17頁 ~祈り~
佐伯の手には陶器でできた真っ白な小瓶があった。
真夜中の鴨川。
遠くにある街灯と雲一つない藍色の空に浮かぶ月の光が、この暗い堤防と佐伯の持つ小瓶を照らす。
暗闇の中、まるで小瓶が光を放ったかのような錯覚、いや幻覚と呼ぶべきだろうか。
とにかく俺は、佐伯が持つ真っ白な小瓶をしっかりと認識することができた。
どこかで確かに見たことがある小瓶。
だけどこれは決して既視感じゃない。
細長い雫のような形状の白い小瓶を、なぜ今、佐伯が持っているのか?
身体中がもやもやぞわぞわする。
佐伯にこの小瓶を渡すまで、岡田がずっとこの小瓶を持っていたという事に対する強烈な違和感。
そして、瓶を見た瞬間に脳内に走った歪な精神的衝撃、あの衝撃は一体なんだったのだろう……。
「うぁぁあっ………!」
肝心な何かをはっきりと思い出しそうになった瞬間、俺の身体に、またしても夕飯前の、あの地獄のような激痛がほとばしった。
前のときよりも強烈な痛み。
視界がぐにゃりと歪み、俺は激痛で地面をのた打ち回る。
身体中が熱い……。
これまでも何度か苦しめられたサウナで蒸されるような熱っぽさ。
「ど、どうしたの? 宮川っ!?」
突然の俺の異変に、何が起きたか分からない様子でうろたえる佐伯。
「だ、大丈夫……。急にお腹が痛くなっただけだから。それより佐伯、それ、その小瓶は……痛っ!」
「宮川っ!? 全然大丈夫そうにないよ!? ねぇっ!?」
俺は何かを言おうとしたが、激痛に耐えきれず後ろに倒れ込んで仰向けになった。
ひたすら深呼吸を繰り返し、波のように襲いかかってくる激痛に耐える。
身体中から嫌な汗が噴き出ているのが分かる。この汗の感覚も夕飯の時と同じ。
激痛が訪れる直前、脳裏に浮かんだ。
夏休み……。
別人にすり換わったかのような岡田の豹変……。
どこかで見たことのある真っ白なこの小瓶……。
俺と岡田はまるで違うのに、なぜか不気味なほど状況が似ている気がした。
もしも岡田が俺と同じような経験をしているのなら、その先に思い浮かぶのはとある1人の外人の姿……。
──時間、チョット良イデスカ?
闇魔法の使い手のような自称パキスタン人。
岡田が俺と同じように、あの怪しげな外人に出会ったかどうかは分からない。
ただ、今のタイミングでその外人の話を佐伯にいきなり振るのはあまりにも危険すぎる。
下手に聞こうものなら、逆に俺の身体の変化についても感付かれる気がした。
そうでなくても、俺の体はもう誤魔化しきれないところまで来ているんだ。
身体に触れられるだけでアウトかもしれないってのに……。
正直、身体が変化する前までは、バレたらその時はその時だと高をくくっていたけれど、実際に変化してしまうと思うと怖くて怖くてたまらない。
だから俺としては、身体の異変を他人に勘付かれるなんて絶対にあってはならないし許されない。それ以前に、俺自身がこの身体の変化を認める事が出来ないでいる。
「すー、はー、すー、はー」
「き、救急車呼ぼうか? 宮川?」
「大丈夫、楽になって来たから。すー、はー、すー、はー」
ひたすら痛みに耐えながら、俺は深呼吸を続ける。
鼻にまとわりつく甘い匂いを吸い込むと、やがて痛みは少しずつ治まっていく。
またこの匂いだ。
甘く、癖になる、むしゃぶりつきたくなるような、それでいて安らぎのようなものを感じる魅惑的な匂い。
今の俺の格好は風呂上りに着た洗濯後未使用の学校指定のジャージ上下。手にはお風呂セットが入った手さげかばん。
佐伯とは旅館のホールで物理的にかなり接近したが、佐伯の匂いが俺の身体にへばりつくほどでもなかったはずだ。
そもそも、この汗ばんだ身体と甘ったるい匂いを消すために、わざわざリスクを冒してまで深夜風呂に行ったというのに、はや匂いが復活してしまっている。
このことは、俺が心の隅っこでわずかにあった「俺以外の匂い説」を完全に否定することを意味した。
やっぱりこれ、俺自身の匂いってことかよ……。
それはともかくとして、あの闇魔法の使い手みたいな外人、あの時何か言ってた気がするけど何だったかな?
