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魔導書作家、はじめました!  作者: 雫
第一章
8/8

「建設的な関係を築きましょう?」 by フィーネ

 貴族七十七家。彼らは、戦時下におけるボーデン王国の剣であり盾――皮肉を込めて戦争屋と呼ばれることもある。ここ数十年は大規模な戦争が起きていないため、七十七家本来の力を知る人間は少ないが、与えられている特権を考えればその影響力の強さは理解できる。平時における戦士の役目は、ギルドに所属している討伐士が担っているが、一説によると、七十七家が有する戦力は王国のギルドを三日で壊滅させられると言う。

 

 このように庶民からすれば羨ましい立場にいる貴族たちだが、彼らも無条件で王国から甘やかされているわけではない。力を失えば、七十七家から追放される。空いた場所には新たな家が収まり、追放された家は“忽然と消える”。

 だからこそ、表面上の慈善事業を行ったり、有望な魔導師や書家を雇ったりと実績作りに勤しむ貴族も多い。


 貴族地区にある彼らの屋敷も、富を誇示するための大事な場所であり――


**************************************

「……ここがトルストイ家の屋敷、なのか?」


 廊下の自動照明が、手前から奥に向かって矢継ぎ早に点灯する。恵まれた設備に感心したのも束の間、照らし出された廊下の様子に愕然とした。

 左右の壁から床にいたるまで、一面真っ白なのだ。染み一つ、ほこり一つ見当たらない潔癖の白。恐ろしいほどむらの無い純白の塗装が、延々と続いていく。

 自動照明が発するオレンジの光だけが、この無機質な空間に温かみを与えていた。


「不気味って域を超えてるだろ、これ。出迎えてくれる使用人もいないし」


 扉を開いた先にあったのは、先の見えない純白の廊下だけで、フィーネ・トルストイの姿も使用人らしき人影もない。奥へ進むことに若干の躊躇いを感じつつも、一歩ずつ前進していく


「ここから見える限りじゃ、分かれ道もなさそうだし……どこかの部屋につながりそうな扉もないな」


 つまり、気味の悪い廊下をひたすらまっすぐに進んでいくほかなかった。前後左右への警戒は怠らずに、屋敷の内部へと侵入していく。

 

 ――進んで、進んで、進んで。

 無心で廊下を突き進んでみたものの、後ろを向いても裏口が見えなくなった辺りで、さすがに不安を感じ始める。


「……来た道を戻ってみると、さっきの入り口がなくなってたりしてな。はははっ」


 口から出た乾いた笑いが、白い壁に吸い込まれていく。入り口がなくなるなんて、そんなありきたりな怪談みたいなことが起きるとは思えないが……一向に変化しない前方の景色が、非現実的な想像を掻き立てる。

 

 さらに進んでいると、この廊下がまっすぐ続いているのかすら確信がもてなくなってきた。もしかしたら、少しずつ右に曲がってるのかもしれない。左に曲がってる可能性もある――緩い上り坂ってことはないよな?


「トルストイ家の使用人は、毎日この廊下を歩いてるのか?俺、ここの専任書家になったら心を病みそうなんだが」


 いっそ、体力が続く限り走り続けてみようか。貴族のお屋敷を駆け回るなんて子供でもやらない愚行だが、このまま精神を削られていると……気が狂いそうだ。駆け回るのがダメなら、壁を蹴破るのも代替案として検討してみよう。

 鬱屈とした気分をどうやって晴らすか、物騒な方法をいくつか考え着いた矢先に、


「――ようやく、か」


 視線の先に、自動照明とは質の違う明かりが見えた。すぐにでもその部屋に飛び込みたい衝動に駆られたが、自重しておく。


 カルマの訪問に始まり、王都中央署店での騒動、狂気すら感じる白い廊下。ここにたどり着くまで手酷い扱いばかり受けてきた気がするが、この先で待ち受けているのは貴族七十七家の一つ、トルストイ家当主フィーネ・トルストイだ。彼女との対面には失礼のないよう臨みたい。

