「誰ですか、この加減のなさ」
相手が食いついてきたとはいえ、急に方針を転換する必要はありません。
肝要なのは時期の見極めです。口封じと警備の弱化に手を回し、着々と釣果をリスト化していきました。
とはいえ、問題が全くないわけではありません。
主たるものがサキのストレスです。彼女は胃に穴をあけるほど繊細ではありませんが、逐一力の限り怒るので、そのうちうっかり血管を切ってしまいそうです。大仕事も終わったところですし、そろそろまとまった休暇を取ってもらいたいところです。
国王夫妻に誘われた朝食の席から戻る道すがら、さてどう休ませようかと考えていた私は、扉を開けて目を丸くしました。
またしても壮観です。
もっとも今回は、蛙ではなく、花でしたが。
視界を覆うのは一面の青。数える気にもならない数の薔薇で埋め尽くされています。足の踏み場もありません。
強い香りに呆気に取られていると、女官が嬉しそうな苦笑という何とも言えない顔を見せました。
「お帰りなさいませ。神都より星下へお届け物でございます」
「誰ですか、この加減のなさ」
「マヒト卿でございます」
苦笑交じりに答えられた名は、案の定、総神官長の令息のものでした。
一体何の嫌がらせでしょう。きつい香りに眉間を揉んでいると、サキがぽつりと呟きました。
「青い薔薇ね……あの無能にしては気が利くではないの」
「あれ、サキ? 焼き捨てたがるかと思ったんですが……」
「まあ星下! 焼き捨てるだなんて、そんな!」
「花に罪はございませんわ。一日くらい愛でてさしあげてくださいませ」
女官から囂々の非難を浴びたので、思わず首をすくめました。
手間をかけさせられるのは彼女たちであるはずなのですが、やはり贈られたものが花であるのが良かったのでしょうか。
でもこれ、本当に大変ですよ。数が尋常じゃありません。
「……まあ、あなた方がいいならいいんですが……」
棘のない薔薇を一枝引き抜き、その花容をためつすがめつ眺めました。
自然には存在しない青い薔薇。不可能の代名詞でもあります。魔法で色づけられたもののようで、焦点を合わせれば、花びらを覆う細やかで繊細な術式を読み取ることができました。
ふと、引っ掛かりを覚えました。
輝くような深い青色に、どこか見覚えがあるような気がしたのです。
気になって記憶を浚っていると、無遠慮な声がその思考を中断させました。
「壮観だな。花屋でも開くのか?」
サキが途端に仏頂面になりました。
振り返らずとも、誰がこんな状況を面白がっているかはわかります。
私は薔薇を眺めたまま肩をすくめました。
「まさか。ただの贈り物です」
「限度を知らない奴だな。誰だ?」
「あなたに限度をどうこう言われたくないと思いますが。私の夫になりたい人からですね」
私の隣に立ったギーは、なんとも意外そうな顔で、私を見下ろしました。
「いるのか」
「喧嘩売ってるんですか。いますよ、いくらでも」
いったい私を誰だと思っているのでしょう。この大陸の次期最高権力者ですよ。いかに容姿が十人並みであろうと、そういう意味では引く手あまたです。
ギーは青い薔薇で埋め尽くされた部屋をまじまじと見直し、やがて、面白くなさそうな顔で腕を組みました。
「……大陸の南西端には、世界一巨大な食虫薔薇があるらしい」
「妙な方向に張り合わないでください。そんなもの貰っても――」
誰も喜ばないと言いかけて、ふと、言葉を止めました。
「何だ?」
「……いえ、いま国元にちっちゃい子が居ついてるんですが、あの子なら喜びそうだなと」
「それはいいな。土産に取り寄せるか」
「遠慮しておきます。執務室で育てられたらたまりません」
嬉々として虫を与えるヒナの姿が目に浮かぶようです。普段どこにいるのかさっぱりわからない彼女のことですから、置き場所はなしくずしに、私の執務室になるに違いありません。
「見た目は薔薇らしいぞ。でかいだけで」
「餌を山ほど持ち込まれそうなので嫌です。失言でした。忘れてください」