まあいい。思い出せないのはしょうがない。
「心配させて悪いな。大丈夫、もう痛いの治まったよ」
「はぁー、びっくりしたぁ」
「ごめんごめん、ここのところ体調悪くてさ、こうして突発的にお腹とか急に痛くなるんだ」
「そうなんだ。それなら病院にいった方がいいんじゃないの?」
「うん、何度か通院してるんだけどね、こればかりはどうしようもなくてさ。それより話戻すけどさ、俺の直感だとその小瓶はただのプレゼントじゃないと思うんだ」
「どうして?」
「岡田の態度はこの際置いておくとして、もしそれがプレゼントだとしたら包装とかきちんとして渡すはずだし、プレゼントじゃないただのガラクタなら、そもそも佐伯に渡す理由が分からない。俺ならこんな夜中にわざわざ佐伯なんか呼び出さずにその辺のゴミ箱かどっかに捨てるよ」
「うん、そうだよね……」
「で、実際には岡田のやつは、『俺に関わんな』とか言いながらそれを佐伯に渡したわけだ」
「うん……大まかに言うとね」
「大まかに? 細かく言うと?」
「酷い言葉が増えるだけで同じだよ」
「なんだ。とにかくさ、俺の考えだとその小瓶はさ、岡田にとってかなりワケありなモノなんだと思う。でなければ、その小瓶自体が何かの暗号かも知れない」
「暗号?」
「たとえば、織田信長の妹がとある同盟国の大名に嫁いでいたのだけど、信長がある合戦の最中、妹は信長の危機を密かに伝えるために、小豆の入った袋の両端を紐で括って信長に送った逸話があるんだ」
「うんうん」
「実はこの両端が縛られた不自然な小豆袋には、嫁ぎ先の大名が信長を裏切って挟み撃ちに遭うってメッセージが込められていたってわけ」
「へぇー、じゃあこの小瓶にもメッセージが込められているってわけ?」
「それは分からないけどさ、可能性の1つとしての話」
「なんだ。でも暗号だとしたらなんだろうね、瓶の中に何が入ってるんだろう」
そう呟きながら佐伯は小瓶の蓋を開ける。
そして、左手をお椀のように形作ると、そこへコショウを振りかけるように小瓶を数回ほど上下に振った。
「あれっ? からっぽだ。何にも入ってないよ?」
「……あっ!」
「えっ? 何? 何か思いついた? 宮川」
完全に思い出した。
俺は元々何が入っていたか知っている。
『セイスイ』だ。
──モシ オイノリ 嫌ナラバ コノ セイスイ 使ウト イイデス!
──トテモ 大切ナ セイスイ。
── 世界デ 1ツダケノモノ イイネ?