 昼間の彼女の態度には、貴族特有の傲慢さを感じなかった。だが、カルマのような変人を従者にしてる人間だ。カルマと同程度の変人だと見て間違いないだろう。


「……慎重に行こう」


 表情を引き締めてから、戸がついていない入り口を通る。部屋の明りは廊下よりもまぶしく、部屋の様子をすぐには捉えられない。

 立ち止まった俺に向かって、高く澄んだ声が飛んできた。


「こんばんは、アスト・エレシオン君」


 声の主は、静かに、長卓の上座に腰かけていた。昼間は一本の束に結ばれていた黒髪が、両耳までかかる蒼いヘアバンドで飾り付けられて、ヴェールのように腰まで流れ落ちている。少女が着こなすのは紅のベロアワンピース。襟ぐりが大きく広がっていて、首から下げたネックレスが胸の谷間すれすれの位置で揺れ動いていた。煽情的な姿でありながら、下品さは微塵も感じない。


「……こん、ばんは」


 フィーネ・トルストイ。

 改めて見ると、彼女は絶世の美少女だ。詰め所での勝気な言動は見る影もなく、静けさの中に溶け込んでいた。

 近寄ろうにも、近寄りがたい。話しかけようにも、舌が上手く回らない。自分の言動が彼女の瞳の位置を、上体の傾きを変えてしまうのがもったいなかった。今ここにある美術品を壊してしまいたくなかった。


 胸が締め付けられるほどに、彼女は美しい。

 

 ――だが俺には一つだけ、絶対に言わなければいけないことがある。たとえ失礼にあたるとしても、言わなければいけないことがある。

 それはっ!


「ふふっ。ようこそ、我がトルストイ家へ、へぷぎゃぅっ!」

「危ないっ!――って、遅かったか……」


 危険を伝えようとした俺の言葉は、どうやら間に合わなかったらしい。

 ヘアバンドに乗っていたガラス片が、彼女の綺麗な黒髪に沿って流れ落ちていった。外見だけは最高に幻想的だったんだが……なんて奇声を上げるんだ、この少女は。

 

 ガラス片は光を反射していたから、部屋の明かりに慣れた俺はすぐにその存在に気付いた。だから、彼女に危険を伝えようとして――いや、よく考えたらおかしい。

 よく考えなくてもおかしい。


「何をどうしたら、頭の上にガラス片が乗っかることになるんだ……?」

「ごめんね?じっとしてたら気付かなかったみたい。折角カルマに髪をセットしてもらったのに、あなたとの再会を台無しにしちゃったわ」

「……いや、俺のことを気遣う必要はないんだけどさ」


 フィーネ・トルストイは謝罪の言葉を口にしつつ、屈託の無い笑顔を俺に向ける。精巧に形作られたその笑顔に誤魔化されそうになるが――部屋の中をぐるりと見まわした後、俺の顔面は限界まで引きつることとなった。


「フィーネ・トルストイさん?」

「フィーネでいいよ、エレシオン君。この屋敷にいるときは気楽に接して」

「……分かったよ、フィーネ。じゃあ、この部屋の惨状についても気楽に尋ねさせてもらおうと思う。この部屋には嵐でも吹き荒れたのか?」


 ――信じられなかった。一面真っ白の廊下も、貴族の屋敷の一部だとは思えなかったが、この部屋よりはだいぶマシだ。

 大きくめくれ上がった床の木板、引きちぎれた花柄の絨毯、壁に突き刺さる無数の椅子に、バラバラに飛び散った肖像画の破片。恐らくは食堂であったはずの部屋が、すっかりゴミ置き場と化している。


「ダメだ、寒気がしてきた。この部屋の残骸、元の値段を合わせたらいくらになるんだ……?あぁ、考えたくもないっ!そして、この惨状を見て金のことばかり考える自分の貧乏性が嫌だ!」

