「幻でも見ていたのですよ、きっと」 byメイド
「無理です、お引取りくださいっっ!!」
圧倒的な暴力オーラ、変態オーラを撒き散らす彼女の要求に、俺ははっきりとした態度で逆らう。フィーネ・トルストイに近づくな、というイブの忠告は無下にはできないのだ。
友達の親切を無駄にはしない。
それがアスト・エレシオンの男気だっ!
「では、納得いただけるまで、帰りません」
「…………」
男気の在庫が切れたらしく、目の前の女性に立ち退きを迫ることができなかった。
ちなみにメイドは俺の仕事机の上に立っている。
……そう。床の上ではなく机の上である。
靴を脱いでいるあたり、礼はわきまえているのかも……いや、違うな。まだこの人から礼を重んじた態度を受けた覚えがない。
「えっと、メイドさんの足の下に俺の仕事道具があるんですけど……」
「仕事道具?子供のおもちゃかと見間違ってしまいましたが……この紙とペンとインクがですか?」
「ぐっ……たとえ子供のおもちゃ並みでも、大事な飯の種なんです」
「栄養失調にお気をつけくださいませ」
右を見れば悪態をつき、左を見れば蔑視を食らわす。これが彼女の会話術らしい。いっそ感心してしまうというか、普通に話したほうが楽にすら見える。
机に立ったメイドと椅子に座った俺。何の進展も見せない、不毛な膠着状態が続いていた。
初めに動いたのは彼女のほうだ。
「良いですか、お客様。針の穴すら通ってしまいそうな、薄くて小さい肝っ玉のお客様に、我がトルストイ家の客人の招き方をご教授いたしましょう」
キリッ、と切れ長の瞳で俺を威圧し、彼女はずいっと俺の目の前まで近づく。いくら盲目的な恋人たちも恥ずかしがる近さだ。
「ち、近っ」
「建国暦2835年。二代前の当主様が、とある地方の食堂を大変気に入られました。当主様は平和的に料理人をご自宅に招かれたのですが、『自分の食堂以外で腕は振るえぬ』と料理人はそれを固辞。当主様の領地内に新たな食堂を開けと言っても、思い出の店は手放せぬと譲りません。当主様は仕方ない、とメイド長を呼びつけました」
唐突に始まった昔話。気に入ったから自分の手の届くところに置こうだなんて、さすが貴族さまのやることだ。
しかし、そうまで断られたということは、
「……えっと、結局は諦めたってことか?」
「まさか」
メイドは首を横に振った。
「メイド長の指示のもと、店ごと土地をくりぬいて、屋敷まで空中運搬することが決定いたしました」
「……は?」
「豚の挽き肉を詰め合わせただけのお客様の脳に配慮して、もう少し具体的に説明いたしましょう。メイド長率いる特殊お出迎え部隊が、土属性の魔導で地面を掘り返し、風属性の魔導で空飛ぶ食堂を実現させました。全ての作業を夜のうちに済ませ、料理人が起き上がる頃には、店の外は高貴なお屋敷でした」
み、店ごと空中浮遊!?
