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ブータ帝国記  作者: なんやかんや
黎明編
6/9

黎明編5話上

 トロフィーナの戦い、通称トロフィーナの屈辱は戦術的失敗の極致と広く信じられてきた。

 この戦いに参加したのは正統コーンビフ帝国側が8万であり、対する聖戦軍側はエンヤ河の戦いの敗北とそれによって動揺した兵士たちの脱走により5万を切っていたと考えられている。退却する聖戦軍に迫った帝国側は中央に帝国直属の近衛軍を配置し、その両脇を近衛軍で固め、聖戦軍を半ば包囲戦という形で布陣した。

 帝国軍側の兵力は聖戦軍側よりも多く、士気という点や、最初の布陣といった諸々の要素から勘案すると、弱体化して敗走する聖戦軍への追撃は本来成功の確率が高かった。

 にもかかわらず、正統コーンビフ帝国は勝利を得ることができなかった。

 追撃決定の遅れにより帝国は既に退却を始めていた聖戦軍を追う必要があったがこれにより彼らは帝都近くで戦うという地の利を失った。そして追撃部隊の連携不足、人の和を欠いたことであろうことにも各個撃破されるという事態に陥ったのである。

 これは政治的な理由により追撃部隊の中で仲間割れが生じ意思の統一が適わなかった為である。この戦いは政治的、経済的要求という言うものが本来勝てるはずの戦況を覆してしまうことがあるという事を実証したのである。

 ブータ帝国で刊行された歴史書において、このトロフィーナの戦いは以上のように見なされている。

 もっとも、昨今の研究によると、この見解は一方で正しいが異なった側面もあるということが示されている。


 一つには聖戦軍の被害が過小評価されている事が挙げられる。

 ムーン教国が当時公表したところによると聖戦軍がこの追撃戦で受けた被害は1000と記されている。

 だが、実際には1万を遙かに超える死傷者がいたと従軍した騎士の手記や、後の時代に公開された当時のヴィタミンの非公開議事録は記している。


 実際の被害に対して、この戦いの被害がこれほどまで過小評価されたのは、ムーン教国は自らが主導した聖戦の大失敗による権威喪失を怖れたためであると考えられる。また、この退却の総指揮官であったルーイ9世にとってもこの戦いでの被害が僅かであったとする話は望ましかったに違いない。

 少数派ではあったが、エンヤ河の敗北以降も正統コーンビフ帝国と断固として戦いぬく事を主張する熱狂的な騎士や従軍聖職者はルーイ9世を強く批判していた。正統コーンビフ帝国の追撃によって聖戦軍が受けた被害が大きいということは、反対を押し切って退却を決めたルーイ9世の判断に傷をつけるものとなったはずである。


 ヴィタミンで発見された当時の幾つかの記録をまとめると、この戦いでの損害の辻褄を合わせるためにムーン教国の発表はエンヤ河の戦いや他の戦いで聖戦軍が受けた被害を過大評価していた様である。

 特に、エンヤ河の戦いは総指揮官であったスモー・モスド大公がこの戦いで戦死していた事から損害を過大評価しても不服を申し立てる者が少なかった。サンド王国やその同盟国などはこの記録に抗議したが、実際に、エンヤ河の戦いで聖戦軍が大敗していたこともあり、この情報操作は一部を除いてその嘘を見破られることがなかった。


 正統コーンビフ帝国側にとってもこの戦いで受けた損害は予想を遙かに越えていた。エンヤ河の戦い以外全てで敗戦を重ねていた帝国首脳部は自らの力に対する自信を失っており、ムーン教国の発表の真否を確かめるだけの意志を持たなかった。

 トロフィーナでは戦闘後の死体の数からある程度正しい情報を得ていたはずであるが、この地を治める領主たちは正統コーンビフ帝国の考え違いを修正しようとはしなかった。

 正統コーンビフ帝国の失策により聖戦軍に蹂躙されることになったトロフィーナは帝国への忠誠心を保っていなかった。帝国が自らの軍事力に自信を失っている事をわざわざ訂正しようとは彼らは思わなかったのである。

 この戦いの僅か2年後にトロフィーナは一斉に帝国に反旗を翻している。トロフィーナの統治者達は正統コーンビフ帝国が安全を保障できないのならば、帝国から独立した方が重税の無い分まだましと判断したのだろう。


 さらに、ムーン教国の記録は後に台頭したブータ帝国にとっても都合がよかった。正統コーンビフ帝国を民草の安全を保障するというだけの力を持っていないと批判して自らの正当性を訴えたブータ帝国にとって批判の矛先として格好の対象になったのである。

 そのため、ブータ帝国が事実を知ったとしてもムーン教国の公表に疑問を呈する動機は低かったはずである。


 これらの理由により、トロフィーナの屈辱による聖戦軍側の損害が過小評価されているという事は数世紀にわたって長年見過ごされてきたのである。


 さらには、帝国が各個撃破されたという話も真実では無いようである。

 正統コーンビフ帝国側が兵力の統制を十分に行えないままに聖戦軍に挑んだことは確かなようではあるが、これに相対する聖戦軍も統制がとれていたとはお世辞にも言えなかったというのが真実であると今日の歴史家達や戦史家達は考えている。


 つまりこの戦いは両軍が戦略、戦術の限りを尽くして激突したという種類の戦いではなく、烏合の衆がトロフィーナの各地で散発的に小競り合いを重ねたというのが実際の所であるようだ。

 場所によっては帝国側が優位を持って戦ったようであるし、一方で聖戦軍側が相対的に少数の帝国軍を打ち破るといった事態が生じた。結果だけ述べると最終的に両軍とも相当の被害を受けたのである。


 正統コーンビフ帝国側の総大将はタルタル・チキーラ将軍であったが、帝国首脳部と大多数の兵力を供給する諸侯の間に存在した強い相互不信は彼の統率を事実上不可能にしていた。

 諸侯は敗戦を重ねた帝国に従っていては勝てるものも勝てなくなると主張した。


 諸侯にとって最大の不満はチキーラ将軍が先陣を帝国直属の近衛軍に任せようとした点であった。戦力を半減させて退却する聖戦軍への追撃は戦功を得るまたとない機会であると誰もが考えていたのである。その先陣に立つということは、多くの戦功を挙げる事ができる可能性が高いように思われていた。

 この戦いに参加した諸侯は莫大な出費を強いられており、その多くは借金によってその支出を賄っていた。諸侯が背負った借金は帝国の課した重税のために返済の見込みがなく、そのため、彼らは正統コーンビフ帝国からの恩賞を当てにしていたのである。

 心情的にも諸侯にしてみれば、これだけ敗戦を重ね彼らに並々ならぬ出血を強いておきながら帝国が戦功を独占するというのは到底認められるものではなかった。彼らは、帝国各地では、帝国の勢力下から外れようとする気運が高まっているにもかかわらず、帝国を守るために馳せ参じた忠誠心の高い臣下であったが、一方的な自己犠牲の精神までは持ち合わせていなかった。


 対して、同じ理由で正統コーンビフ帝国は諸侯に先陣を切らせるわけにはいかなかった。

 一つにはこの戦いで大きく傷ついた帝国の威信を取り戻す必要があった。既にこの戦いに参加しなかった諸侯は帝国の連敗に独立の気運を高まらせており、このままではこれら諸侯が帝国を離れてしまうおそれがあったのである。

 帝国首脳部は諸侯の間に生じていた反帝国の動きを知っており、それ故に権威を支える武力がその威を失うことを怖れていた。

 政治的な理由から少なくとも一回は帝国が聖戦軍に勝利することが必要であり、帝国軍にとってこの戦争最後の勝利が確実と思われた戦いを逃すという選択肢はなかった。

 それがために、チキーラ将軍はエンヤ河の戦いで聖戦軍に勝利したオーク達が再び大勝利を収める可能性を恐れた。そして、その様なことにならないよう彼らを徹底的に後方に配置して、戦功を上げることがないようにと謀ったのである。この戦いでブータ大帝が戦功を上げたという記録がないのはその様な事情があったからである。

 さらには、この戦いで帝国が得た物は皆無に等しく、一方で防衛戦のための兵力、兵糧の確保に費やした資金や交易路が断絶したことによる税収悪化は決して軽くない負担を帝国に与えていた。

 そのため、諸侯が戦功を挙げたとしてもそれに報いるだけの恩賞を与えるだけの能力を帝国は持っていない、という切実な問題もあった。


 互いに妥協するだけの余裕を持たない帝国のチキーラ将軍と諸侯の意見の隔たりは埋まることなく、結果として帝国軍側は貴重な時間を失うことになる。

 さらに、帝都を発ってからも議論のために進軍が滞りがちになったことで、聖戦軍側に追撃されていることを察知され迎撃の備えをするだけの余裕を与えることになった。

 両者の溝は最後まで埋まることなく、結局諸侯と帝国近衛軍は別々に聖戦軍に戦いを仕掛けた。

 正統コーンビフ帝国側は戦力の集中という戦略、戦術の大原則を無視したのである。


 一方、対する聖戦軍も決して整然と追撃軍へ備えられた訳ではなかった。

 帝国による追撃を知った聖戦軍では最初パニックが生じた。ルーイ9世を始めとする聖戦軍首脳部もただ急いで逃げることを考えるのみであり、当初聖戦軍は完全に統制を失っていたようである。

 当初、ルーイ9世は兵士たちに異端軍の進撃を食い止めよとだけ命じると、自らは総司令官として後方で指揮を執ろうとした。

 これには多くの兵士や騎士たちが反対の声を上げた。

 特に、ライト王国と対立関係にあったサンド王国の兵士たちはルーイ9世に戻って戦うよう強く要求した。彼らはルーイ9世が自分たちを囮にして逃げようとしていると疑ったのである。

 ルーイ9世はこの疑いを強く否定したが、自らが後方で指揮を執るという言葉を翻そうとはしなかった。そのため、ルーイ9世は彼が逃亡しようとしているという疑いを晴らすことができなかったのである。

 歴史に仮にという言葉は無いが、敢えてこの時、間を置かずに帝国が追撃戦を仕掛けていたと仮定すると、統制を喪失していた聖戦軍はたちまち瓦解し、帝国の一方的な勝利でこの戦いは幕を閉じることになった公算が高い。

