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プロローグ+一章

【プロローグ】

少女は独り、暗闇の中に佇んでいた。

 光はない。影もない。差し伸べられるものは何もない。

 ああ……、と少女は声を漏らした。

 それはうめきだったか悲鳴だったか、しかし誰一人聞く者のいないそこでは、何ら意味を持たないものだった。

 暗い暗い常闇の先。

 深い深い暗黒の底。

 少女は独り、人知れずやせ細ってゆく――


【一章】

 始めというなら始め。

 それをそうだと認識していないにせよ順序建てれば一番始め、それを視認したおれはそれを影そのものだと感じていた。

 先が見えない。

 底が伺えない。

 どこまでも続いているようで、だからこそ、何もないようにぽっかりと穴が空いているようにも見えた。

 違和感。

 けれど歩みを止めることはなかった。何せその先が帰り道で、この道を通らないことにはかなりの遠回りをしないといけなくなるし、そもそもちょっと景色がおかしく見えているような勘違いをしているだけだと思っていたのだ。学校からバイトと動き詰めでくたくたで、あまり頭が働かなかったことも一つの原因だったのだろう。疲れ果てた体に鞭打って、カバンを担いで前に進む。

 暗い夜道。時刻にして二十二時過ぎ。街中ならまだしも、両側を塀に囲まれた住宅街のこの時間帯は人通りが極端に少ない。

 しかし、いつも通る道だ。いつもと変わらない時間だ。ルーチンワークに組み込まれた生活習慣の一部でしかない。これまで覆ることはなかったし、高校生活の三年間、崩れることもないであろう日常の一場面――そう思っていた。

 徐々に、しかし着々と。

 無自覚におれはそれに近付いていった。あるいはあちらも歩み寄って来ていたのかもしれない。

 そうして気付く。

 ようやく悟る。

 ――あれはやばい。

 本能的に、とでも言うのだろうか。唐突に体の内側から音のない警鐘が鳴り響く。鼓動が大きく小刻みに、背筋には冷たい汗。春先の肌寒い風が、不気味な吐息のように頬を撫ぜた。

 自分自身に文句を垂れたくなる。鳴らすのが遅すぎだ、と。

 ――それはもう、目の前にいた。

 一瞬、それを見ても何なのかわからなかった。

 それはそうだ。何せずっと前から目で捉えていたはずなのに、のうのうと無防備にここまでやって来たのだ。見ても、ではない。見続けていても全くわからなかったのに今さらそれをどういうものなのか理解できるはずもない。

 ただ何となくわかったのは。

 それが、にぃ、と真っ赤な半月を浮かべていたことだけで。

 衝撃。

 反転。

 反転。

 反転。

 衝撃。

 明滅。

 半転――激痛。

「――っ!?」

 驚愕と、声にならない声が喉から絞り出される。

 何が起こったのか。自分はどうなったのか。それを理解するよりも前におれの見開かれた目は近付いてくる影のような暗闇と、そこに浮かぶ不気味な紅の半円を網膜に映し出していた。

 額に滲む脂汗。痛みに掠れる視界。混濁する思考。ただただ原始的な恐怖心と、そこから湧き上がる危機感、逃げなければ――否、逃げ出したいと訴える本能。

 向き合ってはいけない。

 対峙してはいけない。

 何より遭遇してはいけなかった。

「くっそぉ……!」

 背中が痛い。立ち上がれる気がしない。右腕が動かない。かろうじて動く左腕で、アスファルトの地面を這う。ずる、ずる、と服と体が擦れる音。遅々として、その影のようなものとの距離は開かない。逃げきれない。

 振り返る。影がこちらに伸びていた。腕のような形。手の平のような輪郭。開かれた五指のようなもの。おれの顔に向かって、近付いてくる。

 悪寒が走る。体が震える。直感する――殺される……!

 死ぬわけにはいかない。やり残したことがあった。やらなければいけないことがあった。守りたい、守らなければいけない人がいた。家でおれの帰りを待っている人がいた。

 でも、こんなの、どうやって生き延びろって言うんだ――!

