「俺と勝負しろおおおおっっっ!!!」 by 同級生
「アスト・エレシオンンンンンンンンンッッッッ!!!」
「……ええと、悪い。名前、教えてくれる?」
因縁の再会、みたいな雰囲気を相手が演出してくれているところ申し訳なかったが、名前が記憶になかった。ていうかトイレで再会する時点で大した縁でもないような。
「おまえ、久しぶりに会うっていうのに、なんて対応だよ!」
「いや、名前は思い出せないけど、旧交を温めるような仲じゃなかったよ、多分。無視してもいいくらいの間柄だと思う」
用を足したばかりの男が掴みかからんとばかりに俺に詰め寄って来る。それをひらりと躱して、個室に入ろうとしたところ、扉を掴まれる。
「に、逃げてんじゃねぇ!」
「そりゃ、用を足して手も洗ってない人間に詰め寄られたら逃げるよ。常識、常識」
――あぁ、このやり取りで徐々に思い出してきた。
こいつはアレだ。事あるごとにイブにつっかかり、大口をたたくにも関わらずイブの足元にも及ばなかった、万年十番君だ。イブが困っていたから俺が何度も間に入ってあしらっていた覚えがある。
「よく考えてみれば、学校にいた頃もおまえの名前知らなかったわ、ごめん」
「え、ほんと……?う、嘘だろ?同じクラスになったこともあったよな?」
「毎日突っかかって来るから、先生に直談判しておまえのクラス変えたっけ?あぁ、あのときはイブと祝勝会したんだった、あっはっは」
「笑いごとじゃねぇぇぇぇぇぇぇっっっっっっっ!!!!!!」
扉から手を離してシクシクと泣き出してしまった男。俺自身、人に対して冷たく当たることは少ないはずなのだが、この男と相対するときはどうも心が冷えてしまう。相性というやつかもしれない。
手だけは挟まないようにゆっくりと扉を閉め、用を足す。
……ふぅ。
「……なぁ、エレシオン」
「どうした名前も知らんやつ。何か用か?」
「それはこっちのセリフじゃぁっ!!おまえが何でここにいるんだって聞いてんだよ!あと俺の名前は――」
「言わなくていい、言わなくていい。覚えないから」
「……おまえ、イブがいないとそんな態度なのか?」
「いや、だから昔も名前覚えてなかったし……あと、馴れ馴れしくイブって呼ぶなよ」
「こわっ!エレシオン、怖いよ!」
用を足し終えて、扉を開ける。扉の前には仁王立ちした名も知らぬ少年。
こうやって無駄につっかかってくるから、対応も自然と冷たくなるってものだ。
「そういえば……その、最近イブ……イブさんの様子はどうなんだ?エレシオン、イブさんと仲良いだろ」
「なんだよ。卒業してまでちょっかいかけに行くつもりか?……あれ、そういえばおまえ、卒業式の時イブを呼び出して――」
「うああああああああああああああああああああああああああああああああっっ!!」
「うおぉっ」
頭を抱えて突然叫び出す男から距離をとる。はぁはぁ、と荒い息遣いをしているが、こんな場所で変な息遣いをしていると誤解を受けるからやめたほうがいいと思う。
その横を通り抜けて悠々と手を洗っていると、乱暴な手が俺の肩を掴んだ。
「なぁ、エレシオン君。話し合おう。俺たちは分かり合える」
「分かり合うどころか、おまえとは何も共有したくないな」
「ふっざけんなぁ!てめぇ、俺がイブさんに告白して振られたのを、わかってんだろうがぁっ!!」
「…………え?」
ボロボロと両目から大粒の涙を流して号泣している男。みっともない姿をさらしているあたり、冗談を言っているとは到底思えない。
でも……え?嘘だろう?イブに告白した?
