「それ以上不満を口にしたら――愛しますよ?」 by カルマ
「聞いてない、聞いてない、聞いてないぞ、そんなことっ!」
「申し訳ございません。まさかその頭部の横に生えている突起が耳であったとは露知らず、伝えたところで無駄だと思っておりました。耳なら耳で、もう少し耳らしく振舞われたらいかがでしょう?」
「そんなに俺の耳の形が気に入らないのか!?」
どうせ上手く躱されるだけだと分かっていながらも、俺はカルマに何度も突っかかる。その度に雲を掴むような虚しさと罵声を味わうことになっていた。
王都中央書店をやっとの思いで飛び出して、今は馬車の中だ。というのも、カルマとあの変態男が本気で俺の勝負の日程を決め始めたからだ。
トルストイ家専任書架?王都中央書店との勝負?何もかもが初耳だし、丁重にお断り申し上げたい。死にもの狂いでカルマを引っ張り、あの場を後にした。
「――アスト様の無慮な行動のせいで、アスト様ご自身の仕事道具を受け取ることができませんでしたね。嘆かわしいことです」
「得るものの代わりに失うもの……じゃないな、課されるものが大きすぎるんだよ。王都中央書店との勝負?そんなの赤っ恥をかくだけの見世物じゃないか」
「赤っ恥をかきたくないのなら、それだけ努力をすればいい話ではありませんか。努力を知らないから、そんな耳をしているのですよ」
「耳のことは関係ないだろ!?あと、生半可な努力でどうにかできることじゃないんだよ!」
馬車の揺れも相まって、眩暈を感じる。そもそも書家という仕事は、元々の才能が大きく左右する職業だ。もちろん努力も必要だが、努力だけで実力が向上するほど甘くない。
俺がイブを肴に弄んでいた男も、俺と比べれば天と地ほどの実力差がある。十年後の俺が、今のあいつの技量に追いつけるかさえ定かではないのだ。
正論を言っているはずの俺に、カルマは澄ました顔で問いかける。
「あの程度の小物にすら勝算を見いだせないのなら、アスト様の友人を救うことなど到底叶わないのではありませんか?」
……え?
「幸いにも、イブ・アーネストが襲撃されるのはまだ先の話。となれば、定期的にアスト様の力量を試す場も必要になりましょう。王都中央書店の書家であれば、良い試金石になるでしょうし」
「……」
「それとも、アスト様は口先だけでご友人を助けるなどとおっしゃったのでしょうか?」
カルマはごく自然な流れで、俺の覚悟を問うた。
違う、イブを救うためならどんなことだって厭わない。その覚悟自体は本物だ。ただ――カルマやフィーネ・トルストイが俺に求めてるのって、俺の書家としての力量なのか!?
待て待て、落ち着こう。
俺は自分が書家の界隈でもかなり下の階層に位置していることを知っている。だから無意識の内に、フィーネ・トルストイが俺に授けてくれる作戦とやらは魔導書作成に関係のないものだと思い込んでいた。
でも、改めて考えてみるとおかしい。
だって俺、魔導書を作る以外に何の能もないよな?
