運命の出会い
ローレンシア大陸にその栄華を築き上げた魔導師連合<アテナ>の創始者――最古の大魔導師マルティネスは、言った。
『我々魔導師は、確かに大勢の兵を切り崩し、大国をも脅かす力を行使することができる。だが、それは我々だけでは絶対に為しえないことなのだ』と。
マルティネスの幼馴染であり、その生涯の伴侶となった女性は、いつも懐にペンと羊皮紙を持ち歩いていたという。彼女は魔導体系を誰よりも理解し、それを羊皮紙へと書き留め続けた。
マルティネスやその仲間は、いつも彼女が書きとめた羊皮紙を手に、戦場を駆けたと言われる。
それこそが、魔導書の始まり。
魔導師が魔導を行使する際に必要とするアイテム。
魔導書に記される独自言語は、後の世でアテナグリフと呼ばれることとなり、今現在も最もポピュラーな魔導言語として、魔導書作家、通称『書家』たちに重用されている……
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「ヒーリング、第二階梯の魔導書そろえてます!お安くしておきますよ~」
「おいおい、そこの兄ちゃん!そんなちんけな地方書店の魔導書なんか買わないで、うちのを買っていけよ!王都中央書店お墨付き、アポティヒア率(誤発動率)は驚異の0.1パーセント未満だ!」
「……フォーシング、第四階梯。前線支援に、おすすめ」
今日もここは騒がしいなぁ……。
入り口で配られた専用カートを押しながら、俺はこの詰め所の奥のほうへと向かう。
――魔導師の詰め所。これから旅や戦に出ようという魔導師が集まっている場所だ。このフォークリッド詰め所はここらあたりでは一番大きな詰め所で、いつも大勢の魔導師と書家でにぎわっている。
多くの魔導師たちはここで装備を整えていくわけで、あちらこちらに並べられた魔導書を手に取りながら、自分の持ち金と相談して最善の選択をする。
もちろん人気があるのは大手の書店であり、特に王都中央書店なんかは、優秀な書家ばかりを引き抜いてるから質が抜群にいい。そのくせ少し背伸びをすれば届きそうな金額設定のため、他の中小書店や個人経営の書家たちには厳しい状況だ。
まぁつまり、俺たちみたいなしょっぼい店は、格安の値段で勝負するしかないってこと。
詰め所の一番奥。一番場所代が安いところに腰を下ろして、俺はカートに積んでいた五冊の魔導書を床にならべる。大きな看板や台を持ち込んでいる大手書店に比べると、あまりに貧相でなさけない。
……書家になって一ヶ月のひよっこじゃあ、仕方ないことなんだろうけどなぁ。
「アタッキング、第一階梯から第三階梯まで。主に火属性のものを取り揃えてます!」
魔導書の表紙がよく見えるように置き、ふぅと息をつく。
魔導書作家、通称書家。
この業界は今、たくさんの書家があふれかえった飽和状態になっているのだ。昔は王国内の書家が不足していたが、五十年くらい前に専門学校が増加。そのため、加速度的に書家の数が増えてしまい……今や、ほとんどの書家が商売あがったりな状況になってしまった。
優秀な書家に育ちそうな人材は、学校卒業より前に大手書店との契約や、魔導師との個人契約を済ませていて、毎日を裕福に暮らしている。だけど見てもらえればわかるように、俺はそういう天才たちとは違う。
毎日の食事にも苦労するような、しがない個人書家だ。
「おーおー。相変わらず、いつ来ても閑古鳥が鳴いてるなぁ、ここは」
周りの騒々しさに嫌気がさしてきたころ、俺の前で仁王立ちしていたのは厳つい顔面の男だった。
筋肉のつき方など、体の骨格自体は人間のものだけれど、顔を覆う銀白色の毛や獰猛な牙は、彼が狼人であることを示していた。全身から凶暴なオーラを撒き散らしている中で、唯一可愛らしいのはさわり心地のよさそうなしっぽくらいのものだろう。
このあたりでは勇壮な戦士として有名な彼は、たまにここを訪れては俺の店の冷やかしにくるのだ。
「バカ野郎、これから売れていくんだよ。商売ってのは根気が大事なんだ。短気で凶暴な戦士様は鍛冶屋にでも行ってこい」
「ちっ。店主のほうも相変わらず可愛げがねぇ。ここが戦場だったら噛み千切ってやってるとこだぜ」
「あいにく、客じゃないやつに媚へつらう気はないんだよ」
物騒なもの言いの彼に内心では肝を冷やしつつ、あっち行けと追い払う。
彼のような戦士は魔導師とは違って、自分の身と武器で全てを解決する。使い捨てが基本の魔導書に対して、長期間同じ武器を使える彼らは、消耗戦になるとめっぽう強い。
しかしいくら有名な戦士だとしても、客じゃないなら俺が相手する義理もないわけで、無愛想な態度を貫く。
すると彼はニヤリと大きな口の端を吊り上げて、