何の冗談だよ、それは。
「まだまだございます。建国暦2857年のことです。先代の当主様は大変盛っておられまして、お出かけをなさるたびにヤれや、犯せやの乱痴気騒ぎを起こしていらっしゃいました」
「やっぱり貴族にはそういうやつもいるんだなぁ……にしても言い方がひどいけど」
「事実を述べたまででございますので。――そんな当主様にまんまと引っかかった奥方様は、大変お優しく美しい方でした。しかし、隠し子の発覚が100人に達した日、ついに奥方様に火がつきました」
「100人まで耐え切れたのもすごいと思うけどな……」
「奥方様がいつもおっしゃられる『あらあら』が『あらあらぁ』に変わったときは、使用人一同が恐怖に咽び泣くこととなりました」
「いや、それは誤差だろう」
想像されるのは、人の良さそうな貴族女性がニコニコと笑顔を浮かべている様子。口癖の言い方が少し変わったからって、大げさに過ぎるのではないか。
俺の気楽な考えに、メイドは分かってないなと言いたげに鼻を鳴らした。
「奥方様は当時のメイド長を呼びつけまして、『隠し子100人記念のお食事会を開きます。愛人の方々を招待していらして』とおっしゃいました」
前言撤回。笑顔は笑顔でも返り血の似合う笑顔だ。
「当然招待状に素直に従わない女性もいらっしゃいましたので、その方のお家からは子供さんにまつわる全てのものを回収させていただきました」
「す、全てって?」
「子供本人、おもちゃ、衣服、子供用の食器、部屋に落ちている髪の毛からよだれの染みまで。全てです」
俺は口を開けてただ黙るしかなかった。
脅しなんてものじゃない。それはすでに処刑の域だ。
「その子供に関する記憶を友人や親類縁者などから完全に消す、という作戦も考案されていたそうですが、実現に移される前に全ての招待客が揃いましたので」
語るべきことは語った、と彼女は俺から顔を離す。そこでようやく、俺は女性の顔が息が当たるほど近くにあったことを思い出した。
胸の高鳴り?興奮?
あぁ、心臓は暴れ馬になってるよ。恐怖でな。
「その食事会は……どう、なったんだ?」
「奥方様が、『私に殴りあいで勝てた方に正妻の座をさしあげます。さぁ、やりましょう?』と宣言してから、食事会が始まりました。食事をするのは――いえ、捕食者は奥方様だけでしたが」
聞かなければよかった。
「後半には猛者たちが残りました。そこで奥方様が当主様を盾にして無双されたことには、多くの使用人が腹を抱えて大笑いしておりました」
「笑えねぇよ」
「笑うこともできない貧乏人に――」
「それはさっき聞いたから!!」
仕事机に腰かけたメイドは、俺の叫びを無視して息をつく。
「本当に、笑うこともできない貧乏人にはなりたくないですね」
「改まったかと思えば、結局それか……」
「失礼。本音とは何度言っても物足りないものです」
彼女は先ほどまで足の裏で踏んでいた魔導紙を手にとって、ジッと見つめる。
「さて、ご理解いただけたでしょうか。その、タダでもちょっと受け取りたくない駄頭さまでも、トルストイ家のお出迎えの作法は」
「――あぁ、よーくわかったよ。さすが貴族様だ。やっていいことと悪いことの区別もつかないんだろうさ」
この国の貴族には数々の特権が与えられている。それゆえに、彼らは民衆に対してどんな行いをしても罪に問われないのだ。もちろん大虐殺なんて行なえばその限りではないだろうが、大きく国益を損ねる行為以外は、裁かれることはない。
堂々と地面を抉り取ろうと、子供を誘拐しようと、それは貴族様の娯楽なのだ。
「よーく分かったよ。結局は俺みたいな庶民をおもちゃにして遊びたいだけなんだろ?屋敷に招かれたところで、俺なんかすぐに飽きられて終わりだぞ?芸の一つもできないからな」
「それを威張って言うあたりにお客様の被虐思考が窺えますが……お嬢様はそのようなお戯れをなさる方ではありませんよ」
「はっ!どうだかな。市井じゃ随分バカにされてるらしいじゃないか!……ただのクレーマーとまでは思っちゃいないが、悪評が広まるにはそれなりの理由があるはずだ」
正直なことを言えば、俺は以前の経験もあって貴族に良い感情を持っていない。その上トルストイ家のバカらしい武勇伝まで聞かされたのだ。メイドの態度も相まって、今の俺は妙に挑発的な態度をとっていた。
メイドの手がピクリと動く。
「だから帰ってくれよ。昼間のお詫びとか、そういうの本当にいらないから。こんなのじゃ、貸しが増え続けるだけでどうなるか分かったもんじゃない。あのお嬢様も美人なんだから、お近づきになりたいやつくらいいっぱいいるだろ?そういうやつを連れてけば――」
「全く、愚かしいですね」
饒舌に、良い気分でペラペラとしゃべっていた俺に、彼女は冷や水を浴びせる。
彼女の頭に載っている龍の形の髪飾りが、不気味に光った気がした。
「な、なんだよ……」
「興が冷めたと申しているのですよ、御客人。怖がらせるな、とのご命令でしたし、わたくしも下女の身。誠心誠意のおもてなしをと考えておりましたが――少々、手ぬるかったようです」
目が笑っていない。
その態度はまるで、これまでの話が俺を『本物の脅し』なしに連れて行くための優しさであったかのような――
「問いましょう」
視界がぶれる。
「本当に、我が主の厚意を断るつもりですか?」
ザーーーッ、ザザッ。
【イブ・アーネストが死んでいた。
死体の損壊は激しい。
いや、死体?