 しかし、この時聖戦軍側にとって幸運の女神が舞い降りた。追撃をすぐにでも仕掛けるべき帝国側の動きが帝国首脳部と諸侯との対立により止まったのである。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 聖戦軍側の従軍司教レモネドはこの戦いの様子を自らの手記に記している。

 ライト王国側の派閥に属していた彼の記録はムーン教国の公式発表の元となったものであるが、その内容は仰々しく、自己陶酔的であって、さらに決して中立な立場で記されたと言えるものではない。特にこの手記の46年後にメンマ・カイトウによって記された帝国創史と比較すると、半世紀でこれほどの差異が生じるのかと驚くほどである。

 この違いが生じた大きな理由として両者が属していた国家の違いが上げられるだろう。メンマ・カイトウのこの傑作は明快かつ客観的であることが尊ばれたブータ帝国でなければ日の目を見る機会を与えられなかったはずである。一神教であるケビア教を国教とする正統コーンビフ帝国や、記録として残っている兵士達の証言、この戦い後の各国の情勢変化はこの記録とは幾つかの点で異なった出来事を示している。そのため、今日歴史家たちはこの手記に歴史的な資料としての価値を認めていない。

 だが、この手記こそが長らく当時の様子を伝える第一級歴史資料として扱われてきた過去は無視するべきではないだろう。どうであったかという事と同様に、どう信じられてきたかという事もまた歴史の一部なのである。帝国創史においても、この記録の内容が概ね事実として記されている様に、この記録は長らく真実として扱われてきたのだ。


 手記にはこの時の有様が以下のように記されている。

『――この時(※正統コーンビフ帝国軍を聖戦軍側が発見した時)、大王(※ルーイ9世)を始めとして聖なる戦いに付き従った全ての人々は大いに恐れ我を失った。

 もっとも、大王やその配下の大貴族たちは並々ならぬ精神と神の御心によって早期に落ち着きを取り戻したが、兵士たちの動揺は一向に収まる気配を見せなかった。騎士の馬を引くべき従者は色を失い、猛る馬たちと取り乱す従僕たちを騎士たちは叱りつけねばならなかった。

 しかし、責任ある高貴な者たちが幾ら落ち着くように言っても、下々の兵士たち(※サンド王国側の兵士たちのことを示している)は異端の者共を恐れてやまなかった。

 彼らは神聖なる聖戦軍帝国に勝利を重ねていた時、もっとも苛烈に攻撃を続けるよう主張した者たちであり、その勇猛さは随一であると思われていた。だが、彼らが勇猛に振舞っていたのは彼らが順風に乗り勝利を重ねていたからであり、神の与えた試練により一度逆風にさらされると、最早彼らはその勇敢さを保てなかった。

 ネズミのごとく臆病となった下々の兵士たちに大王は幾度も冷静になり戦陣を作るように命じた。しかし、恥を知らない兵士たちは大王こそが戦陣をしき、異端の者共と戦うよう求めた。

 臆病な兵士たちの魂胆が、大王が戦っている内に自分たちだけが逃げることにあったのは明白であった。神の名の下に集い、その命を信仰に捧げたはずであるにもかかわらず、浅ましくも自らの身の安全のみを求める彼らの姿は良心ある人々の眉をひそめさせるものである。

 大王は当然ながら拒否した。神聖なる聖戦軍の総大将を預かる以上、最後まで指揮を続ける事こそが彼の義務であるからである。

 しかし、恥知らずの兵士たちは大王が逃げようとしていると疑った。人を謀る者は相手も自分と同じように嘘をつき欺くものと信じ疑わないのである。大王は当然この謂れのない中傷を否定した。

 この聖戦に参加した以上、その魂は神の恩寵を約束されており、戦い続ける限りにおいて栄光と死後の平穏は約束されている。だが、仮に恐れをなして神聖なる誓いを破ればその魂は永遠の苦痛に苛まれることになるだろう。だというのにどうして逃げることができるというのか。

 尚も言い募る兵士たちに大王は毅然とした態度で真摯に説得を続けた。神へ誓った言葉を翻す愚者を切り捨てることなく道理を説き続ける大王の姿は良心ある人々の心に感動と畏敬の念を呼び起こした。しかし、恥知らずな者共は一向に大王の命に服すことなく、不埒な考えを浮かべるものもいたため、大王は仕方なく剣を抜いた。戦って栄光と勝利を勝ち取るか、誓を破った裏切り者として処されるかを選ぶよう大王は厳かに告げた。

 この大王の信仰に満ち溢れた様子に天上の主もその魂の高潔さと公正さをお認めになるに違いないとすら思われた。

 そして、その時、正に奇跡が起きた。

 異端どもはその信仰の過ち故に常に心の平安を得られず、互いに怒ったり、騙し騙されたりしているが、神聖なる信仰に基づいた聖戦軍に正に攻撃を仕掛けようとした瞬間、彼らの意志は突然ばらばらになり、突撃をかけることができなかったのである。

 大王はこの黄金よりも価値ある時を逃さなかった。不満を言い募る兵士たちを諭し、時には叱り聖戦軍をまとめたのである。

 もはや、異端軍は敵ではなかった。遍く地に真の信仰を広げるという戦いの目的を思い出した兵士たちは迫りくる異端の敵を薙ぎ払い打ち倒し、追い返したのである。

 異端の者共は大いに恐れた。彼らは勝利を確固たるものと盲信しており、神の恩寵を受けた聖戦に従事する者たちが不滅であることを愚かにも忘れていたのである。この大いなる勝利に高揚する兵士たちに大王は神の御心に従って戦う限りにおいて我らに敗北はないと励ました。

 聖戦軍はトロフィーナでの戦いにおいて、大王の類まれなる統率能力と信仰心により勇猛さを取り戻し、異端軍に痛撃を与えたのである――』


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 聖戦軍側にとって正統コーンビフ帝国側の追撃軍が動きを止めたことは正に奇跡と言えたであろう。しかし、実際にはレモネドの手記の述べる通り聖戦軍側がこの好機を十全に活かせたかと言うと決してそうではなかった。

 ルーイ9世は自分が下がって指揮を取ることに固執し、兵士たちも引き下がろうとはしなかった。決着の着く見込みのない論争に加えて、今にも攻撃を仕掛けてきそうな帝国軍を前にしびれを切らしたルーイ9世は配下の兵たちに剣を抜くよう命じた。

 不平を述べていた兵士たちに剣や槍を突きつけさせるとルーイ9世は戦うか、ここで死ぬかを迫った。サンド王国の兵士たちは一歩も引くことなく、武器を手に取ったという記録が幾つか残っている。


 その直後、帝国側の一部の軍団が突撃を仕掛けてきた。リキュイ伯爵を始めとする正統コーンビフ帝国側の一部の有力な領主たちが突撃を禁じたチキーラ将軍の軍令に背いて攻撃を仕掛けたのである。16000もの兵力を抱える彼らは自分たちが戦いを始めれば、他の諸侯たちやチキーラ将軍もそれに続かざるをえないと思っていた。

 ところが、この軍令違反をみたチキーラ将軍は他の諸侯が続くことが無いように伝令を出して回ったのみで、この諸侯らに続いて突撃をしようとはしなかった。

 結果として、功を焦った帝国側の諸侯たちは少数で多数を攻めることになった。


 諸侯の突撃を帝国側の総攻撃と思い込み、当初は恐怖し慌てていた聖戦軍だったが間もなく攻撃を仕掛けてきている敵が少ないことを知ると落ち着きを取り戻していった。相手が無勢なのを見た指揮官や騎士たちは、兵士たちを敵は少ないと言って励ました。

 最初は勢いに乗り、聖戦軍を責め立てていた正統コーンビフ帝国の諸侯たちであったが後続がなかったこともあり敵陣を突き破ることができなかった。陣形の不備や低い士気を多勢で補った聖戦軍は突撃の勢いを失った帝国の諸侯たちに襲いかかった。攻撃を仕掛けた帝国側の諸侯たちは騎兵が中心であったため、突撃が止まってしまうと聖戦軍側の兵士たちに四方を囲まれ殺されていった。

 味方が殺されていく様子に耐えられなかった諸侯たちはチキーラ将軍に今すぐにでも攻撃を仕掛けるように求めた。危機に瀕している味方を援護する必要があるというのがその理由であった。しかし、チキーラ将軍は命令に逆らった者を助けるために兵は動かせない、と言ってこの要求を退けた。


 この時、突出した諸侯を除いても全体的な兵力だけを見れば帝国側が有利であり、チキーラ将軍は一部の命令造反者のために兵を動かす気にはならなかった。

 ここで、諸侯たちに追随すれば先遣の功は慣習的に最初に突撃を仕掛けた彼らのものになってしまう事をチキーラ将軍は恐れたのである。この時代、戦場の命令違反は戦功によって帳消しにすることができるという暗黙のルールが存在していた。

 彼にとって、この戦いで聖戦軍に最初に攻撃を仕掛けるのは自らが率いる近衛軍でなければならなかった。

 帝国の権威回復のために、さんざん敗退を重ねてきた異端軍にせめて一度は勝利を得る必要があると信じていたのである。


 そして、突出した諸侯が全滅したところで兵力にはまだ差があり勝敗に影響はないという冷徹な考えがチキーラ将軍の脳裏には浮かんでいたことだろう。

 もしかしたら、この機会に彼の命令に背いた諸侯たちを聖戦軍に処分させる事すら彼の頭にはあったかもしれない。

 頑ななチキータ将軍に、諸侯たちは歯噛みをしながらも渋々引き下がり事の推移を見守った。諸侯たちのみでは聖戦軍に対して数の優位を保てないことと、聖戦軍に敗北を重ねてきた記憶が彼らの暴発を辛うじて抑えたのである。

 だが、諸侯たちのチキーラ将軍に対する不信感はおそらくこの時決定的になったであろう。彼の冷然と目の前の友軍を見捨てる様子に、諸侯たちは自分達も同様に切り捨てられるのではと勘ぐった。