「つまらん。神殿に送りつけてやろうか」
「届いたら焼き捨てます」
いかにも不満そうですが、ここはきっぱり言っておかねば危険です。私もそろそろ学習してきました。
それにしても――何を張り合っているのかわかりませんが、青い薔薇の対抗馬に食虫花を持ってくる辺り、つくづく発想が突飛です。この王子の場合、発想だけでなく行動が伴っているから手に負えません。思えば初対面からそうでしたね。
そこではたと、先ほどの既視感の正体を思い出しました。
「……そうだ、あの羽根ですよ」
「どの羽根だ?」
「ほら、あなたがむしった鳥の羽根。あの羽根の術式と似ているんです」
あのときは気づかなかったのですが、落ちていた羽根を調べてみたところ、確かに魔法式は施されていました。――さすがにギーが期待した盗聴などというものではなく、ただの色彩付与のようでしたが。あの羽根とこの薔薇は、確かによく似た色を指定ます。
色を変えるだけの魔法というのはあまり有用性がありません。コストの問題です。
それを踏まえた上でも、薔薇はともかく動物にそれを付与するには相当な技術が必要です。出所は限られるでしょう。手元にあるのはあくまで術式の一部分なので、少々気になるところではあります。万一製造元が同じであれば、なおさら。
ギーが面白そうに目を輝かせ、私の手の中の薔薇を覗き込みました。
これだけあるので、一本くらいはお譲りしても構わないでしょう。むしろ全部持って行ってくれてもいいくらいです。
「……いや。似てるが、少し違うな」
「……はい?」
「この辺だ。癖っぽいところが違う気がする」
そう言って花弁に向けた指先を回します。
予想外の反応です。術式の読み取りそのものは訓練次第で誰にでもできるものですが、これはそんな問題ではありません。
「ええと……あの鳥、捕獲できたんですか」
「いや?」
「では、魔法の素養が?」
「習ったのは基礎だけだな」
「……じゃあ何で比較できるんでしょうね!」
「何でと言われても。覚えていただけだ」
不思議そうな顔で言うことではないと思います。蛙や花より驚きましたよ!
つまりあの一度きり、それも動いている動物に付与された術式を、丸っと記憶したということです。それも、類似品と比較検討ができるほどの精密さで。
「なんて無駄な才能……!」
「驚くようなことか? 神殿にもいるだろう、似たようなのが」
「いますけどね。見たものを見たまま記憶しちゃうような人。貴方がそれだっていうのが衝撃的なんですよ」
「そんなに褒めるな。照れる」
「褒めてないです。どうせ有効活用していないでしょうし」
大いに偏見をもって言い切ったとき、悲鳴じみた声がその場に割って入りました。
「捕まえましたよ殿下! やっぱりこちらでしたか!」
半泣きで飛び込んできたのは、彼の従者でした。
初めて街に赴いた折、青い顔で彼を探しに来た文官です。彼は本日も胃の痛そうな顔をして、必死に王子に取りすがりました。
「間に合ってよかった……! どうかお戻り下さい、今日という今日は本気で無理です!」
「帰ってから片付ければいいだろう」
「それじゃ間に合わないからお止めしているんですってば! 終わるまで城からお出しするわけにはいきません!」
なにやら内容が不穏です。面倒臭さを隠しもしないギーを、私は呆れて見上げました。
「一体何から逃亡してきたんですか」
「逃げてない。後回しにしているだけだ」
「それも限界です! 昼までに決裁をお願いしたい書類が山になってます!」
従者の悲鳴に、私は目を瞬きました。
「……あれ、あなた仕事してましたっけ?」
ラクイラ王は壮年の働き盛り、そしてギーは仕事を任せるにはその性質が稚すぎます。本人を見ても平然としているだけなので、いまいち読めません。
首を傾げる私の質問に答えたのは、第三者の声でした。
「今年の新月祭は、王太子――ギルバート殿下が采配を行うよう、陛下が命ぜられたのです」
