58頁 悪魔棲まう部屋
──ピロロロロロロ……
女子更衣室内にけたたましく鳴り響く携帯電話の着信音。
画面には「No.001 北条めぐみ」の文字。
この更衣室のすぐ外で、北条が『俺』を呼び出している。
もう、この世界に存在しない《宮川瑠伊》を……。
──ピロロロロロロ……
一向に鳴り止まない着信音。
だが、これは一体どういうことだ?
俺の携帯の着信設定はずっとバイブレーション設定にしていたはずなのに、いつ、誰が、着信設定を変えた?
もしかして、俺が入院している間に母さんがやったのか?
──ピロロロロロロ……
……いや、いくらなんでもそれはあり得ない。
あの機械音痴の母さんが、俺の携帯の着信音の設定を変えるだなんて芸当、とてもできるはずがない。
もしも母さんがそんな真似しようものなら、ものの数秒で携帯がバァン! と爆竹みたいに破裂して木っ端微塵になるはずだ。
──ピロロロロロロ……
「あ……」
そうだ。
思い出した。
確か浅草寺の帰りのタクシー内で、俺はりさちん先生の『架空の東京ソラマチ』の話を適当に聞き流しながらながら、この携帯を弄ってた気がする。
あの日はロクでもないチャラ男達に絡まれた後だったこともあって、もしもの時に備えて着信音が鳴るように自分で設定を変更したんだっけ?
だけど、今はそんな事よりもこの状況をどうすべきか考えないといけない。
──ピロロロロロロ……
が……。
正直どうしようもない。
いつものように上手い打開策がまるで浮かばない……。
──ピロロロロロロ……
ここで携帯を強引に切ってしまえば、この小うるさい携帯は大人しくなるだろう。
けれど、それをしてしまったらこの室内に鳴り響く着信音とほぼ同じタイミングで北条の携帯も不通状態となるだろう。
そんな状況を、壁を隔てた廊下で目の当たりにしたら、どんなにニブい奴でも気づくだろう。
更衣室の中で鳴っている携帯が、ずっと返事のなかった《宮川瑠伊》のものかも知れない、と……。
──ピロロロロロロ……
もちろん、このうるさい着信音を着信状態のまま音だけそっと消す方法がある。……はずなんだけど、情けない事に俺の携帯は文字通りガラパゴス化しすぎて、その方法がさっぱり分からない。
下手にボタンを押そうものなら、何らかの拍子で突然通話状態になりかねない。
──ピロロロロロロ……
そもそも、このガラケーを買ってもらったのは修学旅行の前で、まともに使ったのは修学旅行の時だけ。
その後、修学旅行から帰ってきた俺はすぐに研究センターへ緊急入院する事となり、地下4階で監禁状態の入院生活を過ごす事になったが、その間、俺は外界とは完全に遮断された状態に置かれたこともあって、地下生活でこの携帯を見る事は一度もなかった。
それからおよそ1月半の後、完全に女となってしまった俺は、ようやく研究センターの地上階の病室に移った。そこで久しぶりにガラケーを触ることができたわけだけど、別人の女性として1からやり直すと決めた後は電源を切ったままにして、その後一切触れる事はなかった。
だから俺は、この携帯の基本的な機能さえも満足に使う事ができない。
俺にできるのは電話とメールとカメラ機能と、ちょっと頑張って電話帳の登録だけで、この鬱陶しい着信音をピンポイントで消す芸当なんてとても出来そうに無い。
──ピロロロロロロ……
それにもう1つ大きな問題がある。
というよりも、むしろこっちの方が本題だ。
どこかの病院に突然入院して以来、ずっと消息不明となった《宮川瑠伊》の携帯を、なぜか女子更衣室の中にいる《瑠璃ちゃん》が持っているという悪夢のようなこの状況は、更衣室の外で俺を待っている北条からすれば、予想外を通り越して、もはや理解不能な神域まで到達しているはずだ。
──ピロロロロロロ……
いったいどうすればいい?
この酷い現状をどう切り抜ければいい?
クソッ、ちくしょう!
