「わたしのひもになってくれないかな……?」 byイブ・アーネスト
第六階梯魔導。
この領域に踏み込めるのは、ごく一部の天賦の才を持つものだけである。なんとも情けない――努力という崇高な行動を馬鹿にするような教えであるけれど、それが魔導書作家連合<アテナ・アポストロス>の公式見解だった。
標準的な魔導言語であるアテナグリフで書けるのは、第五階梯魔導までとされている。
つまり、本当の天才たちは――自分独自の魔導言語を創り上げる。
専属契約している魔導師とだけその言語の知識を共有し、秘蔵のものとしてその猛威を振るうのだ。
その域に達した者たちを、人々は第一級書家と呼び、その名を称えることとなる……
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「…………ふぅ」
詰め所での騒動が一段落した後。日没を迎える頃になったのを見計らって俺は食事処にやってきた。洒落たところなら「れすとらん」とか言うらしいが、あいにく俺は貧乏人としての食事処しか知らない。
俺にとっての食事処とは。
ガラクタが散らかっている薄汚い路地裏を器用に進み、錆びた茶色のドアノブを開けた先に待っている――この人間味あふれる場所のことだ。
「あら、良い男。食事の後にでも、うちの店に寄ってかない~?」
「がっはっは!わざわざ場所を変えなくても、俺はここで料理もろとも食ってやっても構わないぜ?」
「ちょっと、そっちの男は先に私が目ぇつけてたんだから、横取りしないでよ!」
人間味があふれている……よく言えば。
悪く言えば、ダメなやつらの掃き溜めだ。狼人の男(この付近の亜人の二分の一は狼人である)に人間の女が二人、しなだれかかるように寄り添っている。男の手はもちろん、女の乳房とか、尻とか、そういう部分に伸びていて……正直、目の毒にしかならない光景だ。
こいつら以外にも似たような男女の組が店のいたるところで馬鹿騒ぎをしていて、耳が痛くなる限りだ。
「らっしゃい……ん?アストか……久しぶりだな」
「おう、おっちゃん。ここ二日くらいは、寝ずに仕事してたもんでね」
「ほー……そりゃあ、良いことだなぁ……なら、たまにはもっとマシな店にでもいかないのか……?」
「売り物が……とある事情でパーになっちまって。むしろいつもよりも困窮してるよ。値引きしてくれない?」
ふん、と小さく笑うのはこの店の店主であるおっちゃん。常連客の誰も名前を知らないこのおっちゃんは、見た目こそ普通の人間のであるが……その実、見逃せない特殊能力を持っている。
おっちゃんは――いつも、少しだけ宙に浮いているのだ。
料理を運びにくるおっちゃんは、いつも地面から足が離れている。ほんの少しだけ。
龍の血が流れているとか、妖精と交わったことがあるとか、色んな憶測が流れてはいるものの、真相は誰も知らない。だが、その物珍しさや激安な料理がこの店がいつもにぎわっている理由だった。
おっちゃんが俺の背中のほうに視線をやる。
「おぅおぅ……アストよ。……店をとりしきっている俺が言うのもなんだが……こんな店に、そういう子を連れてくるもんじゃ……ないぞ?」
あごをさすりながら、おっちゃんは柔らかく俺を諭す。……いや、俺もそれくらいは分かっているんだよ、おっちゃん。だけどさ……
「はっ、はじめましてっ!いつもアスト君がお世話になってますっ!」
黒いフードを取り払って、深々と頭を下げたのは、俺の背後にピッタリと張り付いていた少女。高く澄んだ声をしている彼女の第一声は、焦りと緊張をふんだんにまぶして店内に響き渡る。
……何してんだよ、本当。
「これはこれは……ご丁寧に、どうも。……いつもひいきにしてもらって助かってるよ……」
荒くれ者相手に普段から商売をしているおっちゃんは、さすがの大人の対応で彼女の失態を流す。だけど、店の中にいる厄介な奴らが――俺たちに気づいてしまった。
「おぉ、アストじゃねぇか!なんだなんだ、顔見せねぇと思ってたら、女を捕まえてたとはなぁ……かーーっ、まだ乳臭ぇ顔してるってのに、まぁ立派な女をひっかけてきやがったなぁ」
「アストくん……あ、ほんとだ。久しぶり~。……え、あの子ってまだ童貞だったっけ?」
「そうそう。初めてだからタダでいいって言っても、乗ってこなくてさ~。お姉さん、嫉妬しちゃうなぁ」