「落ち着いて、エレシオン君。大丈夫よ、あなたの席の周りだけは私が責任をもって片付けておいたから」

「そういう問題か!?」


 相変わらず綺麗な笑顔を浮かべ続けるフィーネの姿に、俺はイブと似通ったものを見た。

 つまり、天然だ。

 いくら金銭面では腹が痛まないにしても、招待客に荒れ果てた食堂を見せて笑ってられるのは正常な人間としてありえない。体裁を気にする貴族としてはもっとありえない。

 よって、俺がとるべき行動は、


「あー……おほん。お招きいただいてありがとう。座ってもいいかな?」

「どうぞ。そのためにカルマを使ってエレシオン君を呼んできてもらったんだから」


 何事もなかったかのように、異常事態を受け流す。自分の調子を崩されないように注意することが第一だ。イブと過ごした3年間の学校生活が、まさかここで役立つとはな。


 周りの散乱っぷりに比べると、長卓には目立つ傷は一つもなく、俺はフィーネの対面である下座に座る。上からガラス片が降ってこないか気をつけながら。


「……それで、あー……フィーネ」


 話を始めようと口を開いてみたものの……続きの言葉が見つからない。気楽に接して良いと許しはもらったが、物事には順序ってものがある。いきなりイブの話を振るのは、招待してくれた彼女に失礼だろうか。

 ここは茶飲み話でもして、友好的な雰囲気を作るか?でも何を話せば良いか分からないしな――と口をもごもごさせていたところで、彼女から助け船を出される。


「本当なら、もっと片付いた状態で、お茶菓子でもつまみながら話せると良かったんだけどね。カルマがいないと何の用意も出来なかったわ」

「えっ……あぁ、いいよいいよ、お構いなく。夕飯はちゃんと食べたし、腹はすいてないから」

「そう?男の子はいくら食べても食べたりないんでしょ?」

「食べたりないというか……まぁ、何かを出してもらえるなら美味しくいただく。だけど、夜も遅いし、俺の食事に付き合わせたらフィーネの健康に良くないだろ」


 彼女がくれた会話のきっかけから、話を広げていく。

 一応、彼女にも食堂を片付けようという気はあったらしい。俺とは少し価値観が違っているだけで、天然と決めつけるのは間違ってたか。

 フィーネは貴族らしからぬ気軽さで、会話を続ける。


「エレシオン君は優しいのね。売り物の魔導書を、私の不注意で燃やされちゃったっていうのに」

「……もう気持ちの整理はついたよ。不慮の事故だったんだし、フィーネはちゃんと謝ってくれた。だから、もう怒ってはいない」

「ありがとう。でも、けじめをつけるために、もう一度だけ言葉にして謝っておくわ――ごめんなさい」


 椅子から立ち上がり、深々と頭を下げる。ズレた椅子の足が床の破片に当たって、パキパキと音がした。……貴族が平民に頭を下げる姿なんて、ドラゴンと同じくらい希少なんじゃないか?

 いくら珍しい光景でも、可愛らしい少女に頭を下げさせているのは居心地が悪い。


「頭を上げてくれ。フィーネの誠意はちゃんと伝わってる。……それよりも、俺が片付けようか?その席の周り、木やらガラスやらの破片がすごいことになってるし」


 彼女が言った通り、俺が座ってる席の周りは片付いている。ただ、この家の主人である彼女の周囲は全く片付いていないようだった。

 片付けが苦手なのか?片付けてくれる使用人はいないのか?疑問が次々と浮かぶ中、フィーネは音をたてずに席に着き、やんわりと笑っている。完璧に、笑っている。


「ふふっ、お客様に部屋の片づけをしてもらうなんて、トルストイ家始まって以来の大失態になるところね。――それよりも、王都中央書店には行ってきた?」

「あ、あぁ。行ってきたというより、カルマが襲撃したというか……あれはフィーネの指示なんだっけ」

「うん、そう。エレシオン君に迷惑をかけた落とし前を付けてきて、ってカルマに頼んだの。どう?気持ちは晴れたかしら?」


 にこやかに問いかける彼女に、ぜひとも、カルマが起こした騒動を見せてやりたいと思った。魔導書数冊をダメにされた落とし前にしては、高くつきすぎだろう。

 ……いや、カルマにそんな頼みごとをすれば一体どんな惨劇が引き起こされるか、主人である彼女にわからないはずがないのか。涼しい顔してえげつない指示を出すあたり、フィーネもやっぱり貴族らしい。


