「俺のものは俺のもの、おまえのものは貢ぎ物」 by?
ボーデン王国の城を見たことがある王国民は意外にも少ない。王都だけでも中央地区、ギルド地区、商業地区、住居地区、そして貴族地区と五つの区画に分かれている。そしてこの国自体が、ゴンドワナ大陸の三分の二の領地を誇っているのだ。辺境の人間は死ぬまで王都を訪れないこともあるし、王都生まれの子供だって中央地区へ足を踏み入れたことがない子もいる。
中央地区は庶民が近づくべきでない地区第二位なのだ。一位はダントツで貴族地区だが、中央地区においても貴族様やら、下手すると王族なんかと遭遇することもある。それほど重要な建物が集まっているのだ。
中央地区のど真ん中にどっしりと構えられた王国の城。しかし中央地区にはもう一つ、その三分の一程度の大きさを誇る城が存在する。
城には似つかわしくない『只今銅幣10枚分割引!』の垂れ幕は、ギルド地区の方向に見えやすいようにでかでかと掲げられている。
そう。ここは――王都中央書店本店である。
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「カルマ。俺はてっきり、あのままトルストイ家に向かうものだとばかり思っていたんだが」
「はぁ。つまり、予想が外れたから罰をくれとおっしゃりたいのでしょうか?」
「……予想が当たってたら、ご褒美でもくれたのか?」
「アスト様ごときが予想を当ててしまったことへの罰、ですね」
理不尽な論理展開には慣れてしまったので、あまり深く突っ込まないことにする。
我が家を軽装で飛び出して、俺たちは馬車に乗り込んだ。普段の通行手段は徒歩だけだったせいか、人生で何度目かになる馬車体験は新鮮なものだった。「速いなぁ」と感動する俺に、「当家の所有物の中では最も遅い乗り物ですよ」とカルマは茶々を入れてきた。
――あぁ、そういえば俺の部屋での一件だが、どうやら部屋の中のカルマは本物が見せた幻覚に過ぎなかったらしい。ならば話した内容も――と思った俺だが、それだけは本物だと保証された。
そういう経緯の後、馬が停まったところで俺が下りると――王都中央書店という因縁深い場所に着いてしまった。一体何のいやがらせだろうか。
城と呼ばれているだけあって威圧的な門が俺たちの目の前に立ちはだかり、侵入者を拒むように固く閉じられていた。昼間は貴族や特殊ギルダーなど優良客相手のために開門されているが、夜の今は静かなものだ。
門の外に私兵がいる様子はないが、中には数人程度待機してるのだろう。
「なぁ。ここに何の用があるんだか知らないけど、せめて明日にしたほうがいいんじゃないか?この時間じゃ対応してくれないだろうしさ」
「何をおっしゃいます。まだ龍ヶ刻までいくらかの時間があるではございませんか。寝ているならば叩き起こせばいい、それに尽きると思われますが」
「龍ヶ刻?」
聞きなれない言葉に首を傾げていると、カルマは珍しく「失礼」と素直に謝る。
「龍神教でいうところの、日付が変わる時間のことです。この国は無宗教の方が多いので、理解できないのも無理はありません」
「龍神教……いや、名前と概要くらいは知ってるさ。セレシュ公国にいるドラゴンを世界の創生主だと信じてる宗教、だろ?」
なるほど、彼女の髪飾りにはドラゴンへの敬意が込められていたというわけだ。あまり信心深そうには見えないのに、人は見かけによらない。
「一般常識をさも立派な知識かのようにおっしゃられるのは聞き苦しいですが、おおむねその認識で構いません。つい言い慣れた言葉が出るものですよ」
「何よりも言い慣れてるのは悪態だろうが……」
彼女が言い慣れているということは、フィーネ・トルストイも龍神教の信者なのかもしれない。あれは魔導師たちに支持基盤があるとされているし、彼女らが信仰していても不思議じゃあない。
「それはさておき、日付が変わってないから遅くないっていう論理は横暴だと思うぞ?」
「横暴でない行為から何の利益が生まれましょうか」
カルマはそびえたつ大きな門に極力近づき――拳を手前に引く。
「……なぁ、あんまりいい予感がしないから、ぜひ教えてほしい。今、何をしようとしている?」
「夜中のご挨拶ですよ。このように」
ガンッ!ガンッ!ガツンッ!