「アスのガキに女ができた?こりゃ、めでてぇ。おっちゃん!てきとうに安い酒を一本追加してくれや!」
「おいおい、俺の女と交換してほしいなぁ、ありゃ……」
次々と色めきたつ客たち。赤い顔で手を叩いているやつもいれば、てきとうな理由をつけて酒を注文しようとするやつや、俺をだしにして官能的な雰囲気を高めようとするやつもいる。
どいつもこいつも、馬鹿ばっかりだ。
「えぇい、もう彼女だろうが、なんだろうが何でも言っていいから、とりあえず俺とこの子を二人きりにしてくれよ!」
「……アスト。……長い付き合いだから止めはしないが……ヤるなら、隣の宿場のほうがいいぞ……?」
「ヤるわけあるかっ!!」
本気で言っているらしいおっちゃんと、ニヤニヤ笑いを浮べる客の前を通り、俺は彼女を連れて店の奥のほうの席に座る。……全く、ここの奴らはいつも金か酒か女のことしか考えてない。
この店で一度本格的に眠ってしまい、目が覚めると遊廓に連れ込まれていたときはさすがに肝を冷やした。間一髪逃げ出したからよかったものの……あと少し遅ければ、無銭利用という覚えのない罰を科されるところだった。
「アスト君、アスト君」
「ほらやっぱり、こんなところに来るべきじゃないって言ったろ?治安なんてもう最悪なんだからさ、イブは女の子なんだし特に――」
「みんな良い人たちみたいだね」
……俺はそれに答えない。
代わりに座敷へと彼女を案内して、ささくれが目立つ木の食卓を囲む。ところどころ汚らしいしみが目につくのは仕様だ。
「アスト君?」
丸縁の眼鏡の奥にある彼女の瞳に、不安の色が映る。
――イブ・アーネスト。それが彼女の名前だ。
俺と同期の卒業生であり、すでに第一級書家としてその名を轟かせている、紛うことなき天才だ。本人には名誉欲のようなものがさらさらないようで、滅多に人前には出たがらない。しかし、同業者連中には顔も名前もしっかり覚えられているだろう。
滑らかな曲線を描く銀髪は長いほうが似合うだろうに、彼女は「魔導書を書くのに邪魔になるから……」と言って頻繁に髪を切っている。絶世の美少女というわけではないけれど、その純粋で穢れを知らない性格で、学校内でも「付き合いたい女子ランキングトップ10」に常にランクインするほどの人気ぶりだった。
そんなことはさておき。
「良いやつら、ねぇ……」
あれだけ冷やかし交じりの野次を受けてそんな感想が出るっていうのは、イブの長所でもあり短所でもあるなぁ、と感じてしまう。他人の善意を信じたがる性格、というのも考え物だ。
「アスト君……えと、何か悪いこと言っちゃったかな?わたし、失敗しちゃったかな?」
「いや、そんなことはないさ。ちょっと考え事してただけっていうか……ほら、最近色々悩みもあってさ」
『やっぱり……アスト君は、自分が童貞だって気にしてるのかな……』
「ブッッ!」
吹き出した。
おっちゃんが水を持ってきてくれる前だから、助かったけれど……。
「えっと……イブさん?」
「うん?」
彼女は何事もなかったかのように、首をかしげている。
……いや、分かってはいるんだ。俺が童貞だということについて今直球で指摘した声の主が、イブじゃないことくらい。
いや、性格にはイブの『心の声』なのだけど。
『そうだよね。アスト君ももう立派な男の子なんだから、未経験ってことで、悩むのも仕方ないよね。普通だよね。うん、普通、普通』
「おっちゃん!もうなんでもいいから料理持ってきてくれ!とにかくやけ食いできそうなやつ!」
「えっと……暴飲暴食はよくないんだよ?」
心配そうな顔で俺を見つめるイブ――その頭の上に乗った暢気そうな猫に、俺はありったけの怨念をぶつける。ただし、睨みつけるとイブが怯えてしまうだろうから、自粛。
被り猫。
あの猫をイブの頭に乗っけた張本人は、悪どい笑みを浮べながら、その猫の性質について語った。
曰く、取り憑いた対象の本音を代弁する猫だそうだ。
卒業を三ヵ月後に控えた日にイブを呼び出した担任教師は、カラカラと笑いながら被り猫を取り憑かせた。イブが気づかないように。
『なぁに、先生なりの優しさだとも。これっぽっちも、悪ふざけの要素なんかない。先生はね、純粋すぎるイブさんが悪い大人にひっかからないように、わざと被り猫を取り憑かせたのさ。……あぁ別に、イブさんが普段から猫を被ってるとか、そういう非難をしたいわけでもないのだよ?』