「……っ」
顔を覆いたくなるほどの羞恥に襲われる。
恥ずかしい――なんだ俺、恥ずかしい恥ずかしい!!自分の書家としての能力に自信がないからって、現実から目を逸らして何になるんだ。それ以外の要素なんてお話にすらならないじゃないか。明日の腹さえ満たせない一握りの金と、武術の心得もない体。おまけに、このとんちきな頭。
「おや?おやおやぁ?」
カルマの手前、羞恥と反省を極力表に出さないようにしたつもりだったが、無駄だった。笑うでもなく、演技味たっぷりに目を見開いて煽るのはまさに職人芸。
「驚愕いたしました。仰天いたしました。もしや、わたくしがアスト様のお家で話したことを、今ようやくご理解されたのですか?それはそれは……ええ、随分お耳と頭が離れているのですね」
「……離れてるように見えるかよ」
「いえ、失敬。いささか現実離れした解釈でございました。単純にアスト様の知能が足りなかったわけですね」
「……」
「返事は?」
「……はい。知能の足りないバカです」
「バカ?そのような既存の蔑称にご自分が入れるとお思いで?身を弁えた発言を心がけたほうがよろしいですよ」
今まで以上に辛辣な文句が雨あられと浴びせられる。反論することもできずに体の中に吸い込まれた罵倒の矢は、無防備な心に容易く命中した。
恥ずかしいし、心が痛い。
だが、凹んでいても、事態は一歩も進まない。学校に通ってた頃は、悪徳教師から事あるごとに間違いを指摘されたし、あのイブにすら残念な子扱いされたことがあるんだ!失敗に気付いたなら、その後の行動で取り返せばいい。書家としての技量が足りないなら、それを高める努力をするしかない。
「――カルマは俺のことを考えて、王都中央書店との書家対決を用意してくれるつもりだったんだな。悪かったよ、何も考えずに邪魔しちまって」
「アスト様にしては素直な謝罪ですね。改めて覚悟を固めたということでよろしいのでしょうか?」
「イブを倒すのに必要だっていうなら、トルストイ家の専任書家になるし、どんな対決でも受けてやるよ。負けて恥をかいたって構わない」
俺のプライドに価値なんてない。
それにあの場では、王都中央書店との対決なんて戯言だと思っていたが、俺の成長を確認するための試金石と捉えてるなら話は変わる。カルマには、多分、俺を書家として育て上げる策があるんだ。カルマは、「未来の俺が、王都中央書店の書家に勝てる見込みがある」と思ったからこそ、勝負を持ちかけたはずだ。
もし俺がトルストイ家の専任書家になるなら、俺の負けはトルストイ家の威信を貶めることになるんだから。
覚悟を表明した俺に、カルマは優しい微笑を浮かべた。彼女なりに俺を認めてくれたんだろうか。……ずるいな。ずっと刺々しい態度ばかりだったから、不意にそんな顔を見せられると、ときめ――
「アスト様のご立派な姿に、わたくし、胃の内容物を逆流させそうなほど不愉快な気分です」
ときめ――かないっ!!
「表情とセリフが噛みあってねぇっ!!そこは俺に優しい言葉をかけてくれるところじゃないのか!?」
「はい?わたくしの表情がいかがなされたと?今のわたくしは、嘔吐を我慢する顔をしているはずですが」
俺の覚悟を称えるどころか、気持ち悪いと一蹴するカルマ。
あぁ、カルマに正常な反応を求めた俺がバカだった。彼女は見かけ上は微笑を浮かべたまま、白く艶やかな拳を体の前に構える。俺の危機管理能力が頭の中で警報を鳴らし始めた。
「一つ聞いてもいいか?カルマが構えてる拳は……今から俺を殴ったりする?」
「心配なさらずとも殴りませんよ、手が汚れますから。いくら不愉快な気分を味わったとはいえ、アスト様を殴ると更に不愉快な気分が上乗せされてしまいます」
良かった。喜ばしい理由ではないけど、俺の安全は確保されたらしい。
「――拳圧で吹き飛ばすだけです」
「全く安全じゃなかったっ!御者さぁんっ!この馬車止めて、逃げ場がないからぁっっ!!」
壁を全力で叩いても、外で馬を操る御者さんは振り向く様子すらない。頑丈な造りの馬車だから安心と思ってたけど、むしろ罠だった!
拳へはぁっと息を吐きかけるカルマ。仕草自体は絵になりそうなほど美しいのに、どうして俺は断頭台に立たされてる気分なんだ。
とにかく、落ち着いてもらおう。物理的に逃げ場がないなら、言葉で彼女を止めるしかない。
「カルマ。おまえが俺のことを嫌いなのはよく分かってるつもりだ。俺が覚悟を決める姿が気に食わないっていうのも……理解はできないけど、しょうがないことだとしよう」
「初めから相手のことを理解できないと断じるのは、コミュニケーションの放棄だと考えますが?」
「いいから、混ぜっかえさないでくれ!」
カルマの拳が腰の動きと連動して引かれる。俺の身の危険度が1上がった。
「話を進めさせてもらうぞ?俺がトルストイ家の専任書家になるということは、俺の肩に多少なりともトルストイ家の威信が乗っかるということだろう?」