「……それはまた、本気で惚れてたんだなぁ」
卒業式のときといえば、イブがすでに被り猫を長い間被っていた時期だ。決定版、付き合いたい女子ランキングから外れたことからもわかるように、男子からの人気は明らかに落ち目の時期だった。
しかし、それを気に留めることなく、卒業するからと告白に乗り切ったその心意気だけは認めてあげたい。心意気だけは。
「まぁ、結局振られてりゃ、意味ないんだけどな」
「なんだと、こらぁっっ!!」
いきり立つ男に、俺は落ち着けよと洗ったばかりの手を振ってやる。水滴が目に入って、男はぐぇっと悲鳴をあげていた。さっきの変態男もそうだが、ここにはつくづく反応が過激なやつが多い。
「イブは元気だよ、今日も一緒に飯食ったし……まぁなんだ。変なことを言ってくるくらいには余裕があるみたいだ」
「変なこと!?おい、変なことってなんだよ!!」
ひもになれって言われたことだ。とばらしてしまうのも楽しそうだが、後悔することになりそうなので自重しておく。
先の応接室の二人はまだごたごたしているのかもしれないし、下手に早く戻って巻き込まれてしまうのも賢くない。不本意ながら、この男で時間つぶしをするしかなかった。
「俺とイブのことはさておき、おまえのほうはここでの仕事はどうなんだ?正直、個人書家やってる俺にしてみれば、相当な勝ち組に見えるけど」
「話を誤魔化すなよエレシオン!変なことってなんだ!」
「イブは勝ち組で甲斐性のある人間が好きらしいってことだ。いい男がいたらぜひ紹介してくれとも言っていたな」
「エレシオン!最近の俺のここでの活躍ぶりを聞いてくれ!」
一転して目を輝かせる男。卒業式で振られたことを綺麗さっぱり忘却しているらしい。
都合の良い頭だった。
「まずここ王都中央書店はだな、給料がいいんだよ!なっ、俺なんか毎日高級なものも食いたい放題でさぁ、もしあと一人家族が増えたとしても、もうすっげぇ余裕っていうか!」
「ふむふむ具体的にはいくらぐらいだ?」
「え?具体的に?それはあんまり言いづらい……」
「具体的な数字がないとイブに報告しづらいなぁ」
「月にリング金貨二枚だ!同じ歳でこんなに稼いでるやつはなかなかいないぞ!」
「ほぉ……」
確かに、俺はリング金貨なんて一度も自分で稼いだことはない。銅貨一枚たりとも今手元にない俺は、こいつに比べればさぞ負け組だろう。
……イブの財布には、学生時代から何枚もリング金貨が入ってたんだけどな。
「それで、王都中央書店につとめて良かったことは給料だけか?」
「そんなわけないだろ!仕事は完全にノルマ制。割り当てられてる仕事を終えればいつ出勤していつ帰ってもいいし、家で書いたものをここに納品してそのまま遊びにでかけたっていい。だから、優秀な俺は家族を大事にする時間だってたくさん持てるんだぜ!」
「そっか。それで?」
「それで――あと、道具もいいのが揃ってるんだ!紙もインクも、仕事で使う分には全部無料!私用で必要なときは店員割引までしてくれるんだぜ?だから、イブが魔導書を書きたくなったときには、いつでも品質の高いものをプレゼントしてやれるんだ!」
「ほうほう。それで?」
「それで……えっと……今の俺の直属の上司がすげぇいい人でな、あの人の部下になったおかげで書家としての技術も上がったし、入社してからすぐに職場に馴染むことができたんだ。それにあの人は愛妻家としても知られてて、俺も結婚したら幸せな家庭を築く心得を教えてもらえるよう約束してるんだ。だからイブが――」
「あぁ、はいはい。それで?」
「そ、それで……」
「もう終わりか?これで終わりなら、ここまでの話だけをイブに伝えておくが」
「待て!待ってくれ!!まだあるんだ、まだ言い足りないんだ!」
うんうん唸りながら甲斐性のあるところを探そうとする男。
……少しだけ、不憫に思えてきた。
もちろん俺も約束を破るほど外道ではないので、今聞いた話は全部イブに報告させてもらう。ただその反応は「へぇ~、そうだんだ~」の一言に尽きるだろう。何せ、俺はこいつの名前すら知らないのだから。イブに卒業式で告白したやつ、と言えばわかってもらえるはずだけど……被り猫に「誰だっけ?」と言われないことを願っておこう。