腹黒、陰険、有能、という混ぜるな危険の三要素を混ぜ合わせた男性教員は、イブには内緒にしたまま被り猫を取り憑かせ続けるのだと、俺に説明した。わざわざ、俺に。
『エレシオン君。君も心配だろう、この可愛らしいイブさんが嫌らしい大人に騙されないかどうか。……おや、そこで私を見るということは、成績が一段落ちることを覚悟しているのかな?』
実際、一段と言わず二段階評定を下げられた。
『この被り猫は、会話している相手に対して、イブさんの本音を脳に直接送り込む。だから、耳をふさいでも意味はない。……まぁ、イブさんのことだから、本音であったとしても、大して毒気のない面白みに欠ける……失礼。心優しい言葉でしかないだろうけどね。だがもちろん、被り猫のせいで、彼女に近づく人間は減るだろう。それは、彼女に好意的な感情を抱いている人間であったとしても』
そこまでして被り猫を取り憑かせる意味はあるのかと問うと、先生は眼光鋭くこう答えた。
『もちろんだとも。彼女はこの国どころか、この大陸全土の至宝にもなりうる人材だよ。そこらの虫けらが近づいてくるのを払うのは当然。被り猫くらいで離れていくような中途半端な奴が関わっていい相手ではないのさ。……あぁ、ちなみに、彼女に被り猫の言葉は聞こえないし、被り猫に関する情報は彼女の頭が認識できないように設定してある。要するに、彼女は自分に被り猫が憑いていることを、どうやっても認識できないのさ』
だから、それで不自由な部分はエレシオン君が助けてあげなさい。
――と、彼は締めくくった。
俺はイブのお守り役とでも思われていたのか。随分と信頼されたものだが……確かにそれ以降、イブが変な話に巻き込まれる回数は減った。卒業寸前に行なわれた「決定版、付き合いたい女子ランキング」では、トップ10から外れるという悪影響も発揮したのだけど……それは男子の間だけの秘密である。
「お待たせ……」
おっちゃんがまず持ってきてくれたのは、イノシシ肉の丸焼きだった。味はあまりよくないし、ほとんど調味料も振り掛けない手抜き料理だが、満腹感と値段の安さにだけは定評がある。
「よし、今日は食おう。食って、色々忘れよう!決して、童貞のことで悩んでるわけじゃあないからな、うん!」
「アスト君。……魔導書がダメになっちゃったって本当?」
俺がイノシシ肉にかぶりつこうとした瞬間、水を差すように彼女は質問を繰り出した。
そういえば、事情は話してなかったんだっけ。
「本当だよ。今日は詰め所に行ってきたんだけどさ、そこでアポティヒアが起こって、魔導書が全部燃えた」
「え…………」
ショックを受けた、という風にイブの動きが止まる。こころなしか、頭の上の被り猫までも顔をしかめたようだった。
当然の反応かもしれない。書家のような専門職の場合、スキルを上げれば上げるほど、その仕事への熱意も強くなる。俺以上に熱心に魔導書づくりに励むイブとしては、想像するだけで震え上がってしまうものなのだろう。
一応心の整理がついた俺は、こうして平然と語ることができているのだけど。
「だ、誰が……その、アポティヒアした魔導書を作ったの?」
「誰って言われてもなぁ。王都中央書店の魔導書ではあるらしいけど」
『かわいそう、かわいそう、かわいそう、かわいそう』
イブ……心の中とはいえ、そんなにかわいそうと連呼されるとみじめな気持ちになるから、やめてもらえないかなぁ。
「王都中央書店だね……。うん、わかった!」
「待て待て待て!何がわかったんだ!」
『王都中央書店に行かなきゃ。アスト君に謝ってもらわなきゃ』
被り猫がなんだか物騒なことを言う中、イブが静かに立ち上がる。その瞳が、珍しく決意に燃えているのを俺は喜ぶべきなのか、嘆くべきなのか。
「大丈夫だよ!わたし、失敗しないから。ちゃんとアスト君の悩みの種を取り除いてみせるから!」
「いやいやいや、むしろ遠慮します、遠慮させてください!多分それって、悩みの種がもっと大きくなるだけだから!俺は大丈夫、ほんとこの通り心身ともに元気だから!」
「まぁ、心身ともに元気ですって。体のどこを元気にさせるつもりなんだか」
「若いころってのはそんなもんだ。あのガキにもそういう時期が来たってことさ」