「もーーしーーもーーしーー。ごめんくださいーー」
ガンッ!ガンッ!ガツンッ!
手と大型の門の間から信じられない音が響く。
「カルマ!王都中央書店にけんか売ってるのか!?なぁ!?」
「けんか?わたくしたちはいわばお客。商売人にとって身内以外はすべてが客のはずです。客が訪れてきたら眠い目こすって陳列棚の準備をするのが当然でしょう」
「お客様と言うより強盗犯のにおいしかしねぇ!」
「――龍神様の伝説の中に、龍神様が一時期心を悪に染められたときの至言がございます」
「――それって?」
「俺のものは俺のもの。おまえのものは貢ぎ物」
「だからそれ強盗!!」
世の中のすべてが自分のための貢物である。なんて暴言を残してくれたんだ、かのドラゴンは。あんたの信者の横暴をどう責任とってくれる。
――いや、そもそもドラゴンって人間の言葉なんてしゃべれるのか。
「今お開けになりませんと、明日の朝には見るも無残なことになっておりますよ!!」
生身の人間から出ているとは思えない打撃音が、いつまでたっても止まない。見るも無残になるのは、拳ではなく扉のほうなのだろう。非常識な脅しも、カルマが言えば途端に現実味を帯びる。
「な、なぁ。そろそろやめておこう。これ以上やれば王都中央書店のやつらだって、黙っちゃいないはずだぜ?いくらカルマが強いからって、大人数に囲まれたら太刀打ち――」
『メイドだぁ!!例のメイドが来たぞぉっ!!』
『ひぃぃっっ!門が、門がへこんでやがるぅぅっ!』
『うろたえるな、おまえたちは城の中に避難を――係は、係の者はまだ来ないのかぁっ!』
…………うん。
「太刀打ちはできるだろうけど、騒ぎを起こせばトルストイ家に責任がいくかもしれないだろ!」
「状況を鑑みて提言を修正したのは、無能なアスト様にしては好判断でございますね」
ドゥンッ!ドゥンッ!と一定の感覚で拳を叩き込みつつ、彼女は俺に一定の評価を下す。ここにいるだけで共犯者となっている俺としては、言葉でどう言われたところで何も喜べはしないのだが。
「御心配には及びませんよ。アスト様が毛嫌いされているこの国の貴族階級というものは、ときに大きな組織よりも優先されうる。この程度の騒ぎで済ませている分、我が主は寛大なお心をお持ちかと」
「……その言い様だと、これがフィーネ・トルストイの差し金のように聞こえるけど」
「問題にならない程度に脅せ、との命令ですので」
ドッドゥンッ!ドッドゥンッ!拳だけにとどまらず、ひざという新たな楽器が加わる。城の周りの広大な敷地も含めて王都中央書店のものであるため、爆音の演奏も運よく近所迷惑にはなっていない。城門の内側の人間だけを的確に威圧している。
フィーネ・トルストイがこれを指示した理由は――やはり、昼間の一件なのだろうか。当の被害者である俺が、この報復を一番迷惑に感じているというのは皮肉なものだ。
「あちらもそれは理解しているでしょうから、まもなく担当者がいらっしゃいますよ。――ほら」
カルマの動きがピタリと止まる。視線の先には、いっそ初めからの仕様なのではないかと疑うほど凹んだ門――ではなく、その横の小さな通用口から姿を現した男。
「たいっへん、たいっへん、お待たせいたしましたぁっっ!貴族様の侍従殿にお目通り願えるなど感謝感激で、わたくし涙が&‘%」(’%()&‘)(&でございますっっ!本日はご来店誠に’()&&(&)&)!!!!!」
太ももの間から顔が飛び出そうなほど腰を折り曲げた男。王都中央書店の売り子は基本的に黒で上下を揃えた制服に赤の蝶ネクタイという気取った服装をしているが、彼は違う。
上半身?裸である。背中には、「ご自由にお踏みください」の文字。
下半身?かろうじて下着だけ穿いている。女性ものだが。
「へ――」
さぁ、ご唱和ください。
「変態だぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁあああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!!!」