 悔しさと、情けなさと、絶望と。

 いろんな思いが綯い交ぜになって押し寄せる。

 そうしてついに、影がおれの視界を覆い隠した。

瞼を閉じる。閉じてしまう。この現実から目を背けたくて。

 ごめん、と心の中で言葉を作った。何に対して謝ったのかは自分でもわからなかったが、誰に対するものであったのかは明白だった。

 静寂――風が吹く。

 目を開く。

 ――おれの顔を覆っていた影が、霧散していた。

 月と街灯の明かり。空には瞬く無数の光。それらに照らされて、銀の本流が風に揺れていた。

 光を鈍く反射する黒のレザースーツ。無機物じみた白い肌。闇夜に浮かぶ真っ赤な瞳。背中を隠す銀糸の髪。

 まだまだ幼い顔立ちの少女が、おれの前に背中を向けて佇んでいた。

 ちらりと、少女の視線がこちらに向けられた。

「……生きてる?」

 細く控えめな声。しかし、よく通るものだった。

 頷く。それ以外の行動を思い浮かばなかった。

 化物が現れた。襲われた。吹っ飛んだ。女の子に助けられた。

 なんだ、それ。

 ありえないこと尽くしだ。全く理解できないことばかりだ。

 でも――生きていた。

 それだけは実感できて、安堵が心の底から染み出してきた。

 おれの心情を察したのか、少女は顔を前に戻しながら声を作る。

「安心するのは、少し早い」

 言葉に疑問を感じ、少女から目を外す。

 ――影の化物は、まだそこにいた。

 ぐっ、と胸の奥を締め付けるような危機感が再び襲ってくる。まだまだ体は自由に動きそうにない。それでもどうにか動こうとすると、

「動かないで。下手に動かれると、邪魔になる」

 ずいぶんと辛辣な言葉だった。けれど自信に満ちているようにも感じられて、おれは無意識に悪あがきを止めていた。

 おれが大人しくなったのを横目で確認して、少女はわずかに腰を落とし、右腕を斜め下に構える。

 華奢な手には鈍色の煌き。若干の延長にしかならない程度の、小ぶりなナイフがひと振り。そんなもので彼女は、わけのわからない化物と対峙していた。

 場違いにも思う。

 すごいな、と。

 おれは逃げることしか頭に浮かばなかった。対峙しようなんて考え、微塵も浮かばない――どころか、対峙してはいけないものだと直感していた。だが目の前の少女は少しの怯えも覗かせない表情をして、おれが恐れたそれに向き合っている。見た目、おれよりも歳下であろう少女が、だ。

 関心とともに、焦りのようなものが湧き上がってくる。焦り、というか、落ち着かない感じ。場違いというよりは間違い、おれが守られ少女が守るというその状況そのものが間違っているもののような。

 ――おれはいつも、守る側の人間だった。だから守られることに慣れていないだけなのかもしれない。こんな状況を打破できるわけもないし、対抗策もありはしない。彼女に任せるしかないのだろう。手に負えないことだって、いくらでもある。

 でも……だけど。

 どうしようもない、悔しさにも似た思いが滲み出ていた。

 地面を蹴り、少女が駆け出す。長い銀髪がなびき、尾のように線を引く。肉薄し、コンパクトに、しかし鋭く右腕を振るった。

 風を裂く音。

 逃れるように、影は大きく後退していた。そのまま背を向けた――ように見えた。実際のところ少し影の輪郭がぶれたように見えただけで正確な動きはわからなかったが、心なし、圧迫感が弱まった気がしたのだ。

 そうしてその感覚はどうやら正しかったようで、距離を作った影はまばらとなって姿を眩ませた。残ったのはいつも通りの静寂と、助けてくれた少女と、何もできずに横たわっていたおれだけで。