「外野は黙っててくれる!?」
こちらの座敷に聞き耳を寄せて、人聞きが悪いところだけピックアップする野次馬たち。
しかし何かに火がついてしまったイブはそちらを気にかけることなく鼻息を荒くする。
「お友達を傷つけられて黙っていられるほど、わたしはお人よしじゃないよ?ここで立ち上がらないでアスト君の友達を名乗ろうなんて笑わせてくれるよね!」
「いやいや、もう十分助けてもらってるから。これ以上迷惑をかけること自体俺としては心苦しいっていうか」
食べ始める機会を逸してしまったイノシシ肉をチラチラと窺いながら、俺はイブをなだめにかかる。
大体、彼女がいなければ今日の晩飯にすらありつけないのだから、それだけでも罪悪感に襲われるというのに……。
詰め所を出て、次に俺が考えたのは今日の晩飯についてだった。魔導書が何冊かでも売れればその分の金で何かを食べにいこうと思っていたのに、その予定は脆くも崩れ落ちてしまった。さらに、場所代を払わないわけにもいかず、なけなしの手持ち金もほとんど無くなってしまった。
ここ二日、水以外はほとんど何も口にせずに暮らして、さすがにこれ以上は腹の限界である。イブの優しさに甘えることへの罪悪感と空腹を天秤にかけて――最終的に空腹が勝った。
本来なら、金を少しだけ借りて自分ひとりでここに来ようと思っていたのに、「お金は払うから、アスト君と一緒に食事がしたい!」と言い切られ、しぶしぶ彼女を連れてここまで来てしまったという顛末だ。
なんだか、俺がイブに貢がせているみたいで罪悪感がむくむくと膨れ上がっていく。
……いや、高級な店で奢ると言い出した彼女を引き止めたのは、せめてもの男の意地だと思ってもらえないだろうか。
「とにかく、この件はちゃんと俺のほうで片付けたんだから、もう口出しは無用。友達としてのお願いだ」
友達としてのお願い、という部分を強調すると、イブはかすかに頬を綻ばせた。
「そういう風に言われると弱いよ……。ほんとにダメ?」
「ダメ。王都中央書店にクレームの手紙を送るとか、それどころか本店に乗り込むとか、そういうのは一切禁止」
「うん……」
『他の人を介してのクレームならいいのかな……アライア君とかに頼んで……』
「誰かに頼んでクレームをつけてもらう、とかもなしだからね」
「えぇっ!?」
何で分かったのか、と問いたげに目を見開く彼女に、俺はついつい微笑んでしまう。全く、こういうときにだけは便利だな、被り猫。
「じゃ、じゃあさ、せめて……せめて、一週間くらいは一緒に食事しない?その、お友達がお金が足りずにひもじい思いをしてるっていうのは、わたしの生き様に反するから」
「生き様って……重いなぁ」
助けてもらう理由が生き様に反するからって……微妙な心境にさせられる。
「お、重くないよ……多分」
『アスト君に重いって言われた。悲しいなぁ……』
「ごめん、そういう悪い意味で言ったわけではないんだよ!たださ、俺って前から言ってるように、あんまりお金のこととかに関して貸し借りを作りたくないっていうか――」
「だったら!」
グッ、と拳を握り締めて彼女は宣言する。
「わたしが料理を作っちゃダメかな?それを食べてもらえば、その……直接的なお金のやり取りじゃないからいいんじゃない?」
これならどうだ、と自信を覗かせるイブの提案に、一瞬俺は面食らってしまった。食材費がかかるのは当然だが、手作りの料理を食べさせてもらうとなると、食事処でおごってもらうのとは意味が変わってくる。
仲の良い友達なら、頻繁に料理を作ってあげるというのも、なくはない話だ。
「そう言われればそうかもしれないけれど」
俺は次に何を言えばいいのか決めかねて、口ごもってしまう。
もちろん、彼女がこれほどまで気遣ってくれているのだから、それを受け入れるのが自然な流れだとは思う。
しかし、それほどの迷惑をかける理由がないというのも事実なのだ。学生時代からあまり裕福でない生活を送っていた俺は、すでに何度もイブによる「お恵み」に命を救われている。やたらと金勘定にうるさくなってしまったのは、そのときの負い目があってこそだろう。
たまには、イブにもっと頼りがいのある姿を見せるときがあってもいいじゃないか。
そう思うと、どうしても彼女の救いの手をとれずに、それ以外の道を模索してしまう。
「あ」