こんな時に限って、粗末な言い訳1つすら思い出浮かばない……。
いつも俺の脳内に突然出てくる謎のガチムチ外国人2人組も、小人のような妖精達も、その他脳内に浮かび上がる謎のニューキャラクター達も、この状況に怯えているのか、脳内にフワリと現れる気配が全くない。
──ピロロロロロロ……
もしも、この最悪の状況で北条が扉を開けて突入してきたら、俺は一体、どうすればいい?
どうすれば…………。
どうすれば……。
俺は、爆弾のような携帯を片手に持って立ち尽くす。
──ピロロロロロロ……
──ピロロロロロロ……
ふと脳裏に浮かぶ、悪魔の一手。
奈良屋さんが持ってきたこの紙袋。
この紙袋の中には夕凪台中の女子の制服、しかも『今井玲奈』の名札付きの制服が入っていた。
名札はひかりさんが外してくれたけど、その名札はブレザーの内ポケットに入っている。
つまり、さっきまで着ていたこの制服が今井のものであると、堂々と言い訳することができる。
だから……。
今井が……
俺の携帯を隠し持っていたと装えばいい。
何食わぬ顔で「この借りた制服に入っていた」と……!
だけど、もしもそんな事をしてしまったら、今井はどうなるだろう?
きっと北条は狂ったように今井を問い詰めるだろう。
知らないフリして、どうして《宮川瑠伊》の事を隠していたのか、と。
やがてその隠蔽話は学年中に知れ渡り、今井は学年中から訳も分からず問い詰められ、責め立てられる事になるだろう。
祐馬のように机や荒らされたり、持ち物を隠されたり引き裂かれたり、俺との関係をねつ造されて、さらに酷い言葉を浴びせられたりするかもしれない……。
祐馬と違って無実の今井が、俺のわずかな保身のために、これから先、気が狂いそうになるような日々を過ごすことになるかも知れない……。
──ピロロロロロロ……
けれど、『私』には関係ない。
だって、『私』はもう、かつての《宮川瑠伊》ではないのだから……。
誰に何を言われようが、徹底して知らぬ存ぜぬを貫き通せばいい。
奈良屋さんだって、この制服をじっくりと調べたりなんて事はしていないに決まってる。
だったら、元々この制服の内ポケットにでも携帯が入っていた事にすればいい。
──ピロロロロロロ……
俺は震える手で、携帯の通話ボタンに手をかける。
──ピロロロロロロ……
耳元で微かに、小さな吐息を吹き付けられたような感覚がした。
──ピロロロロロロ……
覚悟は……できた。
──ピロロロ……ピッ!
俺は通話ボタン押すと、携帯を耳に当てた。
「も、もしもし……」
しかし、携帯から聞こえてきたのは「ツーー」という発信音だった。
どうやらギリギリのタイミングで、着信が切れたらしい……。
あれだけ騒がしく鳴っていた俺の携帯は、泣き疲れた子供のように大人くなっていた。
携帯の画面には『着信 xx時xx分 北条めぐみ』の文字が映っていた。
………
……
…
正直、ほっとした。
心臓がまだバクバクいってる。
俺はなんという事をしようとしていたのだろう……。
死線で活路を見出した瞬間、その選択の果てに何が起こるか承知の上で、俺は悪魔の囁きに、魂を売り渡そうとしたのだ。
二重の意味で最低だ。
人として最低な事をしようとした自分が最低だ。
そして、こうしてほっとしている自分が最低だ。
結局、別人になるだなんて、本当は出来っこない事を自ら証明してしまった。
奈良屋さんだったら、いや、《剣雪人》ならどうしていただろう?
ずっと別人になりきっていたのだから、きっと悪魔に魂を売るぐらい簡単にしたんだろうな……。
俺は……。
私は……。
どうすればいいんだ?
どうしたらよかったのかな?
………
……
…
携帯が鳴り止んでから、もう3分ぐらいは経っただろか?