冷ややかな声に、私は相手を察して振り返りました。
緋色のローブと剃髪、鋭い眼光。ガルグリッド卿は相変わらずのとげとげしい視線で、ギーを見据えました。射抜くには少々、相手の面の皮が厚すぎる気もします。
「……残念ながら陛下のお心を理解なさることなく、度々仕事をそのままに、城を抜け出されているようですが」
「期限までには片付けているぞ。第一、祭りの準備を城に引きこもってやっても面白くない」
「面白いかどうかは問題ではありません。星下のご案内であれば私が承りましょう。殿下がなさるべきは城下にお出になることではなく、昼が期限というその書類を片付けられることです」
一分の隙もない正論です。
それにしても、彼に仕事があるだなんて全然気づきませんでした。これはちょっと、失態かもしれません。
「ギルバート王子、ガルグリッド卿の仰るとおりですよ。仕事をしてください。知らなかったとはいえ、悪いことをしました」
「ご事解いただき幸いです、星下」
「ところで、新月祭はいつですか?」
「七日後です」
ここでひっくり返った声を上げなかったのは、ひとえに日頃の訓練の賜物でしょう。
後ろでサキも息を詰めていました。
――七日。七日と言いましたか。催事の準備は明らかに大詰めです。責任者が何をふらふら出歩いているんですか!
怒鳴りつけたい気分をぐっと抑え、私は苦笑でギーを見上げました。
「……間近もいいところですね。そろそろ本腰を入れて働いてください」
「城下にも仕事はあるんだが」
「そうですね、書類を片付けてからならお付き合いしますよ。せっかくですから見学させてください。ではガルグリッド卿、失礼します」
ガルグリッド卿の申し出をさりげなく断り、私はギーを部屋に促しました。
彼の出方を見るために案内をお願いしても良かったのですが、この人はどうにも勘が鋭そうです。私に対する嫌がらせを察知すれば、すぐさま対応に動くでしょう。それではこちらが困ります。せっかく口止めをしたのですから。
強い視線を受けながらその場を後にし、執務室にギーを押し込んで、人払いを済ませ。
私はようやく、押し込んでいた怒鳴り声を開放しました。
「仕事があるならそう言ってください! 周りに迷惑かけてどうするんですか!」
「間に合わなくなるまでにはやっているぞ」
「そういう問題じゃないんですよ、上の判断が遅れればそれだけ他の人間が大変な思いをするんです。それくらい理解してください。知らないじゃ済まされませんよ、小さな子供じゃないんですから!」
私が本気で怒っていることが伝わったのでしょう。
ギーは気まずげな顔で首裏に手を当て、視線を逸らしました。
「……わかった。仕事をする」
「結構。私はここで見張っていますから、逃げられませんよ」
「見張らなくても逃げないが」
「信用できません」
きっぱりと言い切ると、ギーが渋面になりました。
従者がきらきらと目を輝かせて私を見ているあたり、彼の苦労が察せられます。
王は必ずしも有能である必要はありません。けれど、しなければならないことをしないのは論外です。これは有能無能ではなく、本人の努力とやる気の問題なんですから。
「さあ殿下、頑張って片付けましょう。本気でやれば出かける時間もできますから! ぜひ全力で!」
従者がバタバタと書類箱を動かし、ギーを促しました。「急ぎの順になってます」と付け加えた彼の脇には、付箋だらけの資料が山積みに。机の上はきちんと整理整頓されています。いささか頼りない面はありますが、補佐役としては優秀なのでしょう。
執務室のソファに腰を降ろし、私は腕組みをして、机に向かうギーを見ました。
本来なら、私が彼を叱る筋合いなどありません。皇国にとって害にならないなら放っておけばいいことです。けれど、ここ数日彼と行動を共にして、私にも心境の変化がありました。
彼は妙な人間ですし、施政者としての資質には疑問符がつきます。けれど、確かにこの国の人々に愛されている。それはもう、驚くほど疑いようのない事実です。