 チキーラ将軍は自らの姿勢が諸侯たちにどれだけの怒りと失望を与えたかを理解できなかったのである。

 彼はおそらく諸侯達を近衛軍と同じように自分の配下にすぎないとしか認識していなかった。

 確かに、正統コーンビフ帝国やその前身であるロースビフ帝国では慣習的に将軍の下に全ての軍団が従う事になっていた。さらに、正統コーンビフ帝国では諸侯は『神の代理人たる皇帝とその統帥権』に『無制限の忠誠』を義務付ける明文化された法が存在していた。つまり、制度上は確かにチキーラ将軍の指揮下に全ての諸侯は従う義務があったのである。

 そして、原理原則を尊んだチキーラ将軍にとって諸侯は彼に服従するべき存在だった。


 だが、この当時、正統コーンビフ帝国の覇権は揺らいでおり、帝国将軍の威光もその輝きを失って久しかった。

 帝国中央の代わりに跋扈する山賊や海賊に対処し、周辺諸国からが帝国に攻撃を仕掛ける際には真っ先に戦火に晒されていた当時の諸侯たちには自分たちが身を呈して帝国を守っているのだという自負があった。

 また、諸侯たちが時代とともに増大の一途を続けてきた税を負担してきた事も事実であった。

 正統コーンビフ帝国に多大なる貢献をしてきたと思っていた諸侯たちは当然ながら帝国も自分たちに報いるものと暗黙の内に信じていた。

 そして、それを保証する制度も確かに帝国に存在していたのである。


 今日、正統コーンビフ帝国に対する忠義あふれた諸侯の話は度々小説や映画などで取り上げられる。有名な『無制限の忠誠』に直面した主人公たちは悩みぬいた末にある者は服従を選びある者は反逆を選ぶ。これらの作品のほとんどは帝国の諸侯たちに対する一方的な関係が前提となっている。

 驚くべきことに、『帝国への自発的かつ献身的な貢献に対する恩賞』や『諸侯への危機に対する帝国の補助義務』など数々の制度が物語ではまるで存在しないかのように扱われる場合が非常に多い。

 実際は諸侯たちの帝国への『無制限の忠誠』には報奨や様々な保証が確約されていた。その前提があったからこそ、彼らは帝国の要請に従い莫大な借金を抱えてまで兵を集めたのである。

 しかし、チキーラ将軍の行動や言動はその前提を覆しかねないものだった。彼がこの勝利は確実と思われた戦いの功績を独り占めしようとしたことや、諸侯の危機にあって無感動で鈍重な反応に諸侯は怒りを覚えていた。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 チキーラ将軍はトロフィーナの屈辱の敗因となったとして、彼への対する評価には辛辣なものが多い。ブータ大帝を取り扱った小説や映画ではチキーラ将軍は無能な帝国の代表的な人物として描かれることがほとんどである。

 実際、この戦いにおける彼の行動が示すように彼は物事への柔軟な対応が苦手であり、指揮官としての資質にかけていたことは否定のしようもない。


 だが、彼が当時慢性的に増大を続けていた正統コーンビフ帝国の軍事費削減を行った財政への理解ある有能な官僚であった事は忘れてはいけない。

 彼の最大の業績は正統コーンビフ帝国の軍事財政改革である。


 彼が将軍に就く以前、帝国の軍事費は歳入の3分の2程度まで膨れ上がっていた。

 軍事費の増大は帝国国内外で跋扈するようになっていた山賊、海賊などの賊軍に対処するために行われてきた。

 この時代、その勢力を急速に衰えさせ続けていた正統コーンビフ帝国に公然と敵意を示す部族や人種族は多く、彼らは人間種族の村や町を襲い、略奪を繰り返していた。この襲撃には歯止めがかからず、ミキレタクア辺境伯を始めとして幾つかの辺境地域では領主が殺害されるという事態が生じていた。帝国にとって特に痛撃だったのは、治安の悪化に伴い幾つかの非常に有益な交易路が途絶えたことによって交易税収が大きく落ち込んだことだった。

 この問題を解決するために、山賊などの跋扈が激しくなった当初、諸侯への支援という名目で帝国は度々大軍を編成し、反乱の生じた地域に遠征を繰り返した。

 しかし、この遠征は往々にして成果を上げることなく終わった。

 山賊などの賊軍は自らが少数であり武装という点でも劣っている事をよく理解しており、大軍を相手に戦うつもりなど欠片もなかった。彼らは帝国の遠征軍が来ると山間部や森の中、険しい崖の間などに身を潜ると、帝国が大軍を維持できなくなり退却に追い込まれるのを待ち続けたのである。

 帝国側は山間部や森の中へ敵を追い求めたが、こういった不整地では本来帝国が有していたはずの数の強みや練度の高さを活かすことが叶わなかった。逆に帝国は土地勘のある賊軍による待ち伏せなどを受けて敗退することのほうが多かったのである。そして、幾ら山賊や海賊を打ち破ったとしても、帝国軍が去るとどこからともなく賊軍が現れてしまったのである。

 賊軍には主として2つの人的資源の供給先があった。

 一つはヘルシア王国からの難民であった。

 この当時、正統コーンビフ帝国の隣国であるヘルシア王国が国王の崩御に伴う王位継承問題で内乱状態になっており、大量の難民が発生していた。

 帝国はこれを国境付近で締め出そうと試みたが、配備されていた兵では人手が足りずに大量の難民が帝国国内に流入したのである。

 当時の帝国には難民たちを食べさせるだけの余力はなく、その意志もなかった。そのため、難民の少なからぬ割合が生きていくために盗賊や強盗といった悪行に手を染めざるを得なかった。

 彼らは山賊や海賊の人的資源の供給元となっていた。

 また、帝国が強大だったときは大人しく従っていた無数の部族や人間以外の人種族が帝国に反抗的な態度をとるようになっており、賊軍に参加する者も多かった。さらには部族単位や人種族単位で略奪行為を行うところも存在していた。この代表的な例がオークである。

 倒すことが困難であり、なおかついくら討伐してもすぐに勢力を回復する賊軍に正統コーンビフ帝国は戦略の転換を余儀なくされた。

 11世紀の終わり頃には、正統コーンビフ帝国は積極的な賊軍討伐を諦め、拠点防衛に努めるに留まるようになっていた。帝国は資金の枯渇により幾つかの主要な交易路と交易路上の主要都市近辺に砦を設け、行商人などを襲うために度々現れる賊軍を追い払うという消極的な姿勢を取らざるを得なくなるまで追い込まれたのである。


 しかし、いくら帝国の警備軍が交易路の確保に努めようとしても、賊軍たちは彼らの目をかいくぐり、実りの多い行商隊を襲うことに情熱を燃やした。交易路が寂れた結果獲物が減り、数が増える一方の賊軍たちは危険を冒してでも行商隊から略奪を行わねば生きていけなかったからである。

 そのため、行商人たちは武装して隊列を組み足早に危険な交易路を通り過ぎるようになる。そして人の往来が減った交易路にはその空白を埋めようとしているかのように賊軍が度々現れるようになった。

 12世紀初頭、かつて往来の行商人たちで賑わっていた交易路街路街の数々は誰も寄り付かない無人の廃墟となり、時折武装した行商隊が辺りに気を配りながら足早に通って行くばかりとなっていた。

 正統コーンビフ帝国はこれに対処するために相当の兵力を常備して、賊軍が現れるたびにこれを討ち滅ぼそうとしたがこの望みが叶うことはなかった。その結果、帝国が交易路から得ていた莫大な税収は減少の一途をたどる事になった。

 一方で、賊軍の跋扈に伴う兵士たちの危険上昇にともなって、軍事費は増大するばかりだった。

 兵士の数を確保するために正統コーンビフ帝国は傭兵を利用したが、彼らは帝国の覇権が弱まるのを見ると、報奨の少なさに不満を抱いていた少なからぬ人数が賊軍へと立場を変えた。離反していく傭兵たちを引き止めるために正統コーンビフ帝国は支払いを増やさねばならなかった。

 さらに、交易の縮小に伴い国内の物資流通が滞るようになり、これが物価の上昇を招いたのである。そのため、軍隊を支えるための諸経費は軒並み上昇することになり、これが帝国の軍事費を増大させた。

 加えて、交易路沿いでは賊軍の跋扈により要塞や砦への物資を輸送する際にすら、護衛兵が同行することが必要となっていたのである。。

 これらにより、帝国の歳出に占める軍事費の割合は上昇を続けたのである。


 タルタル・チキーラが将軍の座に就いた時、正統コーンビフ帝国には増大する一方の軍事費と、減少の一途をたどる税収により、近い将来破綻が免れないという強い危機感があった。既にヴィタミンなど商人への負債は膨大な額に膨れ上がっており、商人たちはこれ以上資金を帝国に融資することを渋り始めていた。

 歳入をすぐに増大させる事が不可能である以上、帝国はなんとしても歳出を減らす必要があった。そして、歳出の3分の2を占める軍事費はその槍玉に上がっていたのである。

 軍人と言うよりは官僚肌であったタルタル・チキーラが将軍に選ばれたのは、軍事力の立て直しよりも財政の立て直しが最急務であるという帝国の事情があった。

 そして、チキーラ将軍は正統コーンビフ帝国の期待に見事に答えた。

 彼は大胆な軍制改革を行い、この慢性的に増大傾向にあった軍事費を大きく減らした。彼の改革によって、正統コーンビフ帝国の軍事費は余剰兵力の削減や各種手続きの簡略化、報奨への成果主義の導入、物資管理の厳格化、収賄の取り締まり強化などを通しておよそ半分にまで削減された。

 チキーラ将軍の持つ几帳面さと断固とした意志がなければこの偉業は不可能であっただろう。彼は報告書の全ての数字に目を通し、矛盾や間違いがあればそれを断固として追求した。これにより、多くの軍事制度の無駄や収賄を明らかにすることができたのである。

 この大胆な改革とそれによって生まれた財政上の余裕には、当時帝国内で武官であるチキーラ将軍と慢性的に対立していた文官たちでさえ、将軍は母屋のわら一本に至るまで無駄を排除した、と苦々しくも賞賛せざるを得なかった。

 実際、チキーラ将軍は馬小屋に敷くわらを交換する際、古いものは乾燥させた後に燃料として使用するという制度を作り上げている。当時十分なわらを使用していた馬小屋が少なかったこともあり、この制度が実施されることはなかったが、彼はあらゆる点において支出を切り詰め、無駄を排除しようと試みた。