「客じゃないなんて、誰が言ったよ。俺ぁ、仲間の魔導師が魔導書の補充をしてほしいって言うから、こうして金を持ってきて――」
「いらっしゃいませ、お客様!今日はどういった魔導書をご所望でしょうか!」
麻袋にぎゅうぎゅうに詰まった紙幣を見た瞬間、俺の腰は直角に曲がる。……客だっていうなら、話は別だ。誠心誠意、真心こめてお相手させてもらおうじゃないか。
さしもの男もこの豹変ぶりにひいているのか、苦笑を浮べている。
「商売人なんてやつは金が第一だと思っちゃぁいたが……にしても、お前の場合はひでぇもんだなぁ」
「何を言います、お客様。少しばかり態度が変わっただけではございませんか」
それに俺は、そこまで商売人の色に染まっているわけでもないし、金に執着してるわけでもない。ただ、こうでもしないと生活が成りたたないという……もっと切実な背景があるのだ。
折角心をこめて書いた魔導書も、使ってもらえなければ意味がないしな。
「少しばかり、ねぇ……。しかし、アレだな。いつも生意気な野郎が俺に頭を垂れてると思えば、悪い気はしねぇよなぁ」
「はっはっは、お客様ご冗談を。日ごろのお客様とのお付き合いを考慮させていただきまして、今だけ二割増しキャンペーンでお売りいたします」
「早速、化けの皮がはがれてきてんぞ」
あごひげをなでながらいやらしく笑う男に、俺は精一杯の営業スマイルで応える。……こういう男なのだ、この狼人は。金も持たずにふらっと詰め所に来ることがあるかと思えば、たまに多めの金を落としていってくれることもある。しかもわざわざ個人経営の人間にばかり接触してるところを見ると、存外俺たちの生活とかも考えてくれているのかもしれない。
とはいえ、俺にとって小癪な存在であることは変わりないから、これ以上態度を改める気はないのだけど。
「しっかし、あれだなぁ。お前んとこの魔導書も、質が悪いってわけでもねぇだろうに……なんでこう、客が寄りつかねぇんだろうなぁ?」
売り物の一つを手にとって眺める彼は、心底不思議そうに尋ねる。
「さぁ?むしろ俺のほうが教えてほしいよ。ディスサーナー(鑑定士)にも、ちゃんと良質の魔導書だっていう鑑定結果をもらってるんだけど」
カートの底に放置していた鑑定紙を男に渡す。彼は一頻り眺めた後に、それを俺に返す。
「駆け出しの書家ってわりには、それなりに良い結果が出てんじゃねぇの?Bプラスでこの値段なら、十分に買う価値はあるってもんだろぉよ。……となると、問題は明らかだなぁ」
「何だよ?」
「売ってる人間の顔だよ、顔。お前は、接客する人間の顔じゃあねぇ」
うぐっ、と俺は言葉に詰まる。
そうも直球に容姿を批判されると……返す言葉もなかった。
いや、自分でも薄々感じていることではあったのだ。他の小規模書店は可愛らしい売り子を雇ったり、販売に対する経営努力がある。それなのに、容姿が良いわけでもない俺が一人で店番をしたところで、集客力などあるはずがないのだと。
「おぉ、図星だな?自分でも自覚できてるってんなら、まだ救いようはあるんじゃねぇの?お前は売るほうよりも作るほうに徹するほうが向いてると思うぜぇ?」
「そうは言うけどさ……俺は、魔導書の質で勝負したいんだよ。売り子の可愛さだとか、そういう小手先の勝負みたいなのは好きじゃないんだ」
「……けっ。一丁前に職人気取りやがって」
あきれたとばかりに男は肩をすくめる。
「いいか?勘違い野郎のお前に俺がありがたくも教えてやる。感謝して聞けよぉ?……そもそも魔導書なんてもんはな、いくら鑑定結果が良かろうと、魔導師が使って初めてその質がわかるもんなんだよ。そりゃ、Sランクの魔導書や第五階梯レベルのもんを作るってんなら、別だぞ?だが、微妙な質の差とか相性の差なんてのは、実地で使ってこそ分かるってもんだぁ」
「…………」
「陰気な店主が売り子やってる安い店より、俺なら大手書店のほうを信用するだろうよぉ。個人経営ってのはな、慣れ親しんでる客にとっては良い取引相手だが、初見のやつにとっては、信用ならないもんなのさ。その初めの初めにあたる信用を得るために、とりあえず買ってもらう。とりあえず買ってもらうために、売り子を使う。そのどこにおかしな点があるってんだぁ?」
未熟な弟子を諭すように、男は俺に懇々と語りきかせた。……何の反論もできやしない。彼の言い分は正しいし、俺の言い分はただのわがままでしかない。
そんなことはわかっている。
けどな……
「売り子を雇う……それも考えたさ。だけどな、そうすると……一日の全体の収支が絶対赤字になるんだよ……」
「……おぉ……」
男が哀れみに満ちた深い碧眼で俺を見る。
やめろ!俺をそんな眼で見ないでくれ!
