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そう全ての状況が、彼女において不利に働いた。
午前はバレエのレッスンでたっぷりと体を動かし、そして昼食(その日のメニューはじゃがいものパンケーキに、たっぷりのチーズクリームソースがけ、温野菜添え)、午前中に少し肌寒かった天気が午後になって回復し、うららかな春の陽気となった。
この屋敷には教室というものがないので、代わりとして図書室が使われている。図書室はそれほど広くはないが、一階と二階の吹き抜けとなっており、狭い分高さがある。壁一面に作りつけられた書架にはびっしりと本が詰まって、部屋全体に古い紙魚の匂いが充満していた。
南向きの壁面には聖堂を思わせる細長い窓が嵌めこまれ、全てを包み込む温かな光が差し込んでいる。その光の梯子を伝って下りてきた天使は、アーデルハイトの耳元で甘い子守歌を囁いた。
部屋の中央には重厚な樫材のテーブルが据えられ、団員たちはそこに座って授業を受けていた。三方の壁面を埋め尽くす書物たちは冷たくアーデルハイト達を見降ろし、まるで蓄積された時間と知恵が覆いかぶさってくるような、重苦しい圧迫感がある。
そんな図書室の空気に踊る古めいたちりを、春の日差しはひそやかに掻きまわし、眠りを誘う耳には聞えない穏やかな旋律を奏でる。そこにフロイライン・ロッテンマイヤーの歴史学の授業だった。条件としては最悪である。時々膝をつねっては眠気を払うのだが、焼け石に水だった。
ロッテンマイヤーというのは、グレーテルが付けたあだ名である。本名はフロイライン・ゾフィー・クレマーという。初めて彼女の授業を受けた時、あまりに似ているので驚いた。シャーリー・テンプルの『ハイジ』に出ていた彼女にそっくりだったのだ。
「ね、ね、ハイジも似てると思うでしょ?」
授業が終わるやいなや、早速グレーテルがニヤリと笑いながら確認してきた。たしかに雰囲気といい、よく見れば綺麗なのに何となくぎすぎすした所といい、よく似ていたので驚いたと言うと
「じゃあ、今日から彼女はフロイライン・ロッテンマイヤーね」
勝手に呼び名を決められてしまった。
「はい、ではクララ、今日の所をまず読んで下さい」
フロイライン・ロッテンマイヤー=クレマーの指示に、向かいに座るクララが席を立つ。今のテキストはマルティン・ルター著の『ユダヤ人と彼らの嘘について』である。
著名な宗教改革者は、大のユダヤ人嫌いだった。アーデルハイトは一応カトリックだが、マルティン・ルターにはドイツが生んだ優れた宗教者として、それなりの敬意を払っている。
「彼らは根っからの嘘つきで……」
クララの柔らかな声がアーデルハイトの耳朶を愛撫するのに任せる。抗いようのない睡眠欲が満ち潮の如くひたひたと迫り、おかげで内容は半分も頭には入ってこない。
――彼らは本当の嘘つきにしてしつこい『いぬ』である。彼らは聖書の全ページを始めから終わりまで彼らの解釈で絶え間なく曲解したのみでなく、それを偽造したのである。ユダヤ人達の切望とため息のすべてがいつの日か我々異教徒を、彼らがかつてエステルの時代にペルシャで異教徒を扱ったと同様に扱いたいという所に向けられているのである……。
――ああ、彼らはなんとエステル書を偏愛している事であろうか。その書は、彼らの血に飢えた、執念深く、残酷な欲望と希望とをまことに素晴らしくも肯定しているのである……
「はい、そこまで。次はグレーテル、続きを読んで下さい」
クララが座ると同時に隣のグレーテルが席を立つが、テキストは見ない。驚いたことに、彼女は一度見たり聞いたりしたことは、全部暗記してしまうのだ。予習で一度目を通した教科書は、一文残らず覚えている。
それを最初に聞いた時はさすがに信じられず、聖書で試してみた。なにしろグレーテルは、あの分厚い書物を全て暗唱出来るというのだ。
「聖書? なんかありきたりな方法だよね。別に構わないけど、いいよ。どっからでもかかってきやがれ」
そう挑戦的に笑うグレーテルを厚い書物越しに眺め、アーデルハイトは出鱈目にページを繰った。
「じゃあ、『詩篇』の六十六章第一節からは?」
グレーテルが目を閉じたまま、答える。
「全地よ、神に向かって喜びの叫びをあげよ。御名の栄光をほめ歌え。栄光に賛美を添えよ。神に向かって歌え、『御業はいかに恐るべきものでしょう。御力は強く、敵はあなたに服します。全地はあなたに向かってひれ伏し、あなたをほめ歌い、御名をほめ歌います』と……」
(ほら、合ってるでしょ?)と得意げな目線を送るグレーテルにさらに続けた。
「えーと、それじゃ、『ヨハネの黙示録』の第六章七節から」
「ふふふん。いいよ。……小羊が第四の封印を開いたとき、『出て来い』という第四の生き物の声を、私は聞いた。そして見ていると、見よ、青白い馬が現われ、乗っている者の名は『死』といい、これに陰府が従っていた。彼らには、地上の四分の一を支配し、剣と飢饉をもって、更に地上の野獣で人を滅ぼす権威が与えられていた」
