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蒼白な頬から顎にかかる辺りが硬く強張り、小刻みに震えている。まるで今にも泣き出しそうになるのを、歯を食いしばって堪えているかのようだった。
そしてその目。
そこに浮かんでいたものは、いつもの彼女とは全く違う。
それをひと言で表すのなら、哀しみと言うべきなのかもしれない。
嘲りでも誹謗でもなく、ただただ深く底のない悲哀。
何かに深く疲れたような絶望。
乾いた灰色の瞳は奥に涙の揺らぎを隠し、ここではない何処か遠くを見ていた。軽く噛んだ唇からは、今にも悲痛なうめき声が漏れてきそうだ。
どうしよう、とアーデルハイトは途方に暮れた。こんな反応は予想外だった。いや、もう今日一日いろいろと予測不能なことばかりなのだが、まさか最後の最後でこのようなことになるとは。
もし、想像した通り、いつもの人を見下した反応だったらそれで諦めもついたのだ。そして明日のお茶の時間にクララやグレーテルたちに報告し、愚痴を聞いてもらう予定だった。それなのに。これではいったい、どういう対応をしたらよいのか分からないではないか。
「気持はありがたいけど」
やっとイルマが口を開いた。
「私はあなたと友達になるつもりはないわ。あなたとだけでなく、他の誰とも」
「イルマ……」
「私は、誰かと友達になれるような、そんな人間じゃない」
そうして、イルマは目を閉じた。自分の中から湧き上がる大きな衝動を堪えているような、苦しげな表情をしてから、ゆっくりと目を開く。一瞬で先ほどまで彼女を包んでいた哀しみの影は消え、いつもの無表情なイルマに戻っていた。まるで目に見えない、透明な仮面を被ったみたいに。
「悪いけど、もう帰ってくれる?」
「うん」
アーデルハイトは答えた。もうこれ以上、彼女に対して何か出来ることもなさそうだ。肩を落とし、扉をくぐったアーデルハイトにイルマは告げた。
「ひとつだけ、正直に言うわ。なぜ私があそこでバレエの練習をしていたか」
アーデルハイトは振り向いた。イルマ・グレーゼは目を伏せる。
「あなたの踊っている姿に、嫉妬したわ。あんなに幸せそうに踊れるのはひとつの才能ね。私には、けっして真似は出来ない」
何を言えばいいのか分からなかった。本当は手を差しのべたかったのだ。彼女の硬くとげとげしい殻の中に、先ほど垣間見せた本当の心があるのだとしたら……。
「イルマ、わたし……」
言い終わらないうちに、目の前で扉が閉ざされた。途端に、アーデルハイトはひどい徒労感を覚える。
「ハイジ、どうかしたの?」
横で声がして、見るとクララとカオルが部屋から顔を出していた。話し声で起こしてしまったのだろうか。
「ううん、なんでもない。起こしてごめんね」
無理に笑ってごまかした。今は、クララにもカオルにも話せる気分でない。
夢遊病患者のように扉を開け、自室のベッドに倒れ込む。そんな経験はないのだが、まるで失恋したような気分だ。胸のあたりに堅く重苦しいものがあって、行き場所をぐるぐると探している。
何が悲しいのか分からないままに、アーデルハイトは枕に顔をうずめ、声を殺して泣いた。
* * * *
泉に添いて 茂る菩提樹
したいゆきては うまし夢見つ
みきには彫りぬ ゆかし言葉
嬉し悲しに といしそのかげ
アーデルハイトたちのコーラスが、ニュルンベルガー通りの石畳に朗々と響く。六月最後の日曜日は朝から雲ひとつない快晴だった。どこまでも澄んだ蒼穹に、すぐそこまで迫った夏の色を滲ませ、早朝を照らす太陽の光は肌を焼く小さな棘を孕んでいるかのようだ。
おろしたての夏服と褐色の半袖が露わにした二の腕は、帰る頃にはきれいに日焼けしているだろう。日除けの麦わら帽をかぶり、リュックを背負っていざ目指すのは、かのベルリン動物園だ。
憧れのベルリン動物園!