「……そもそも、俺のような優秀なやつじゃなくて、なぜエレシオンがイブさんの傍にいるんだ!」
どうやら、それ以上アピールすることがなくなって、俺を貶すことに主旨が切り替わったらしい。……言ってること自体は、もっともなんだけどな。
「イブの趣味が悪いだけかもしれないな」
「イブさんのことを悪く言うんじゃねぇ!それに、どれだけ趣味が悪くたって、俺は彼女の目を覚ませてみせる……エレシオン、おまえの魔手からイブさんを救ってみせるぞぉっっ!!」
「……がんばってください」
男が決意の炎を燃え上らせている一方で、その熱さは俺の心には全く伝わってこなかった。……確かに、今日の俺はいつにもまして対応がそっけないかもしれない。
それはきっと――カルマの幻覚を見てしまったからだろう。
今は元気なイブも、半年後にはどうなっているかわからないと思い知らされたからだろう。
だから、安心しきってイブとの幸福な夢を見ているこいつが馬鹿らしく思えて――いや、それも少し違う。俺はこの男が羨ましいんだ。そんなに気楽でいられることが、妬ましい。
「おまえは……イブのために、命かけられるのかよ」
耐えられなくなって、思わず秘めていた疑問を口に出してしまう。
「ん?何か言ったか?」
幸いなことに、妄想に夢中になっていた彼は俺の言葉を上手く聞き取れなかったようだった。
「いや、何でもないよ。もっと出世して、イブを幸せにな、って言いたかっただけだ」
「言われるまでもないことだぜ、エレシオン!お前も、個人書家やるにしても少しはマシになってくれないと、張り合いがいがないぞ!」
「だから、俺は争う気はないって……」
イブとの夫婦生活なんて想像もつかない。そういう邪な考えの対象としてイブを見たくなんかない。
今の関係が一番心地いいから、それを手放したくないんだ。
「……それはさておき、結局エレシオンは何でこんなところにいるんだ?まさか、自分の商売が振るわないからってここに商品を盗みに……?」
「そんな危険なマネ、誰がするかよ」
「見損なったぞ、エレシオン!おまえがその手を悪に染めたら、イブさんが悲しむんだぞ!」
「じゃあ、イブが悲しむことのないように、おまえが俺の生活費を工面してくれればいいんだよな?名案だ」
「……イブさんを悲しませないためにも、俺がエレシオンを養う……」
俺の言い分は屁理屈この上ないわけだが、純真な男は頭を抱えて真剣に悩んでいた。純粋さだけならイブに匹敵するかもしれない。
あまりいじめると少しは良心が痛み始めるので、話を元に戻す。
「実際のところ、ここに来たのはある人の付き添いなんだよ。客はそっちの人のほうで、俺個人は王都中央書店に用事なんかない」
「この時間に客が?そんな非常識な人間いないだろ……エレシオン、いくら言い訳が思いつかないからって、すぐばれる嘘をつくのはよくないぞ?」
「すぐばれる事実だからいいんだよ。あのノック……いや、ドアを破壊する音が聞こえなかったのか?」
ここにいたのなら、恐怖の足音にも似たあの轟音が聞こえなかったはずはないだろう。
彼は不思議そうに眉根を寄せて、
「さっき、貴族の方がお見えになったからあまりうろつくなってお触れがでたけど……まさか、それに関係してはいないよな?」
「ん?正確には貴族ではなく、貴族直属のメイドだ」
「…………」
「……どうした?」
誤解があったようなので軽く訂正してあげたところ、彼は拳を固く握りしめてその強さのあまりわなわなと体を震わせている。
「……あ」
「あ?」
「アスト・エレシオンンンンンンンンンンンンッッッッっ!!!!!!」
「さっきと同じかよ。芸がないなぁ」
「芸!?この心の叫びを受け止めろ!!」
必死の形相で訴えかけてくる男。ここで手を出さないあたり、荒事には疎い書家らしさが出てる。
「なぜおまえが貴族様とかかわりがあるんだよ!!それもメイド……メイド様だぞ!?」
「そう力説されても、おまえのメイド好きとか知らないしさ」
「イブさんに加えて、貴族様と……メイド様とこんな時間に逢引……夜の関係……」
「……おーい、大丈夫か?」
「エレシオン!お前はどうしてそうも羨ましい関係を次々に手に入れられるんだよ!!なぁ頼む、コツがあるんだろう?教えてくれよ!!」
