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3-2

 その日のお茶の時間は、いつものようなストレートの紅茶ではなく、茶葉をミルクで煮出したものが出た。風邪に効くクローブやシナモン、黒胡椒といったスパイスと、ショウガがたっぷり入っている。


「身体が温まりますよ」


 アンナさんはアーデルハイトを気の毒そうに見る。

 あれから悔しくて、つい泣いてしまった。しかも雨に濡れて冷えたのか、くしゃみが立て続けに出て、鼻水が止まらない。濡れた制服を脱ぎ、慌てて冬用のセーターやカーディガンを着こむ。泣いたのと鼻のかみ過ぎで、目も鼻も真っ赤だった。みっともないことこの上ない。


「あ、ありがとうございま……ぶしゅん!」


 くしゃくしゃになったハンカチで鼻をかむ姿に、クララも心配そうに眉をひそめる。


「ハイジったら、本当に風邪をひいたんじゃないかしら。温かくして、もっと火の傍に寄った方がいいわ」


 ヨハンさんが特別に、談話室の暖炉に火を入れてくれていた。室温は高いはずなのに、悪寒がする。燃える暖炉を背に、毛布にくるまって温かなお茶を飲んだ。ショウガのせいか少しピリピリと舌に来る。


「なんですかねえ、今度のお嬢さんは、ずいぶんと難しい感じですわね」


アンナさんがふうと息を吐いて、頬に手を当てた。アンナさんとヨハンさんは、以前の主人、つまりこの屋敷にユダヤ人が住んでいた時からここにいる。


「私もヨハンも、こちらに来るお嬢さん方はそりゃあみんないい子で、毎日お世話するのが楽しいのですけど。あの方はちょっと怖い気がしますわ」

「確かにそうなのですが」


 とクララも困った顔をした。


「それでも、彼女もここの一員です。出来れば、分け隔てなくお付き合い願いますわ」

「それはもう承知しておりますけどねえ。カオルさんにあんなことを言うなんて、いったい親御さんにどういう育てられ方をしてきたのかしら」


 アンナさんの言葉に、アーデルハイトは強く首を縦に振る。

 今日のおやつは緊急に、温かい蒸しプリンに変更された。その方がアーデルハイトにはいいだろうという、カリンの心遣いだ。寡黙でめったに話さないけれど、本当は面倒見の良い優しい人なのだということが、みんな付き合ううちに分かってきている。そろそろプリンが蒸し上がるというので、アンナさんは台所へと去った。


 後に残された三人は誰も口をきかなかった。燃える薪の爆ぜる音がいつもより耳に優しく響き、アーデルハイトはほっとした。もしこの音がなければ、みんな寒々しい沈黙の中にいなければならなかっただろう。


「は……、へくしゅん! へくしゅん!」


 静寂を破るくしゃみの音が立て続けに二回。情けなさそうに鼻をかむアーデルハイトを見て、グレーテルは苦笑いした。


「あのさハイジ、それ、もうダメなんじゃないかなあ」


 目でアーデルハイトが手にしたハンカチを指す。たしかに手の中のそれは十分すぎるほど湿り、これ以上の吸水は不可能に見えた。


「ああ、本当だね。どうしよう、ちょっと替えを持ってく……ぶしゅっ!」


 椅子から立ち上がりかけたアーデルハイトを、クララが止めた。


「ダメよハイジ、あなたは火の傍に居て。私のを貸してあげるから」


 はいと差し出されたハンカチを受け取り、アーデルハイトは目を剥いた。つややかな木綿地に、おそらく手作業で施されたらしき精緻なボビンレースが縁取られている。白地に緑の糸で《C・M・R》と丁寧な刺繍が刺してあった。冗談じゃない、こんなもので鼻などかめやしない。


「ごめん、無理」


 と返すと、クララはグレーテルにハンカチがないか訊いた。グレーテルは肩をすくめてかぶりを振る。


「ハンカチはレディの身だしなみだって、いつも言ってるのに」


 クララは呆れたように言った。


「いつもは持っているよ。今たまたま、ないだけだからね」


 そう抗弁し、グレーテルは立ち上がった。


「あたしの貸したげる。今部屋から持ってくるから、ちょい待ってて」


 パタパタというグレーテルの軽やかな足音が遠ざかり、クララはちょっと悲しそうな顔をして笑った。


「大変な一日目になっちゃったわね」

「うん、そうだね」


 アーデルハイトも弱々しい笑みを浮かべる。

 イルマ・グレーゼは今、何をしているのだろう。カオルの方は自室で眠っているらしい。この二人がこれから仲良くやっていけるのは、ほぼ絶望的に違いない。たとえカオルが仲良くしたいと願ったところで、イルマの方が二等人種との交際を拒絶するのは、火を見るより明らかだ。