「俺ってかなり遅筆なほうでな……二日間、寝ずに書き続けてもこれだけしか魔導書を作れないんだ。そうすると、これを売り子を使って売り切ったとしても……多分、赤字になる。ここの場所代もあるし」
「……せ、先行投資っていう意味で、赤字覚悟でやったらどうだぁ?固定客がついてくれるまでのお試しってことでよぉ」
「固定客がつく前に、俺が飢えるんじゃないかな?」
諦念のこもった俺の言葉に、男の表情が固まる。
そう、これが圧倒的な現実だった。第三階梯一冊の魔導書につけた値段が銀幣五枚。場所代が銀幣五枚で、一冊の作成コストが一冊銀幣四枚くらい。この時点で、もう全部売り切ったとしてもあんまり利益は残らないのに、美人の売り子でも雇おうとすれば……足元を見られて、利益が飛ぶどころじゃすまない。
完全に赤字だ。
「俺もさ、愛想よくしてみようとがんばったりもしたよ。でもさ、大きな声を出せばだすほどうるさそうな眼で見られてさ……もう、心が折れたんだ」
商売は、魔導書作りよりも厳しい。
学校を卒業し、社会という荒波に揉まれた一ヶ月間で、俺はその事実をこれでもかというほど骨身に染みて感じた。
男はもう何も言わずに、俺の肩に静かに手をのせる。
「わりぃな。偉そうなこと言っちまったが、俺のほうが考えが足りなかったみてぇだ。その……辛いことを言わせちまった」
滅多に謝るような男じゃないだけに、哀愁すら漂わせる狼の顔は、俺をより一層卑屈な気分にさせる。今はその優しさが痛い。
「いや、いいよ。俺が男に生まれてきたのが悪いんだ。もっと可愛い女の子に生まれたら……そもそも書家になんかならなかっただろうなぁ」
「可愛い女の子と言えば、もしかしたら……もしかしたら、おまえの知り合いに可愛い女の子はいねぇのか?もし万が一にもいるなら、格安で手伝ってもらうっていう手もあるだろうよぉ」
「もしかしたらを強調するなよ」
どんだけ俺は異性との出会いがなさそうに見えるんだよ。……まぁ、その通りだけど。
「全く皆無ってわけでもないよ。俺にだって、可愛い子の知り合いの一人くらいはいる。てか、一人だけいる」
「おぉ、いいじゃねぇか!なら、そいつに頼みこんで――」
「でもな、そいつも俺と同じ書家なんだよ」
「…………」
「それに、俺よりもずっと優秀で、専属契約を何本も結んでる、第一級書家の美少女でな」
「……それ以上、言わなくていいぞぉ」
俺の心情を察してくれたらしく、男はそっと目をふせた。
もし彼女に売り子のことを頼みこめば……多分、二つ返事で承諾してくれるだろう。彼女は、そういう友達想いの子なのだ。
だけどもし彼女がここに来ると、多くの魔導師たちは、彼女が自分の魔導書を売りに来たと考えるだろう。優秀な新人書家、若くして第一級書家にのぼりつめた彼女は有名人だ。
そんな彼女が、低レベルな名もない書家のために売り子をやっていたら、俺はどう思われるだろうか…………考えるまでもない。
一生、ここで仕事ができなくなる。
「強く生きろよ……俺は一応、お前のことを応援してやるぜぇ……」
「すまんな……」
普段どおりの軽口を叩き合うこともできず、しんみりとした雰囲気が漂う。事情を共有してしまった者どうしの連帯感というか……男からの同情がひしひしと伝わってきた。
意図して得た同情じゃないだけに、俺の胸にはもやもやとしたわだかまりが溜まっている。
「とりあえず、第三階梯の魔導書をあるだけもらおぉか?」
「お買い上げありがとうございます!」
再び、腰を直角に折る。購入を決めてくれた理由が同情であれ、商品が売れて使ってもらえるのは、嬉しいことだ。
金貨を取り出そうとしている男に、三冊の厚い魔導書を渡そうとして――
「ふざけないでくれるっ!?」
三つ隣にある大型書店の売り場から、大音量の怒声が飛んでくる。
凛とした女性の声で――俺と男の視線は自然とそちらに引き付けられた。
「しかし、そう言われてましてもねぇ。そのあたりは鑑定師の判断の相違ってやつでして。こっちに文句言われても困るんですよ」
「そんな曖昧な気持ちで魔導書売ったりなんかしないでよ!これを買ったのが誰だと思って――もぅ、責任者呼んできて!」
「そう言われましても……」