「そんなものないけど……強いて言うなら、王都中央書店みたいな大きな組織の下っ端をしてる限りは、思いがけない人との出会いはないんじゃないか?」
「就職先の差かぁぁぁぁっっっっ!!!」
うおーー、なんで俺は王都中央書店なんかに就職してしまったんだぁ、と嘆き始める。つい先ほどの誇らしげな自慢の数々はメイドの誘惑に打ち消されてしまったのか。
とち狂って、明日にでも辞表を提出しないことを祈っておこう。
「そうだ。あの変態男について何か知ってることはないか?貴族のメイドに応対してる男なんだけど」
「変態……あぁ、貴族課の課長か」
取り乱していた男も変態という言葉で急に現実に引き戻される。
一般の店員にもどうやら変態男、で通じるらしい。
「あの人には注意したほうがいいな。ここでも悪い噂ばかりしか聞かないし」
「あれだけ衝撃的な見た目をしてれば良い噂なんて広まりそうもないけど……というか、そもそもなんであの恰好なんだ?」
上半身裸に、下半身に女物の下着。いくらなんでも冗談が過ぎる。
「あれはジェラーノ卿の指示だって話だ。ジェラーノ卿についてはエレシオンも知ってるだろ?」
「いや、全然」
世情には疎いもので。知り合いのバカたちは高尚な世間話ができるほど脳が動いていない。
彼は俺を白い眼でにらんだ後、はぁとため息をつく。
「この国の貴族の中でも順位づけがあってだな?ジェラード家は王国創世記から途切れることなくその地位を保ち、今でも国内有数の戦力を有すると言われてる、貴族第二位の立場にいらっしゃるんだ」
「なるほど、由緒正しい貴族様ってわけだ。そんな人があの変態な格好の指示を?」
「……見ての通り、あの人は見た目がやたらといいからな。新人の頃、ジェラード卿に『目をかけてやる代わりに、私の妻の趣味に付き合ってやってくれ』と言われたらしい」
「妻のほうの趣味かよ……」
「その要求を二つ返事で呑んだ課長は若くして異例の昇進を遂げて、今に至るってことらしい。ジェラード卿派閥の貴族たちには、あの従順な態度が大層気に入られてるらしい」
出世のためにプライドを捨てた。潔くもあり、意地汚くもあるその選択に、彼も少々顔をしかめている。俺もまた、マネしたいとは思わなかった。
「それに、課長は自分より上の位の人間には徹底して従順だけど、自分より下だと判断した相手には容赦しないんだ。だから、俺たちの間ではあの人には近づかないようにっていう暗黙の了解みたいなものもある」
「……うなずける話だな」
俺とカルマへの対応の違いを見れば、納得のいく話だった。当のトルストイ家に関しても、あの男は心の中で見下している風でもあったし、ジェラード家とやらの後ろ盾が大きいと高をくくっているのかもしれない。
――あまり関わるべき相手じゃあないな。
「ありがとう。俺も気をつけることにするよ……メイドのほうにも、熱くなりすぎないように言っておかないとな。さすがにそろそろ戻っても大丈夫だろうし」
「ん、あぁどういたしまして――って、話は終わってないぞ、エレシオン!!」
そそくさとお手洗いを出ていくと、後ろから彼が追いすがって来る。
「まだメイドさんとの関係を聞いてないし、メイドさんとお近づきになる方法も教えてもらってないぞっ!」
「折角リング金貨二枚も給料をもらってるんだから、雇えばいいじゃん」
「ダメだ、そんな金で忠誠心を買えるようなメイドなんて!俺は貴族の屋敷に仕えているような、心からの奉仕精神をもったメイドさんがいいんだ!」
「イブよりも?」
「……いや、イブさんのほうが……いい……」
「無理するなよ」
接戦だった模様だが、イブにとっては素直に喜べない勝利だろう。
イブの安全を守るために、こいつにはお望みのメイドさんをあてがってあげたいところだけど。
「……詰め所でアポティヒアに巻き込まれて売り物を台無しにすれば、お近づきになれるかもな」
「はぁ?何言ってるんだ?」
「成功の秘訣だ」
これ以上教えてやれることもないので、歩く速度を速めて応接室に向かう。激しい物音も聞こえてこないし、何らかの形で決着はついているはずだろう。