未だに扉の向こうからは人の気配がしない。
変だ。
北条がすぐ外に居たのなら「どうしたの? ずっと携帯鳴ってるよ?」とか言いながら扉越しに声をかけてきたり、いきなり扉をバン! と開けて、特殊部隊みたいにものすごい勢いで部屋に押し入ってきたり、あるいは古いスパイ映画みたいにそっと扉を開けて中の様子を伺ったりしてくると思ったのに、そんな気配が全くない……。
携帯が鳴り止んでからも、俺はずっと息を殺して立ち尽くして、無人の如く装っているのに、扉の向こう側からは何の気配も感じられない。
もしかして、北条は俺が更衣室に入ってからすぐにトイレとか、あるいは別の場所にでも移動したのだろうか……?
耳に意識を集中しつづけるが、扉を隔てた廊下からは誰かの足音も、息遣いも、服が擦れる微かな音さえも聞こえない。
北条はどこにいるんだ?
最初から廊下にはいなかったのだろうか?
仮にそうだとしたら、あの小うるさい着信音は北条には聞かれていない事になる。
となると、俺は何もなかったかのように普通に更衣室から出ていけばいい。
だがその前に、この携帯の「処理」しておく必要がある。
さっさと着信音をサイレント設定に変更して振動機能をOFFにしまえば、あとは北条がいくら電話を掛けたとしても、ひたすら電話に出ようとしない宮川瑠伊と、そんな事は何も知らない《瑠璃ちゃん》という別人の2人が出来上がる。
とにかく、まずはメニュー画面から着……。
──ピロロロロロロ……
再び俺の携帯は休む間もなく鳴りだした。
画面にはさっきと同じ「北条めぐみ」の文字。
その画面の文字を見た瞬間、俺の身体中から不快な汗が溢れ出た。
ち、ちくしょう! また掛けてきやがっ……
ガチャン!!
突然、女子更衣室の扉が勢いよく開いた。
扉には片手にスマホを、もう片方にドアノブを握っている北条の姿。
ガラケーを手に持って、女子更衣室内で独り立ち尽くしていた俺の姿を見た北条は、その状態でフリーズした。
──ピロロロロロロ……
──ピロロロロロロ……
──ピロロロロロロ……
互いに言葉を失って硬直する。
──ピロロロロロロ……
──ピロロロロロロ……
携帯の着信音だけが女子更衣室に鳴り響いている……。
「……電話、出ないの?」
先に口を開いたのは北条の方だった。
脳内からアドレナリンがドバドバ出ているのだろうか、俺の思考は回り続ける。
けれど、答えは1つしか出てこない。
ゲームオーバーだ……。
更衣室の入り口を北条に塞がれた状況は、まるで行き場のない将棋の王将と同じで、どういう手を指そうが1手詰み。
「あ、うん……」
「そう」
北条はそう言うとスマホを操作して発信を止める。
すると同じタイミングで俺の携帯は眠りについた赤子のように再び静かになった。
「それって、宮川君の携帯だよね?」
「み、宮川君……って?」
俺のソプラノの声は震えていた。
「とぼけるはやめてよ!」
「ぁ……?」
悲痛な叫びが混じった北条の声が、女子更衣室内に響いた。
「なんなのよ……これ……」
それはこっちのセリフだ!
こ、こんな事があってたまるか!!
よりにもよって、こんな形で北条に追い詰められるなんて!
すべてを捨てて、新しい人生を歩むと決めたはずだったのに……。
なのに! なのに!!
どうして!? どうしてこうなった!?
姿も声も完全に違うはずなのに、過去の《俺》と別人の女の子になったはずの《私》が、なんでこんなに、いとも簡単に繋がってしまうんだよ……。
「最初からおかしいって思ってた。瑠璃ちゃんから宮川君の香りがしてたから」
「……」
俺はまた、洋子ちゃんのときのように、この忌まわしい身体の事を、みじめに他人に語らないといけないのか?
しかも今度は、完全に別人の女の子の姿のままで……。
男だった《宮川瑠伊》の面影なんて、もうどこにもないこの姿で……。
嫌な汗と共に、強烈で甘美な匂いが俺の身体を纏わりつく。
「な、なんなの、って言われても……」
時間稼ぎのとぼけの一言。
その間、俺の思考はさらに加速する。
諦めて北条にすべてを打ち明けるか?
いや、それはどうだろうか?
ある日いきなり現れた「別人」が、小説かドラマのみたいに昔の思い出話を語ったとして、はたして本当に、都合よくその話を信じてもらえるのだろうか?