前の日からアーデルハイトは期待で興奮し、よく眠れなかった。もちろん故郷ミュンヘンにも動物園はある。だからそこまで珍しいというわけでもないはずなのだが、ドイツ最大の動物園という触れ込みには、やはり心を躍らせずにはいられない。
街路樹の枝葉は天に伸びて、濃い影を石畳に落とす。そのくっきりとしたコントラストが、日差しの力強さをより際立たせていた。そう、ドイツの短い夏がようやく始まるのだ。
今日もよぎりぬ 暗きさよなか
まやみに立ちて まなこ閉ずれば
枝はそよぎて 語るごとし
来よいとし友 此処に幸あり
シューベルトの『菩提樹』は母が好きで良く歌っていた。歌詞はこんな陽気にそぐわない、少し寒々しい内容なのだが。
おもをかすめて 吹く風寒く
笠は飛べども 捨てて急ぎぬ
はるかさかりて たたずまえば
なおもきこゆる 此処に幸あり……
アーデルハイトは振り向いて、しんがりを歩くイルマ・グレーゼをちらりと見た。相変わらず彼女は歌わないのだが、少し遅れながらもちゃんと付いて来ている。その様子に安心し、再び前を向いて口元にかすかな笑みを浮かべる。
「ハイジ、どうかしたか?」
隣を歩くカオルが訊ねた。
「うん。イルマ、ちゃんと付いて来てるなあって」
「そうか」
カオルも微笑んだ。リュックと一緒に背負った日本刀がなんとも重たげなのだが、彼女はいっこうに意に介さないらしい。もはや彼女の身体の一部となっているのだろう。
イルマ・グレーゼに友人になれないかという申し出を断られた翌日、ぼんやり腫れたまぶたを見ても、クララもカオルも何も言わなかった。もし何かを訊かれたとしても、上手い答え方がみつからないアーデルハイトとしては、詮索されないことはありがたかった。
リュックを背負って歩く彼女は、いつも通りの人形めいた無表情だったが、アーデルハイトの彼女に対する気持ちは全く違ってしまった。
あの時、一瞬だけ見せた深い悲しみこそが、イルマ・グレーゼの本質なのかもしれない。そのことを自分の胸だけにおさめ、アーデルハイトは決意した。
彼女が誰とも友達にならないと言うのなら、それでも良かった。
でも、もしイルマ・グレーゼが誰かの助けを必要とする時は、必ず手を差し伸べようと。
カオルとアーデルハイトの後ろでは、グレーテルがクララを相手に象に乗る話を延々としている。昨日からその話ばかりでいいかげん聞き飽きたと思うのだが、さすがはクララで辛抱強く付き合っている。
「なにしろこのなかじゃあたしだけなのよ、象に乗れるのは。ふふん」
グレーテルが得意げに鼻先を空に向ける。
ベルリン動物園は、八歳から十三歳までの子どもだけが象に乗ることが出来るのだ。もっともグレーテルなら九歳と言っても通用するので、実年齢はあまり関係ないような気もするのだが。
実は高いところがちょっぴり苦手なアーデルハイトは、乗れと言われても遠慮するところだ。乗れないカオルは本気で残念がっている。彼女の母親が再婚する前、一年ばかりベルリンに住んでいた時は、度々この動物園に来て象にも乗ったことがあるという。カオルは高い場所が好きなのだ。
この季節、動物園の開園は朝九時と早い。ただし今日は日曜日だ。混むかもしれないから、早めに行って門の前で待っていようとのクララの提案で、予定より少し早い出発となった。現在八時四十分、この分だとあと十分くらいで正門に辿りつくだろう。
しかし、物事はそう上手く予定通りにはいかない。
動物園の正門は、次のクーダムとニュルンベルガー通りがぶつかる角を左に曲がり、ブダペスター通りをしばらく歩いて右側にある。
それまで足取り軽く進んでいた一行は、T字路の手前でぴたりと止まった。なんと、遠くの正門からこのあたりまで大勢の家族連れがひしめき、ずらりと列をなしているではないか。