 今日、正統コーンビフ帝国の財政を研究している歴史家たちは、この一連の軍制改革を成し遂げたことによって帝国は破産の時を10年は先延ばすことに成功したと考えている。

 また、経済学者のオウゴ・モナカはこのチキーラ将軍の軍事財政改革を財政再建の理想的な手本であると褒め称える。

 チキーラ将軍の改革には経費削減や人員削減が伴い、これが帝国の軍事力を大きく低下させたという戦史研究家などの批判に対して、モナカは当時の帝国の財政状況では軍事費削減は必須であり、帝国の軍事力を極力低下させずに軍事費を半分にまで減らした事は今日でも見習うべき偉業であると主張している。

 また、チキーラ将軍は帝都臣民全てに一定期間近衛軍に従軍の義務を負わせるという徴兵制度を主張するなど、当時としては極めて柔軟な視点を持ち合わせていた。この時代、正統コーンビフ帝国でも東方諸国でも兵士の役割は貴族やその配下、傭兵が担うものであったが、彼は全ての臣民にその役割を広げるべきだと主張したのである。

 これは、軍事費の削減に伴い減少した兵力を補うために提案された案であったが、これを発想だけに留めず実現に必要な各種制度や法案をまとめあげた事はチキーラ将軍の功績として評価してよい。

 彼が皇帝に上奏した草案によると、軍で過ごしたことのある臣民であれば短期間で兵士として従軍させることが可能になるとある。特権的地位を失うことを恐れた軍人たちや貴族たちの激しい反発もあり、この案は財源がない事を理由に実施されることはなかった。


 だが、正統コーンビフ帝国の反乱を治めたことでオークたちに領土が与えられた際、ブータ大帝はすぐにチキータ将軍の考案した徴兵制度をほとんど原案のまま領土内に導入した。

 また、オークが領土を持ってから暫くの間、ブータ大帝は頻繁にチキーラ将軍に政策についての意見を求めている。この時期、トロフィーナの屈辱により帝国首脳部での発言力を失ったことで時間的余裕のあったチキーラ将軍は、ブータ大帝の要請に応えてオーク達が管理している領土内における政策を幾つか立案している。大帝はこれらの政策案をほとんどそのまま領土内で運用したのである。

 また、将軍が過去に作った制度や考案したアイデアの多くはブータ大帝によりブータ帝国に導入された。

 正統コーンビフ帝国では十分な評価を受けることのなかったチキーラ将軍は、正統コーンビフ帝国帝都コーンビーフルがブータ大帝により陥落させられた際に自決したが、ある意味でチキーラ将軍を最も高く評価していたのはブータ大帝その人であったという事実は、歴史を学ぶ者たちに一種の感慨を覚えさせずにはいられない。

 生前は評価よりも批判を受けることの多かったチキーラ将軍の軍政官僚としての優秀さは、空前絶後の繁栄を誇ったブータ帝国の成功によって証明されたのである。


 しかし、チキーラ将軍は流動的に変化していく戦場に臨機応変に対応していく才能には恵まれていなかった。そして、そのために彼は後世の人間たちから批判されているのである。

 もし、彼があと五百年早く生まれていれば、極めて優秀な行政家としてその名を歴史に刻むことになっただろう。あるいは二百年早く生まれていれば、衰退を始めた国を立て直した中興の能臣と讃えられることになったかもしれない。

 だが、彼にとって不幸なことに彼が生まれたのは正統コーンビフ帝国が軍事的優越を失った時代であり、何よりも戦場における勝利が求められた時代だったのである。

 そして、この時代に一つの国がその姿を消し、過去のどんな国よりも強大な新たな国が誕生したのである。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 リキュイ伯爵たちの危機に動こうとしないチキーラ将軍の様子に耐え切れなくなった一部の諸侯が命令を無視する形で聖戦軍に突撃を仕掛けたのは、最初に突撃を仕掛けた騎馬隊が全滅しかけていた時であった。ビーア侯爵を始めとする幾人かの諸侯たちが友軍救援のために突撃を決断したのである。

 二回目の命令無視にはほとんどの諸侯が後に続いた。

 これに対し、最初に突撃を敢行してきたリキュイ伯爵を打ち破った聖戦軍はその勢いのままに相対した。

 チキーラ将軍は命令を守るように伝令で伝えようと試みたが、既に戦いの火蓋は切って落とされていた。数万の兵が行動を開始した以上既にこれを押し留める手段は存在していなかった。それでも、チキーラ将軍は最初自らの統制下にある近衛軍だけは動かそうとはしなかった。

 諸侯たちは思い思いに突撃を仕掛けて戦ったために、チキーラ将軍が近衛軍を動かすことを決断した時、すでに当初帝国側が考えていた半包囲陣による聖戦軍の撃滅という作戦は実行不可能になっていた。


 しかし、聖戦軍も決して一枚岩となって正統コーンビフ帝国軍を迎え撃った訳ではなかった。

 聖戦軍側の指揮官たちは兵力で勝る敵を打ち破ることは困難であり情勢が敗北に傾くのは時間の問題であると考えていた。補給の問題により仮に戦いに勝利したとしてもこれ以上戦い続けることが不可能であるという聖戦軍の事情もあり、彼らは現実問題としてどの様に退却するかを考えなければいけなかった。

 図らずも当初帝国側が攻撃開始までかなりの時間を浪費し、また最初の突発的な一部の攻撃をそれほど苦労なく凌いだ聖戦軍の首脳部にはそうした事を考えるだけの余裕があったのである。

 聖戦軍に参加している有力者たちは東方諸国においては一致団結というよりも謀りあい競い合っていた。そのため、幾人かは敗北の際の被害を自分と対立している相手に押し付けようと動き始めた。

 その中で最も動き出すのが速かったのがライト王国の国王であるルーイ9世であった。彼は自らの王国と常に対立関係にあったサンド王国に敗北の損害を押し付けようと露骨に動いた。彼はライト王国側の兵士たちを後方に下げ、サンド王国側の兵士たちのみで正統コーンビフ帝国軍に相対させようとしたのである。

 この意図に対しサンド王国側の諸侯は激しく反発した。サンド王国側はルーイ9世に総指揮官として最後まで戦場の最前線で指揮を執ることを求めた。

 だが、ルーイ9世はサンド王国の要求を退け、自分たちが後方に下がり指揮を執ると主張し続けた。

 ルーイ9世への信用を完全に喪失したサンド王国側の兵士たちは総大将の命令を無視して退却を始めた。ルーイ9世は彼らに戦いを続けるように勧告したが、彼自身が退却を始めたのを見たサンド王国側はこれを無視して先に逃げようとした。


 これをチキーラ将軍は追いすがろうとしたが、両脇の諸侯が思い思いに突撃を仕掛けていたため、中央に構えていた近衛軍の前方を塞ぐ形になっており、進撃することができなかった。諸侯たちも統率のとれていない突撃で諸侯軍同士が入り交じっていたために、有効な追撃が行えなかった。

 また、開けた地形のトロフィーナを聖戦軍側は散り散りに逃げていったために正統コーンビフ帝国側はどれを追うべきか迷い、貴重な時間を失った。最終的に帝国側の諸侯たちはそれぞれに敵を追うことになり、戦力の分散という戦術上の愚を犯すことになった。

 チキーラ将軍と諸侯の不和により統制するものがいなくなった正統コーンビフ帝国側は大軍を擁しておきながら戦いは局地戦に終止することになり、聖戦軍に有効な打撃を与えることができなかった。

 対する聖戦軍も部隊同士の有効な連携がなくなっていたために、まとまった迎撃が出来たわけではなかった。指揮官が冷静を失い逃げ惑うだけの部隊はたちまち正統コーンビフ帝国側の餌食となった。一方で、少数で必死に追いすがる帝国軍を聖戦軍側が布陣して打ち破るという事態もあちこちで生じていた。

 その結果、聖戦軍側の各々の勢力が撤退を試み、正統コーンビフ帝国側の諸侯たちによる追撃を受けた部隊が必死に戦うという状況で事態は推移していった。


 この戦いで、正統コーンビフ帝国側は諸侯軍が1万、近衛軍が5000の死者が出たと当時の資料は伝えている。対する聖戦軍側は正確な数が伝わっていないが、近年の推定では1万2000程度の死者を出したと考えられている。死傷者は帝国側が5万を超え、聖戦軍側は3万弱であると推定されている。

 双方共に軍組織の運営に支障をきたすレベルの損害を出したのである。

 当初の予想を大幅に裏切る損害に、正統コーンビフ帝国側は引くことができなくなった。武威の減少とともに増大した反乱に頭を悩ませていた帝国にとって、これ以上の権威失墜は致命傷になりかねないという危機感があったのである。

 聖戦軍側が撤退を決意していることを正統コーンビフ帝国首脳部は把握していた。である以上このまま戦いが終われば、帝国は武力的な権威失墜を回復する機会を失ってしまうのである。少なくともチキーラ将軍はその様に考えたし、結果としてそれは正しかった。

 また、正統コーンビフ帝国の諸侯たちも後には引けない状況となっていた。彼らが戦いで受けた損害は許容範囲を越えており、借金を抱えていた大部分の諸侯たちにとって帝国からの救済が唯一の頼りであった。だが、この時代帝国は苦しい財政のために様々な難癖をつけて諸侯への緊急的な援助を渋る傾向にあった。そのため、諸侯たちとしては帝国に文句をつけさせないように戦功を渇望していたのである。

 両者の意図の一致から損害を無視した追撃が続けられた。チキーラ将軍は途中何度も諸侯を取りまとめて追撃軍を再編しようと試みたが、諸侯たちの彼に対する不信感が災いして、その努力は実を結ばなかった。結果として、正統コーンビフ帝国側は軍としての統制を欠いたまま場当たり的に追撃戦を仕掛けるという事態になった。一部では功を焦った友軍どうしの同士討ちが起きていたとまで言われている。

 結局、この戦いは戦略的に意味のない消耗戦に終止することになった。双方がそれぞれ戦闘とは直接関係のない利害関係によって原則的に拘束されており、その原則を打ち破ることができなかったためにこの結果はもたらされたのである。