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「そうですか、そうですか。トルストイ家にお招きされているご客人の方でございましたか、それはご無礼をっっ!貴族様方にはご好評いただいているスタイルなのですが、少々刺激が(%&#=)()‘%(’(&$でございました)
俺が絶叫を終えた後、何事もなかったかのようにカルマと男は通用口をくぐっていった。危うく門の外に取り残されるところだったのだ。
今は城の横にある小さな館に通されていた。廊下を歩いているだけでもその内装の豪華さに縮こまってしまいそうになる。
「相変わらず悪趣味な貴族様方とのご交流が深いようで、ご壮健でございますね。ご就寝中を起こしてしまったと考えると、非常に心苦しく思いますわ。折角、わたくしの視界を害さない格好で寝ていらしたでしょうに」
「これがわたくしの正装ですゆえ。えぇ、もちろんトルストイ家の方々にも今後増々のご贔屓をいただければと思っております、えぇ!」
貴族相手の接客とはこんなものなのかと愕然とした俺だったが、カルマの反応を見る限りではこれが標準ではないようだった。
――外見から話し方まで、この男はすべてが異常なのだ。
呼吸をするかのごとく頻繁に腰を折るため、ちらりとしかその顔は窺えない。だがはっきり言って、俺が今まで会った男の中で1、2を争うほどの美男子だ。背丈も高く、惜しげもなく披露された上半身は十二分に鍛え抜かれている。
かと思えば、妙に大仰な仕草をしたり、肝心な言葉を早口で誤魔化したりする。持ち前の容姿の良さをわざと貶めて、相手の貴族に優越感と笑いを提供しよう、という魂胆だろうか。それにしても、ここまでされれば笑える道化の領域を超えているとも思う。
王都中央書店の威厳が俺の中でガラガラと崩れていくのを感じつつ、カルマの後ろをついていくことしばらく。応接室と思しき一室に俺たちは通された。
「さぁ、お座りください!本日はお客様としてご来店いただいたとのことで、わたくしも誠心誠意できるかぎりの歩み寄りができればと思います、えぇ!」
示された先には、およそ商談用とは思えないテーブルと三つのイス。恐らくは台が回転する形式のテーブルであり、その上にはカルマの来店を見越していたかのように菓子が並んでいる。
菓子なんて高級な食べ物を見たのは、イブにせがまれて一緒に菓子店に行ったとき以来だ。そのときは、大抵の菓子がくりーむと呼ばれる白くて甘いものが挟まっていたのだが、ここに集まっているのは俺が見たことのないものまで揃っている。色も多々あって鮮やかだ。
「客として来たこと自体は間違っていませんが、商談をしに来たとは申し上げておりませんのであしからず」
「……ふむ」
丁寧な口調の中に火花を散らしながら、彼らは席につく。
カルマがフィーネ・トルストイの指示で王都中央書店に報復に来たのだとして、それは城門を凹ませることで達成されたのだろうか。だとしたら、ここまで招き入れられる必要がない。
彼女はこの男に、いったい何を要求するのだろうか。
俺は彼女の横でそれを見ていることしかできない。
「――ではまず、こちらの場違いな庶民に謝罪していただきましょうか」
――席に着きかけた瞬間、話題の中心が俺に向かって飛んできた。傍観するだけだなんて、そんな簡単な役回りを彼女が俺に許すはずがなかったのだ。
座ってまで頭を垂れていた男が、その体勢のまま首を横にひねる。
「はて。そちらの方とは初対面でございますし、わたくし共と深い関係にあるようにはお見受けしないのですが……いえ、もちろんご命令でありましたらわたくしごときの軽い首は何度でも下げて&&%$‘(&())」
そこは誤魔化したらいけないところだろう。
「実は本日、そちらの書店の汚物――失礼、躾のなっていない店員が、この教養のなっていないご客人に粗相をいたしまして。本日はそのお詫びと誠意を見せていただこうと思い、はせ参じた次第でございます。つきましては、つたない説明ながらアスト様からご説明を」
「つたないことは前提なのか」
「能力以上を求めることほど酷なことはありませんので」
さぁ、とカルマは男に事の次第を話すよう急かす。