だが、目の前の北条を見ると、正直とてもそういう風には思えない。
再開したときから、最初から俺の事を疑っていたようにしか思えない。
ああいうご都合主義は、創作の世界だからこそ成立する。
現実、今ここで北条にいきなり昔話を語ったとしても、きっと気味悪がられるに決まってる。
例えば、町中を歩く中年のおっさんが突然こっちにやってきて、「実は私、A組のA子なんです」と名乗られて、そのおっさんが「A子」だとすぐに信じる事ができる奴が現実には一体どれぐらいいる?
気味の悪いおっさんの口から内輪話を次々と「本物だ」と誇らしげに語られて、平気な顔してられるヤツが現実にいるのか?
祐馬の件じゃないけど、真っ先に「盗撮」とか「盗聴」とか「ストーカー」とか、物騒なワードが頭に浮かぶだろ?
北条が俺の言葉をどう受け取るかは分からないけど、少なくとも俺が北条の立場ならすぐには信用しないし、信用できない。
とりあえず嘘の思い出でも語って「あの時は楽しかったよね」とでも同意を求めるブラフでも仕掛けたくなる。
「あの、北条さん……私……」
結局、俺は真実を語れない。
この姿で、この状況で、「実は私、《宮川瑠伊》だったんだ」とは、とても言えない。
二人の間にまとわりつく凍てついた空気がそれをさせない。
そもそも私は、《宮川瑠伊》を自分の意志で消した。
女として一から生きていくと決心した。
そうせざるを得なかった。
他にまともな選択肢が無かった。
ずっとバカやってきて、強気な虚勢ばかり張り続けてきたけれど、自分の心の脆さには嘘がつけなかったから。
元々そこまで強くはなれなかったから。
男だった頃の自分は大好だったし、毎日毎日楽しくてしょうがなかった。
けど、だからこそ、その過去と完全に決別するしかなかった。
2学期以降、身体が少しずつ女になっていくとき、この身体の秘密が他の誰かにバレでもしたら、嗤われ、いじめられ、軽蔑されるのだろうと思うと、毎日毎日怖くて恐ろしくて堪らなかった。
前代未聞の性転換現象が、クラスメイトどころか、見ず知らずの他人にまで知れ渡り、そして過去を詮索され、そしてどれだけ時間が経ったとしても、過去の、男の頃の自分と比較され続ける。
どれだけ忘れ去られたいと願ったとしても、事あるごとにテレビやネットで掘り起こされるかと思うと、苦しくて辛くて堪らなかった。
世界はそんなに優しくないと、俺は子供の頃から知っていたから。
それにもう1つ、気になる事がある。
今日の岡田の件だ。
りさちん先生によれば、岡田も俺と同じように何者かの手によって《魂》を汚されたらしい。
《魂》を汚された人の身体は、急激に変化させられる。
岡田は化物じみた陸上選手にされて心が壊れ、俺はなぜか別人の少女の姿となった。
この夕凪台中学の3年だけで、少なくとも2人も『被害者』が出ている以上、誰かにこの真実を語るのはあまりに危険な──
「付き合ってるんでしょ? 宮川君と」
「え?」
北条の一言で、光の速さで暴走していた俺の思考回路はすぐに切断された。
「言ってたよね? 瑠璃ちゃん彼氏がいるって」
「そ、そうだっけ?」
「とぼけないで!!」
北条の怒声が更衣室に響き渡った。
「わたし知ってるんだよ!? 瑠璃ちゃんが持ってるその携帯、宮川君のだよ……ね?」
「……」
確認するかのように、もう一度問いただす北条。
けれど、俺は答えない。
答えられない。
「どうして宮川君の携帯を瑠璃ちゃんが持ってるのよ!」
「こ、ここで拾った」
「バカにしないでよっ!! 本当はずっと瑠璃ちゃんが持ってたんだよね!? ひ、拾ったって、宮川君が入院してもう2か月になるのに、こんなとこに携帯が落ちてたら絶対誰か気づくに決まってるよっ!! それに2か月も落ちてたら、携帯の電源なんかとっくに切れてるはずだもん!!」
「じ、じゃあ、その宮川君が退院記念にここに携帯を置きに来てたんだよ、盗撮目的で」
パァン!!!!