「えぇ、その通りですね。不本意ながら」
「つまり、カルマが俺を傷つけるということは、トルストイ家の看板を傷つけることにつながるはずだ!物理的にも、精神的にも!」
一気呵成に畳みかけ、カルマとの間に論理という名の壁を作る。無理のある理論だとは思うが、トルストイ家への忠誠心が厚いカルマなら、ここで拳を収めてくれる可能性がある。
「今後は、お互い同じ家に務める仲間として、仲良くは出来なくても、相手を尊重した付き合いを心がけよう?暴言もなしだ、暴力もなしだ。いいか?」
「――理の通ったお話ですね」
「っ!そ、そうだろ?カルマなら分かってくれると思ってたんだ!だからまず、準備万端に引き絞られた拳を下ろそう」
すんなりと同意が得られたことに動揺して、声が上ずってしまった。折角のチャンスをふいにしないように、慎重に彼女をなだめていく。
カルマの堅く握られた拳がゆっくりと解かれていく。もう少し――あと少し。そのまま手を下ろしてくれれば良い――と俺が勝利を確信したところで、開かれた手のひらが俺の前に差し出された。
「建設的なご意見をいただいたので、嘲弄と侮蔑を隠した表面上の握手を交わそうと思います。わたくしたちは仲間、ですからね」
想定外だった。敵意の拳が一転して平和的な握手へ早変わりを遂げた。俺の言い分を聞き届けてくれたなら俺の身から危険は去る。暴言を浴びることもなくなるかもしれない。
平和的解決の証として、握手に応じるべきだと思うが――
「……握り返さなくちゃダメか?」
「わたくしは自らの手が汚れることを我慢して、アスト様がおっしゃる相手を尊重した付き合いを実現しようとしているのですよ?まさか、ご自身の言葉に背く行動をとるおつもりではありませんよね?」
ダメだ、逃げられない。
握手。種族を問わず優和的な意思を示す最も簡単な方法だ。これがただの美人との握手なら、俺は喜んでその手を握るだろう。小指のペンだこを笑われたりしないかな、なんて可愛げのある心配をすると思う。
だけど、俺は知ってるんだ。たとえ互いに敵意がなかったとしても、ミノタウロスと握手して手の骨が弾け飛んだ男の話を知っている!
「カルマ。可能な限り力を抜いてくれ。でないと、俺の書家としての人生が死ぬから」
「ええ、不格好なアスト様の手がそのままの形を保てる程度に、加減しますよ」
「……じゃあ、いくぞ」
恐る恐る、指先からなぞるように手を重ねていき、そろーりとカルマの手を握った。小さい子供が初めて犬を触るときよりも鈍い動作だった。ほんの一瞬だけ、力を入れる。これで握手本来の目的は果たされたはずだ。
腕の筋肉が熱を持ち始める。魔導書を書き始めてから、知らず知らずの間に筋肉がついていた右腕。俺と苦楽を共にしてきた右腕が、生存本能の指示に従って準備を始めた。勝負は一瞬の内に決まる。
俺の持てる力全てを結集して、最大速度で手を引っ込めるっ!
「――ぐえぇっっ!!」
「どうして手を引っ込めようとされるのでしょう?女性経験が皆無のアスト様なのですから、この思い出を一生大事に持っていられるよう感覚を手に焼き付けられては?」
腕がっ……腕がっ、もげるっ!!俺が出せる最大の筋力で腕を引き戻したと同時に、それを上回る膂力でカルマから手を引き止められたっ!今まで加わったことのない張力が俺の筋肉を引っ張って……ち、ちぎれるかと思った。運が良かった。
ただし、それは不幸中の幸いなのであって、不幸はまだ終わっていない。
「いやその……あれだ。俺の手は汚いって言ってたから、ほら、すぐどけたほうがいいかなって」
「菌は一度ついてしまえば二度つこうが三度つこうが同じことです。……いえ、あなたの手ごと焼き払ってしまえば、汚れを完全に除去することも可能、でしょうか。試してみますか?」
「俺の手は異常なくらい汚いから、焼いたぐらいじゃ汚れは落とせない!俺は地元でも汚い奴だと評判だったんだ、だから焼くのはやめてくれ!」
最高に情けない自己紹介で自分の身を守る。今のところ、カルマのおかげで書家としての腕前は上がっていないが、言い訳の達者さには随分磨きがかかったようだ。イブの危機にも役立つときが来るんだろうか。主に命乞い目的で。
カルマは俺の手を握ったまま離さない。腕っぷしが強い男に絡まれてる気分だ。
「先ほどのアスト様の提案、考慮するに値するものだと判断しました。市井の方々や他家の方々からトルストイ家の礼節を疑われるような行動は慎まなければなりません」
「そ、そうだよな。カルマにとってトルストイ家は忠義を尽くしてる家だもんな」
「ええ。ですので、折檻はわたくしとアスト様が二人きりのときのみ行うと、ここに誓約いたします」
「……はい?」
俺を不幸のどん底に突き落とすような誓約が、俺の許可なしに行われてしまった気がする。折檻が行われる?二人きりのときに?は?