「うぐっ、合っている」
さすがにこれでは信じざるを得ない。
「すごいでしょう? これがグレーテルの特技なの」
二人のやり取りを微笑ましく見ていたクララは、くすくすと笑った。
「彼女のこの記憶力を活かして、警察のお手伝いもしていたのよ」
「け、警察?」
アーデルハイトはグレーテルのこましゃくれた表情に、改めて目を向けた。やはりただのおチビではなかったのだ。
「今ベルリンで、ユダヤ人や共産党の地下組織が次々と摘発されているのは、彼女のおかげでもあるの。怪しそうな場所に行って、聞きこみをしたのよ。彼女の外見だと、相手が油断して怪しまれないという利点があるのね」
初めて会った時(あたしはこの《白薔薇十字団》の叡智にして頭脳、知将ともいうべき存在なんだから)と言ったのは、ただのいいかげんなハッタリではなかったのだ。
そのグレーテルがテキストを見ずに長い文章を諳んじるのを、今は眠気半分で聞く。こんなに良いお昼寝日和だというのに、みんなは眠くならないのだろうか。
――自分たちを神の民と妄想し、異教徒を殺し、押しつぶしてしまいたいと望み、またそうせねばならぬと考えている彼らユダヤ人達ほど血に飢え、執念深い人達の上には、太陽が輝く事は決してなかったのである。彼らが期待する救世主の主要な約束は神が彼らの剣によって全世界の人々を殺害する事なのである……
いつの間にか、隣のカオルの肩にもたれて眠っていたらしい。抜けるような蒼穹を雲雀が飛び、いつしかアーデルハイトはその雲雀となって空を羽ばたき駆けていた。
老いた聖人が古びた僧堂の前で、小鳥たちに説教を始める。アーデルハイトも他の雲雀たちも耳を傾け、彼の少し枯れた声が、埃臭い春の匂いに混じる。
彼の名はそう、アッシジの……。
「アーデルハイト!」
甲高い声が頭上から降ってきたのに、慌てて椅子から飛び上る。顔を上げるとフロイライン・クレマーの厳しい視線を浴びていた。怒りのためか、右の瞼がひくひくと震えている。
「なんですか、アーデルハイト。そんなに私の授業が嫌なら――」
立っていなさいと言いかけた彼女に、直立不動の姿勢で謝罪したのだが、寝ているところを起こされて頭が上手く回っていなかったのは仕方ない。
「も、もうしわけありません! フロイライン・ロッテンマイヤー!」
取り返しのつかない失態を犯したことに気がついたのは、その一瞬あとで、教室の空気がさっと凍りついた。クララのこほんという咳が、虚空に投げた礫のように行き場所を失う。
フロイライン・クレマーの顔色が青ざめた後、みるみるうちに真っ赤になるのを、アーデルハイトは胸塞ぐ思いで眺めるより他なかった。斜め向かいのグレーテルが、開いたテキストの陰で笑いを噛み殺しているのが分かる。
「あああ、アーデルハイト・フォン・マイヤー!」
その対戦車砲にも匹敵するほどの破壊力は、戦場の形勢を一気に逆転した。春のまどろみはまたたく間に潰走し、アーデルハイトは一気に苦い現実へと引き戻される。フロイライン・クレマーの小言はさらに追い打ちをかけ、逃げ惑う敗軍に最後のとどめを刺した。
「いったい何ですか! 人を馬鹿にするのもほどがあります! いいでしょう、あなたがそのおつもりなら、ずっと後ろの方で立っていらっしゃい! ついでに反省文を書いてもらいます。午後のお茶の時間は抜き。いいですね? 分かりましたか!」
授業の間、テキストの中のマルティン・ルターは、限りないユダヤ人への呪詛と悪態を吐き続ける。眠気の覚めたアーデルハイトは立ちながらそれを聞き、なんとなく居心地の悪い思いをした。
対象が誰であれ、他人への悪口を耳にするのはあまり好きではない。亡くなった母クララにも、決して人の悪口は言ってはいけませんと、それだけは厳しく躾けられた。父がユダヤ人を嫌うことに理由はあるのだろうが、それですら聞き苦しいので、適当に聞き流していた。
父がユダヤ人嫌いなせいで、知り合いにユダヤ人は一人もいない。女学校の級友にも、当然ユダヤ人はいないはずだ。それでもユダヤ人は近所に何人かいるし、ユダヤ人が経営している店など、ミュンヘンにはいくらでもある。みな普通のおじさんおばさんで、とてもユダヤの陰謀に加担しているとは思えなかった。
悪いユダヤ人はもちろん排除すべきだろう。そのためになら、少々手荒なことも仕方ないとは分かっている。しかし、個人的に関わり合いになってこなかったせいか、恨みや確執がないために、ユダヤ人の邪悪さを聞かされても正直ぴんとこないというのが本音だった。
立っているせいか、いつもよりお腹のすくのが今日は早い。午後のお茶の時間のお菓子はなんだろうと、アーデルハイトは考える。
(エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ)
磔刑のキリストが死の間際に呟いた言葉だ。
わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか?
こんな素敵な五月の午後に、サンルームでのお茶がいただけないなんて……。