後ろでは彼がぶつぶつと小声で文句を言い続けている。「エレシオンより俺の方が優秀なはずだ……そのはずなのに、なんで俺が悔しい思いをしてるんだ。みんな、俺の実力をちゃんとわかってくれてないんじゃないのか?イブさんだって、メイドさんだってきっと――」などと彼の愚痴は尽きない。
応接室の扉を少しだけ開けて、危険がないかを確かめるために中を覗いてみると、案の定二人は席に着いて話をしているようだった。
こちらからは男のあらわになった背中がよく見えるが、「ご自由にお踏みください」と書かれた文字の上に靴の跡が残っていた。……どうやら、カルマが鬱憤を晴らす形であの場は収まったらしい。
そのまま中に入ろうとしたとき、彼らの会話が聞こえてくる。
「しかし、我々といたしましても、これは商売でございますので!!いかにジェラード卿と懇意にさせていただいてるとはいえ、トルストイ家の方々に魔導書を卸すことも当然&’($%$&%$、えぇ」
「目先の利益に目が眩めば、全てを失う可能性もございますよ」
「そこは商売人。引き時はわきまえてございます、えぇ。いかがでございましょう、魔導書が大量にご入り用なのは間違いのないことかと思慮いたしますが」
「無用なお気遣い痛み入りますわ。あいにく、トルストイ家には専任の書家がおりますので」
「おや、専任の書家などという話はついぞ耳にはさんだことがございませんでしたが」
「それでは、耳の穴をこじ開けてよくお聞きくださいませ。何せ、まだわたくしと当主様しかご存じでない機密情報ですので」
「それはそれは!!情報量をお支払いする必要がございますかな?」
「無用な押し売りさえ控えていただければ、駄賃は必要ございませんよ」
……部屋の中に入りづらい。カルマの舌蜂も最小限に抑えられているところを見る限り、マジメな会話をしているのは間違いなかった。その空気に割って入るのは正直ためらわれる。
「要はエレシオンよりも俺の実力が上だと証明すればいいってわけだ。そうなんだ。だから――」
背後で未だに現実に帰ってきていないやつは無視して――トルストイ家には専任の書家がいるという話か。貴族の家に専任として勤める書家ともなれば、さぞや名のある書家に違いない。そんな人に教えを乞うことができれば……トルストイ家に着いた時の期待が高まる。
「当家の専任書家。それは――アスト・エレシオン様です」
アスト・エレシオン。ふむ、どこかで聞いたことのある名前だ。やはり、高名な書家の一人であるに違いない。
…………。
…………。
え?
「先ほどからわたくしが連れていた少年、彼のご客人がアスト様、我がトルストイ家の専任書家の方でございます」
「……つくづく、人を化かすのがお好きなお方ですね。それは本気でおっしゃっているのですか?」
「えぇ。トルストイ家の総意、でございますので」
本気でおっしゃっているのですか、とは俺が聞きたい。
俺がトルストイ家の専任書家?子供のおもちゃで仕事をしているとまで馬鹿にされた俺が?
この話も幻覚や幻聴の類だろうか。
「俺とエレシオンの実力の差をはっきりさせる機会があればいい。機会が……」
「――僭越ながら、先ほどの彼がその立場に足る人物だとは思えませんね、えぇ。うちの若手書家のほうがまだしも%%#&%&%(’%&$%」
「だからこそ、そちらの書店様と大口の契約を結べと?」
「結論としてはそこに行きついてしまいますねぇ!!えぇ。これは親切で申し上げていることでもありますので」
会話が不穏な流れを作りつつあることを俺は察知していた。後ろに後ずさりしようとするが、虚ろな顔でぶつくさつぶやいている男に阻まれる。
そのとき、扉がひとりでに開いた。
カルマと男の視線がこちらを向く。
「――良いでしょう。それでは、アスト様とそちらの書店員、どちらが優れた書家であるか、白黒つけようではありませんか」
「勝負の結果は明白ではありますがね、えぇ」
……は?俺が、勝負?王都中央書店と?
ちょ、何を勝手に決めて、
「それだああああああああああああああっっっ!!!アスト・エレシオン、俺と勝負しろおおおおっっっ!!!」
「……嘘だろ、おい」
整いすぎた舞台。
揃いすぎた演者。
この状況が幻覚であることを願いながら、俺は運命とやらを呪うのだった。