵便で送ってくれた」
「あ、あああ、お、お米ね。そうなんだ」
日本人がお米を蒸して食べることは、柔道の先生に聞いて知っていた。お茶碗という食器に入れて、お箸という二本の棒きれを器用に使って食べる。
「うむ、そろそろいいな」
と腕時計を見てガスの火を止めた。
「このまま、十五分ほど蒸らすのだ」
いそいそと、ガス台の横に置いてあった木のヘラを鍋の蓋に載せる。まるで何かの儀式のようだった。
「十五分たったら、このしゃもじで鍋の底からきちんとかき混ぜるのだ。そうしないと、冷めた時美味しくないからな」
「ははあ」
お米を水だけで蒸すなんて、いったいどんな味がするんだろう。ミルヒライスなら、牛乳にバニラと砂糖とレモン、シナモンを入れて煮る。甘くておいしい、手軽なおやつだ。
ミュンヘンの家にいた女中のヤーコプさんは、時々冷ましたミルヒライスで揚げ菓子を作ってくれた。揚げたそばからアツアツをほおばるのが、なによりの楽しみだった。
そんなことを考えているせいか、あるいは台所に充満している甘い匂いのせいかなのか、大きな音を立ててお腹がぐうと鳴った。
「お腹が空いているのか。良かったら一緒に食べないか?」
「ええ、いいの? それじゃあ喜んで」
好奇心も手伝って、快く返事をした。カリンのケ―ゼクーヘンは、夕食後の楽しみに取っておけばいい。さっそく奥の食器棚から適当な器を出してくる。箸は使えないから、スプーンを用意した。
「ドイツのミルヒライスも好きなのだが、時々日本の米が無性に食べたくなるのだ」
カオルは冷蔵庫から、ガラスの大きな瓶を取り出した。
ジャムなどを詰めるのに使う容器だが、中身はジャムではない。見たこともない、得体のしれない黄土色の不気味な代物だった。
だが、カオルは目を輝かせ、愛おしそうに蓋を開けて中身を覗きこむ。
「それ、なに?」とアーデルハイトはこわごわ訊いた。
「これは金山寺味噌というものだ。大豆を発酵させて作る味噌の一種で、味噌に瓜や茄子を漬けこんである。これをご飯にのせて食べるとだな、それはもうたまらないほど美味しくて、何杯でも食べられてしまう。一度五杯くらい食べてしまって、さすがに少々後悔したな」
そこで、カオルは高らかに笑った。なんなんだ、このカオルらしからぬ調子の高さは。狐につままれたようなアーデルハイトを前に、カオルはさらに滔々と話し続ける。
「あと、そうだ、日本茶をかけてお茶づけにしてもいいのだ。これがまた美味しくてだな、お茶の渋みと味噌の香りが絡み合って、ほっこりと、しかも決してしつこくなく……」
「ストップ、ストップ。き、キンザンジ?」
慌ててカオルの言葉をさえぎった。そのまま聞いていたら、夜まで喋っていそうな勢いだった。グレーテルならともかく、全然いつものカオルらしくない。なんだか人が変わったみたいだ。
「ああ、すまない。つまり、味噌という日本の調味料だ」
ぽかんとしているアーデルハイトに気がついたのか、そう言ってから、少しばつが悪そうにこほんと咳をした。
よく分からないのだが、つまりミソという日本の調味料を前にすると、どうやらカオルは人が変わるらしい。
謹厳実直なカオルの意外な一面に、アーデルハイトは突如目の前が開けたような気がした。人間って面白い。付き合えば付き合うほど、知らない部分が見えてくる。
突然、今まで悩んでいたことが全てバカバカしくなり、アーデルハイトはお腹を抱えて笑い始めた。
「ごめん……、カオルって……、思ったより面白いんだね」
おかしすぎて涙が目じりに浮かぶ。友達ってこういう時、本当にありがたい。うじうじ悩んでいたことが、いつの間にか遠い向こうへ行ってしまう。
「うっ、驚かせてすまない。どうもこの金山寺味噌にだけは目がなくてな。つい、己を失ってしまうのだ」
十五分たち、蓋を開けて見ると、蒸されたお米たちが湯気を上げてきらきらと輝いていた。カオルはしゃもじで丁寧に撹拌し、自分とアーデルハイトの器に盛り付ける。
指でつまみ、少し口に入れる。甘く素朴な味がした。
「ねえ、これさ、ジャム付けて食べたら美味しいんじゃないかな?」
「あ、ああ。いや、いいのではないかな」
カオルの口調だと、日本ではそういう食べ方はしないのだろう。冷蔵庫からスグリのジャムを取り出して、たっぷりと炊きたてのお米にかけた。




