3-1
一九三七年の夏、フォン・マイヤー一家はまだドイツに併合される前のオストマルク(オーストリア)を経由して、イタリアはベネチアに旅行した。
アーデルハイトにとって初めてのイタリア旅行は、ムッソリーニ首相の治世のもとで生まれ燃え盛る、新しい時代への熱を感じさせるものだった。
イタリアはその数ヵ月後の十一月に、ドイツ、日本との《日独伊防共協定》を結ぶことになるのだが、そのせいだったのか、ベネチアでも日本人らしき東洋人の姿をよく見かけた。
背がとても低くて、大人でもアーデルハイトと違わないくらいだ。でも大抵きちんとした身なりで礼儀正しく、ホテルでもレストランでも綺麗なドイツ語で話す。ユダヤ人嫌いの父も、日本人に対する評価は意外にも高かった。
夕食の後、ベネチアの港をハンナと散歩した時、満月が波間を見晴かす高さで輝いていた。冷たい蒼さを孕んだ銀色の月は、下界に燦めく鱗粉をまき散らし、光の粒子はさざなみを照らしながら暗い海に溶けていった。
その何処までも透明な青白い球体は、人の温もりなど届かない、別の世界からの使者のように見えた。それでいて、澄んだ冬の水が映す己の姿のように、まだ誰も知らない自分の本当の心がうっすらと写り込んでいるかに見える。
初めてイルマ・グレーゼを見たとき、アーデルハイトはそのベネチアで眺めた月を真っ先に思い出した。
決して手の届かない、誇り高き夜の女王。
その陰の深い暗闇に、もう一人の未知なる己を見てしまったアーデルハイトは、二度と戻れない、泥沼の深みへと嵌っていくことになる。
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彼女が黒のホルヒから降りたのは、朝から降っていた強い雨が少し小振りになった頃だった。アッシェンバッハ少尉は付き添っておらず、十字団の制服を既に着用している。
扉を開け、一歩広間に足を踏み入れた時から、彼女の美しくも尊大な雰囲気はあたりを払い、たちまち広い屋敷全体を支配した。
腰まである銀色の長い髪は淡いすみれ色を沈ませ、細かい雨の粒を真珠のように散りばめている。形の良い瞳は明るい灰色で、月の光を漉して底に沈めたような色をしていた。
その双眸から放たれる、突き刺すような視線は、氷のように冷たい。目前のあらゆるものを見渡し、形ある世界だけでなく死後の世界をも見通せるような、どこか浮世離れした厳しさを帯びていた。
(まるで、北欧神話のヴァルキューレみたい)
アーデルハイトは思った。昔読んだ『ニーベルングの指輪』の絵本、その挿絵に描かれた女神にそっくりだった。彼女たちは神話の中で、英雄の魂をヴァルハラに導くのだ。
「いらっしゃい、お待ちしていたわ」
クララが差し出す手を気のなさそうな表情で見向きもせず、後ろにいるアーデルハイトたちを品定めする如く、一人一人眺めた。それからしばらく目を閉じ、まるでひどい屈辱を受けたかのような苦い表情で、クララの方に向き直る。
「出迎え、御苦労さま」
とその時初めて口を開いた。声音も口調も、どこまでも人間味がない。なんだか嫌な感じの子だと、アーデルハイトは彼女の傲岸さに嫌悪感を抱いた。
「ところで。私はこの《白薔薇十字団》は、総統と帝国の高尚な理想を担う、崇高な役割があると聞いていたのだけど」
「ええ、それは間違いないわ」
クララは答えた。
「そう、それなら聞くけれど」
イルマはカオルに目を留めて言った。
「なぜ、二等人種との混血がここにいるのかしら。ゲルマンの純血性を汚す、卑しい存在が」
さーっ。
アーデルハイトは己の血液が頭に上る音を聞いた。広間の空気が一瞬で凍りつくのが分かる。手足が急に冷たくなって、心臓の音だけが耳の奥で奇妙な大きさで響いた。
隣にいるカオルは黙っているが、身体から噴き出した抑えきれない怒りが、水面に立つ波紋のようにアーデルハイトに伝わってくる。その激しさに思わずぞっと身震いをし、こぶしをきつく握りしめた。