「まぁ……気持ちはすっきりしたかな。王都中央書店の正門が凹むところなんて初めて見たし」


 二度とあの轟音を聞きたいとは思えないけど、鬱憤は晴れた。

 その上、あそこの書家に魔導書作りで勝つという新たな目標も出来た。不安がないわけじゃないけど、自分が書家としてどこまで実力を伸ばせるのか試してみたい。そうやって前を向けるようになったのは、カルマが俺を煽ってくれたおかげかもな。


 ――あぁ、そうだ。この家の専任書家にしてもらえるなら、王都中央書店で仕事道具を受け取れなかったことを謝っておくべきかもしれない。

 それに……そろそろ、イブの話に移っても良い頃だろう。

 

 汗ばむ両手を揉み合わせ、話を切り出す機会を伺う。彼女はそれに先んじて、話をまとめにかかる。


「――良かった。これでひとまずは、あなたの魔導書を燃やしてしまった責任は取れたことになるわね」


 ひとまず、という言葉に込められた意味を察して、俺は続く話をじっと待つ。


「ここから先は、別口の話。あなたへの罪滅ぼしに用意した話だけど、聞いてしまったら後には戻れないわ」

「……」


 勿体ぶった前置きに、俺ははっと押し黙る。

 そういえばカルマは、イブの件は本来フィーネが話す予定だと言っていた。カルマが俺に幻覚を見せたのは、言ってしまえば彼女の独断専行なのだとも。


 どうするべきなんだ。カルマから何も聞いていないふりをするべきか、それとも正直に先に話を聞いてしまったと白状するべきか。

 彼女の機嫌を損ねない最良の選択肢に迷っていると、


「――エレシオン君。カルマからもう話を聞いちゃったんじゃない?」


 図星を言い当てられた。予想外の指摘に視線を泳がせる俺を、フィーネの薄紅色の双眸がじっと見つめている。……隠し事はできないな。駆け引き上手な貴族の前で、知ってることを知らないと言い張れるほど、俺は腹芸に長けてない。


「フィーネの想像通りだ。俺はカルマから、イブが殺される光景を見せられた。そんなふざけた結末を防ぐために、俺に力を与えてくれるとも聞いた」

「やっぱり。私が話の前置きをしたとき、疑問を感じるより先に、身構えてたでしょう?話の内容を先に知っていない限り、あんな反応にはならないわ」


 彼女は再び俺の体をじろじろと見回してから、笑みを深める。何度見ても文句のつけようのない笑みだが――どこか、違和感があった。

 それを解決する間もなく、彼女は俺に問いかける。

 

「イブ・アーネストさん。エレシオン君のお友達なのよね?凄腕の書家、数少ない第一級書家の一人」

「あぁ、イブは俺の友達だ。イブに危険が迫ってるなら、他のものを全部放り出してでもイブを助けたい。それくらい大切な友達だ」

「そう、素敵なことね。じゃあ、あなたに協力してもらう条件として、うちの専任書家になってもらうって話も聞いてるのかしら?」

「イブのためなら、専任書家だろうと雑用係だろうと何でもやる。カルマにもそう伝えたよ」


 一つ一つ、順を追って俺の意思を確かめていくフィーネ。俺の意思を尊重しようとする思いやりが彼女にはあった……こそばゆい心地だ。

 フィーネに全面的な信頼を置くべきではないと分かっている。イブが近寄るなと言った相手だし、世間でも彼女の良い噂は流れていない。だが、俺は心のどこかで彼女が実は優しい人間であることを期待してしまっていた。

 イブを助けるための、頼れる仲間になってほしいと願っていた。


 愚かにも、願っていたんだ。

 ――それが儚く散るだけの願いだというのに。

 