北条の平手打ちが俺の左頬にクリティカルヒットすると、更衣室内に破裂音のような音が響き渡った。
「ふ、ふざけないでっ!! ……宮川君は、そんな事しないよっ!」
「……」
いつの間にか赤くなっていた北条の顔がみるみると崩れだし、目には涙が浮かんでいく。
北条は俺の頬を引っ叩いた右手を左手でぎゅっと握ると自分の胸に当て、泣き顔をセミロングの前髪で隠すようにすると、少し前かがみになって肩を丸めた。
「瑠璃ちゃんは……わたしと、グスッ、宮川君と会わせたくないから、グスッ、宮川君の携帯を勝手に取り上げちゃったんでしょ!?」
「……」
「宮川君を独り占めしたかったんでしょ?」
「……」
何勘違いしてるんだよ、北条……。
けれど、《宮川瑠伊》を独り占めしているのはある意味正しいから、俺は何も言えない。
「ひどいよ……グスッ、ひどいよ……」
「……」
北条の嗚咽が聞こえる度に、俺の心がじわじわと痛んだ。
それはさっき、男だった頃みたいについ軽い冗談のつもりで言った事が、北条をひどく傷つけてしまったせいでもあった。
「……独り占めしてるの、否定しないんだね」
「うん、だって、もう誰にも『彼』には会わせたくないから……」
パァン!!!!
北条の平手打ちが再び俺の左頬に炸裂した。
けれど、俺は微動だにしない。
「ど、どうしてそんな意地悪するの!? クラスのみんな、ずっと宮川君の事を心配してるんだよ!? それなのに宮川君の携帯、勝手に持ち歩いて……。最悪だよ」
「そう……だね、最悪だよね」
「わたしが宮川君にメールをいっぱい送った事も、知ってるんだ」
「うん。全部読んだよ」
パァン!!!!
北条の平手打ちが、今度は俺の右の頬に炸裂した。
不謹慎だけど、あまりに見事な不意打ちぶりに今のは卑怯すぎるだろと思ってしまった。
「痛っ……」
「瑠璃ちゃん、さっき上の教室で「彼氏がいる」って言ってたけど、それって宮川君の事だったんだよね? 彼氏って」
「……ごめんね」
北条がもう一度俺の頬を引っ叩こうと振りかぶる。
だけど、振り上げたその右手は再び胸へとしまい込まわれると、北条はその場で座り込んで泣き崩れた。
嘘だよ。ごめん……。
俺は心の中でもう一度北条に謝った。
女になった俺が、かつて男だった自分と付き合うだなんて、あり得ないのに……。
でもな、北条。俺の過去が男だったという事実を否定できる『答え』をくれたのは北条なんだぜ?
背が小さかったせいで、ずっと異性からは一人の男としてまともに見てもらえなかった俺に、とてつもなく可愛くて、小さな『彼女』が出来てしまったのはお前のせいなんだぜ、北条……。
北条、お前が学校に来なければ、
電話の音に気づいてくれさえしなければ、
知らないフリをしてくれれば、
こんな事にはならなかったのに……。
「グスッ……、わたしが送ったメールの中身は、宮川君知ってるの? グスッ……」
「分からない……。瑠伊くんに読んで聞かせてあげたけど、もうずっと意識が無いから……」
「そう、だったんだ……」
「瑠伊君の身体はね、もう人に見せられないぐらい酷くて滅茶苦茶なんだ。だから、私がただ意地悪で誰にも会わせないようにしてるって訳じゃない事だけは分かってよ」
「グスッ、そんな……やだよ……」
「誰にも知られたくないって瑠伊くんの気持ち、分かってあげてよ、北条さん」
「グスッ……洋子ちゃんが言ってた事って、こういう事だったんだ……」
小さくつぶやく北条。
──もしも明日、好きな人が突然居なくなったら
──もう想いを伝えることも、告白もできなくなるのよ?