「あなたがどう思うかは知らないけれど、彼女は日本人との混血よ。いずれ《名誉アーリア人》だわ」
クララは腕を組んでイルマを真っ直ぐ凝視した。今までに見たことがないほど、不愉快さを露わにした表情だった。
「あなた、総統の『我が闘争』を読んでいないの?」
イルマが静かに言った。表情は全く変わらないのに、声に強い嘲りの色が滲む。
「総統はあの本で、東洋人をアーリア人にはるか及ばない二等人種と書かれているのよ。ゲルマン民族の純血性だけが、この世界を正しく導く。それはあなたも御承知だと思っていたけれど」
「もちろん、とうに知っていることだわ。でも団の人選は他ならぬ、宣伝相ゲッベルスさまがされたことよ。それは言うまでもなく、総統閣下の御意志でもあるわ。閣下の思慮は、私たち凡人の及ぶところではないの。あなたがとやかく言うことではなくてよ。それに……」
「いや、もういいクララ」
カオルが遮った。怒りを含んではいたが、意外にも穏やかな口調だった。
「イルマとやら。そなたの発言は、私に対する侮辱ととらせてもらうが、構わないだろうか」
「ええ、どうぞ」
イルマが頷きながら、長い髪を指で梳く。
「では、私はそなたに決闘を申し込む。クララ、そなたが立会人だ。いいだろうか?」
カオルの申し出に、クララは言葉を詰まらせたようだった。アーデルハイトはクララとカオルを交互に見て、冷たくなった自分の両手を祈るように握りしめた。
決闘なんて、血気にはやったギムナジウムの生徒がやるものばかりだと思っていた。いったい、なんという歓迎会になってしまったのだろう。
「あなた、友達のことを考えるなら、馬鹿なことはよしなさいって止めた方がいいわよ。勝てるわけ、ないんだから」
イルマの言葉に、クララは溜息をついて首を横に振った。
「悪いけど、彼女の誇りのためにもそれは出来ないわ」
「かたじけない」
カオルは頷き、肩にかけていた日本刀に手を伸ばした。目の高さに横向きに構える。ゆっくりと刀の柄が鞘から離れ、氷のような白い抜き身を僅かに覗かせた。
「武器は自由、私はこれを使わせてもらう。場所は庭、時間は今だ」
イルマはつまらなさそうに肩をすくめた。
「それであなたの気が済むならどうぞ。私はいつだろうとどこだろうと、別に構わないから」
アーデルハイトは慌てて外を見る。こんな天気に外で決闘なんて無茶苦茶だった。辛うじて今はやんでいるものの、いつまた振り出してもおかしくない曇天なのだ。
カオルが広間から庭へと通じるフランス窓を開ける。湿気をたっぷりと含んだ風が、彼女の切り揃えた額髪を揺らした。雨に濡れた敷石を踏み、水と腐葉土の匂いを立ち上らせる庭へと降りていく。
イルマ・グレーゼは相変わらずの無表情で、クララと隣に立つグレーテルを見遣る。グレーテルが顔をしかめて舌を出すと、再び肩をすくめて指で髪をかき上げた。まったくどういう因縁で、こんなことに付き合わされなきゃいけないのかという態度だった。
「ほら、行きなさい」
クララが言うと、ふいと身体の向きを変えて庭へと降りていく。その後にアーデルハイトたちが続いた。
小天使の噴水の脇にカオルは立ち、少し離れてイルマが対峙する。カオルが刀を鞘から抜いて、両手で構えた。以前カオルに教えてもらった《セイガンの構え》という方法だ。対するイルマは何も武器を持たずに、ぶらりと両手を下げたまま佇んでいる。
「どういうつもりだ」
カオルは訊いた。
「なにも持たずに戦うつもりか」
「ええ、そうよ」
とイルマは言った。
「あなたごとき、手ぶらで十分だわ」
「そうか。だが、だからといって手加減はしない」
次の瞬間、アーデルハイトは、カオルの全身から陽炎のようなものが放たれるのを見た気がした。彼女の周りだけ空気が揺らいでいるのだ。
目の錯覚かと思い瞬きをしたときには、地を蹴ったカオルの一閃が空を斬る。イルマの身体は軽業師のように宙へとひらりと舞い、音も立てずにカオルの背後へと降り立った。まるで猫だ。
「まだまだ!」