どれが死体だ?
耳がここに散らばっている。何等分かに切断された腕と足が積み木のように組み立てられ、肉の棟ができあがっている。
カラスがこぞってついばんでいるのは、その横。食べやすいように一口大にぶつ切りにされた――胴体だ。寄ってくるカラスに向かって、ポトポトと肉を投げ落としているやつがいる。この惨状をもたらした下手人だ。
下手人の『手遊び』に目的はない。強いて言えば芸術だ。これを見ている人間がいかに声をあげて眼をふさいで恐怖に体を震わせて糞尿を垂らして、絶望をその心に刻むか。それが肝要だ。
下手人は死んだ人間に興味はない。生きた人間の心をどう傷つけるかに芸術のセンスが問われる。だから、顔だけは残している。死んだ人間が誰であるか、辱められている人間が誰であるか、それを明確にしてこそ心は揺れる。
だから、耳を削ぐときもちゃんと確認した。エルフであれば、耳がチャームポイントという人間も多い。その場合は耳も顔のパーツとして残しておかなければ。
だがイブ・アーネストは人間だ。なら、よし。
下手人は最後の手順に移る。一度顔を分かってもらえればいい。これからが芸術の神髄だ。見ている人間の心に刻むことができた一太刀、それで満足していた時期もあった。
だが、まだ足りない。
芸術はそんなものか?
違う。
進化するのが芸術だ。退化するのが芸術だ。
誕生と破壊を繰り返せ。
全てが超爆発(誕生)で全てが超爆発(破壊)だ。
芸術は爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ、爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ、爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ、爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ、爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ、爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ、爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ、爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ、爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。爆発だ。
イブ・アーネストの頭部が爆発した。】
ザザッ。ザー――ッ。
「…………イブ?」
腹の奥を突きあげられたような衝撃。
ん?
なんだ?
メイド?――イブ?
イブがここに?
イブがどこにいるって?
イブがどうなったって?
