今度こそ彼にハッピーエンドを 4
以前投稿した短編3作品の続編となっております。上記シリーズタイトルからとぶことができますので、そちらからお読み頂きますようお願い致します。
はじめて会った時のことを覚えている。
折角の特別の日なのに、彼が馬車の前で待っていてくれなくて、そんなことは初めてだったから、ひどく悲しかった。
泣きそうになった私を、彼のお家の人が慌てて案内してくれた。
彼と、彼と同じくらいの背の男の子。
彼が、私の前にいる時とはちょっと違う、いたずら気な笑顔を浮かべていて、それに見とれたと同時にさびしくなった。
案内してくれた人が彼に話しかけて、彼が慌てたようにこちらへきた。
低い私の目線に合わせてかがんで、迎えに行かなかったことを謝ってくれて、そうしてその男の子を紹介してくれた。
とても、真っ直ぐな目をした男の子で、あんなに近くにいたのに、声すらかけられなかった私とは全然違って。
そんな男の子を「親友」に選んだ彼との距離が哀しかった。
「………似てる」
「何が?」
こちらを見てくる人物に、夢の中で会った面影が園部 凜の中で重なった。
いや、面影というほど顔は似ていない。似ているのはまっすぐにこちらを見てくる眼差しだった。
「……いや、ぼーっとしてる場合じゃないぞ?……ほんとに頭悪いな。」
目の前の椅子に座って、凜の手元を覗き込んで、ひどく呆れたように溜息をはいた。
目がそれて、倒錯した思考が途切れた。
「……失礼ね。」
「そこ、間違えてる。その上も、もう一個上も。なんで足し算なんか間違えられるんだ?」
「……………」
確かに、間違えていた。どう見ても。
凜はすり減った気力で、書いた数式を消して直していく。
「あ、また間違えた。」
「………なんでここにいるの?」
乱雑に書いたばっかりの数式を消す。紙がぐしゃっとなったのをまた乱雑に直す。
「えっ、勧誘?」
滝山 晴はいっそ清々しい笑顔を凜に向けた。
その笑顔も『あの人』に重なるものがあって、凜は今まで気が付かなかった自分をなじった。
「…その話はもう何回も断ってるんだけど。そろそろ終わりにしない?」
「俺の中じゃ、終わってない。俺は凜に歌ってほしい。」
まっすぐに、見てくる。
凜はその瞳が、今も昔も苦手だった。
「わたしは、歌わない。……名前、呼ばないで。」
課題に向き合う。そもそも凜は絶賛補習中だ。
担当の教師は、文化祭の準備の監督も兼ねている。教師が戻ってくる30分後までにこのプリントを終わらせなくてはならない。まだ半分も終わってないプリントに頭が痛くなる。
「なぁ。」
「……邪魔しないで」
なんと言おうと凜は晴の要求など、のまないのだから。
「…いや、悪いんだけど、そこも間違えてる。」
「……………」
「ホントに、壊滅的だな…」
心底、憐れんでいる声音に凜のフラストレーションがたまっていく。
「数学がわたしを嫌いなんだもん!仕方ないじゃん!」
ぱき、とシャーペンの芯が折れた。
自分でもあきれるほどの幼稚な台詞をはいてしまう。
「……っく」
押し殺したような笑いが凜の前から漏れでる。
「おまっ、小、学生じゃない、んだか、ら」
その内に我慢できなくなったのか、晴は腹を抱えて豪快に笑いだした。
「…いつまで、笑ってるつもり?」
ぱき、とシャーペンの芯が折れて、出なくなった。芯切れ。
晴はツボに嵌ったのか、ぷるぷると震えながら笑い続けている。
笑いの沸点が低いこともそっくり過ぎて、凜は嫌になる。
「い、や、わ、るい。」
「…本当に邪魔なんだけど。」
残り時間は25分とちょっと。課題は遅々として進まない。
かなりの苛立ちを含んだ声に、晴が咳こみながら笑いを納めていき、おどけたように言う。
「げほっ、そんな凜ちゃんに優しい晴様が特別に教えてしんぜましょう。」
正直、凜の心は大きく動いた。
晴と一緒にいるのは嫌だ。歌えと言われるのも嫌だし、今日は『気が付いてしまったこと』もある。できれば、さっさと家に帰って布団にくるまって寝てしまいたい。何も考えたくない。
でも、終わらないのだ。終わる予感すらしない。課題がいまいましい。
「……いい。あと、名前で呼ばないで。ちゃん付けしないで。」
課題は、まぁ、教師に呆れられて軽く説教されるくらいで済むだろう。
何しろ凜は補習常連者だ。入学当初から平均点との差は悪い方向に開いていく一方であるわけだし、教師もこのプリントを凜が終えられるとは思っていないはず、だ。