「それで、俺はちゃんと専任書家として認めてもらえるのか?」

「うん。私フィーネ・トルストイがエレシオン君を、当家の専任書家に任命します。特別な式典や勲章は用意してあげられないけど、これから少しの間、よろしくね」


 二つ返事での承諾。

 あっけなく、俺は貴族様おかかえの書家という地位を手に入れてしまった。貧乏な個人書家が一日にして大出世したと言えるだろう。肩書きだけを見れば。

 かといって給料をもらうつもりはないし、飢え死にしない程度の食事を与えてもらえれば大満足だ。

 俺はフィーネたちと協力して、イブを救う。

 そのためだけにここに来た。


「早速で悪いが、具体的にイブが襲われる理由について聞かせてもらいたい。諜報機関のミスティコってやつが、どうしてイブを狙う必要がある?」


 イブを守ると漠然と叫んでるだけでは事態は進まない。フィーネたちがどういう情報を基にして、イブの危機を予測しているのか。まずはそれを共有することが先決だった。

 

 そのはずだった。

 

 ここからが本題だと気合を入れた俺は、冷や水を浴びせられる。

 やはりフィーネが、俺と決定的に違う立場にあるのだと思い知らされる。


「――答えてあげられないわ」


 回答の拒否。

 論理的な説明を要求したところに、端的な否定が来たのだ――初めは、理解が追い付かない。ようやく彼女の意図を掴んだところで、自分の質問に不備があったのかと考え直す。


 フィーネたちはイブの襲撃を予測している。

 カルマはその予測が未来予知ではなく、あくまで現状から推測できる未来予想であることを仄めかしていた。つまり、彼女たちはイブが狙われる理由を知らないはずがない。質問に不備はなかった。


 彼女は答えられないんじゃない。答えようとしてないだけだ。

 

「……なぜ、答えない?」

「あなたが知る必要がないから。これ以上の話は、罪滅ぼしの適用外よ」


 淡々とした淀みのない答えだった。ここまでの友好的な雰囲気を壊すのも厭わない、唐突な線引き。安心しきっていた俺は、手酷く突き放された衝撃で、背もたれに寄りかかった。

 長卓を挟んだ俺とフィーネの距離は――遠い。


「おいおい……そんな……」


 思いついたいくつかの反論が、口の中でターンして喉へと戻っていく。

 ……直感で、俺がどれだけ反発してもフィーネは口を割らないだろうと悟った。口調に有無を言わさない圧迫感があるわけではない。ただ、彼女が秘めている芯が硬すぎる。境界線が明確すぎる。


「明日の朝からカルマの特訓は始まると思うわ。エレシオン君のために客間を用意してあるから、今日は体を休めておくことね」

「待て……待てって!」


 俺は、話を終わらせようとする彼女を引き止める。咄嗟のことで乱暴な口調になってしまったが、フィーネは徹頭徹尾、笑顔を崩さない。俺が呆気に取られていようと、俺が怒りに駆られようと、彼女は完璧な笑顔を張り付けたままだ。

 

 そういえば、俺はこの場で、彼女の“笑顔”以外の顔をまだ見てない。


 その他の表情を知らないかのような歪さがあった。交渉が一切通じそうにない頑なさも含めて――人形のようだった。


「……人形」


 だから、か?

 だから、調度品の残骸が広がるこの食堂を見せても笑っていられたのか?

 俺と世間話をしているときに笑っていたのは、場を和ますためではなく、それが彼女が用意した唯一の表情だったから?


 昼間の彼女とは、まるで別人だ。

 まさか――影武者?