ん。
ん……。
ん……んぐぅっ。
喉が痙攣して、体の中からイノシシ肉がせり上がる。
「<慈しみの青>マーシィ・ドロップ」
喉を通過しかけていた不快な流れが、即座に清涼な水の流れに押し戻された。
ヒーリングの魔導?こんなのにも利くんだな。
ははっ。
はははっ。
はははははははははっ。
「今のはっ……なんだっ!」
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪いっ!体の中だけが爽やかな気分になっているのが、何よりも耐えられないっ!吐き出すことができれば、このおぞましい感情も一気に放出できただろうに。
体が、心が震えて、中に溜め込んでしまったものと戦う。
「なんだよ、今のはっ!おまえが関係してるんだろうが!」
俺は元凶であるはずのメイドを睨み付ける。
彼女は魔導紙をその手から落とした。その人差し指には俺が使っていたインクが染み付いていて――どうでもいい。どうでもいいよ、そんなことは。
「お客様。きっとご理解いただけていないと思うので忠告いたしますが、今お客様は理由なく女性に手を挙げるという卑劣な行為をされていますよ?」
そういえば、俺はメイド服の襟元を掴んでいた。
睨み付けていたはずだったが――どうでもいい。
それがどうした。
「うるせぇ、いいから答えろ、今のはなんだっっ!」
「今のはただの幻覚です。わたくしが見せた、幻覚。イブ・アーネストは死んでいませんよ――今は」
いつのまにか握っていたメイド服の感覚がない。メイドは俺の後ろにいた。
俺はそいつをつかまえようとする。だが、ことごとくかわされる。
「あなたが賢明であれば避けられるかもしれない、未来の可能性の一つですよ」
「イブを!てめぇらがイブを殺すってのか!?それが、トルストイ家が俺を迎え入れるための流儀だって言うのか!?」
「それはまた別の話です。お出迎えの作法だけで、あそこまで無駄なことはいたしません。お客様のご友人は、軽々しく手出しできない立ち位置にいますよ」
ご存知ありません?とメイドは俺に囁きかける。耳元だ。そこをめがけて拳をふるうが、空振り。
「なら、何なんだよ!何をどうすれば、イブがあんなふうにされなくちゃならないってんだ!イブが殺されることになるっ!」
「……ふぅ」
俺が滅茶苦茶にふるう拳を避け続けていたメイドが立ち止まった。そして――拳を、胸で受け止める。渾身の力をこめたはずの拳が、柔らかいその体に当たって、勢いを失う。
相手をよろめかせることすらできない。
「なっんなんだよっ……!」
「いい加減、激高してる自分に酔うのはやめていただけますか?先ほどのヒーリングの魔導は精神の沈静作用も含まれていますので、落ち着こうと思えば落ち着けるはずですよ」
「……フリなんかじゃねぇ。俺は本当に、怒ってんだよ」
拳を引こうとする。
だがその拳をつかまれ、俺ははっとして彼女を見る。
「違います。あなたは怒っているのではなく、恐れているのですよ。自分の力の及ばない光景に、力に。……あまりに聞き分けがないものですから、ついつい脅かしたくなってしまいました。やれやれです。この労力に見合う価値が、あなたにあればいいのですが」
「……何が、言いたい?」
「我々トルストイ家関係者一同は、アスト・エレシオン――あなたの味方ですよ。あなたがイブ・アーネストを守ろうとする限りは」
「おまえが、俺の味方……?」
煮えたぎっていた怒りの火が不意に水を浴びせられる。
あまりに予想の斜め上を行く答えだったのだ。
味方。その発想だけはなかった。いや、事実ないはずだ。
イブはフィーネ・トルストイに近づくなと言った。つまりイブとトルストイ家は、友好関係よりもむしろ敵対関係に近いはずだ。トルストイ家がイブを守る、俺の味方であるなんてのは詭弁だ。
だが、彼女は呆れたような顔つきで決定的な言葉を口にする。
「そもそもお客様をお招きしようと思えば、そこにある商売道具を叩き壊し、当家に頼らなければ餓死するように仕向ければいいだけではありませんか」
「……それは間違いないな」
「だから今お見せしたものは、当家の……いいえ、わたくし自身の誠意だと思っていただきたいですね」
誠意。
その言葉の印象が、彼女を見る目を変える。
「聞いたことくらいはありませんか?このボーデン王国には、秘密裏に組織された諜報機関が存在することを。その諜報員たちは化物揃いの狂人共であると」
「その諜報員が、イブをあんな風にするって言いたいのか?」
「あくまでその可能性が高いとだけ」
俺の拳を離し、彼女は胸のあたりをポンポンと払う。
「恐らくは半年後。諜報機関ミスティコの刺客がイブ・アーネストを襲撃すると思われます」
諜報機関の刺客。あの忌々しい光景は、そいつが襲ってきた場合の末路だと言うのか。
――認めたくはない。
認めたくはないが、彼女は嘘偽りを言っている風ではない。
いや、今しがた幻覚をかけてきた人間だぞ?嘘偽りを言っていない?なぜ確信がもてる?それこそ、俺が騙されようとしている証拠なんじゃないのか?