それに、と凜は時計を見た。時間が微妙だ。そろそろ委員会が終わる予定の時間になる。その前に晴にここから出て行ってもらわなくてはならない。
「えー、俺ら友達だろ?それにそろそろ毎回呼び方訂正すんの飽きるない?それはそうと、この調子じゃ日が暮れても終わんないと思うぞ?」
机の上にも下にも大量の消しカス。プリントは心なしか黒くなって、明らかにぐしゃぐしゃになっている。
「友達になった覚えはないし、そっちこそいい加減に飽きていいころだと思うんだけど。……後、わたしができないのはいつも通りだから、別にいいの。それより、文化祭の準備に来たんじゃないの?」
だから、早く出ていって、という意味合いを含ませる。
「だから今、凜を口説くっていう準備してんじゃん?…そこ、sinじゃなくてcosだよ。」
「歌いません。はい、もういいでしょ。クラスに戻りなよ……なんでcosになるの。」
「うん、って言わせるまで帰らないからな。だいたい、今日は俺のクラスは活動がない。したがって時間は大いにある。……教科書のそこのページに書いてある公式を使うんだ。」
「うーん、あ、そうか。……分かったから帰って。」
時間がない。
「ほらほら、さっさと次だ、次。時間ないだろー、さっさとやる。そして歌ってくれ。」
「断る。後、時間がないのはこっちのセリフ。早く帰って。」
「いやいや、矛盾してるでしょ、凜さん。時間がないから俺が手伝ってんじゃん。ほら、手を動かす。そして歌ってください。」
「そっちの時間じゃないもん。そして歌わないって言ってる。」
「リン!」
ほら、時間切れだ。
「リン!補習どう?すすんでる?」
両手に細長い筒状の紙を何本も持った早瀬 優が入ってくる。
「おー、早瀬。何その大荷物。」
「あれ、滝山、なんでここにいるの?今日の補習はリンだけって聞いてたけど。この荷物は今、委員会で渡されたの。」
「失礼だなー、俺が補習になんてなるわけないだろ。」
「滝山、成績良かったもんね。…ってリン!全然終わってないじゃん。そろそろ先生来ちゃうでしょ!」
久々に直接聞く優の声に、凜は涙腺がゆるみそうになる。
『私』と『わたし』が大好きだった声。
橘 綾奈に惹かれていく優を見ていられるほど強くなれない凜は、できるだけ優と距離を置いてきた。
そうしていつか優に笑顔で、良かったねって言ってあげられる日が来るはずだった。それなのに優の声は、姿は、ひどく簡単に凜の決心を揺るがす。
本当は課題を、優の委員会が終わる前にさっさと片付けて帰るつもりだった。…能力的に不可能だとは分かっていても、気持ちの上ではそのつもりだった。
「まったく、仕方がないなぁ。」
呆れた声すらも、こんなにもいとおしい。
声を出したら、そのまま叫んでしまいそうで、凜は俯いて目を強くつむった。自分の気持ちを押し殺すように、箱に押し込んでいく。いつか、開けても痛みを感じなくなる時まで、鍵をかけて深いところへ埋めていく。
「滝山、悪いんだけどこの紙、僕のクラスまで持っていってくれないかな?」
「えー」
「頼む。すぐに使いたいらしいんだ。僕が置いてくるのが一番なのは分かっているんだけど、どうもそんなに悠長なことは言っていられないみたいだから。」
まだ半分は白紙のプリントを覗き込んで優は晴に言う。
「あー、そのようだな。はぁ、仕方ない。貸しだからな。」
「ごめん、ありがとう。…ほら、リンも落ち込んでる場合じゃないよ。急いでやるよ。教えてあげるから。」
ぽん、と凜の頭に優のてのひらが乗る。
温かくて、つらい。
「で、誰に渡せばいいんだ?」
「僕のクラスに橘さんっていう文化祭委員の子がいるはずだから、その子に渡してもらっていいかな?あと、僕がちょっと遅れるって伝えておいて欲しい。」
「あー、転入生って騒がれてた子ね。ま、話したことないけど、分かった。」
筒を受け取ろうとした手を横からさらう。
「リン?」
「凜?」
『騎士』である晴を『お姫様』である綾奈に会わせるわけにはいかない。
今度こそ『彼』は、優は、幸せになるべき人なのだから。
「さっき、教えてくれるって言ったでしょ、晴?」
そのためにだったら、『私』と『わたし』が欲しくてたまらなかった手を振りほどける。
欲しかった手とは違う手をとることだって、できるから。