改めて昼間の出来事を話せと言われると、口が重くなる。説明したい話でもないし、一応は心の整理をつけたことでもあるのだ。こうやって王都中央書店の、今日の売り子に比べれば明らかに上役であろう人間に告げ口するというのは、正直気が引ける。
――だが、
「……話は今日の昼、場所はフォークリッド詰め所でのことなんですけどね」
と、俺は語り始める。
俺がこうして語ることでフィーネ・トルストイの役に立つと言うのなら、いくらでも話してやろう。それが、ひいてはイブを助けるためになる。
――要点をかいつまんで話せば大した長さにもならず、話はすぐに終わった。
相手の反応はと言えば、
「それはなんと嘆かわしいことでしょうっ!!我々の提供した商品が――その中でもトルストイ家当主様がお持ちになっていたものがアポティヒアを起こすとは!そして我が書店の売り子の態度、これは全支店に接客態度改めの触れを出さなくては」
誠に申し訳ありませんでした、と男は再び頭を下げる。
すんなりと謝罪するものだと肩透かしをくらっていると、カルマが口を出す。
「今謝罪なさったのは、我が主様への謝罪、ですよね?アスト様への謝罪が含まれていなかったと感じましたが」
「……そう勘ぐられてしまうとは、わたくしの誠意が足りませんでしたね!今でも精一杯を尽くしているつもりで&(&$‘&’%$&#」
カルマに指摘されてみれば、男の謝罪は基本的にフィーネ・トルストイにのみ向けられたものだったようにも思える。彼女が貴族で俺が庶民であることを鑑みれば、目くじらを立てるほどの態度でもないけど。
まぁ菓子でもつままれてください、と男が勧め、カルマは無言でそれをいなす。
そっけない対応にめげることなく、彼は爽やかな笑顔で正面を向く。
「では――その売り子の処遇はどういたしましょう?殺しますか?」
……はぁ?
「殺す……?」
「殺す。えぇ、あなた様が不利益を被ったのでしょう?それならば、トルストイ家当主様がお望みとあれば、その者の身柄をあなた様に引き渡しましょう。どうです?」
謝罪なんかよりもよほど価値があるでしょう、と男の謙った笑みが歪んだ。
それは蔑まれる者の笑みじゃない。搾取する側の笑みだ。そうでなければ、ただの取引のように、金額をおまけする気軽さで人の命を左右するようなマネはできない。
……あぁ、これだ。
これこそが、この男が貴族相手の係を任せられている理由なのだ。
視点が、価値観が、同じだ。
自分より下の立場にいる者を、対等な生物だと認識しない。
色鮮やかな菓子と、明るい装丁の部屋。俺の目には、かの男だけがあまりにこの場に不適格のように思えた。俺の垢抜けない庶民らしさよりも、彼の精神の濁りのほうがよほど場にそぐわない。
「必要ありません」
カルマは俺に先立って、きっぱりと彼の提案を棄却する。
「どうしてでしょうか?危険な目に遭われたのですから当然!何がしかの罰を加えてしかるべきだと愚考いたしますが」
「小蠅に気を取られている暇は我々にはありませんので」
カルマは人道的観点から彼の提案を蹴ったわけではなかった。あくまでも、その行為に価値を見出さなかっただけだ。
殺すなんて発想自体に嫌悪を抱く俺とは、やはり違う。
住む世界の違う二人の会話に体が拒否反応を示す。いつでもこの空間から逃げ出せるように、腰が座面から浮き上がる。
「まず一つ、損害賠償として高品質の魔導紙とインクを一か月分いだだきましょう」
「お安い御用です。紙の種類やインクの種類にご指定はありますか?」
「ありますか?」
男の質問を反復してカルマが俺に回答権を渡す。仕事道具を用意してくれる、と言っていたのはこういうことだったのか。
「いや、特に好みは……しいて言えば、インクはヴァンヒールのものがいいかな」
「なるほど、用意させましょう」
思い切って、インクだけは俺が知っている中で最高級に近いものを求めたのだが、あっさりと受け入れられてしまった。
男はテーブルの裏をコンコンと叩く。それを合図として、外から扉が開く。
現れたのは制服で身を包んだ、普通の店員だ。
「3-16と5-17の中身をこちらへ」