 それにしても、カオルのことをあんな風に言うなんて信じられなかった。今思い出しても、怒りで腹の底が熱くなる。

 たしかにイルマ・グレーゼは、まるで総統が望むアーリア人の理想を練って固めたような容姿をしている。シミ一つない白い磁器のような肌、神秘的な銀色の髪に灰色の瞳、歳がいくつなのかクララも知らないようだったが、背はアーデルハイトより頭一つ高くて、クララと並ぶくらいだ。

 そしてあの人間離れした強さ。どこにも欠陥というものがない。己に対する強烈な自負と優秀なゲルマンの純血という誇りが、あのような言動を取らせるのか。


 生物学では遺伝というものがどれだけ大切なことなのか、そして民族の優秀さを保持するため、純血を守ることの重要さを教えられた。

 アーリア人の遺伝子を守るために、ユダヤ人は当然のことながら、ロマとの婚姻も禁止されている。

 東洋人ではあれど、日本人はドイツとの同盟国家民族であり、彼らはいずれ総統閣下に《名誉アーリア人》として迎えられると言われている。だから混血とはいえ、カオルが恥ずべきことは何もないはずだ。


 それでも時々授業を受けている時、ふと疑問に思うのだ。遺伝的に《劣等》であるという自然の摂理と、《名誉アーリア人》という人間が作った制度が、果たして相容れることがあるのだろうかと。

 だが、それについて深く考えることは、どこかカオルを貶めることになるような気がする。出会ってひと月しかたっていないが、アーデルハイトはこのちょっと変わった話し方をする、濃い栗毛の少女が好きになっていた。


 だからイルマ・グレーゼがカオルに言い放った言葉が、アーデルハイトの頭から離れない。彼女はこう言ったのだ。どんなにあなたが優秀でも、二等人種との混血という現実はなにも変わらないと。

 それはたとえ《名誉アーリア人》とされたとしても、遺伝的な劣等性の事実はなにも変わらないということなのか。父親が日本人だということを誇りにしているカオルに、その現実はあまりにも非情すぎるのではないか。


 そもそも、なぜカオルがこの《白薔薇十字団》に選ばれたのかも謎だった。イルマの言った通り、ゲルマンの純血性に重きを置くなら、カオルのような日本人との混血ははなはだ不適格なはずである。


「ねえクララ、聞きたいことがあるんだけど」


 と言いかけた時、ノックの音がしてアンナさんとグレーテルが戻ってきた。アンナさんが手にしたお盆から湯気が湧きたち、バニラとカスタードの甘い匂いがする。アーデルハイトは思わず生唾を飲み込んだ。


「えへへ、待たせたね。はい、これ」


 グレーテルが差し出したハンカチを、アーデルハイトは礼を言って受け取った。お茶と暖炉の熱のせいか、なんとかくしゃみは止まったようだ。


「カオルさんはぐっすり寝ていますよ。もうしばらく、そっとしておいてやりましょうね」


 アンナさんの言葉にクララが


「お願いします」


 と微笑む。この様子だと今日の夕食には降りてこないかもしれない。

 夕食と言えば、イルマはどうするのだろう。みんなと同じように、あの食堂で食べるのだろうか。それはそれで、アーデルハイトはものすごく気詰まりなのだが。

 アンナさんが出ていくと、クララはアーデルハイトを見た。


「冷めないうちにいただく? それとも食べながら話す?」

「うーん、食べてから話す」


 答えるよりも早く、アーデルハイトは蒸したてのプリンをスプーンですくっていた。くしゃみが止まると急にお腹がすいてきたのだ。

 この甘苦いカラメルとカスタードの絶妙なバランス!