王都中央書店の店員が、年端もいかない少女に対してバツが悪そうに頭を下げている。同業者に対しても高圧的な態度をとるあそこの店員に頭を下げさせるなんて……俺はにわかに信じられなかった。
そして、特筆すべきは少女の容姿だ。荒くれものが多いこの町で、これほど肌が白く、顔がのパーツがことごとく精巧に揃っている女の子なんてそうはいない。長い黒髪はしなやかに波をうち、手足もほっそりとしていて、女性らしい凹凸もついている。まさに男の妄想を具現化したような姿だと言えるだろう。
男なら、誰もが二度見してしまうような美少女だった。
「あぁ、トルストイ家の嬢ちゃんか……」
「トルストイ家?聞き覚えはないけど、お貴族さまってことか?」
ポツリとこぼした男の言葉に、俺は敏感に反応する。貴族の人間が一般向けの詰め所に来るだなんて、常識的に考えればありえないことだが、
「おまえ、トルストイ家も知らねぇのかよ。貴族七十七家の末席、あの嬢ちゃんはそこの当主様だよ」
「へぇ……。そんな子がなんであんなに怒ってるんだろうな」
一見するだけで、少女の家が随分裕福であることがわかる。しみ一つない純白のローブに、動きやすそうなパンツルック。荷物は何も持っていないのかと思えば……彼女の後ろに、従者らしき女性が一名。胸の前にささげ持つような形で、銀細工が施された小さな鞄を保持している。
「さぁなぁ?俺も貴族連中と親しくはねぇから詳しいことは知らねぇよ。ただまぁ、悪評には事欠かない存在みたいだぜ。お抱えの鑑定士がいるってな話で、売りもんの魔導書の評価に難癖つけて回ってたこともあるらしい」
それは随分横暴な話だと俺は苦笑する。こういう場で売り物にされている魔導書は、必ずディスサーナーの鑑定を通った上で売られる決まりなのだけど、基準の厳しい緩いは存在する。
特に大手は自分のところの商品をよく見せようとするため、比較的鑑定の甘いディスサーナーに鑑定を依頼するものだ。
「それでこの騒ぎっていうのは、なかなか大胆な子だね」
「末席とはいえ、貴族の一人だからなぁ。それに、魔導師としての腕も良いらしいぜぇ。怖いもんなしなんだろうな」
お前のとこも気をつけろよ、と男が付け加えるが、そもそも俺の魔導書に興味をもたれることすらないだろう。大手の商品に文句があるくらいの少女が、俺の商品に眼を留めてくれるとは思えない。
俺たちがそんな与太話をしている間にも、少女と店員のやりとりは激しさを増していく。
「ああいうてきとうな鑑定をやってるようじゃ、正式に訴えを出すわよ!?」
「そういうのは勘弁してくださいよ……あぁ、もう。だから、全額返金には応じるって言ってるんですから、それでいいじゃないですか」
「なっ……!そういう態度がいやなの、私は!お金とかじゃなくて……とにかく、そういうのじゃ解決できないの!魔導師は、あなたたちが作った魔導書に命を託すのよ!」
苛立ちが見え隠れしている店員に、少女は詰め寄る。その言葉に、俺は少しだけ感じるところがあった。
魔導書を値段じゃなくて、その本質――作り手の気持ちや質で判断してくれる。
そういう熱意が伝わってきたからだ。
「なぁ。どうも俺には、あの子がただのクレーマーには思えな――」
「あなたたちみたいなのがいるから、私はっっ!!」
俺が男に話しかけた瞬間、彼女が魔導書を台に叩きつけた。それはいかにも突発的な、感情的な行動といった風で、決して何の意図もなかったものだと言えるだろう。
だけどその瞬間、詰め所全体に眩い光が散乱した。
その場にいた大勢の人々が、その光の意味を即座に理解する――アポティヒア、誤発動だ。
魔法という複雑な現象を本に押し込め、それを持ち歩く過程で、どうしても一定数は起こってしまう事故。その危険性を極力減らすために鑑定士がいるわけで……つまり、あの少女の怒りはもっともだったということだ。
――と、そんなに悠長に構えてはいられない。
光と共に魔導書から放たれたのは、炎を纏った小さな狐。あれを見る限り、第一階梯か良くて第二階梯の炎属性魔導だろう。
一体の狐は甲高い叫び声を上げながら一直線に魔導書から放たれて――こちらへ向かってきた。
……は?