「……あんたは、本物のフィーネ・トルストイじゃないのか?」

「ふふっ、面白いことを言うのね。私が偽物に見える?」


 突拍子もない質問を、彼女は肯定するでも否定するでもなく、笑顔で受け流す。


 不意に、彼女の笑顔に感じていた違和感が氷解した。

 フィーネが笑顔を作るとき、顔以外の筋肉がほとんど動いてないんだ。いくら愛想笑いだとしても、普通は笑顔を浮かべれば体全体の緊張は弱まる。その緩みが彼女にはない。はっきり言って、人間らしさがない。


「――ははっ。だからどうした、って話か」


 俺は、加熱しそうになった思考を強制的に遮断する。


 関係ない。今俺と顔を突き合わせてる彼女がフィーネの影武者であろうと、それこそ俺が知る必要のない話だ。

 見失うな。最優先に考えるべきはイブを守ることだ。

 元から、フィーネ・トルストイは俺の味方じゃない。彼女に信を置きそうになったのはちょっとした気の迷いだったんだ。イブの見立てはやっぱり正しかった。


 気持ちを入れ替えて、別の角度から質問を投げかける。


「イブを殺そうとする下手人の素性は?魔導師なのか?」

「言えないわ」


「いつ襲撃される?場所は?」

「言えないわ」


「俺が書家の能力を高めたとして、イブを救うのにどう役立つ?」

「言えないわ」


 全ての質問がたった一言の元に切り捨てられる。皮肉交じりの罵倒を返してくる分、カルマのほうがまだ質問する意味がありそうだった。

 失望のあまり、振り上げた右手を長卓に叩きつけそうになるが、鈍い痛みを感じて手を止める。……カルマの握手で痛めつけられたところ、か。


 右手を椅子の肘賭けに置き直して、心を落ち着ける。

 冷静に、状況を分析しよう。


 答えを得られない。情報を得られない。それは不安材料になるが、ここまでの質問に関しては最悪、答えを得られなくても支障はない。イブを助けるための調整は彼女たちがやるんだろうから。


 本当に警戒すべき問題は、その先にある。


「――フィーネ・トルストイ。あんたはイブを助けることで、どういう利益を得る?俺とイブをどう利用するつもりなんだ?」


 俺は意を決して、最後にして最大の問いかけをした。

 たとえイブを殺人狂の手から守ることができても、フィーネは更なる苦難にイブを巻き込もうとしてるのかもしれない。それじゃあ本末転倒だ。


 もちろん、彼女が正直に話すわけがないとは思っていた。きっと今回も「言えないわ」と回答を拒絶されて終わるのだろうと思ってた。だけど……問いかけずにはいられなかったんだ。最後に、この質問だけは。


 ……それは、俺の甘えだったのかもしれない。まだ、フィーネに対して優しさを求めていたのかもしれない。相手が聞かれたくないであろう質問を重ねても、平然と質問の拒否を返してくれるという信頼。

 

 無礼を働いても許してくれるだろうという、甘え。


「ふふっ。罪滅ぼしの時間は終わったから――これは誠意の忠告ということにしておいてあげる」


 ――部屋がざわついた。

 部屋自体が生きているのか、どこからともなくキシキシと揺れるような音が聞こえてくる。床が振動しているのかと疑うが、足先の感覚はその予測を否定した。


「エレシオン君。あえて言わなくても分かると思うけど、私たちは味方どうしじゃないの。利害が一致したから、協力関係にあるだけ。あなたが警戒してるように、私にはイブ・アーネストを助ける旨みがある」


 キシキシ、キシキシ。耳を塞ぎたくなるほど音が大きくなっても、フィーネが語りかける声だけは明瞭に聞こえる。


「私たちの目的をあなたに話すことは、何の得も生まない。知ったからといってあなたがどうこう出来る話じゃあないけど、これってけじめの問題なのよね」


 口を挟めない。どういうけじめを付けなきゃいけないんだと反論したくても、口の筋肉がこわばったまま動かなかった。

 今余計な真似をすれば身の安全は保障できないと、風が語っていた。


 そう、風だ。風が吹いた途端、耳障りな音が止んだ。

 そして、ふわりふわりと宙に漂い始めたものを見て、俺は音の出所が何だったのかを悟る。音の正体は、部屋中にある無数の破片が床とこすれ合っていた摩擦音だ。

 掌に収まる大きさの木片やガラス片、肖像画の断片までが俺の目線の高さまで浮上し、ぴたりと止まった。


 ……まずい。


 心臓が跳ね回り、生き抜く術を探せと訴える。全身の毛という毛がそばだち、あの破片が一斉にこちらに飛んで来たら死ぬほかないと叫び出す。だが俺は、長卓の下に隠れることすらできなかった。