 カリンはお菓子作りの天才ではないかと、時々感心する。なにかしらの才能があるって、やっぱり素晴らしい。


「彼女はどうしていて?」


 クララの問いに、グレーテルは咥えていたスプーンを器用にくるくると指で回した。


「部屋に居るみたいだったけど、いったい何をしてんだか。あんなのとこれから寝食を共にしなきゃなんないってのも、精神を鍛える軍事教練のひとつなんじゃないの」

「まあ、そう考えないとやりきれないわね」


 とクララが珍しく弱音を吐く。


「カオルは強いから、これくらいでめげたりはしないと思うけど……」

「あのね、クララ」


 食べ終わったプリンの皿をかたりと置いて、アーデルハイトは二人に向き直った。


「さっきの続き、聞いてもいい?」


 ええ、どうぞとクララが答える。グレーテルは黙ってプリンを食べ続けた。


「カオルって、なぜここに選ばれたの?」


 クララが置いたスプーンがカチリと硬質な音を立てる。


「まあ、当然そういう質問になるわよね」

「私は別に、カオルが混血だろうとどうでもいいけど。でもゲルマンの純血性という点からは、やっぱりちょっと、その……」


 アーデルハイトは口ごもった。訊いてしまってから、自分がすごく嫌な子に思える。


「たしかに、イルマ・グレーゼの言うことには一理あるのよ」


 とクララは目を伏せた。


「ゲッベルスさまが彼女を選んだ時、私もちょっとこれはと思ったの。日本人とはいえ、混血は混血でしょ? 一応ゲルマン民族の純血性を守ると総統閣下は仰っているわけだから、団の現実がそれと矛盾することになっては困るし」


 しばしの沈黙が流れた。アーデルハイトは器に残ったカラメルシロップが描く、薄い飴色の地図を眺める。


「それで、ゲッベルスさまに思い切って窺ったの。どうして彼女を選んだのか、その理由をね。あの方のお考えは非常に明瞭で、簡潔だったわ」

「つまり、どういうこと?」

「ゲッベルスさまのお考えはイルマと同じよ。日本人はゲルマン民族より劣る二等人種だと。でも彼女の、カオルの素質は素晴らしいわ。そこらへんの《ドイツ少女団》の純粋なゲルマンの少女を十人合わせても、たぶんカオルには敵わないと思う。そこにゲッベルスさまは着目されたのね」


 クララはそこで言葉を切った。背後で薪が大きな音を立てて爆ぜる。悪寒の止んだ身体から、アーデルハイトは毛布を取った。


「ゲッベルスさまはこう考えられたの。アーリアに劣る二等人種との混血がこれほど高い資質を持っている、そのことが、ゲルマンの遺伝子が優れている事実を証明することだと」

「でもそれは……」


 カオルの日本人としての誇りを、傷つけてしまうのではないだろうか。


「もちろん、それは私も考えたわ。相手がカオルのような子なら、なおさら微妙な問題よ。それでこの件について、総統に電話で直接意見をお聞きしたの」

「総統閣下はなんて?」

「総統は『我が闘争』でも書かれている通り、東洋人を良く思われていないわ。でも、日本人の非常に勤勉な性質や器用さは評価されているの。だからこそ、防共同盟も結ばれている。カオルに関しては、いずれ《名誉アーリア人》になることだから、別に構わないと」

「そうなんだ。じゃあべつに、あの子がとやかく言うことじゃないよね」

「ええ、そうよ。でも」


 クララは顔を曇らせた。


「混血という事実を面白くないと思うのは、イルマだけではないわ。同じことが、いつかまた起こるかも。カオルがそれを乗り越えられるだけの強さがあることを、今は信じましょ」

「うん。でも、カオルは知っているのかな? ゲッベルスさまと総統閣下のお考えのこと」

「知っているわ」


 クララは答えて、残った紅茶を一口飲んだ。


「一度、カオルに訊かれたことがあるのよ。彼女がここに選ばれた、本当の理由をね。ごまかしても仕方のないことだから、正直に話したわ」

「カオルはなんて言ったの?」

「『正直に話してくれて感謝する』って。それから、総統閣下が日本人を《名誉アーリア人》として迎えてくれることを、心から喜んでいる、ともね」


 クララは飲み終わったカップを置いて、誰に言うともなく呟いた。


「《名誉アーリア人》とか混血とか、そんなこと関係なしに、私はカオルのことが好きよ」



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