世界に1つだけのもの……。
それを俺は秋葉原の駅に置き捨てた。
怪しい薬か何かだと思って。
そしてその後、あの小瓶がどうなったか俺は知らない。
しかし今、目の前の佐伯が何故かそれを持っている。
「何? 何でもいいから言ってよ?」
「う、うん。じゃあ言うから、落ち着いて、覚悟して聞けよ……」
「わ、わかった……。けどやだっ、なんだろう怖い……」
真剣な眼差しで俺を見つめる佐伯。
まるでテストの結果報告を待つかのように、佐伯はじっと俺を見つめ続けている……。
「この小瓶の意味はだな……」
「い、意味は……?」
「それ『佐伯の頭はカラッポです』って意味だ」
ぶおん! という音と共に強烈な風圧が俺の顔面をかすった。
「あのさぁ、殴ってもいい?」
やめてください佐伯さん、死んでしまいます。
ていうか、台詞の前に先に手が出てたよね今。
「ご、ごめんごめん、冗談だって。暗号が込められてるなんて俺なんかじゃ分からないって」
「最っっ低ー。期待させておいてそれはないわ」
「ま、まぁ、とにかくその小瓶は捨てない方がいいと思う。俺にはよく分かんないけどきっと何かあると思うんだ」
「そっか……。そうだよね」
俺はのらりくらりと、本当に気付いた事を誤魔化した。
余談だけど、長年使えた主君に空の器をプレゼントされて、無能呼ばわりされたと察して憤死した臣下だっているんだから、この冗談はあんまり笑えないんだよな。
そんな事を考えていると、俺の頭の中には、まるでアニメや小説のような、1つのトンデモ仮説が構築されていた。それは……
《超常の祈り》を捧げる謎のパキスタン人によって、俺の身体に異変が起こり始めた。
その祈りを打ち消すにはセイスイが必要だが、今はもう無い……。
岡田もあの夏休みに偶然、あのパキスタン人に祈りを捧げられてしまい、肉体と精神が豹変した、あるいは、俺が置き捨てたセイスイに触れて豹変したか。
……まぁこの辺りの事情は完全に謎だ。妄想にしても分からない。
とにかく岡田は《超常の祈り》の影響によって超人のような肉体を手に入れ、一方で俺は女々しい肉体を手にした、ということなのだろうか?
岡田は性的な肉体変化が無いので短期で効果が出たが、俺の場合は肉体大改造なので今の今まで時間がかかっているということだろうか……。
こんな馬鹿げた中二病的妄想にも、あの胡散臭いパキスタン人が顔を出す。
とはいえ、特に親しくも無い岡田や佐伯に、白い小瓶や自称パキスタン人について根掘り葉掘り聞きまくるなんて不自然だし、俺にはとてもできない。
それ以前に、身体の異変を知られたくないという強烈な恐怖と不安感が、俺の決意を阻害する。
そうか。
もしかしたら岡田も、俺と同じようなある種の不安を抱いているのだろうか……?
変わりきった自分をなるべく知られたくないから、そしてそれが幼なじみでずっと好きだった佐伯だからこそ遠ざけた……。
あ、岡田が佐伯を好きだっていうのは俺の勝手な妄想設定だけど、そういう線ならたぶん間違ってないだろう。
それはともかく、なら何故、岡田は今になって使命感に燃えるように陸上に取り組み出した?
なぜ佐伯に勝負を仕掛けた?
分からない。
《超常の力》……か。
よくあるような中二病設定。しかし現実に起こっている事は、その「よくある妄想」を超えてしまっている。まったく笑えない中二病だ。
「実は手紙が入ってましたーとか期待したんだけどな、あたし」
佐伯の声が俺の妄想癖を断ち切った。
「意外と乙女チックなんだな佐伯は」
「意外じゃなくて普通に乙女だよっ! 男みたいで悪かったな!」
「そんな事言ってねーし」
「言ったようなもんでしょ? あーもういいや、そろそろ帰ろう宮川。また宮川が倒れでもしたら、あたし絶対面倒見切れないし」
「そうだな……」
佐伯はずっと握りっぱなしだった小瓶をようやくジャージのポケットにしまい込むと、勢いよく立ち上がる。
実はそれは俺が捨てたんだ、返してくれ。なんて言えないよな……。
………
……
…
帰り道、ついさっきまで落ち込んでいたのが嘘のように、佐伯はベラベラと今日の事を喋りまくっていた。女って切り替え速えぇよな。
「あたしも撮っとけばよかったなぁ」
「何を?」
「鹿に囲まれてたときの宮川」
「やめろ、忘れろ」
「あっははははははっ! 宮川って妙に可愛いとこあるよねー」
「その言葉、ロックシンガーの俺には屈辱だ」
「あたし、宮川のそういうバカっぽいところも好き」
「あーそう、俺に惚れるなよ? 火傷するぜ!」
「ないない、あたし付き合うなら身長高い人じゃないと無理だし」
「うわぁ……。ドン引きだわ」
くっそぉおおおおおお! 背の高さがなんだってんだよ!