そこで、思い出した。
今日出会った「彼女」のことを。
「ど、どうかした?わたしの言ったこと、何かまずかったかな?」
「いやいや、それに関しては本当にありがたいと思うし、イブの優しさにはいつも感謝するばかりなんだけどさ……しばらくの食事くらいなら、イブに頼らなくてもどうにかなるかもしれない」
そう。使えなくなった魔導書の代わりに、俺は奇異な縁を手に入れていたのだ。
フィーネ・トルストイ。
お金持ちのお嬢様であるという彼女なら、急場をしのぐためのご飯くらいならおごってくれそうな気もする。金で解決しない、みたいな姿勢を貫いていた手前、そういう形の償いになるのは彼女も不満かもしれないが……背に腹は変えられない。飢え死にしたら他の償いには何の意味も無いのだ。
書家としてのプライド以上に、友人に迷惑をかけたくないという義務感が俺を突き動かす。
「フィーネ・トルストイっていう魔導師がいるらしいんだけどさ……」
「フィーネ・トルストイ!?……あ、あの有名な!?」
気楽に今日の事件の事情を話し出そうとしたところで、いきなり鼻っ柱を折られてしまう。食卓が揺れるほどに食いつきぶりに、俺は少しだけ身を引いた。
あの狼人の男も有名人だと語っていたし、俺が世情に疎すぎるだけなのだろうか。
しかし、その名がイブにもたらしたのは、何か恐ろしい深遠を覗き込んでしまったかのような、恐怖だった。
蒼然として、彼女はゆっくりと口を開く。
「フィーネ・トルストイと、アスト君はどういう関係になっちゃったの……?」
「どういう関係って言われたって……むしろこれから関係を築くというか、今のところは加害者と被害者の関係でしかないというか」
あまりに大げさな反応。
「もしかしたら、俺を取られると思って戸惑ってるのか?」なんて馬鹿馬鹿しいことを考えてしまうが、そんな冗談が通じそうな雰囲気ではない。
もっと切実な負の感情がそこには存在している。
「アスト君、聞いて。その……詳しいことは契約の関係上言えないんだけど……本当に、わたしの個人的な私見を言わせてもらえれば……アスト君はあんまりフィーネ・トルストイさんと関わらないほうがいいと思うの」
契約の関係上、ということは、専属の魔導師から聞いた話ということだろうか。魔導師と書家の間の契約では、かなり厳しい情報規制を強いられることもあるというから、それに抵触しているのかもしれない。
私見だと前置きしながらも、今のイブは俺に有無を言わせない圧力で迫ってくる。あまり人と目を合わせたがらない彼女が、俺の瞳をとらえて離さない。
緊張で喉が鳴る。
俺は今の彼女に逆らえる気がしない。
「この際、アスト君がどういう経緯で知り合ったかなんて気にしないよ。でも、あの人とこれ以上かかわりを持とうっていうなら……わたしは、それを止めようと思う」
すでに冷え切ってしまったイノシシ肉が、緊張の糸が張り巡らされたこの場にそぐわない。空腹であるはずなのに、その肉に手をつけようという気は起きなかった。
「そうだよね。アスト君はお金を稼がなきゃいけないし、でも友達であるわたしにはあんまり頼りたくないんだよね。アスト君ってしっかりしてるし……そういうとこが、その……好きではあるんだけど」
被り猫が何かを言いたそうに口を開いて、何も言わずに口を閉じる。
「でも、フィーネ・トルストイさんに頼るとかは、絶対にダメだから……だから、仕方なくだよ!アスト君も嫌かなぁって思うけど、でも仕方なくだからね!ここで失敗して、後悔したくないし……だから」
両手を両頬に当てて表情を隠し、彼女は次の言葉を告げる。
その決定的な一言を前に、俺は覚悟を決めた。
イブにこれほどまでの言葉を尽くさせ、覚悟を決めさせた先に、何があるのか。それがいかに重たいものであろうと、友人である俺は受け入れざるをえまい。
フィーネ・トルストイ?そんな少女のことは関係ない。今日始めて出会ったどこぞのお嬢様よりも、昔からの親友の言葉のほうが重いのは当然だ。
イブは俺という友達を案じてくれている。ならば俺も、その優しさを受け止める義務がある。
――そして彼女は、こう言った。
「友達じゃだめなら……わ、わたしのひもになってくれないかな…………?」
「おう!……………………って、はぁぁぁぁっ!?」
残念ながら、受け止め切れなかった。