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 しかし、聖戦軍側がトロフィーナの臨海都市アマナまで退却し、城壁の内側に篭るに至って正統コーンビフ帝国側も無謀な追撃を諦めざるをえなかった。

 大きな港を有するアマナでは聖戦軍側はヴィタミンによる補給を得ることができ、兵站の問題をある程度解決することが出来たからである。また、アマナの有する城壁はコーンビーフルのそれには劣るにせよ頑丈な石造りであり、二層構造になっていた。敵の不在に油断しきった兵士たちが配置されている訳ではない以上、これを攻め落とすことは正統コーンビフ帝国軍には不可能に近かった。追撃の失敗により正統コーンビフ帝国が受けた多大な損害による士気低下も深刻な問題だった。


 対する聖戦軍側も士気の低下に苦しんでいた。また、負傷者の数の増大や、矢などの欠乏が戦術上深刻な問題となっていた。正統コーンビフ帝国側が先の追撃のように損害を無視した攻勢を続ければアマナの城壁も気休め程度にしかならないだろう、と聖戦軍側では考えた。

 さらに、当初潤沢なはずだったはずの軍資金が底をつきかけていた。これは当初の見積もりが甘かったこともあるが、後述する理由により、補給物資の輸送費が膨れ上がったことも影響していた。

 聖戦軍が帝都前で足止めを食らったことで、戦争開始当初は大人しくなっていた大陸内海の海賊たちが活発化していた。彼らは聖戦軍の兵站確保のために頻繁に行き交う物資を豊富に積んだ輸送船に嬉々として襲いかかった。大量に荷を積んだ輸送船は鈍重であり、脅威であった聖戦軍が帝都に縛られている以上、海賊たちにとってこの時期はまさに稼ぎ時であった。これに対抗する必要から、海運を担当する海洋都市国家は物資輸送の際に護送船団を組む必要に迫られたのである。

 これにより生じた補給路確保のコスト上昇は重大な問題だった。海洋都市国家はほとんど利益を得ることなく聖戦軍の補給を請け負っていたが、勝利によるリターンの見込みが下がる一方の状況でボランティアを続けるほど彼らはお人好しではなかった。そのため、海洋都市国家は揃って物資輸送費用の値上げを要求した。

 聖戦軍の首脳部やムーン教国のライヒ3世は海洋都市国家のこの姿勢を強く非難したが、大軍を抱える聖戦軍はその身を支えるために海洋都市国家の補給が不可欠であり、最終的には彼らの要望を呑まざるを得なかった。

 軍資金が底をつきかけ、さらに、エンヤ河の大敗によって帝都の包囲を維持できなくなり賠償金などの利益が望めなくなった以上、聖戦軍側の首脳部は速やかな退却を望んでいた。彼らが本国を空けている間に政敵が活発な動きを見せているという重大な情報も彼らの判断を後押しした。

 そのため、ルーイ9世はアマナに退却した翌日、正統コーンビフ帝国側に停戦の提案を行った。双方はこれ以上戦わず、賠償金などは一切支払わず、聖戦軍が退却する際には帝国側は攻撃を仕掛けない、というのがその内容であった。


 正統コーンビフ帝国は歯ぎしりしながらも最終的にこれを受け入れた。敗北を重ねていた帝国には籠城した聖戦軍を攻めるだけの意志を持てなかった為である。また、勝てると言われていた戦いで成果を挙げられなかったことで兵士たちの士気は著しく低下していた。中には脱走するものも出始めており、この状況では聖戦軍と戦おうとしても兵士が従わないという事態になりかねなかった。

 諸侯たちの中には、休戦の提案をしてくる以上聖戦軍側も苦しいはずである、と言って攻勢を続けるよう主張した者もいたが、勝利が容易かったはずの戦いで負けた以上、聖戦軍に五分の状況で戦うのは無謀だという意見が大勢を占めた。聖戦軍側からの休戦の提案について報告を受け取った正統コーンビフ帝国首脳部も同様に考えた。

 帝都からの早馬により届けられた、停戦条約の締結を命じた命令書をチキーラ将軍が読んだとき、彼は何も言わずに天幕を見上げたと伝えられている。

 停戦条約の締結にあたり双方は聖戦軍が撤退を完了するまでの日程調整や人質の交換を行うなどの細かい作業を続けていった。最終的に聖戦軍が正統コーンビフ帝国の領土を去ったのは2月も後のことである。撤退の際に兵士を乗せた船が一隻嵐に遭い、聖戦軍側は3000の兵を失った。


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 ムーン教国教皇ライヒ3世が主導した第七次聖戦は失敗に終わった。

 当初、聖戦軍の連戦連勝に浮かれていたライヒ3世はこの結末に顔を真赤に変色させて怒り狂った。しかし、いくら怒鳴り散らしたところで失敗という事実が覆るわけではなかった。人々は撤退に追い込まれた聖戦軍の有様に聖戦自体が無謀だったのではないかと思うようになっていた。

 そして、その無謀な聖戦を強引に推し進めたライヒ3世に対する人々の目は冷ややかなものが交るようになった。彼らは自分たちもまた教皇の突飛な思いつきに振り回されて損害を被る事を嫌い、ムーン教国から距離を置くようになった。チューダー王国を始めとした幾つかの国々では国内にいる聖職者の任命権を教皇権から王権のものにしようという動きが強まった。

 ライヒ3世はこの動きに激しく憤慨し、ムーン教国に親しい王族や諸侯を支援してこの動きを止めようと画策した。だが、教皇が彼らに働きかけたことが明らかになると、これらの国々ではよりいっそう教皇から距離を取ろうとする動きが活発化することになった。

 諸国のこの動向にライヒ3世は為す術がなかった。聖戦軍の総大将であったルーイ9世は聖戦の失敗で権威を落としたために、ライヒ3世は彼の教皇就任の後ろ盾となった軍事的、経済的な背景が弱まっていたのである。また、ルーイ9世自身、ともすれば暴走しがちな教皇から距離を置こうと考えるようになっていた。

 そのため、ムーン教国はこの時期、宗教的権威を急速に失っていくことになる。

 聖戦軍に主として参加したライト王国、サンド王国は遠征の失敗により大きなダメージを受けた。

 また、聖戦軍での両国の関係はサンド王国側の王弟の死もあり険悪なまでに悪化した。ライト王国側がムーン教国と結んで一方的にサンド王国の名誉を傷つけ貶めたとサンド王国側は考えたのである。

 そのため、第七次聖戦終結後の早い時期からサンド王国はライト王国とムーン教国に対抗するために水面下でチューダー王国に近づいていた。

 聖戦終結から3年後、ライト王国のヴァイン辺境伯マスカ・ド・ヴァインが実子を儲けずに死去すると、サンド王国はチューダー王国と手を組んでヴァイン辺境伯領の相続権を主張した。一世代前にヴァイン辺境伯の娘カプティーナ・ド・ヴァインがサンド王国に嫁いでおり、サンド王国国王エマック・モスドはそれを理由にヴァイン辺境伯の相続権は自分にあると主張したのである。

 ライト王国側は故カプティーナがサンド王国に嫁ぐにあたって遺産相続権を放棄したと主張したが、チューダー王国と秘密協定を結んだサンド王国は早々に宣戦布告した。その数日後チューダー王国はサンド王国を支持する旨を表明し、サンド王国とチューダー王国間に何らかの密約が存在したことが白日の下に晒されることになった。

 辺境伯領継承権問題は三カ国の三つ巴の戦いへと発展し、10年戦争として現在知られる戦乱が幕を開ける事になる。この戦いは結果としてムーン教国教皇の権威を大きく低下させ、新教徒運動を発展させる事になった。

 ムーン教国は自らの権威を否定するこの運動を激しく弾圧することになる。運動家たちの一部はブータ帝国に亡命し、帝国の東方諸国の統一を促すことになるのである。

 また、この戦争により、東方諸国は西方で正統コーンビフ帝国を下し台頭するブータ帝国に干渉する機会を喪失させたという点を歴史家たちは重要視している。仮に、東方諸国が西方に遠征を行うだけの余裕を持っていれば、彼らは異端どころか蛮人であったオークが勢力を拡大していく事をただ座して待つという選択をすることはなかっただろう。しかし、10年戦争が終結した時、既にブータ帝国は外部の干渉をものともしないほどに大きく成長していたのである。


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 一方、正統コーンビフ帝国が第七次聖戦で受けた打撃は東方諸国を遙かに越えるものだった。

 この聖戦により正統コーンビフ帝国は歳入2年分にも及ぶ莫大な支出を強いられた。帝国にはこれを賄うだけの資金的余裕がなく、借金や手形を利用することで何とかその場を凌いでいるという状況だった。もちろん、手形の支払期限が来る前までに資金が準備できなければ帝国は借金を踏み倒すことになり、その結果帝国への信用は地に落ちることになっただろう。

 同時に戦争で大きな損害を被ったことの影響により東方諸国における香辛料などの需要が減少したことと、正統コーンビフ帝国の交易税の度重なる値上げ、帝国内の情勢不安を嫌った商人たちが交易を控えるようになったことで帝国の税収は大きく落ち込んでいた。

 そのため、帝国首脳部は諸侯に今まで以上の税を強要せざるを得なかった。この戦いで献身した諸侯たちへの報奨すら削減した当時の帝国にとってこれ以上の支出削減は事実上不可能だったのである。

 正統コーンビフ帝国は諸侯への増税を一時的なものであると主張した。諸侯への増税は治安回復により交易税など今まで帝国を支えてきた税収が回復するまでの緊急措置であると言ったのである。諸侯たちを納得させようと税収が回復すれば、それまでに多く課税した分を諸侯へ返還する事を認めた契約書を帝国は彼らに配った。

 しかし、諸侯たちの帝国を見る目は冷ややかだった。正統コーンビフ帝国を横断した交易路の利用は、治安の悪化と関税の増税とで減少の一途をたどっており、帝国の主張するような莫大な税収が再び得られるようになるとは彼らには信じきれなかった。およそ一世紀の間、帝国はいずれ交易などによる税収が回復するまでの一時的な課税と言って諸侯たちに課す税負担を重くする一方だったのである。