「ちょ、ちょっと、なによこれ。まさかこれ、動物園のために並んでんの?」
グレーテルがさも嫌そうに顔をしかめた。
正門からおよそ五百メートルの道は、小さな子供連れの家族たちと、アーデルハイトたちのような少年少女のグル―プで埋め尽くされていた。
前方の入口付近には、《ヒトラー・ユーゲント》の制服を着た少年たちも見える。どこかのグループでハイキングにでも来たのだろうか。
「さすが日曜日ねえ。お天気もいいし、混むのは当然と言えば当然だけど」
のんびりとした口調でクララが言う。
「いやあ、すんごい人だねえ」
アーデルハイトも目の上に手をかざして、思わず声を上げた。
アーデルハイトたちがぼんやりと眺めている間にも、あちこちから家族連れが次から次へとやってきていた。皆最後尾に行儀よく並び、あっという間に列は通りに添ってさらに長さを増した。
「早く並んだ方が良いのではないか」
というカオルの一言で、我に返ったアーデルハイトたちは慌てて後ろに並んだ。この分だと、正門に辿りつくのに三十分はかかりそうだ。やれやれとアーデルハイトは空を仰いだ。
くっきりとした青空の下、街路樹の彼方に見える背の高い教会はカイザー・ヴィルヘルム教会だ。細い尖塔を天上に突き立て、並ぶ動物園の客たちを遥かな高みから尊大に見降ろしている。
クーダムを通る路面電車が、高い金属音を軋ませて通り過ぎた。車内からこちらを見た若い女性客が、行列に目を丸くしたのが見えた。行きかう路面電車は少し先の停車場で動物園へと向かう客を吐き出し、彼らは楽しげな様子でせっせとアーデルハイトの後列に加わる。
「まったく、なにさ。本当にドイツ人は行列が好きなんだから。ばっかじゃないの。こんなに早くから並んでまで、動物なんか見ることないのにさ、もう」
自分を棚に上げて、グレーテルが一人で文句を言っていた。
「この感じだと、象に乗れるかどうかも怪しいわねえ」
クララが心配そうに顔を曇らせた。
「いいんだよクララ。あたしべつに、象になんて乗りたいわけじゃないんだから」
思い切り口を尖らせてグレーテルはそう言うのだが、全く説得力がない。カオルとアーデルハイトは前を向いて、グレーテルから見えないように笑いを押し殺した。
ふと視線を感じて振り向くと、少し離れて列に並ぶイルマ・グレーゼと目が合った。にっこりほほ笑むとイルマは黙ってそっぽを向いた。
あれから時々、今のように視線が合う時がある。微笑みを返されることなど期待はしていない。だが視線が合えば、必ずにっこり笑うようにしていた。
友達になれないと断られたが、アーデルハイトのことを嫌ってはいないのだろう。それがたとえ監視のためだとしても、本当に嫌なら一緒にハイキングなど来ないのではないか。
イルマ・グレーゼは生まれてから一度も嬉しかったことなどないと、ハッキリ言った。それならば、これからそれを作ればいいとアーデルハイトは楽観的に考える。
嬉しいことをこの《白薔薇十字団》で、みんなと一緒に一つ一つ増やしていけばいいのだ。そうしていくことで、彼女もいつか自然に笑える日が来るかもしれない。
時計の針は九時を指し、開園時間になった。長蛇の列は少しずつ進んではいたけれど、動物園の正門はまだまだ遠い。
いつの間にかあちこちに物売りが来て、商魂たくましく、冷たい瓶入りソーダ水やアイスクリームを売っている。
すぐ後ろにいるアイス売りが、眼鏡を掛けた小さな男の子にカップにするかワッフルのせか訊いていた。ワッフルという少年の返事に、クーラーボックスから出したばかりの冷たいアイスをディッシャーで高く盛りつける。
見ていたアーデルハイトは、思わず涎を飲み込んだ。