今度こそ、安心してもよさそうだった。

 軋む体をどうにか動かして、上半身を塀に預けて一息。どっと疲れが襲ってきた。逃げたり何だりしたわけでもないが、よほど全身を緊張させていたらしい。

「…………」

 腰のホルダーにナイフを収めた少女がこちらを見やる。紅の瞳。感情の乏しそうな灯火。心配している風でもなければ、何か他に感慨を抱いている風でもない。

「大丈夫?」

 ただ事務的とも感じられる声音。声がやけに小さいものだから、さらに助長させる。

 一応、動く左手を上げて応える。

「……生きてるから大丈夫だ」

 素直な思い。

 生きているなら、何とでもなる。

「そう」

 短く言い、少女はこちらに歩み寄ってくる。

 やはり、幼い顔立ちだ。一つか二つか、おれよりも歳は下だろう。体格だって、平均かそれくらいに見える。こんな女の子があんな化物と対峙していたなんて、目の前で起きていたことであったとしても信じがたい。

 無意識に少女の顔をまじまじと眺めていたのだろう、彼女が不思議そうに首を傾げる。

「ああ、悪い、何でもない……助けてくれて、ありがとな」

「気にしなくていい。私は私のやるべきことをやっただけ」

 にべもない。当然だ、とも思ってなさそうな顔。どうにもやりづらい――けれど、どことなく似ているような気がした。

 家で待っている人に。

 守りたい人に。

 守らなければならない人に。

 ――妹に。

 どこが、というのではない。しかし、何となく。妹の面影を見た。

 そのおかげか、力が湧いてきた。ただの強がりでしかないが、それでも立ち上がる程度の力を与えてくれた。弱いところは見せたくない、という今さらな意地だった。

 立ち上がったおれを見て、少女はほんの少し驚いたような表情を浮かべた。

「もう動けるの?」

「ん……あ、いや、やぺ……」

 ふら、と体が後ろに傾く。塀に背が当たって転ぶのは免れたが、意地は所詮意地のようだ。何かに支えられていないと体勢を保っているのも難しい。素直に諦め、腰を落とす。

 そんなおれを前にして、しかし少女は手を貸してくれるような素振りも見せない。どころか呑気にポケットをまさぐって、包み紙に包まれた小さな物を取り出す。端を引っ張り、ころん、と飴玉が彼女の手の平に転がった。包み紙をポケットに収め、飴玉を口に含む。

 視線。

 塀に背を預けて座り込んでいるおれに向け、口の中で飴玉を転がしながら彼女は言葉を発する。

「……あなたも食べる?」

「……もらっとく」

 銀髪を揺らし、目の前にかがみ込む。甘い香り。唾液で溶けた飴玉の、ねっとりとした温い香りが鼻に付いた。察するに、苺ミルク。結構好きな味だったりする。

 再度ポケットをまさぐり取り出された飴玉を、少女は華奢な指先で摘んでいた。包み紙も取ってある。裸でくれるのか、と疑問を抱くも、

「んむっ……!?」

 不意に口の中に押し込まれるものを感じ、目を白黒させる。

 伸ばされた少女の腕。伏せ目がちな瞳。唇の内側を押し上げる固い感触。口の中に広がる甘味。引かれた腕。微かに濡れた指先。

 ――どうやら飴玉を押し込まれたらしい。

 理解と同時に、驚きで息を吸い込む。飴玉が喉に侵入し、むせ込む。押し出し、どうにか口内に戻した飴玉の甘味を感じながら口を開いた。

「い、いきなり何しやがる」

「? ……だってあなた、右手が動かないみたいだから、手間を省いてあげようと」

 善意からの行為らしい。

 嘆息。

「……そこまでしてもらわくていいっての。片手で開けられないこともないし、別に今すぐ食べなきゃいけないってこともないだろ」

「そうなの?」

「そうなんだよ」

 むしろ何をもってして今すぐ食べにゃならん理由になるのか。

 まあしかし――極度の緊張感から解放された後だからか、飴玉の甘さが脳に染みる。ほう、と息を吐いて、心身ともに落ち着きを取り戻す。相変わらず、右腕は微塵も動きそうになかったが。

