1-1
一九一九年に終結した世界大戦で、無条件降伏を受け入れ、多額の賠償金を背負うことになった敗戦国、ドイツ・ヴァイマール共和国。賠償金の支払いで経済は瀕死の状態となり、インフレは留まるところを知らなかった。
多くの大人が職に就けず、もっと多くの子供たちが栄養失調にかかり、飢えて死んだ。ベルリンでは一日に平均して、七人が自ら命を絶ったという。
議会政治はもはや何の役にも立たなくなり、泥沼の政争を繰り返すばかりだ。人々は心底うんざりし、この現状を変えてくれる力強いリーダーを待ち望んでいた。
そんな時、かつての輝かしいドイツと民族の誇りを取り戻そうと、高らかに宣言した一人の男がいた。彼の名はアドルフ・ヒトラー。国家社会主義労働党(NSDAP)の指導者であった彼は熱狂的な民衆の支持を集め、一九三三年、ドイツの首相に任命される。
彼の経済政策はたしかに功を奏した。溢れる失業者達は職を得て、人々の生活は上向きになった。だれもが明るい未来を思い描いていたのだ。これからの世界は、ドイツは、きっともっと良くなるだろうと。
だがその一方で、ヒトラーはもう一つの重要な政策も着々と実行に移していった。ドイツに住むユダヤ人を国内から一掃するという、ユダヤ人排斥政策である。
ドイツ人=アーリア人を世界で最も優秀な民族と謳いあげた男は、その誇大妄想な人種差別意識で世界の仕組みを変えていこうとしていた。
そして彼の第三帝国構想は、ヨーロッパをかつてない大規模な戦火へと巻き込んでいくこととなる。
これは第二次世界大戦がはじまるおよそ一年前の、一九三八年五月から十一月までの物語である。
* * * *
アンハルター駅の広大なホームから改札に出る。改札口にひしめく人の波に揉まれながら、少女はちぎれんばかりに腕を伸ばし、切符を駅員に手渡した。
停車場へ出る正面口への廊下は、さながら大聖堂のように荘厳で、壁の高い位置に嵌めこまれた円窓が等間隔に並ぶ。
乳白色に輝く大理石の床石には、真昼の日差しが温く柔らかな光線を落とし、きらめく水面のような斑模様を浮かび上がらせていた。少女はタイルに浮く光の輪を踏みながら、重いトランクに難儀しつつ、ひたすら表玄関を目指す。
ようやく正面口から外へ出ると、建物の硝子に反射した日差しが、矢のように眼を射る。眩しげに形の良い目を細め、手をかざして晴れた空を見上げた。その双眸もまた、蒼穹に劣らぬ澄んだ青色なのだが、やや曇りがちだったのは、心に沈む前途への不安を映してのことだったか。
左右二つに分けて、それぞれ頭の高いところで結んだ長く金色の髪は、春風に頼りなく揺れている。誰一人知り合いのいない帝国首都の、そのど真ん中に放り出された少女の戸惑いを代弁しているかのようだった。
少女は空を仰ぎながら、胸にわだかまる寂寞を振り払うように呟いた。
「グーテンターク、ベルリン。お久しぶり」
アンハルター駅正面の停車場へ辿りつくと、アーデルハイトは荷物を脇に降ろして深く息を吐いた。詰め過ぎたトランクは明らかに重量オーバーで、痛くなった手を何度も握っては開く。
ドレスデンで聞いたラジオの天気予報では、今日のベルリンは曇りだった。ありがたいことに予報は外れ、今の空は指先が染まるほどの紺青に、羊の群れのような白い雲が浮かぶ。まさに麗しき五月の空だった。
ここで『会議は踊る』のリリアン・ハーヴェイよろしく、迎えに来た馬車に乗り、華麗なオーケストラをバックに『ただ一度だけ』を歌えれば申し分ないのだろうが、残念ながらそんな優雅な気分にはなれそうもない。
なにしろ、アーデルハイトの目の前には、ありとあらゆる騒音と音響が渦を巻いていたからだ。
乗用車と二階建てバスが出す、エンジン音とクラクション。新聞売りと物売りの叫び声に、走り過ぎる路面電車の滑走音。自転車のけたたましいベル、駅のアナウンス、到着と出発のお知らせ、待ち合わせた人たちの会話……。
それらが十重二十重に渦巻く、まさに前衛と混乱を極めた狂想曲であった。
なぜベルリンという街は、これほどまでに騒がしく、活気にあふれ、何もかもが桁外れなのだろう。故郷のミュンヘンも決して小さな街ではなく、むしろ都会なのだが、ベルリンの混雑ぶりと交通量は比べ物にならない。
アンハルター駅のすぐ北西には、これまた堂々たるポツダム駅の駅舎が見え、二つの駅を行きかう車と人の雑踏は、アーデルハイトの孤独感を一層強くした。
(なんだか、私なんてお呼びじゃないって感じよねえ)
天に向かって独り言を呟いたのは、初めて経験した一人旅の心細さと前途への不安を消し、己を鼓舞するためだ。そんな思惑はつゆ知らず、ベルリンは空ですらミュンヘンのそれとは違い、どこかとりつくしまがない。
アーデルハイトは腕時計を見て時間を確認した。迎えの人が来るまでに、あと十分ほどある。列車の到着時刻は電話であらかじめ伝えてあるので、この場所で待っていればいいだけだ。
停車場には様々な車が停まっては人を乗せ、走り去っていく。隣でタクシーを待っていた品の良い中年夫婦が、アーデルハイトを見て微笑む。余りにも落ち着きがないので、どこかの田舎から出てきたとでも思われたのだろうか。少し恥ずかしくなり、夫婦がタクシーで走り去った後、胸を張って大きく深呼吸をした。
振り向き、アンハルター駅の煉瓦色の駅舎を見上げる。初めてこの駅を訪れた時は、まだ十歳そこそこだった。あまりの大きさに驚いて、父に訊ねたものだ。
(ねえ、お父様、ここはそんなに大きな汽車が走るの?)