「今わたくしが拳圧でアスト様を吹き飛ばしてしまった場合、アスト様の貧相な体は馬車を突き破って地面に叩きつけられるでしょう。それを目撃した他家の方は、トルストイ家の馬車は客人一人ロクに運ぶことができないのかと笑いの種になさるかもしれません」
「それ、馬車の問題じゃないよな?カルマの問題だよな?」
「今わたくしがアスト様の手を握りつぶしてしまった場合、御者のガルードにアスト様の悲鳴が聞こえてしまうでしょう。それもまた、あまり望ましくないこと」
望ましくないと言いながら、俺の右手にかかる負荷が徐々に増してきてる。腕っぷしが強い男から、腕っぷしが強い大男まで比喩を格上げしなきゃならない。
「――えっと、要は、俺が言ったことは全面的に認めるけど、『誰も見てないところで』俺を痛めつける分には問題ないよね、って言いたいのか?」
「アスト様にしては驚異的な理解の速さですね。もしや、手を刺激することで頭の回転が素早くなる機能が付いてらっしゃるのでしょうか。そぉれ」
「痛い、痛い、痛い、いったい!!本気で潰す気かっ!!」
腕ごと振り回してみるが、一向にカルマの束縛を解くことができそうにない。それどころか、抵抗すればするほど躾とばかりに力が強くなっていく。
一体、紺色のメイド服の奥にはどれほどの筋肉が眠っているんだろうか。
「今後は他家の方の前でアスト様が粗相をやらかすこともあるでしょう。しかし、わたくしは人前でアスト様に素直な気持ちを伝えることができません。伝えたくても伝えられない、切ないこの気持ち。想像するだけでもどかしくなって……わたくしっ」
「っくあああああっ!!恋する乙女みたいな口ぶりで俺の手を破壊しようとするなああああぁっっっ!!!」
下手に痛みから逃げようとするせいでお互いの手の位置がずれて、骨が聞いたこともないような音をたてて軋み始めた。
俺の手は再び魔導書を書くことができるのか?俺の手が破壊されるまえにトルストイ家にたどり着くことができるのか!?仮にトルストイ家で専任書家になったとして、イブが襲われるまでの間、俺は生き延びていられるんだろうか……。
「大仰な悲鳴ですね。外まで聞こえてしまうではないですか、だらしない。――しかし、恋する乙女ですか。良いことを聞きました」
「……い、良いこと?俺の身には悪いことしか起きてないっていうのに?」
「はい。わたくしはアスト様を愛してます」
――思考が止まった。
手に感じていた壮絶な痛みが急激に引いて行った。全ての感覚が「何も信じられない」と外部からの情報を遮断してしまった。馬車が大きく揺れて、その衝撃に耐えられずに体がよろけた。自然と俺の手を引っ張るカルマのほうへと倒れ込み、彼女に優しく抱きとめられる。
抱きとめたカルマの柔らかさも俺の頭には受け入れがたく、もはや自分がどんな体勢で何に体を預けてるのかすら分からなくなってきた。
端的に言って、混乱している。
「愛、してる……?カルマが……俺を……?」
「はい。人前で粗相をしたときに、「愛してる」という隠語を使おうかと思いまして」
「……なんだって?」
体がふわりと宙を舞った。狭い馬車の中で俺の体は持ち上げられ、元々座っていた位置にお尻からゆっくりと戻された。右手は握手した状態のままだから、俺は左手一本でカルマに持ち上げられたことになる。
「世間に対しては、わたくしとアスト様が恋人同士だという設定でいきましょう。トルストイ家の職場環境は最高で、従者の中には好き合う者もいるほどだ、とその名が知れ渡ること請け合いですね」
「……隠語で、というか人前で、愛してるって言われるのか?俺が、カルマから?」
「確認しなければ理解できないのですか?恋人という設定であれば、アスト様が失態を犯したときに、上手く二人きりになれますよね?酷いあざがあったとしても、熱烈なキスの跡だと主張すれば通るでしょう」
「おい、俺の体に酷いあざをつける予定があるのか!?」
全身の感覚が戻って来た。愛の告白に聞こえたものが、死刑宣告の方法だったという衝撃の事実を頭が理解し始める。理解した後に、拒絶を始めた。