 折れた……風ではない。かなり痛いけれど、それだけだ。変な方向におかしな所から曲がっているわけでもなければ、さして腫れているわけでもない。これといった外傷は殆ど見当たらない――だからこそ不可解ではあるのだが。

「大丈夫?」

「うん?」

 先ほどもかけられた問い。しかし今回の場合、問い、というよりは、確認のように感じられた。

「右手……動きそう?」

「ああ……いや、ちょっと無理っぽいな。まあでも、しばらくすれば動くようになるだろ」

 痺れているだけだろう。そうでなければ、ショックで動かし方を一時的にわからなくなっているだけか。

 しかし、

「動かない」

「あ?」

「しばらくしても動かない。今動かないのなら、それはずっとそのまま」

「はっ……?」

 至極真面目そうな顔で、声で、少女はそう言った。だがどうにもうまく飲み込めなくて、頭の悪そうな声を漏らすことしかできなかった。

 立ち上がった少女はこちらを睥睨しながら目を細める。

「私も状況の全てを把握しているわけではないからあくまで推測――その腕は、あれにやられたもの? それとも、吹き飛んだ時にどこかでぶつけたもの?」

「あー……いや、どうだろう。正直よくわかんねぇ。気が付いたらぶっ飛ばされてたし、気が付いたら全身痛かったし、気が付いたら動かなくなってたから」

「そう」

 やはり、素っ気なく彼女は呟いた。

「後者であれば、あなたの言う通りいずれ動くようになる――けれど前者であれば、放っておいても治らない。そしておそらくそれは、前者から受けた傷」

 前者から――あの化物から。

 つまり非常識的な存在から。

 ではそれから負わされたというこの傷もまた――非常識的なのか。

 この傷は、

「治らない、のか……?」

 実感はない。信じられたわけでもない。けれどそれでもいつまでも動かないかもしれないと少しでも思うと、自然声が震えていた。

 少女が視線を斜め下に向け、思考する素振りを見せる。小さく口を開け、戸惑うように閉じ、それでも吐き出すように声を作った。

「放っておいても治らない。けれど、治せないわけではない――でも、治せる人がいるかどうか、あるいは治せる人と出会えるかどうか」

「……つまり?」

「可能性はある。けれどそれは可能性があるだけであって、少なくとも私の知る範囲では治せない。今のところ可能性を提示することだけが、私にできること」

 なるほど……だから彼女は言いづらそうにしていたのか。

 下手な期待をさせるべきか否か。自分では請け負いきれないことへ対するべきか否か。それは彼女の優しさであり、自己への正当な評価なのだろう。

 一見すると勘違いしてしまいそうになる。彼女は感情なんて少しも持ち合わせていないのではないかと。しかしどうやらそれはやはり勘違いの思い違いで、わかりにくいだけで彼女は他人に優しくあろうとする人なのだ。ならばその優しさを、不安で染めるわけにはいかない。

 ちょっとだけ、強がっておこう。

「じゃあまあ、だから結局いずれ治るかもしれないってことだよな。それを聞いて安心した、ありがとな」

 プラス思考に、前向きに。根本的な解決にはなっていないが、希望的観測を。

 おれの言葉を聞いて、少女はこれといった反応を示さなかった。けれどほんの少し、本当に少しだけ、表情が和らいだように見えたのは勘違いでも何でもないと思いたい。

「それはそうとおまえ……っていうのも失礼か。名前、聞いてもいいか?」

「名前?」

 問いに、少女は記憶を探るような素振りを見せた。視線が移ろい、ああそうだ、とでもいうような顔をして、

「相坂蓮。相生の相に坂、はすと書いてれん

「相坂蓮ね。オーケイ、覚えた。それで相坂……」

「蓮――苗字は嫌いよ」

 ……苗字が嫌い?