いやいやいやいやいや、え?
「ちょ、燃えてるって、おいぃぃっっ!」
狐は吸い込まれるように俺の魔導書たちに突っ込んでいき……炎上。燃え盛るというのはまさにこのことだと主張せんばかりに、大きな火の玉ができあがる。
え、俺の魔導書……燃えてるんですけど?
「ちょ……これはまずいまずい!とにかく消火をっ……」
錯乱状態になった俺は、ともかく火を消そうと両手を火に叩きつけて――
「第二階梯、<水の迸流>アクアフロー!」
一瞬だけ焼けるような痛みを感じた手が、その直後に自然発生した水の奔流に浸かる。
群集の誰かが気を利かせたつもりか、水属性の第二階梯魔導を発動させたのだ。誤作動である分力も劣っているのか、魔導書を包み込んでいた炎はあっという間に鎮火される。
……しかし、待ってくれ。
紙という素材に対して、炎は天敵である。さらに水という第二の天敵も加わり、最悪のコンビネーションが発揮される。
簡単に言えば――売り物が、全部死んだ。
「うおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっっっっっ!!!!」
俺が、俺が二日間徹夜で書き上げた魔導書が……一瞬で灰にっっっ!
「あーあ、やっちまったな」
「運がないですねぇ、あの人……」
「誰か慰めてやれよ、ほら自殺でもしそうな顔してらぁ」
野次馬たちが、何か無責任なことを口々につぶやいている……けど、それをいちいち耳で拾っていられるほど、今の俺の精神状態はまともなものじゃなかった。
これで、魔導書作成のコストと場所代がパーになった……明日の食事代すら厳しくなったぞ……。
何よりも、これを書いたときの自分の気持ちを否定されたようで……きつい。
「その……あれだぁ……辛いなぁ、兄弟」
哀れみがもはや限界値を超えたのだろうか、おかしな親近感すら覚えたらしい男が、獣くさい鼻先を近づけて俺を慰めてくる。それを振り払う気力は俺にはもう残っていない。
あぁ……真面目に生きてるのが、馬鹿らしくなってくる……。
所々が黒く変色し、びしょびしょに濡れた魔導書を一冊、手に取る。ページを繰ることも難しく、中の文字はにじんでいて読めやしない。
間違いなく、魔導書としての効力を失っている。
「えっと……その……」
憂いに沈む俺に、ためらいがちに声をかけようとする人影が一つ。顔を上げると、そこには例の少女がいた。……なるほど、間近で見るとさらにその美しさが際立つ。ただ、それを純粋に褒めることができるほど、俺は人間として出来ちゃあいない。
一応、怒ってはいるのだ。
戸惑いが先に立っているからそうは見えないだけで、俺は今この少女を怒鳴りつけてもおかしくないほどに、心がささくれ立っている。
だけど、すんでのところでそれを我慢できているのは、彼女がこれほどしおらしく、申し訳なさそうな顔を俺にむけてくれているからだろう。
アポティヒアを店のせいにして、被害者面をしてるようなら、きっと俺の気持ちは振り切れていたと思う。
魔導書は買ってしまった時点で、その全てが魔導師に託されてしまうのだ。
その責任は負わなくちゃいけない……と思う。
「ご、ごめんなさい……こんなことになるとは思わなくて……って、謝ってもどうしようもないことはわかってるんだけど……」
大手書店の店員に向けていた剛毅な態度はどこへやら、両手で自分の服を掴みながらぎゅっと自分の行動を悔やむ様子の少女。
その姿がいくら儚げで可憐なものであったとしても、俺の口から簡単に許しの言葉が出ることはなかった。
もう使えなくなった魔導書。
ただのゴミの山と化してしまったそれを見て、簡単に心を切り替えられるほど、俺は書家としての矜持を失ってはいない。