父は笑って
(ここの駅には外国からの王様がたくさん来るから、お城みたいに大きいんだよ)
と教えてくれた。
広大な駅舎の壁面には、上辺が美しいカーブを描く縦長窓が僅かな隙間を空けて並ぶ。窓のすぐ上は屋根で、ゆるやかな勾配の縁を飾る黒い鉄のレース模様が、この建物に重厚さだけではない、軽やかな気品を与えていた。
「失礼、お嬢さん」
と背後で声がした。若い男性の張りのある声だった。
「アーデルハイト・フォン・マイヤーかね?」
「はい?」
振り向くと、目の前になんと親衛隊員が一人立っていた。フィールドグレーの制服に帽子と乗馬パンツ、襟元に光る銀色の階級章。歳は二十代の前半というところだろうか。長身を誇る親衛隊員の例にもれず、アーデルハイトより頭三つくらいの高さから、じっと見降ろしている。
親衛隊! SS!
アーデルハイトは思わず飛び上りそうになるのを、かろうじて堪えた。ニュース映画や、去年参加した「大ドイツ芸術展」のパレードで遠巻きに見たことはあったが、これほどまでに近くで、それも直接話しかけられたのは生まれて初めてだ。
「あ、あの……、な、何か、ご、御用ですか?」
緊張のあまり、声が上ずってしまった。
いったい親衛隊員が、何の用があるというのだろう? 別にやましいことなどしていないはずだ。それとも、父かハンナのことで何かあったというのか。
親衛隊員は口元に拳を軽く当て、こほんと咳ばらいをした。嵌めている黒の手袋が、滑らかな光沢を放つ。
「すまないがフロイライン、君はアーデルハイト・フォン・マイヤーではないのかね? 人違いなら失礼したが」
「いいいい、いえ、そ、そうです! わ、私がアーデルハイトです!」
慌てて肯定するアーデルハイトに、親衛隊員は微笑んだ。
「そうか、待ち合わせの時間より少し早く着いてね。車を向こうに用意してある。来たまえ」
「あ、あの……、迎えに来て下さる方って、その」
「ああ、私だ。アッシェンバッハという。君とは長い付き合いになるな、宜しく頼むよ」
そう言って、彼女の脇に置かれた大きなスーツケースに目を留めた。
「随分と重そうだな、持とう」
と笑い、アーデルハイトの答えを待たずに軽々とケースを提げて歩き出す。
「本当に重いな。まさか、ぬいぐるみばかり入っているわけではないだろうね」
「すみません、父がいろいろと持たせてくれたのはいいのですが」
憧れの親衛隊員に荷物持ちをさせてしまう申し訳なさで、頬がかっと熱くなる。まさか迎えの人が親衛隊員などと、予想もしていなかった。てっきり、ベルリンにある帝国青少年指導部の誰かが来るのだろうと思っていたのだ。
少し歩いた場所に、黒のホルヒが停まっていた。父の車より一回りほど大きなそれは、他を圧倒する存在感に包まれている。二人の姿を認め、軍服に身を包んだ運転手が後部座席のドアを開けた。アッシェンバッハからアーデルハイトのトランクを受け取り、荷入れに詰め込む。
「どうぞ」
と言われて、先に座席に腰を落とす。
程良い反発力がきいたクッションが心地よく、少しだけほっとした。アッシェンバッハは向かいに座り、運転手の車を出しても良いかという問いに「ヤー」と答える。エンジンがかかり、滑るように走りだすと、弧を描いて駅前のロータリーを抜けた。