「俺たちが恋人なんて……体裁だけだとしても、無理だろ。カルマだって、散々罵ってる俺を恋人だと紹介するのは嫌なはずだ」
「四肢が引きちぎられる痛みを感じますが、トルストイ家のためです」
「献身的な従者の言葉に聞こえるけど、自分が加害者側であることをよく思い出せ!俺だって、おまえみたいな24時間不機嫌みたいな女と付き合うなんて――ったぁぁぁっ!?」
カルマの提案を渋っていると、一瞬、右手に感じたことのない激痛が走った。俺の右手は……潰れてない。目で確認しなければ無事を確認できないくらいの痛みだった。
握手を躾の一環と勘違いしてるらしいカルマは、冷然と言い放つ。
「それ以上不満を口にしたら――愛しますよ?」
意思とは関係なく、体がビクリと飛び跳ねた。考えるよりも先に、体が理解してしまったからだ。今の彼女のセリフが危険信号であることを。
かくして、「愛してる」は俺の言動を制するための隠語となり、彼女は俺という家畜の躾に成功したのだった。いっそ馬小屋でもあてがってくれるといいさ、ははっ。
自嘲気味に笑っていると、カルマが俺の右手を解放した。それが合図だったかのように、馬車の揺れが収まり、車輪の音が止んだ。カルマの行動が合図だったというより、馬車が止まるのを見計らってカルマが俺の手を離したのか。
間もなく馬車の扉が開き、恭しく腰を折った紳士が目的地への到着を告げる。
「アスト・エレシオン様、カルマ様。トルストイ家に到着いたしました」
「ありがとうございます、ガルード。ではアスト様、足元にお気をつけて下車してください。屋敷の中には当主様がいらっしゃいますので、粗相の無いように」
紳士の存在に気を遣ってか、カルマの口から普通の気遣いと忠告が発せられる。正常な言葉に違和感を覚えるんだから、出会って数刻で一体どれだけの罵倒で斬りつけられてきたのか分からない。
俺に下車を促すカルマは腰を上げる素振りを見せなかった。てっきり彼女がフィーネ・トルストイの元まで案内してくれると思ってたんだが、予想は外れたらしい。毒々しい弁舌から逃れられると思えば幸運なのか。
「カルマはまだどこかに行くつもりなのか?夜更けに出かけるのは……俺が言えた義理じゃないのはわかってるけど、危ないだろ」
「人の心配をするとは、随分余裕のご様子ですね。ええもちろん、アスト様はお客人ですから当主様も丁重に扱ってくださるでしょうが――誤ってわたくしや当主様の部屋に足を踏みいれた場合、命の保証はできませんので」
「……覚えておくよ」
彼女の視線が早く降りろと語っていたので、俺はようやく、悪夢の馬車の中から地面へ降り立った。人の心配をする暇があれば、自分の身を案じろということか。
初めに瞳に映った情景は、貴族のお屋敷に特有のどっしりとした門構え――ではなかった。俺より一回り大きい扉に回転式のドアノブ、装飾の類は何もない。
「ここは、裏門かな?」
「本来ならば、お客様には正門を通ってお入りいただくのが筋ですが、本日は諸事情ありまして正門が使用できなくなっております。使用人専用の裏門ですが、どうかご容赦を」
カルマにガルードと呼ばれていた御者さんが、俺の疑問に答えてくれる。年配の彼の顔に深夜の街で馬車を操った疲労は全くない。ただ、彼は不自然なまでに俺と顔を合わせようとしなかった。カルマの罵倒にはさすがに慣れたものの、気の良さそうな老紳士にまで顔を背けられるのは哀しい。
再び馬車の扉を閉めたガルードさんは、俺が屋敷に入るのを待つように立ち尽くしている。
「あの……」
「――お嬢様方のことを、よろしくお願いいたします」
声をかけようとした俺に、彼は深々と頭を下げる。それはただの客人にかける言葉ではなかった。俺が専任書家になると知っているんだとしても、将来の同僚と接する態度にも思えない。
事情を聞こうにも、彼のお辞儀は詮索を許さない頑なさでそこに在り続けている。
無言で屋敷に入るのも落ち着かず、ただ一言、
「任されました」
とだけ残して、俺はトルストイ家の屋敷に足を踏みいれた。
トルストイ家当主――フィーネ・トルストイとの二度目の邂逅を果たすために。