修学旅行の2日目夜、漏れ聞こえた洋子ちゃんと北条の会話を思い出す。
「でもやっぱり……会いたいよぅ……やだよ……宮川君……グスッ……」
北条はへたり込んだまま泣き続ける。
「わたしが、み……瑠伊君の、1番なのに……グスッ、ほ、他の子なんて100番以下の子ばっかなのに……」
「北条……さん?」
突然、意味の分からないこと呟きだす北条。
「なのに、どうして瑠璃ちゃんが……同じクラスでもない瑠璃ちゃんが! どうしてなの!?」
「何を……言ってるの?」
「何って……知らないの? その携帯ずっと持ってたクセに全然分からないんだ、グスッ、うふふ! グスッ……」
な、なんだ?
泣きながら……笑ってる!?
うずくまったままで、横顔が髪の毛に隠れて表情までは見えないけれど、北条の口元からは悲しみと喜びと、そして少しの狂気が含まれた笑い声が聞こえる。
「瑠璃ちゃんが瑠伊くんの彼氏だなんて、ホントおかしくて笑っちゃうよ。グスッ……うふふっ、まだ分からないかな? もう一度その携帯の電話帳をじっくりと眺めてみたら?」
あっ……。
北条の言わんとする事にすぐに気づいた。
頭の中で思い浮かんだ携帯の電話帳。
俺は、思い浮かんだ事が間違っていないか確認するため、すぐに携帯を触って電話帳の画面を呼び出した。
携帯の画面には登録番号順にずらりと並ぶ電話帳のリストが表示されている。
── No.001 北条めぐみ
── No.002 父さん
── No.003 母さん
── No.004 祐馬の家
── No.005 黒田先生
── No.006 脅迫電話
:
:
:
── No.101 平沢大地
── No.102 原田一将
── No.103 今井怜奈
── No.104 高村陽子
:
:
『──No.001 北条めぐみ──』
リストの一番上に表示されている名前。
それは修学旅行前に、電話番号の登録方法も知らなかった俺が北条に頼んで登録してもらった番号だ。
同じグループの平沢や原田は100番以降なのに、北条だけが『ナンバーワン』。
北条にみんなの電話番号を登録してもらう前は、俺の電話張は真っさらな状態だった。
父さんや母さんの番号は後から適当に自分で登録したものから、俺の電話帳はこんなおかしな並び順になってしまっている。
この電話帳の画面をふと見る度に、もしかしたら……と、心のどこかで思ってはいたけど、まさか北条は、『宮川瑠伊の彼女』だと既成事実化するためにこんな事をしたのだろうか?
それとも、いつか俺に北条以外の彼女が出来たときに「この女の名前は何?」と揉めるように仕組んだのだろうか?
北条がそこまで計算してこんな事をしたのかは分からない。
けれど、今は答えを出さない。
今の俺は、宮川瑠伊ではないから。
「北条さんの言う1番って、これの事なんだ……」
「そうだよ。瑠璃ちゃんは何番目なの?」
「私は、携帯持ってないから……」
「ふぅん。わたしね、学校じゃ瑠伊くんとかなりいい感じだったりするんだよ?」
まぁ確かに北条のむちむちの身体と胸と、女の子特有のあの匂いは確かに「いい感じ」だったけど。
「それに夜は携帯で長話とかもするんだよ」
えっ? と俺は一瞬驚く。
けれどそれは北条の嘘だとすぐに気づいた。
「だから、瑠伊くん声も、優しい表情も、匂いも、瑠璃ちゃんなんかよりもずっとずっと知ってるんだから!」
「……」
「電話すら持ってない瑠璃ちゃんなんかより、わたしの方が、ずっと瑠伊君と仲がいいんだから!」
確かに2学期の体育祭以降、北条はよく俺に話しかけてくるようになったよ。
強いて言えば、北条の方から男子に話しかけるのは俺だけだって事も知ってる。
けれど、電話で長話なんてしない。
俺の知ってる限りじゃそんな過去はない。
だから北条の言ってることは、俺の知らない並列世界の話なんだ。
ちくしょう。
……本当に、どこの並列世界の話なんだか。
そんな強がり、私には意味なんてないのに。
全部嘘だって分かってるんだよ?
「でもね、キミから宮川君の匂いがしたときにすぐ分かったよ」
な、なにが?