振り向きざまに繰り出した切っ先を、ギリギリにかわす。カオルの振る日本刀が驚くほどの速さで風を裂き、突き、斬りあげる。
尋常の人間なら見切ることの叶わない攻めを、イルマはほんのわずかな動作で的確に避けていた。風に混じる雨の匂いが濃さを増した。もうすぐきっと、また振りだすだろう。
「もらった!」
カオルが叫んでイルマの背後を巧みについた。一瞬、二人の身体が交差したかに見えた時、金属がぶつかり合う音が聞こえ、火花が散る。
「あ!」
アーデルハイトが思わず叫んだとき、二人は始めと同じ距離で向かい合い、片膝をついていた。だが、イルマの両手に握られているのは、見たこともない二本の刃物だ。逆手に握られた柄、前腕に添うような鋭い刃は肘より少し長いくらいだろうか。まるで《T》の上辺の片方を引き延ばしたような奇妙な形……。
「あれはトンファーっていう、東洋の武器だよ」
グレーテルが口を開いた。
「トンファー?」
聞き返したアーデルハイトに頷く。
「普通のトンファーはただの棒なんだけどね。彼女のは特別に、ああやって鋭い刃物になってる」
右手の刃を眼の高さに上げ、構えた姿はまるで鎌を振るう死神を思わせる。
草地に付いた片膝を上げ、立ちあがったイルマに、先ほどにはなかったある種の表情が見て取れた。そこに浮かんだものの酷薄さに、アーデルハイトの背筋をひやりと冷たいものが走る。
成り行きを見守っていたクララが、
「ちょっと、まずいわね」
と呟いた。
「たしかに、少しは出来るようね」
イルマが口を開いた。あれだけ動いたのに、少しも息を乱していない。
「速さも動きも申し分ないわ。二等人種にしておくには勿体ないくらい」
「それはありがたいな」
「でも残念ね。あなたは結局、私には勝てない。私を倒すには全然、全く、ほど遠いわ」
「……!」
カオルが左へ僅かに動くのと、イルマの振った刃が喉元をかすったのが同時だった。その隙をついて、素早く旋回したイルマの膝がカオルの脇腹に深く食い込む。
「ぐはあ!」
カオルの身体が芝を転がり、地に伸びた。
「カオル!」
悲鳴とともにアーデルハイトが駆け寄った。カオルは痛む脇腹を両手で押さえ、くの字に折り曲げた身体を苦しげに波打たせている。
「もうやめてよ、十分でしょ!」
そう叫ぶと、見下ろすイルマと視線がかち合った。なんの感情も読みとれない、いや、そもそも感情があるのすら分からない、空っぽの部屋を思わせる瞳だった。
カオルの肩に添えた手に、雨がひと粒振りかかる。やがて葉に当たる雨音とともに、雫の糸がアーデルハイトの頬を伝い落ちた。
「勝負あり」
クララの声が雨音に霞んで、庭に虚しく響いた。
「どう、これで気が済んだ?」
クララの皮肉に、イルマは深く息を吐いて首を傾げる。いつの間にか、両手に握りしめていたトンファーは跡形もなく消えていた。出した時も突然だったことを思い出し、あんな大きなものをいったいどこに隠しているのだろうといぶかる。子どもの頃、移動サーカスで見た手品師のようだ。
「気が済むも何も、始めたのはそちらだわ」
イルマは言った。
「カオル・サンジョウ・ローゼンタール、確かにあなたは素晴らしい資質の持ち主だわ。でも、どんなにあなたが優秀でも、二等人種との混血という現実は、なにも変わらない。あなたがここにいることの意味を、よく考えてみることね」
広間へとイルマが消え、入れ違いに毛布とタオルを持ったアンナさんとヨハンさんが庭に出た。アンナさんの夫であるヨハンさんは屋敷唯一の男手で、アーデルハイトたちを娘のように可愛がってくれている。
毛布でカオルを包み、ヨハンさんの逞しい腕がカオルの身体を軽々と抱えた。
「さあさあ。皆さんもお入りにならないと、風邪をひきますよ」
アンナさんが渡してくれたタオルで顔を拭う。広間へと戻って、初めて身体の芯がすっかり冷えていたことに気がついた。
頭の奥がずきずきと痛む。なんだか、叫び出したいほどひどく嫌な気分だった。