 フィーネを下手に刺激したくない。

 彼女はきっと、完璧な笑顔を浮かべたまま俺を殺すことができる。


「ねぇ、エレシオン君。私はあなたに深入りしないし、あなたは私に深入りしないで。イブ・アーネストを助けるためにあなたができる最善のことを教えてあげるつもりだけど、それを信用できないと言うなら今すぐ出ていって構わないわ」


 表情は変わらない、笑顔は絶対に崩れない。

 その代わりに、部屋全体を使って明確な態度を示している。風属性の魔導なのか、はたまた別の能力なのかは分からない。だが、あちこちが尖り、殺傷能力に優れた破片を操ってみせるのは、脅迫以外の何物でもなかった。


「もっとも――あなたが私に背を向けるなら、私はあなたの背中にたくさんの穴を開けなきゃいけなくなるの。今襲撃の話が外に漏れると、不利益になるから。言ってる意味、分かるかしら?」


 踏み込んでしまっては、後戻りできない。

 後戻りできない以上、信じるに足る根拠がなくても、黙って付いてこい。フィーネは暗にそう言っていた。

 当主として、部下となった俺に威厳を見せつけていた。


「……」


 ――しばらくの間、沈黙が続いた。

 死に急ぐなら逃げるが良いと、猶予の時間をくれたのだ。俺はじっと息を殺して、フィーネが無数の矛を下ろしてくれるのを待つことしかできなかった。

 さっきまで、あれだけ威勢良くフィーネを詰問していた俺も、圧倒的な力を見せつけられた後では、何一つ反論できなかったんだ

 ……情けない。


 俺の選択を見極めた彼女は、ふぅと軽く吐息を吐き出した。と同時に――バキッ。

 見えない手に握りつぶされたかのように、それぞれの破片が一斉に粉砕される。小さく砕かれたゴミクズは、その一切が床に散らばることなく長卓の上に集まり――ジャラジャラジャラ。俺とフィーネの間に積もり、うず高い壁を作っていく。


「改めて、私の下僕、専任書家としてあなたを歓迎するわ。エレシオン君。この屋敷に住むのは私と、カルマ、あなたの3人だけ。建設的な関係を築きましょう?」


 ジャラジャラ。上下関係をはっきりとさせた屋敷の主人は、壁の奥で笑っている。まだ、笑ってやがる。


 今の威圧的な脅しを体験して、一つ気付いたことがある。

 この部屋が散らかっていたのは、おそらく、フィーネと誰かが戦った跡だ。俺のようにこの屋敷に招かれた誰かが、フィーネと争って、部屋が荒れた。これだけ物が散々に壊されているんだ。そう考えなければつじつまが合わない。

 

 じゃあ、俺が座っている場所だけ片付いているのはどうしてだ?彼女が言う通り、俺が座るために片付けた?それとも、ここには俺に見せてはいけないものがあった?

 

 例えば血。

 例えば肉。

 例えば、死体。


 フィーネ・トルストイ。

 俺がイブを助けるために取った手は、きっと、血塗られた手だ。


「――分かった。俺はもう、余計な詮索はしない。あんたの事情には立ち入らない。俺が、悪かった」

「気にしないで。雇用主として雇用契約を確認しただけよ。私たちから話を持ち掛けた誠意を見せたまで」


 誠意、と強調するところには二度目は無事に済まないと伝える意図があるんだろう。

 それでいい。

 直接詮索するのはもうやめだ。代わりに、自分で調べてみせる。


「イブを助けるまで――よろしく、頼む」


 イブを助け出した瞬間から、俺たちは敵になるだろう。イブに手出しはさせない。俺はあんたらから盗み取った知識と技術をもって、あんたらを苦しめてやる。

 せいぜい、悪だくみに精を出してろ。


 積み上がったゴミの山がフィーネの顔を隠す直前も、彼女は当然のように笑っていた。

 



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