戦場でそれを頼るかもしれない人のために……一字一字にこめた気持ちを、そう易々と捨て去ることはできはしない。
気まずい空気が流れる。
彼女は次に何と言えばいいのか戸惑っているようで、俺はその言葉を待っている。その緊迫した空気を壊したのは、無遠慮な第三者の声だった。
「あーー、仕方ないな。これは一応上のほうに報告しておくんで、今日のところはお引取り願えますか?このゴミの山の弁償はこっちでてきとうにやっときますんで」
頭を掻きながら、近寄ってくるのは面倒くさそうな書店員。
その言葉は、おさまりかけた俺の怒りを沸騰させるのに、十分すぎた。あまりに、俺の触れてほしくない琴線に触れすぎた。
大柄な目の前の書店員を見る。
魔導書をただの金儲けの道具程度にしか認識していない男を見る。
自然と奥歯がギリギリと音を奏で、握った拳が小刻みに震える。
俺の作品をゴミとまで言われて……引き下がれるわけがあるかよ。
「てめぇ、ふざけてんじゃねぇ――――」
「あら、こんなところに汚いゴミが」
俺が立ち上がり、拳を振り上げかけたところで――突風が巻き起こった。
屋内で起こりうるはずのない風の暴力が、ほんの一瞬だけ俺の目の前に顕現した。
「がっ……ガアアアアァッッッ!!!」
野太い絶叫をあげたのは、今までそこに悠然と立っていたはずの書店員だった。ちょっとした攻撃ではびくともしなさそうな大柄の男が、一瞬にして壁に叩きつけられて悶え苦しんでいる。
周りで見ていた人々は、多くがその光景に呆けていた。
もちろん俺もその一人ではあるのだけど……
「すみません、お嬢様。随分と大きな汚物が床を汚していましたので、ついついほうきで掃いてしまいました。気を抜いてしまうと、メイドとしての癖が出てしまい……てへっ」
魔導書を片手に、もう一方の手にほうきを構えた女性が、無表情のままおどけていた。それは間違いなく、彼女が魔導を使用したことを示している。
だが重要なのは、その発動に至るまでの動作を、俺が全くこの目で捉えることが出来なかったということだ。それは他の人々も同じらしく、誰もその暴力行為を咎めようとしない。
戦慄がその場を走るなかで、唯一その主人である少女だけが頬を綻ばせた。
……いやいや、そこは笑うとこなのか?
「それとお嬢様。大変心苦しいことですが、そろそろここを出なければ後の予定に影響が」
「えっ、もうそんな時間!?」
吹き飛ばされ、いまだにのたうちまわっている男になど目もくれず、少女はおろおろと自分の従者と俺を見比べる。
そして、何かを決断したらしく、キリッとした表情で俺と向かい合う。
「私はその……やったことの責任は、ちゃんととるつもりだから。だから、それは安心してて……ください。あなたの名前は?」
安易に、金で解決するような問題じゃない。
それを態度で表した彼女とその従者の姿に見とれつつ、俺は自分の名前を答える。
「アスト・エレシオン。駆け出しの書家だよ」
「そう。私は、フィーネ・トルストイ。今日はもう失礼しなきゃいけないけど……また会いましょう」
そう言い残して、彼女は詰め所の出入り口へと向かう。俺のほうに一礼した女性もまた、少女の後に付いて姿を消す。
嵐のような一騒動が過ぎ、しばらくは動けなかった俺は、ずっと傍に立っていた狼人の男の言葉で我に返った。
「とんでもないやつに目をつけられたなぁ」
俺は笑って、その言葉に応えた。
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これが、数奇で壮大な物語の始まり。
平凡な書家として生きるはずだった俺の運命を捻じ曲げた、フィーネ・トルストイとの邂逅だった……