この女、全てが冗談でできている。この女の存在自体が冗談なんじゃないか?
そもそも、さっきのヒーリングの魔導だって、まさか俺が書きかけていたものを完成させたのか?ショートカットをした?いや、こいつは魔導師じゃないのか?まさか、どちらも高いレベルまであるなんて――
「お客様。ご考慮のところ申し訳ありませんが、些事にかけられる時間は多くないのです」
彼女は俺の思考を些事だと切って捨てる。
「…………」
その扱いに反論できないほど、俺と彼女の力量差は歴然としていた。
そして、俺はあまりに無知だ。
「当家にお越しいただければ、先ほどの悲劇を回避するための知恵も、力もさしあげましょう。現トルストイ家当主、フィーネ・トルストイ様は日中の謝罪としてそのようなご判断を下されました。これは当主様直々にお話しになる予定でございましたが、わたくしが先走ってしまったご無礼を謝罪申し上げます」
スカートの裾を持ち、頭を下げるメイド。今まで不遜だった彼女がこれほど丁寧な態度をとるということは、これが公的な宣言である証拠だ。
この宣言にはトルストイ家の信用を賭けているという証だ。
「……俺がそれを信じるに足る証拠は?言っちゃあ悪いが、今日俺が被った損害は金額に直せば大したものじゃあない。それを理解したうえで、トルストイ家が俺にそこまでのことをしてくれる理由は?」
「当主様がおっしゃっていた通り、金銭的な解決は望まれていません。そしてもう一つ――我がトルストイ家にとってもイブ・アーネストに死んでもらっては困る。そう言えばご満足でしょうか?」
「トルストイ家にとっても、イブを助けることに旨みがある、と」
――なるほど。ようやく腑に落ちた。
要するに、俺を利用してイブを守らせると同時に、あわよくば俺を介してイブとのつながりを作ろうとしているのだ。
そこにきっと、イブがフィーネ・トルストイを忌避していた理由がある。
「イブにとってトルストイ家は、きっと味方じゃあない」
「それはわたくしにはわかりかねますが」
「いや、あの子は純粋だから、本能的に味方と敵の区別くらいつくんだ。イブの勘に俺は何度も驚かされたことがあるし、イブが言うなら、俺はフィーネ・トルストイに近づくべきじゃあないんだろう」
――だがその結果。俺が無事で済もうとも、イブに危害が加わるなら。
「もう一度だけお聞きしましょう。ここまでお話して――まだ当主様のお戯れだと思われますか?当主様のお招きを袖にされるのですか?」
「――いや、俺が間違っていた。イブのためなら、俺はどこへだって言ってやる。それが俺の、友達への誠意の見せ方だ」
たとえ、トルストイ家に利用される羽目になろうとも。
「――了解いたしました」
メイドはもう一度礼をしてから、その頭の髪飾りに触れる。
「では、その心意気にお応えして、改めて名乗らせていただきます。トルストイ家侍従、若輩ながらメイド長をつとめさせていただいております、ミラ・カルマンと申します。カルマとお呼びください、お客様」
「アスト・エレシオン。しがない書家だ」
「謙遜ではなく本当にしがないですね」
「ほっとけ……」
カルマはやはり俺の文句を気に留めず、部屋の出口へと向かって歩き出す。
些事にかける時間はない。つまりは、四の五の言わずについて来い、ということか。
自分がどんな決断を下してしまったのか。現実から少しだけ目を背けたくなって、別の話題を彼女にぶつける。
「そういえば。どうして俺の家がわかったんだ?まさか、あの詰め所からずっと尾けてきたのか?」
「些事にかまけている時間はないと、何度言えばご理解いただけるのでしょう、アスト様は。そのご様子では、魔導の構成文暗記もままならないのでは?」
