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ベルリン動物園はヨーロッパ最大の規模を誇る。一度も訪れたことのないというアーデルハイトの為に、クララの配慮で来月のハイキングがここに決まった時は、飛び上って喜んだものだ。気が早いのかもしれないが、今からとても楽しみで胸の鼓動が速くなる。
日曜日の動物園駅は、家族連れで混んでいた。
曇っていた天気が少しずつ回復し、霞み越しの日差しが霧雨のように降り注いでいる。駅の前に屋台が並んで、ゆで上げたばかりのソーセージや、パンケーキを焼くバターの焦げた匂いが漂う。みんな幸せそうな顔をしている。薔薇色のワンピースを着た母親が、明るい桃色のドレスを着た少女の手を引いて楽しそうににこにこと笑っていた。
ハルデンベルク通りを北へと進み、ベルリナー通りとの突きあたりで右折する。ベルリナー通りを暫らく進むと、うっそうとしたティーアガルテンの森が左右に広がる、シャルロッテンブルク通りに入り込んだ。街の喧騒は緑の防音壁に吸い込まれ、街の中心街とは思えぬほどの静けさに包まれる。
「ああ、可愛いオーガスティン、オーガスティン、オーガスティン……」
クララが楽しそうに歌うのは、『可愛いオーガスティン』だ。昔流行ったペストのことをうたった歌なのだが、楽しそうなメロディーのわりに、歌詞はずいぶんと殺伐としている。
お金も恋人も みんな無くなってしまった
ああ、可愛いオーガスティン みんな無くなってしまった
上着も杖も無くなって 泥に横たわるオーガスティン
ああ、可愛いオーガスティン みんな無くなってしまった
歴史学で習ったのだが、大流行したペストの為に人口の五分の一が失われた中世ヨーロッパの時代、ユダヤ人たちの罹患が少なかったために、彼らが毒をまいたという噂が流れたらしい。そして、《善良なキリスト教徒たち》は、彼らを虐殺して粛清した。
細菌学が発達した今となっては、その噂は単なる虚偽だと分かる。
「そうだとしても、あいつ等ならそれくらいのこと、十分考えられることだわ」
とクララは言っていたが。
グローセ・シュテルンから、北東へ延びるシュプレー通りを進んでいく。濃厚な緑と咲き初めた花たち、近くを流れる川水の匂いが肺腑を満たす。なんて素晴らしい五月の日曜日だろうと、アーデルハイトは何度も深呼吸をした。
通りの奥にハイキングの目的地、ベルビュー宮殿は白亜の姿を鎮座させている。十八世紀にフリードリヒ大王の末弟によって建てられた宮殿は、オリンピックの頃は民俗博物館として公開されていた。今は政府の迎賓館として使われている。
公園の広大な芝生でお弁当を広げる。もうお腹がペコペコだった。周りにはやはり昼食をとる家族連れや、恋人たちがそれぞれに過ごしている。黒パンにあんずのジャム、ハムとソーセージ、酢漬けのキュウリやニンジン、泡立てた生クリームに、チョコレートケーキまでついて、ちょっとした宴会になった。
「こんなにたくさん食べたら、夕ご飯いらないわね」
クララが魔法瓶から食後のコーヒーを注ぐ。コーヒーに泡立てた生クリームをたっぷり入れるのが、彼女の好みだった。
「ねえ、クララ」
香ばしいコーヒーの湯気を顔に浴びて、アーデルハイトが訊ねた。
「六月から来る新しい子って、もう名前は分かっているんでしょ?」
「ええ、私とグレーテルは知っているわ」
「そろそろ教えてよ。私の時と同じように、歓迎会とかもするんだよね? 名前が分からないと困るし」
クララがグレーテルを見て、視線を交わし合う。彼女たちの視線が帯びた困惑の色に、アーデルハイトは不可解なものを覚えた。
「なにか、不味いことでもあるのか?」
傍らで聞いていたカオルが訊ねる。
「ううん、そういうことではないけれど」
クララは慌てて否定した。
「確かに、もう教えてもいい頃よね、うっかりしていてごめんなさい」
クララが教えてくれた名前は、ドイツの少女によくある、ありふれた名前だった。たしか以前聞いた時、クララは
「今ドイツにいないのよ」
と言っていた。
ポーランドかハンガリーに住む、ドイツ系移民の子なのだろうか。
「彼女は、実は《ドイツ少女団》の団員ではないの。いいえ、ドイツ人かどうかも怪しいわね」
「怪しいって、どういうことだクララ」
カオルの問いかけに、隣のアーデルハイトも頷いた。
「彼女の入団については、私は反対だったのだけど。でもゲッベルスさまの強い要望なので、最後は認めるしかなかったわ。彼女は」
そこでクララは声をひそめた。
「保安情報部の人間なの」
カオルがはっと息をのんだ。ホアンジョウホウブってなんだという表情のアーデルハイトに、グレーテルが耳を寄せた。
「あのね、保安情報部って、スパイの組織」
「ええ?すぱ・・・もごっ」
アーデルハイトの口を、グレーテルが慌てて押さえた。カオルはクララと難しい顔をして、黙りこくっている。ひょっとして、新入りって、ものすごく危ない女の子なのだろうか?
「グレーテルは知っていたの?」
声をひそめ、グレーテルの耳元に囁き返した。アーデルハイトの質問に、少女は
「うん」
とあっさり答える。
「一度会ったことあるし」
「本当? ね、ね、どんな子?」
「うん、ハイドリヒさまの所で顔を合わせたことがあるよ。簡潔に言えば……」
「言えば?」
「ものすごおおく、イカレてるね」
* * * *
帰りはみんな黙って歩いた。リュックの中身は胃袋に収まり、身体と一緒に口まで重くなったようだった。
保安情報部からやってくるという、その新入りがどんな子なのか、グレーテルからの話からは全く想像できなかった。
ものすごくイカレてるってどんな感じなのだろうと、アーデルハイトは考えてみる。
イカレてるといえば、『不思議の国のアリス』に出てくる帽子屋とか、映画の『カリガリ博士』くらいしか思い当らない。アーデルハイトは己の発想力のなさと平凡さに、ため息をついた。
そもそも自分の性格はどこか丸く収まり過ぎていて、情熱や破綻とはほど遠い。それはそれでいいのかもしれないが、ロマンチックさの欠片もなかった。
友達にこっそり借りた小説には、人生を狂わせるほどの激しい恋がたくさんある。将校と恋に落ちた人妻のアンナ・カレーニナ。ボヴァリー夫人も年下の恋人だった。バルザックの『谷間の百合』やラディゲの『肉体の悪魔』。
そんな女主人公に憧れつつも、そのような激情の渦に飛び込めるかと言われれば、弱々しく首を振るだろう。そしてこの先も、そのようなものとは一生無縁に過ごしそうだった。
* * * *
楽しいハイキングは終わり、月曜日と火曜日が過ぎた。
六月は水曜日から始まる。
そしてその日は、アーデルハイト・フォン・マイヤーにとって、生涯忘れられない日となった。
《白薔薇十字団》に来た最後の団員。
銀色の髪の少女、イルマ・グレーゼと出会った日……。