「瑠伊くんから香水をプレゼントされたなんて嘘だよね?」
「う……」
「本当は瑠璃ちゃんの方からプレゼントしたんだよね!? 香水」
は?
「中学生なのに瑠伊くんに無理やり香水なんかつけさせて、彼女いるアピールさせてたんだよね?」
こ、怖えぇよ! そんな女いるのかよ!?
だけど、しかし、この北条の勘違いは悪くはない。この際だからその話は使わせてもらう。
俺は必死に不敵な笑顔を浮かべる。そして……。
「……よく分ったね、北条さん。私が瑠伊くんにつけてあげてたんだよ。ほら、何ていうのかな? マーキングってヤツ?」
北条の勘違いに乗って不気味な笑顔を浮かべて答える俺。もう火に油どころじゃない。
「……最っっ低」
北条の声色は涙声から、軽蔑の感情がこもった声色へと変化していた。
けれど、それでいいと思った。
堂々と軽蔑された方がはるかに楽だと思った。
少なくとも、無実の今井を売るような真似をするよりかは遥かにマシだと……。
だから、もう後には引かない。
「北条さんの中じゃ瑠伊君の《ナンバーワン》かも知れないけど、私は瑠伊君の《ナンバーゼロ》なんだよ? 北条さんは私の知らない学校での瑠伊君を知ってるかもだけど、私は幼い頃から瑠伊君とずっと一緒だったし、よく一緒にお風呂入ったりもしたんだよ?」
「だ、だから何なのよ……どうせ幼稚園の頃とかの話でしょ?」
「ううん。今年の夏休みにも一緒に入ったよ」
マジかよ俺!?
女の子と混浴なんてした記憶1回もねーよ!
「お、おかしいよ!? 中学生にもなって!」
「え? 付き合ってるんだから別におかしくないでしょ?」
「……っ」
「私はただ、北条さんだけが瑠伊君と特別仲がいいわけじゃないって言いたかっただけだから。だから私の事はいくらでも軽蔑してもいいよ。けどね、瑠伊君は今も一人で苦しみながら必死に頑張ってる。……だからさ、彼の事もうはそっとしてあげてよ」
──私にはずっと前から彼氏がいる。
──彼とは物心ついてからの付き合いで名前は宮川瑠伊。
──彼は背が低くて、少しバカっぽくて、口の悪い中学生って感じ。
──けれど、彼は原因不明の病で倒れ、ずっと意識がない状態が続いている。
──そしてもう、誰にも彼には会えない……。
「ねぇ、1つだけ聞かせて。瑠璃ちゃん」
「な、何?」
「最後に瑠伊君と話したとき、瑠伊くんはどんな感じだったの?」
「『もう誰にも会いたくない』って、ずっと言ってた」
「う、嘘言わないでよ……」
「死ぬことに怯えながら、毎日死にたいって叫んでた」
「で、デタラメだよ……ね?」
「デタラメなんかじゃないわよ。さっきも言ったけどね、瑠伊くんの今の姿って、以前の面影もないぐらいメチャクチャになってるんだよ? こんな姿、もう誰にも見られたくないって、痛みに耐えながらうわ言のように言ってたよ」
「……」
「みんながさ、お見舞いに行きたいって思う気持ちは痛いほど分かるけど、瑠伊くんの気持ちも分かってあげてよ、北条さん」
「嫌だよ……会いたいよ。せめて声が聴きたいよ……」
北条の必死の訴えに、俺は首を横に振って答える。
「それも、もう無理なんだよ」
「そんな……」
「北条さん、もう瑠伊くんの事は忘れた方がいいよ」
「酷いよ! ズルいよ! 瑠璃ちゃんだけ会って、わたしは会えないだなんて!!」
「わがまま言わないでよっ!」
今度は俺が怒気を込めて叫んだ。
更衣室に北条の時よりも大きな俺の声が響き渡った。
「わああああぁぁぁっっっ!!」
少しの静寂の後、堪えきれずに北条は大泣きした。
俺たちの様子を陰からずっと見ていたのか、ひかりさんが無言で更衣室に入ってくると、北条の背中を慰めるように優しく撫でた。
それでも北条は、ずっと、ずっと、うずくまって泣いていた……。