 特に、正統コーンビフ帝国の怠慢により何の備えもなく聖戦軍に蹂躙されることになったと感じていたトロフィーナ地方の諸侯たちの帝国への反感は、彼らにも行われた増税により憎悪にまで変化した。

 その結果、聖戦が終わって僅か一年も経たない内にトロフィーナのほぼ全ての諸侯たちが帝国に反旗を翻した。彼らはトロフィーナに視察に来ていた皇帝の甥であるヒレ・ギュータン公爵を半ば脅迫する形で担ぎ上げると、市民から憎まれるまでになったコーンビーフル12世は皇帝に相応しくないとして一斉に蜂起したのである。

 反乱軍の数はおよそ1万6000程度であった。広大なトロフィーナで一斉に蜂起したにも関わらず反乱軍の兵力が少ないのは、この地域は聖戦軍による略奪の被害から十分に回復していなかったためであった。

 正統コーンビフ帝国はこの反乱に焦り苦慮することになる。当然ながら反乱軍を放置する訳にはいかない。反乱軍が勢いに乗る様子を見れば、今まで虎視眈々と面従腹背で帝国に従ってきた諸侯たちが一斉にこれに続く恐れがあったからである。

 しかし、反乱軍を討伐するために軍団を組織することは帝国の財政状況では苦しかった。聖戦で受けた損害及びそれを立て直すために必要な資金は帝国の財政を圧迫しており、帝国は聖戦終結後更なる軍事費の縮小を行なっていた。

 兵士の装備や設備は老朽化する一方であり、加えて賃金のカットによりベテランの兵士たちが去っていったことで軍団の構成員は老兵と新兵ばかりとなっていた。近衛軍はなんとか軍団としての体裁を何とか整えながらもまともに戦うことが困難であったのである。仮に資金を確保して軍団を向かわせて勝利することができたとしても新たな領土を得られるわけでもなかった。

 聖戦軍の略奪により荒廃したトロフィーナの運営はこの時期赤字となっていたのである。かつては交易港と内陸を結ぶ交易路で栄えていたトロフィーナであるが、商人たちは不安定な情勢を嫌い、まともな関税も見込めなかったのである。

 しかし、諸侯たちに討伐を命じることも躊躇われた。正統コーンビフ帝国自身に反乱をおさめるだけの力がないことが明らかになれば、もはや諸侯は帝国へ従おうとする意志を持たなくなる恐れがあった。更には、トロフィーナの動きに同調して帝国へ反旗を翻す可能性すらあった。比較的帝国へ対して忠実であった諸侯たちは聖戦軍との戦いによって軒並み弱体化しており、彼らだけで反乱軍を討伐できる見込みはなかったのである。

 そして、例え諸侯がトロフィーナの反乱を治めたとして彼らに十分な報奨を与えることは難しかった。利益の見込めないトロフィーナを与えたところでまともな報奨となり得ないことは明白だったし、帝国の資金の持ち合わせは梨の礫だったのである。


 事態に苦慮し、討論を重ねた正統コーンビフ帝国は最終的にオーク達に目をつけた。それ以外に有望な選択肢を見つけることが出来なかったのである。

 オーク達の武力に関しては問題なかった。彼らは聖戦軍との戦いにおいて唯一勝利を納めていたのである。また、トロフィーナの屈辱でも少ない被害でそれなりの成果を上げていた。その力は正統コーンビフ帝国の諸侯たちも嫌々ながらも認めざるを得なかった。特にエンヤ河の戦いにおける彼らの圧倒的な勝利は偶然と言うには無理があった。

 更に、オーク達に与える報奨は少なくて済むことが正統コーンビフ帝国の宮廷では予想された。彼らは野蛮種族であり金というものに対して重きを置かないことが分かっていたからである。

 第七次聖戦の際、帝都コーンビーフルにオーク達が滞在した時期があったが、彼らが帝国から受け取った賃金は傭兵たちが受け取るそれの数分の一程度であった。それでもオーク達からは不満は噴出しなかった。むしろ、オークたちは衣服や装備、そして女性を好み、これらが少ないことに文句を言ったが、帝都において金払いを渋るような事はなく、受け取った金が少ないと文句をいうこともなかったのである。

 これは、当時のオーク社会に通貨という概念が存在しなかったためであり、この時は帝都でしか使い道のない金属の円板に価値を見いだせなかったからであり、オーク達も通貨を使い始めると正当な対価を求めるようになる。しかし、当時の帝国首脳部はただオークの行動を貯蓄や計画性といった概念のない蛮人としてしか捉えなかった。


 残る懸念は、オーク達が正統コーンビフ帝国の脅威となり得るかどうかだった。サモーン公爵領において略奪行為を繰り返していたオーク達に忠誠心という言葉は期待するだけ無駄だった。

 しかし、他の諸侯たちと異なり、オーク達が反旗を翻したとしてもそれほど恐れる必要はないように思われた。

 皇族の血が流れている諸侯ならば、反乱を起こしたその先に帝国に取って代わる可能性があった。彼らはそれを正当化するだけの血統上の根拠を有しており、名声や財力などが付属すれば他の諸侯たちはどちらに味方することになるのかが分からなかった。

 だが、蛮族であるオークは略奪者となったとしても、帝国という国家の敵になるとは思われなかった。野蛮なオークがその様な身の程を知らない野望を抱いたとしても、帝国の大半を占める人間が彼らに心から従うわけがない以上、実現するわけがないと帝国は考えた。むしろ、オークという人種族に対する脅威を前にすれば、諸侯たちも再び正統コーンビフ帝国を中心に纏まるのではないか、という目論見すら当時の帝国首脳部には存在していたようである。

 帝国首脳部の考えの根底には人間こそが神に選ばれた最も優秀な種族であるというケビア教の教義があったことは間違いない。オークという種族は野蛮で考えの足りない存在であり、戦いに関しては持ち前の蛮勇で成果を出すにしても、人間に取って代わるわけがないと彼らは信じていたのだ。

 一神教であるケビア教を国教として、その他一切を排してきた正統コーンビフ帝国やこの時代の東方諸国の人間の限界がここにあった。彼らの多くは数多の神々を崇めた古の大帝国ロースビフ帝国やブータ帝国の人々のような多面的な視点で物事を考えるということが出来なかったのである。


 結局、正統コーンビフ帝国はオーク達にトロフィーナの反乱討伐を命じることを決めた。オーク達は数回の交渉により正統コーンビフ帝国の命令に従いトロフィーナの敵と戦うことに同意した。サモーン公爵領は聖戦で兵士として従軍した領民の多くを失ったことで荒廃し、略奪の成果が減少していたからであった。オーク達が勝てば、それでトロフィーナの反乱は治まるだろうし、もし負けたとしても敵を弱らせることは十分に可能だと帝国は考えた。また、オーク達が帝国の統制下を外れたならば、今度は諸侯を集めて蛮人たちを討伐すれば権威回復に役立つというのが帝国の楽観的な目論見だった。

 しかしながら、正統コーンビフ帝国の目論見とは裏腹に、このことがオーク達に台頭する機会を与えることになったのである。ブータ大帝により主導されたオーク達は帝国が思いもよらないほど賢く、狡猾であった。彼らは瞬く間に勝利すると制圧した地域の治安回復と復興とを推し進め、住民たちを味方につけていった。そして、正統コーンビフ帝国が、オーク達が自らの存続に脅威となっていることを認識した時には、オーク達は盤石の地盤を持ち、他を頭一つ分抜いた帝国最大の勢力となっていたのである。


 レーキシン著 『ブータ帝国記』より


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 読書は良いものです。もしかしたら文字という概念は知的生命体が発明したものの中で最も素晴らしいものなのかもしれません。膨大な情報をある規則にそって描かれた線によって表すことができるのですから。

 もちろん、生の実体験の情報量は文章化を通して減少していくものです。しかし、これは逆に考えると、一人の人間の生涯を高々数冊の本に纏めることが可能だということであり、文字というものが持つ優れた情報圧縮能力を示しているのですね。

 つまり何が言いたいかというと、この戦いの終結が近そうな今、何時までコーンビーフルに居られるか分からない以上、図書館で本を借りては読み、借りては読みを繰り返し、二晩徹夜してしまった自分は別に間違っていない、ということなのです。


「バカヤロウ、戦いの前にちゃんと寝ない奴がいるかよ!」


 自分の肩を掴み引きずりながら行進するツヨイが何かを叫んでいます。

 皇帝とかいうのに会ってから多分2日位たった本日、自分たちは異端軍の追撃を行なっています。異端軍は大分先の方まで逃げているようで、今はただ急いで進軍しているだけなのですが。どうも帝国側は連中が退却していることを見逃したらしく、慌ててそれを追いかけているところなのです。それだったらもう連中は放っといていいのではないか。正直自分は本を読んでいたい、と思わないでもないのです。

 別に戦功を得られるのならば今後のために参加することも良いでしょう。自分の手持ちの情報では今のところは権威を握っている正統コーンビフ帝国に従っていたほうがオークにとってプラスになる気がしますし、それならばできるだけ活躍して有用ぶりを周囲にアピールすることのメリットは大きいはずですからね。

 ですが、チキーラ将軍率いる正統コーンビフ帝国軍の方々はオーク達に向かって再三後方で備えるようにと勧告してきました。お前らは勝手に戦うなということなのでしょう。濡れ手で粟をつかむように戦功を上げることができるだろう戦いにも関わらず指を咥えて見ているしかないというのは、正直腹立たしさを感じてしまいます。

 まあ、チキーラ将軍の立場に立てばこの戦いでオークを戦わせたくないと考えることも理解できます。この前の戦いでオーク達はまさかの大金星を上げました。結果、他の戦いでは負けっぱなしの帝国側で戦功を上げたのはオークだけという微妙な状況になったのです。帝国としては新参者のオークよりも、古くから帝国に仕えている他の面々にも活躍の場を与えるという政治的な配慮があったのでしょう。勝利がほぼ確実なこの様な機会は帝国としても得点調整のために活かしたいところなのでしょうね。

 出る杭は打たれるということわざの通り、新参者であるオークがあまり目立ちすぎるのも余計な嫉妬ばかりを買って面倒な事になりそうですから、今回は大人しくしておいた方が良いでしょう。出すぎる杭は打ちようが無くなりますが、まだ、自分たちが周囲から打たれ様もないほどの力を持っているわけではありません。

 それに、個人的にチキーラ将軍には恩義を感じていますし。まあ、自分がなにか言ったところでオーク達が言う事を聞く訳がないのですがね。

 ですが、戦わせる気がないならオークを追撃部隊に組み込む必要もないのではないかと思ってしまいます。

 辺りは既に暗くなり始めています。追撃は戦いたい連中だけでやって、自分たちはとっとと帰って構わないのではないかと思うのですが。


 自分は、ようやくハニハニバルの戦記を読破し終えて、彼と激戦を繰り広げたスッパイオの伝記を読み出そうとしていた所なのです!