「かしこまりました」
男の指示を聞いた店員はすぐさま行動に移り、扉を閉め直す。緊張からか、彼の唇が少しだけ震えていたのがこちらから見える。
カルマの乱暴な訪問で怖がらせてしまったのだとしたら、申し訳ない限りだ。
「――さて、我々にできることはほかにございませんでしょうか?トルストイ家におかけしてしまったご迷惑は、どのような埋め合わせをしても足りるものではないと思いますが!」
テーブルの手前でブンブンと何度も頭を下げる。多少高価な道具を渡したところで、全く腹は痛んでいないという雰囲気だ。気前の良さを見せたいのだろうが、俺にとっては鼻につく態度でしかない。
カルマもまた、そこで手を緩める様子は見せない。
むしろこれ幸いとばかりに要求を重ねる。
「では――そちらのお城にいらっしゃるディスサーナーの方と、ぜひとも面会させていただきたく思うのですが」
「…………」
「あぁ、ついでにこちらのアスト様に明確な謝罪を。くつを舐めて差し上げてください」
「はぁ!?」
隣に座るカルマを凝視すると、「文句でも?」という意思のこもった睨みが返って来る。
男にくつを舐められる――いや、相手が女性であれ、俺にとっては罰以外の何物でもない。人を辱めて喜ぶ趣味は俺にはないんだ。あと、それがついでの要求って……。
顔が引きつるのを抑えて、ゆっくりと男のほうへ顔を向けると、
「くふっ……くはははっ……(‘%&#%(’%(‘(’)はははっ!!!)
「えっと……大丈夫ですか?」
「大丈夫?えぇ、大丈夫ですとも、やはりトルストイ家の方は愉快で仕方ありませんね!よりにもよって、我々のディスサーナーとの面会、そして――くふふっ、くはははははっ!!」
腹を抱え、頭が下がる拍子にガンッとテーブルに頭を打ち付けた。器用にテーブルを避けて謝り続けていたときとは違う。彼の琴線に、カルマは触れたらしい。
「この$%’&%‘&’が」
誤魔化すようにまくしたてた早口が、なぜか俺にははっきりと聞こえた。
この『落ちぶれ貴族』が、と。
「――アスト様。少々、席を外していただいてよろしいでしょうか?」
カルマが俺の座っている椅子の足をコツンと蹴る。
「あぁ、それがよろしいでしょう。お手洗いは部屋を出て左に進んでいけば見つかりますので」
口元を抑えて俯いている男も、俺が退室することを前提に話す。
一触即発の空気。つまりは――ここが今から、戦場になるのだということ。
空気が、弱い人間の存在を許さない。
彼らに言われずとも、俺はこの状況に一時も体を置きたいとは思えなかった。
「す、少し席を外しますね」
駆け足で部屋の外に出て、左の方向へ走り出す。
背後で大きな声と物音が響いていても、足は止めない。
彼らのいざこざを収める?そんな無謀な挑戦をする気はない。俺は絶対に、戦いなんかに手を出しちゃいけないんだ。自分の能力も役割も、過大評価してはいけない。
「俺が命を懸けるのは、そうしないと守りたい人間を守れないときだけだ」
イブを助けるまで、俺は余計なことに首は突っ込めない。……まぁさすがに、彼らもお互いの命をどうこうするところまで戦う気ではないだろう。
ずっと進んでいくと明かりがついた御手洗いが見えてきた。一般住宅の明かりはほとんどがマッチの火を使ったものだが、王都中央書店ともなれば火属性の魔導による自動照明が完備されていた。
ん?ということは、誰かが中に入っているのか。
「不審者扱いされなければいいんだけど」
カルマがいなければ、俺は場違いな庶民でしかない。時間も時間だし、問答無用でひっ捕らえられてもおかしくはない。
まぁ考えすぎか、と足を踏み入れると――
「ん?」
「……え?」
ちょうど個室から出てきた男と目が合う。
まだ全く色あせていないその制服は、彼が新人の書店員であることを示していた。学校を卒業したての、まだあどけない顔。プライドの高さを匂わせる彼の仕草には、見覚えがあった。
「あーー、えっと。名前、なんだったっけ?」
「アスト・エレシオンンンンンンンンンッッッッ!?!?」
魔導書作家専門学校――王都第一校の同期。
名も覚えていない少年との再会だった。