 変なの、という感想。苗字なんて、そうでなくとも名前なんて、生まれてこの方何よりも長く連れ添ってきた相手だろうに。そりゃあ、名前にコンプレックスを抱く人間がいないではないが……こと苗字にそれを抱いているというのは、あまり聞いたことがなかった。

 しかしそうは言ってもそう、それが彼女のコンプレックスであるというのなら無理に踏み込まない方が良い。踏み込む必要もない。……ただそれでも、女の子を下の名前で呼ぶというのにはちょいとばかし抵抗があった。気恥かしさか。そんな相手、妹くらいしかいないもんだから。

 それでもどうにか押し殺して、おれは言葉を作った。

「蓮、悪いんだが……肩、貸してもらっていいか?」

 何はともあれ。

 家に帰ることが、一番大切だ。


 年下であろう少女の肩を借りるという何とも情けない有様で帰宅したおれは、家の前、どうにか一人で立ち、蓮に向かい合った。

「色々とありがとな。おかげで助かった」

 本当に。彼女が助けてくれなければ、恥を忍ぶこともできなかった。命あっての物種とはよく言ったものだ。

「別に、いい。やるべきことをやっただけ」

「やるべきこと、ね……」

 先程も聞いた言葉。それはあの化物を倒すことだろうか。それとも、襲われている人を助けることだろうか。どうであれ、

「おれを家まで送ってくれたのは、やるべきことじゃないだろ。だからそんな卑屈になるなって。感謝してるんだ、素直に受け取ってくれ」

「……変な人」

「どっちがだよ」

 笑う。少女の不器用さに、顔が綻ぶ。

 やはり彼女は妹によく似ていた。顔も性格も全然違うのに、蓮と接していると自然体でいられる。

 だからこそ、蓮にももう少し、自然体でいてほしかった。今の彼女はどことなく、いろんなものを押し殺しているように見える。

 その切っ掛けになるかはわからないが、一つ、声をかけておく。

「おまえはやるべきことをやったんじゃない。やれることをやったんだ。それは誇りにして良いもんだとおれは思うぞ」

 やれることをやる。それが意外と、難しいものだ。意志を持ち、選び、考え、実行するもの。そうしてそれが結果として誰かの助けになったのなら、立派に誇れる成果に違いないとおれは思っている。

「…………」

 おれの言葉を聞いて、少女は思考するように視線を下に泳がせる。少なくとも一考の余地あり、と感じてもらえたのならそれでいい。

「じゃあ、まあ、今日は本当にありがとう」

 言って、軽く手を上げ、おれは家の扉に手をかける。気力で立っていたが、そろそろ限界だ。倒れ込みたい。

「あっ……」

 と、後ろから蓮の声。呼び止めるようなもので、おれは顔を向ける。

「どうした?」

「……名前」

「うん?」

「あなたの名前を、聞いてない」

 ああそうか、と思い至る。自分だけ名乗らないのは、不公平だ。

「夢野行久だ。夢に野原の野、久しく行くで行久ゆきひさ

 蓮に倣って、漢字まで。

「夢野行久……覚えた」

「そうか」

「ええ――じゃあ、また」

「また、ね」

 今度また会うことがあるのなら、化け物の前じゃなければ幸いだ。その時には今日のお礼もきちんとしたい。

 命の恩人たる少女と別れ、一息。自分の格好を見る。

 所々が敗れた制服のズボン。同じく傷だらけの、血が滲んでいるカッターシャツ。今さらながらヒリヒリと痛み出した頬にもきっと擦り傷があるのだろう。唯一無事といえるのは、カバンくらいのものだった。

 ……どう言い訳したもんかな。

 絶対に妹が心配する。しかしおれが帰るまで晩御飯も食べずに待っている妹と顔を合わせないわけにもいかない。

 喧嘩……にしてはあまりにもボロボロだ。事故に遭ったにしては怪我が少ない。中途半端。そして何より、喧嘩であれ事故であれ心配させることに変わりはない。怪我をしている、という時点でどうしようもなく心配させてしまう。