 ハニハニバル、なんてパチモノくさい名前だと最初は思っていました。ですが、読んでみるとハニハニバルの生涯は非常に興味深いものでした。さすがに寝ようと思っていたにも関わらず二徹してしまった原因は彼の伝記にあるのですから。

 正直こんな茶番に付き合うくらいなら図書館に引きこもっていたほうがマシだった気がします。というか引きこもっていたかったです。従軍するためにツヨイに引きずられて行かなければ、自分はきっと一心不乱に読書を続けていたでしょう。

 あそこは叡智と知識の理想郷でした。数万にも及ぶとテリヤ司祭が言っていた蔵書の数はかつての世界にあった図書館と比べても遜色のないレベルと言えるのではないでしょうか。それに羊皮紙や年代を経た紙の独特の香りは今思い出しても素晴らしいものです。新しい紙では到底出せないような趣があるのです。

 この世界では印刷技術が未熟なせいなのか書籍店の品揃えは残念な感じでしたし、食料品などと比べて書籍物はやたらと高価ですので自分が受け取った賃金では数冊しか購入できませんでした。内容も道徳的な話ばかりで微妙なものでした。

 要するに、正しい行いをすれば報われ悪行に及べば地獄に落ちるというようなものばかりで、一冊目はまだいいのですが、2冊目以降は飽きが入ってくるものだったのです。

 しかし、図書館にはそんな自分の不満を吹き飛ばすほどの膨大な書籍が山というほど置かれているのです。正統コーンビフ帝国の成り立ちや、その前身である『異教の国』ロースビフ帝国についての歴史書も何十と見つけることが出来ました。

 その内容は一律にケビア教を称える立場から書かれており、客観性というには微妙なものでしたが、それでもこの世界の歴史を何も知らない自分にとっては天国にいるかの如き気持ちでした。

 もちろん、現状の正統コーンビフ帝国について記してある記録にも目を通してあります。

 今後のことを考えればこれらの情報は宝石にも勝る価値を持ちかねませんし。多分ですが。まあ、知っておいて損をするということはないでしょう。


 しかし、ハニハニバル戦記やアレッサンド大王の伝説を読んでいると、この前の戦いで自分が提案した意見がまるで素晴らしい作戦であるかのように思えてくるから不思議です。

 オーク達が怖気づいて潰走すれば容赦のない追撃を受けて途方も無い被害が出ることがほぼ間違いなかったので、まだ死に物狂いで戦ったほうが相手も損害を嫌って見逃してくれるのではないか、というのがあの時の自分の目論見、あるいは願望でした。決して勝利しようとか思っていたわけではありません。

 しかし、結果だけ見れば偉大なるハニハニバル将軍と同様の戦術だったということになってしまうのです。

 河を背にして自軍の退路を断ち、敵将に包囲殲滅による圧倒的な戦果をチラつかせて包囲網を敷かせることにより敵陣を薄くさせた後に、兵力の一点集中により敵陣突破し、背後から河により退路を絶たれた混乱した敵を撃つ。圧倒的に優勢だったはずの敵軍は唐突に包囲されて攻撃を受ける側になります。それにより動揺して十分な力を発揮できない敵兵達を圧倒的に有利な陣形で叩き潰すのです。

 相手の心理まで読み尽くした凄まじい戦術といえるのではないでしょうか。

 実のところ、全ては偶然の産物なのですが。

 ですが、これは調子に乗ってしまっても構わないのではないでしょうか。ツヨイやインペリア、テリヤ司祭などが自分のことを優秀な戦術家と見なすのも無理ありません。奇跡を起こしたと受け止められてもしかたのないことです。何しろ武装で劣るオーク達がおそらく五、六倍程度の敵を打ち破ったのですから。

 いや、流石にこの戦いの結果が自分の戦術能力の戦果だと自分自身が思ってしまうことは不味いですが、周囲にそう思わせておくことは色々と役に立ちそうです。あの戦いの後、インペリアなども自分の意見を参考にするようになりましたしね。

 それと、この戦いの作戦はハニハニバルの戦いに則ったということにすれば、読書や歴史を調べるということの重要性を他のオーク達に伝えることができるかもしれません。戦史を知れば10倍くらいの敵だって簡単に倒せますよ、と言えば、自分の読書好きを変人扱いされなくなるかもしれないのです。

 そして、もしかしたら自分の他にも文字を覚えて知見を広げようとするオークが出てくるかもしれません。

 オークの国を創るというツヨイの夢を叶えるために一番足りないのは文官系の人材だと思います。文字が読めて、文官としての仕事が出来るオークが増えることは良いことです。数においては人間の方がオークより多い以上、オーク達が国を作ったとしても人間と付き合わないわけには行きません。である以上、両種族間の利害調整は必須です。

 また、戦争をするにせよ平和に暮らすにせよ領土はどうにかして統治しなければいけません。そして、それを行う者が文官なのです。少なくとも、それに対応できる人材が必要になることは間違いありません。


 ツヨイもこれで知識を持つということの重要性を理解してもらえると良いのですが。

 どうもあのアホは知識なんかいらないと考えているようなのです。どういう事かと言うと、強い奴は知識なんかなくても強いし、頭の良い奴も同様であると、あの脳筋は考えているように見受けられるのです。なんという浅はかな考えでしょうか。

 たとえ、天才であったとしても過去の偉人の残した知見や知識なしには大して遠くを見ることは出来ないでしょう。正面に山脈がそびえていれば、視界に映る景色はそこまでです。過去と言う名の巨人の肩に乗ってこそ天才はその才能を十分に発揮し、地平線の向こう側をも知ることができるのです。

 まして、自分を含め天才ではない大半が過去を活かすことができなければ、足元に転がる石ころを見るだけに終始してしまうでしょう。

 遠くを見通すという行為自体が、既に巨人の肩に乗っているからこそできる事なのです。平凡な者は遠くに森があり山があると言う事を知って初めて、遠くを見ようと思うのですから。

 まあ、百歩譲って個人の武力という点に限定すれば知識というのはそれほど役に立たないものかもしれません。あのアンポンタン自身の戦闘能力は誰に教えられたものではなく、本人が戦っている内に磨き上げられたものですし、兵士としての強さは勉学よりも鍛錬によって培われるものですから。

 しかし、軍を率いる将兵の立場に立った時、過去の戦いとその結果を知っているという事は非常に大きなアドバンテージになるはずです。

 例えば、先の戦いにおいて、自分以外の誰かでハニハニバルの戦いを知っている者がいれば、自分と同じかそれ以上の作戦を立案し、勝利を得ることができたでしょう。仮にあの時、敵将にハニハニバルの戦史を知っているものがいれば、オーク達に陣を突破されることを警戒して、その結果、自分たちは敗北していた可能性も十分にあるのです。逆に、彼らは戦史が伝える教訓を活かせなかったからこそ敗北したとも言えるでしょう。

 そして何より、自分の知見や考え、思想はかつての世界の記憶がなければ到底至れないものばかりです。この世界よりも遙かに科学技術が進歩し、歴史を振り返るだけの余裕を持った場所の記憶があるからこそ、自分は他にはできない発想を得ることができるのです。先ほどの戦いの偶然の勝利もそれらの知識がなければ不可能だった可能性の方が高いでしょう。

 だから、知見を広めるための行為を厭うべきではないのです。頭が良かったとしたら知識はその優秀さを何倍にも高めるでしょう。そして、頭の血の巡りが悪かったとしても、過去を知ることで失敗を避ける事が可能となるのです。

 過去は未来を照らす明かりである、という言葉を聞いたことがありますが正にその通りだと自分は思います。

 この戦いが終わったらツヨイにハニハニバルの戦記を読ませましょう。戦いの話ならツヨイとて興味をもつのではないでしょうか。

 というか、暗くなって来ましたね。まだ追いつかないのでしょうか。このまま夜になってしまうかもしれません。


「――おい大丈夫か、ヨワイ?」

「……んあ? 何が? チキーラ将軍には感謝しているよ……それにしても、もうすぐ夜か」

「おい! まだ昼にもなってないぞ! ぜんぜんダメじゃないか! まったく、しょうがないやつだな」


 隣で誰かが何かを言いました。一体誰だろうと考えてみるとツヨイでした。

 ですが、正直何を言っているのか分かりません。ツヨイはいつもそうなのです。いつも勝手に物事を決めて、勝手に動いて。本当にしょうがないやつです。

 まあ、いいやつであることに違いないのですけどね……

 体が浮き上がる感覚とともに自分の意識は落ちていきました。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 体を揺さぶられるような感覚に自分は意識を取り戻しました。


「んあ?」

「おう、起きたか、ヨワイ」


 何故か、寝起きの自分にツヨイが話しかけてきました。

 自分は確か図書館でスッパイオの伝記を読んでいたはずなのですが。

 そう思って辺りを見回すと見えるはずの天井や本棚は存在せず、木の間を武装したオーク達がたむろしていました。


「あれ? 本は?」

「何寝ぼけたこと言ってるんだ。戦いがもうすぐ始まるかもしれないんだってのに」

「え? 戦い? って、ああ!!?」


 自分の問に呆れた様子で答えるツヨイの言葉に自分はようやく現状を思い出しました。

 異端軍への追撃を行うために自分たちは進軍していたはずです。


「一体どうなった!? 戦いはもう終わったのか」

「何を言ってるんだ。まだ始まってもいないぞ」

「え?」


 どのくらいの時間自分が寝ていたのか分かりませんが、周囲の明るさは今が正午に近いことを示しています。意識を失う直前、周囲が暗かったと記憶していますから、今はおそらくその翌日の昼であるはずです。