彼自身には特別な才能がなくても、必要な人材を集め、それを使うことを覚えれば、特に問題なく国を治めるでしょう。
そして、そうなって欲しいと私が感じるほど、彼は様々な人間を当たり前のように友人と呼んでいたのです。
「リド。これの資料」
「こちらです。それから、関連で警護隊からの申述書が」
差し出された冊子をめくり、申述書と見比べるギーの目は、面白そうではありませんが不真面目でもありません。どうやらちゃんとやる気になっているようです。
そこでふと、私は後ろに控えたサキに声を掛けました。
「サキ、立っていることはないですよ。すぐには終わりません」
「いえ……そうですわね、ではお茶を用意してまいりますわ」
「あ、手伝います」
そう言い出したのがギーの従者だったので、ちょっと驚きました。
リドといいましたか。人の良さそうな顔をした青年文官は、あっさりと執務机の前を離れました。ギーもそれを止めるわけではなく、「そのまま帰ってこなくていいぞ」などとうそぶいてひらひらと手を振ります。
呆れたように眉根を寄せ、サキは頬に手を当ててため息を吐きました。
「……ではお願いいたしますわ。アヤリ様、何か本をお持ちしましょうか?」
さすがの気遣いです。私はうなずいて、本の題名を二つほど上げました。
連れ立って出て行く二人の背中を見送り、私は首を傾げます。てっきり手厳しくはねつけると思っていたので、この反応は意外でした。サキの好みとは対極のように思えるのですが、宗旨替えでもしたのでしょうか。
まあ何にせよ、彼女の息抜きになるなら否やはありません。
二人がいなくなってしまうと、部屋はペンの音と紙の音だけが響くようになりました。
なんだか眠たくなってきます。
そういえば、ラクイラに来てからこれまで、毎日出歩いていたのです。紛争収拾という大仕事の直後というのもありますし、疲れが溜まっているのかもしれません。昨日も結局、あれやこれやで眠ったのは夜中もいいところでした。
こっそり欠伸を噛み殺して、私は両膝に頬杖をつきました。
それに気づいたのか、ギーが書類に目を落としたまま声をかけてきました。
「眠いなら寝てていいぞ」
「……寝ませんよ。人が仕事をしているのに」
「俺は構わないが」
「私が構います」
頓着のない声は、彼の度量の大きさかもしれません。
私なら言いません。というより、言えません。むしろ部屋で休めと追い出します。
ラクイラは晴れの国、本日もよいお天気です。
執務室は初秋の明るい光が降り注ぎ、穏やかな風が通り抜けて、葉ずれの音が窓の外から聞こえてきました。
ああだめだ、頭がやっぱりぼんやりしてきています。お茶を飲んでしゃっきりしたいです。活字を追っていれば眠くならないのですが、あいにくここにあるのは他国の仕事書類だけです。政治書や思想書の一冊くらい置いていてもいいでしょうに。
「新月祭まではラクイラにいるのか?」
ギーの問いかけに、私はぼんやりしたまま頷きました。
「ええ。とりあえず一月は滞在します」
「短いな」
「大丈夫ですよ、片をつけるには十分です」
ふと、紙をめくる音が止まりました。
顔を向ければ、ギーが不機嫌そうな渋面でこちらを見ています。
「そういう意味じゃない。一月と言わずもうちょっといろ、面白いから」
「無茶言わないでください。私にも仕事があります……というより、つまらないのは、遊び歩く口実がなくなるからじゃないですか?」
「それもある」
けろりと答えた相手に、覚えたのは腹立たしさではありませんでした。
なんでしょう、慣れたのかもしれません。こんなふうに気をおけない関係も、たまに会うくらいなら悪くはない気がします。
「気が向いたら、そのうち遊びにきますよ。食事は美味しいですしね」
「そうか」
満足とはいかないまでも、とりあえず納得したようです。
口元に笑みを見せて仕事に戻ったギーに、私は目を伏せて微笑みました。