「なるようになる、か……?」

 考えても仕方がないと諦めることにする。これ以上待たせるのも忍びない。

 覚悟を決め、玄関のドアを開く。

「……ただいま」

 心なし、控えめな声で。後ろめたさを隠しきれない。

 とたとたと足音。リビングのドアが開き、まずはひょっこりとアホ毛が覗いた。それから目上だけ顔を出し、ほんのりジト目。

「……おにいちゃん、遅い」

 むすっとした声が出迎えた。

「悪かったよ、色々あったんだ」

 肩を竦めながら苦笑。

 言うと、妹――結愛ゆめはようやくおれの有様に気が付いたように驚いた顔をして、すぐに駆け寄ってきた。

 ぺったりとした、背中の半ば辺りまで伸ばされた真っ黒な髪が揺れる。見開かれた黒い瞳は動揺の色を浮かべ、泣き出しそうな表情。

「ど、どうしたの……? 大丈夫……?」

「大丈夫だ、心配すんな。それより腹が減ってるんだよ、晩飯にしようぜ」

 おれの肩よりもまだ少し下にある頭に手を置いて、ぐりぐりと撫で回す。

 如何に中学二年生、おれよりも三つ年下だと言っても低い背丈。幼い顔立ち。そしてまた線が細いもんだから儚げでもあった――それがおれの愛すべき妹、夢野結愛である。今のところこいつより可愛いやつを見たことがない。これから見ることもないだろう。そんなやつが人類に存在するはずがない。

 頭を撫で回されてアホ毛をぴょこぴょこさせながら嬉しそうにしていた結愛が、はっとしたようにおれの手の平から逃れて声を上げた。

「だ、大丈夫じゃない……! 血が出てる……!」

 撫でくりまわして誤魔化そう作戦は失敗らしい。

「びょ、病院っ、手当てっ、手じゅちゅ……!!」

「落ち着け、すげぇベタな噛み方してるぞ」

 何こいつ可愛い。

 置いといて。

「病院に行くほどじゃない――手術も勿論必要ない。掠り傷だよ」

 めちゃくちゃぶっ飛ばされたけど。

「……本当……?」

 不安そうな顔で小首を傾げ、疑問を呈する。おれの体をぐるりと見渡して、しかし結愛は訝しむように眉をひそめた。

「……右手」

 ぼそりと、呟く。

「いつもは右手で撫でてくれてた」

「…………すぐ治る」

 嘘を吐くことが、途轍もなく苦しかった。

 もう一生動くことはないと言われたこの腕。確かに今でも、全く神経が通っている気がしない。意識から切り離された何か。肉体と繋がる別の物体。生き物ですらない――粗大ゴミ。可能性がないではないと言われたが、けれどこういう非現実的な出来事に対処できるような人間をおれは知らない。ともすれば蓮がそういう人間ではあるが、今日見知っただけの他人で、そして彼女には対処できないものであるとも知らされている。可能性がある、というのはやはりただのプラス思考でしかなく、実際的なところ、打つ手はないのだった。

 つまり。

 だから――治らない。

 いつまでも。死ぬまで。一生を終えるまで。終わるまで。手遅れになるまで。

 いや……まで、ではないか――そう言うとまるで、続きがあるような印象だ。

 そんなものはない。皆無だ。絶無だ。終わりだ。ただの終わり。断絶。絶えた、と言うべきだ。

 ……これは結構、キツいな……。

 蓮の前では強がっていたが。

 妹の前では虚勢を張っているが。

 これから一生このままというのは、不便とかそういうこと以前に、辛かった。腕そのものとして失ってしまったわけではないものの、それでもどうしようもない喪失感。希望が残っているだけマシ、と考えた方が良いのだろうが、自分を騙し続けるのにも限度があった。

「だいじょーぶ……だいじょーぶ……」

 ぽつりと、雫が落ちるような声。

 思慮の深みに嵌っていたおれの頭を精一杯の背伸びで撫でながら、結愛が声を作っていた。そうしておれの動かない右手を握り――それすら視認しなければわからない――、持ち上げ、自分の頭の上に置いた。

 柔らかい笑み。

 目を細め、結愛は言った。

「大丈夫だよ、おにいちゃん……今日、一緒に寝てあげるから」

「ははっ、そりゃどうも」

 結愛なりの励ましと気遣い。それが今は何よりもありがたかった。


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