佐伯の発言を翻訳すると「まとわりつくな、ミジンコ野郎が!」って意味になる。
まぁ佐伯に特別な感情なんて元からないからどうでもいいけどさ。
「佐伯さ、そんなに背の高い奴が好きなら、もう電柱と付き合えよ」
「それも悪くないよねー、電柱って強そうだし、がんばってそうだし。少なくとも宮川よりはマシだよ」
「あ、ひどい」
俺は電柱以下かよ……。もう軌道エレベーターとでも結婚しろよ。
「あーもう嘘だって。宮川にもきっといい彼氏ができるよ!」
「おい」
「何?」
「俺は男だぞ、なんでガチホモにならねーといけないんだよっ!?」
「別にいいじゃん。それとも宮川って誰か好きな女子がいるの?」
「佐伯」
「ごめんなさい」
「1秒で振られた。たった今、俺のフラレタイムの記録更新したわ」
「あっはははははっ! なにそれ?」
「な、なんだよ?」
「ね、宮川ってさ、今まで何回振られたの?」
「その他人の古傷を真っ正面から抉るような質問やめろよ。まぁいいけどさ、今の佐伯のをカウントするなら2回だな。俺、城崎にしか告白してねーし」
「あーーー! あたしその話知ってるよ! みんながいる目の前で告ったんだよね?」
「まぁな。男らしいだろ?」
「宮川って、やっぱり馬鹿でしょ?」
「いいじゃん、別に」
「ないわー、やっぱりあたし的には宮川はないわー。さっきの告白はちゃんと振られた回数にカウントしておいてよ」
「分かった。ついでに振られた最短記録としても覚えておいてやるよ。光栄に思え」
「宮川の記憶の中にあたしの事が残るんだね……、 うわっ、きっもー!」
「ふん。そうやって笑っているがいい。そして数年後に日本の石油王となる男を、身長というくだらない物差しで測ってしまった事を、あとで死ぬほど後悔させてやる」
佐伯は「ないわー」と何度も言いながら、その後ずっとケラケラと笑っていた。
◇ ◇ ◇
俺と佐伯は旅館に戻ると、辺りを警戒しながら無言で階段を上り2階で別れた。
寝静まった暗い廊下をヒタヒタと歩き、208号室の戸を音も立てずに開けると、何事も無かったように布団に潜り込む。部屋には寝息だけが響いている。
俺が出ている間、特に異変は無かったと安心すると、俺はそっと瞳を閉じた。
「あんな時間に会ったときはびっくりしたけどさ、今日は話し聞いてくれて嬉しかったよ」
深夜の帰り道、旅館に到着する前に佐伯が言った言葉と笑顔を思い出す。
夢に見た佐伯は泣いていたけど、今日の俺は彼女の心を救う事ができたのだろうか……。なんてナルシストみたいな事を考える。
だけど同時に、俺は何か取り返しのつかないミスをしてしまった気がしてならなかった。
あの中身の無い小瓶は強引にでも奪うべきだったのだろうか……。
佐伯に持たせたままで本当に良かったのだろうか……。
奪うならどういう手を使えばよかったのだろうか?
詐欺師のようにデタラメを並べ立てて恐怖を煽れば譲ってもらえたのだろうか?
いや、もうそれは終わった事だ。今さら考えても堂々巡りだ。後悔しても仕方がないし、今日の事が将来いつ、どのように影響するかだなんて誰にも分からない。
俺は深呼吸をして一息つくと、考えるのを止めた。そして心の中で、
──おやすみ、また明日な。佐伯涼。
と佐伯に声をかけて眠りについた。