「……何万文字も、意味のない言葉を覚えられるっていうのかよ」
「ショートカットもできない不能でしたね、失礼」
話しかけるたびに傷つく。こんな理不尽なことが果たしてあるだろうか。
「アスト様にはお嬢様のシグナルがついておりますので、居場所はお嬢様に丸わかりなのですよ」
「シグナル?何だそれ」
「飼っている動物につける首輪のようなものです。それがついている限り、たとえ大陸の果てまで逃げようとお嬢様にはすべてお見通しとなります。よかったですね、甲斐性のあるご主人様に拾われて」
「よくねぇよ!よく分かんないけど外してくれる!?」
下手な疑問を持ってしまったばかりに、別の厄介な現実に行き当ってしまった。
安全な話題がどこにもない……。
「居場所を知られたくないとのことでしたら、お嬢様にシグナルを解除してもらうか、あるいはさらに強いシグナルで上書きするかのどちらかですが……それはお嬢様と相談なさるといいですよ」
扉の前まで来て、彼女は貞淑な体さばきで俺に道を譲る。
「ここを出たら、しばらく戻ってこれない可能性もございますので。けじめはご本人が付けられたほうがよろしいかと」
しばらく戻ってこれない――物騒な言葉に体が少しだけ震える。
覚悟を決めて家を出ろということのようだ。
改めて言われてみれば、当たり前のことかもしれない。彼女たちは俺にイブを助けさせようとしている。俺がイブを助けられるくらいの力をつけなければならないのだ。方法は見当もつかないが、生半可なものであるはずがない。
散歩にでかけるような、着の身着のままの状態でいいのか?
「戻ってこれないって言うなら、仕事道具も持って行っていいか?」
「子供のおもちゃですね」
「いや、だから仕事道具を――」
「子供のおもちゃ」
「……子供のおもちゃ、とってきていいか?」
「仕事道具と呼べるものをこちらで用意しますので、ご心配なく」
ちくしょう、弄ばれたっ!
「ほかに、何か持ち出さなければいけないものはありますか?」
持ち出さなければいけないもの。
思い出の品はある。学校時代、友達は多かったってわけじゃあないが、両手で数えられないくらい思い出は残ってる。イブと同じくらいに仲良かった同級生や後輩、年齢不詳の講師なんかと馬鹿をやった日々の記録。もう一生戻ってこれないなら、持っていきたい。
――けど、
「いや、やっぱりいいよ。今は必要ない」
「準備は整っている、ということですね。わかりました。では、行きましょう」
鍵を外す。
ドアを開く。
いつもの何気ない動作に緊張する。視線は自然と足元に向いていた。
「やるしかない、か」
開かれたドアの先へと足を踏み出す。
そして俺は、顔を上げた。
「――少し、遅かったですね」
「……え?」
顔を上げると、そこにはカルマがいた。
ん?
彼女は俺に扉を開けるのを譲って、俺の後ろにいるはずだ。
振り向くと、そこには誰の姿も見当たらない。
「あまり呆けた顔でキョロキョロするものではありませんよ。周囲のあらゆる人のお目汚しになりかねません」
開きっぱなしの口と扉。彼女は扉のほうだけを閉めて、スタスタと前を歩いていく。
「あの……どうやって、先回りを?」
「先回り?はて、何のことでしょう」
無表情のままの彼女の口から、クスクスと笑い声が聞こえてきそうだった。
「アスト様の部屋には鍵がかかっていました。ですから、わたくしが部屋の中にいないのは当然のことでしょう?」
「え、いや……嘘だろ。もしかして、部屋の中のカルマは全部――」
俺をけなしていたのも。
魔導書を書いてみせたのも。
俺がつかみかかったのも。
「幻でも見ていたのですよ、きっと」