 コーンビーフルの城壁から垣間見た異端軍は歩兵の数が多く、退却速度がそれほど速くはないはずです。騎兵を先行させるなどのちょっとした工夫で足止めすればもうとっくに異端軍に接敵していても不思議ではないのですが、一体どうしたのでしょうか。

 そんな事を考えていると視界が揺れました。何やらうまく思考がまとまりません。


「俺はどの位寝ていたんだ?」

「まる一日だ。戦い前に調子を悪くするなんてヨワイはしょうがないやつだな。戦いは何が起こるかわからないからできるだけ完全な状態で挑めとかなんだとかいつも言っているのはお前だろう」

「うっ……」


 ツヨイの言葉に自分は返す言葉もなく押し黙るしかありませんでした。客観的に見て、正しいのは明らかにツヨイです。自分は戦闘が控えているにもかかわらず、無茶をして体調不良のまま戦いに参加することになったのですから。

 ですが、まさか、ツヨイに言い返せないとは、屈辱ここに極まっています。正直に申しますと物凄く悔しい。むっちゃ悔しいです。

 ここは、道理をねじ曲げてでも反論すべきではないでしょうか。きっとその通りであるに違いありません。

 幸い教養を持つ文化人としての記憶を持つ自分に詭弁の1つや2つ使えないわけがありません。詭弁とは基本的に関係のない筈の議論を綯い交ぜにし、いつの間にか別の結論に達したように錯覚させる一種の詐術ですが、この際使ってしまっても構わないでしょう。


 いえ、敢えて言いますがこれは詭弁ではありません。

 ツヨイが腕っ節で絶大な力を持つように、自分は口論で絶対的な地位を確保せねばならないのです。

 力比べという単純な比べあいにおいてツヨイの負けず嫌いは相当です。例えば、万が一にも自分がツヨイと力競べをして勝利したとしたら、ツヨイはきっと自分に何十回も勝つまで諦めることなく再戦を求めることでしょう。

 自分たちの部族内での力比べでは苦戦しただけでもツヨイは不機嫌になりますからね。

 そして、自身が体調不良であろうが、相手が二人がかりであろうが、力比べにおいてツヨイは常に勝利してきましたし、本人はそれが当然だと頭から信じている様子なのです。

 己の肉体への絶大な自信という点においてツヨイに勝る存在はあり得ないのではないでしょうか。

 そうであるならば、自分もまた論戦において無敗であらねばならないのです。絶対にツヨイには及ばない分野がある以上、自分の領域で敗北は許されません。少なくとも、ツヨイを相手に議論という自分の土俵で土を踏むわけにはいかないのです。このアンポンタンにだけは言い負かされたくないのです。

 そう思ってツヨイに反論をしようと口を開いたその時、自分の腹部は大きな音を立てました。思わず、喉元から出かかっていた言葉が引っ込んでしまいました。


「……」

「ハラがすいたのか。一日中ねてりゃあムリもないな。ちょっと待ってろ。今飯を取ってくる」

「ツヨイ、ちょ、ちょっと待――」


 ツヨイは邪気のない顔で自分が反撃を開始する前に立ち去って行きました。

 反論の機会を完全に逃した気がします。

 ツヨイが帰ってきてから自分が議論を巻き返そうとしたところで、あのアホが自分が何の話をしているのか理解できるかは微妙なところです。何のことだ、等と言われたらどうしようもありません。

 いや、しかし、ツヨイはまさか先ほどの言葉で自分との口論に勝利したとは思ってもいないでしょう。ならば、先ほど言い負かされたことは実質的な意味を持たないはずです。ノーカン、というわけです。

 自分が口論で反論できなかったという事実は存在しないことと同じである以上、気にする必要もありません。

 その様に自己欺瞞を完結させている自分の所に数人のオーク達が近づいて来ました。

 同じ部族の連中です。その事実は関係が友好的である事とは全く別物ですが。


「ずいぶんといい身分だな、ヨワイ。ツヨイにせおってもらって一日中ねむりこけているとはな」

「……」

「おいおい、なんか言ったらどうだ。とくいなんだろう。ヨワイがよく口がまわることはみんな知っているんだぜ」


 案の定、彼らは自分に嫌味を言いに来た様子です。彼らにしてみれば、自分たちの部族の実質的なトップ、ツヨイのお気に入りである自分が気に入らないのでしょう。しかし、決して逆らう気概など持ち得ないこいつらは、ツヨイの目を盗んでは自分に対して嫌がらせをしに来るのです。

 おそらくですが、その背後には現在のオサであるイタイがいると自分は睨んでいます。生憎と証拠は持ちあわせていませんが、部族内の力関係やオーク関係から考えるとそれほど間違ってはいないはずです。

 現在、我々の部族内において腕っ節ではツヨイが圧倒的な存在であり、近いうちにオサが替わると見込まれます。部族のタタカウモノ全員を相手にしても楽々勝利を収めかねないツヨイに対して対立しようなどとはイタイを含めた全員とも思いもしないようです。腕力がものを言うオーク社会においてツヨイは抜きん出すぎているため、彼とトップ争いをしようなどという愚か者は部族には存在しません。現在のオサであるイタイですらもツヨイに逆らうことはないのですから。

 ツヨイのトップが事実上確定している以上、部族のオーク達の関心は必然的に誰がナンバー2になるか、という事に集中しています。そして、驚くべきことというべきか順当にというべきか、現在のところ自分がそのナンバー2最有力候補だったりするのです。当然ながら、その地位に自分が座るのは自分の頭脳が評価されたからなどではありません。単純にツヨイのおこぼれです。

 そして、当然ながら自分の周りにはその事が気に入らないオークには事欠きません。ツヨイとは決して対立しようとも思わない連中ですが、少し前までは自分の周囲からツヨイが一度いなくなると嬉々として寄って来ては、自分を脅したり嫌がらせを行ったりしてきました。

 ですが、ツヨイの怒りと報復を恐れた彼らは自分を直接害するだけの度胸すら持ちあわせていませんでした。そして、自分がその事を見透かしていることが明らかになると、彼らの嫌がらせの頻度も数を減らしていきました。いくら凄んでみせたところで脅しの言葉が空手形と相手に認識されては何の効果も期待できませんからね。

 自分は部族内ナンバー2の地位に何の価値も見いだせないので、この一連の動きは正直迷惑なだけなのです。ツヨイのアホの野望を真面目に叶えようとすると、こんなちっぽけな部族の権力争いなど時間の無駄以外の何物でもありません。オーク社会全体の指導的な立場に就いて、ようやくスタートラインなのですから。


 ともかく、連中は最近ご無沙汰だった嫌がらせを久々に行うためにやって来たのでしょう。

 とりあえず、付き合っても何の益もなく馬鹿馬鹿しいだけなので、自分は無視を決め込みました。

 その様子が気に入らないのかオークの一人、アカイが肌を怒りで真っ赤に染めると自分の肩を乱暴に掴みました。

 アカイは常日頃から些細な事で我を忘れて怒り狂い、周囲に当たり散らします。その時の勢いで奴隷として連れ帰った人間たちを殺したことも一度や二度ではありません。

 そのアカイは自分のことが特に気に入らないのか、最近は自分が視界に入るだけでも顔を真赤に染めるようになりました。それでも自分に直接危害を加えないのは、ツヨイに半殺しにされたトラウマ故でしょう。

 因みに、半殺しにされたアカイを看病したのは実は自分なのですが全く報われていません。ツヨイとはそれで仲良くなったというのに、どうしてアカイはこんなにも恩人のはずの自分を目の敵にするのでしょうか。まあ、恐らくはツヨイと親しい自分にツヨイに対する恨みが向けられたということなのでしょうが。

 キレやすいアカイも絶対にツヨイに逆らおうとはしませんが、内心では怒り心頭であると考えるのが妥当でしょう。つまり、ツヨイのとばっちりという事になりますね。


「おいおい、ヨワイ、急にしゃべれなくなったのか? それとも、ツヨイがいないと何もできない腰抜けなのか? おい、なにか言ったらどうなんだ、ヨワイ。口だけしか能のないお前がしゃべらなかったらただの役立たずになっちまうだろうが? ツヨイがいないと何一つしゃべることもできないおくびょうもののクズだ……おい、なんか言えよ……しゃべってみせろよ! テメエ、なにすました顔してんだよ!! ああ!?」

「お、おい、アカイ、やめろよ」

「テメエらは黙ってろ!!」


 何も言わずに沈黙を貫いていると、その態度がアカイには気に入らなかったのか、彼の言葉は次第に落ち着きを失い、とうとう激昂するに至りました。キレると見境を失うアカイの性格を熟知している周囲のオークが慌ててアカイを止めようとしましたが、アカイに殴られ、地面に這いつくばる羽目になりました。

 これは不味いかもしれません。損得勘定を無視したアカイの暴発によって自分が危害を受けないという保証はできませんから。

 自分がその様に考えて身構えていると、アカイは荒くなっていた呼吸を静めて驚くほど静かに自分に話しかけてきました。


「なあ、ヨワイ。戦いの前にのんきに眠りこけてオレたちがせおってやらなきゃならねえ上に、戦いの役にも立たないお前がなんでここにいるんだ? ツヨイのお気に入りだからっていい気になってんじゃねえぞ」

「……!」


 アカイの言葉に自分は僅かに表情を崩しました。彼の言葉には否定しようのない事実が含まれていたからです。

 戦闘を前にして体調管理を怠り眠りこけるなど愚の骨頂であること間違いありません。さらに言えば、兵士としての自分の力量が平均を下回っているだろう事も事実だと考えられます。

 オーク社会において自分という腕力に恵まれなかった存在は下層階級に甘んじるしかありません。そして、その自分と親しいということがツヨイに対する攻撃の口実となってしまうのです。

 自分の存在はツヨイにとって重石となっているのではないか。

 これまでそう考えたことは一度や二度ではありません。


「……おい! いつまでだんまりを決め込んでいるつもりだよ!!」


 自分の動揺に気が付かなかったのか、アカイは再び顔を赤らめ始めました。その手は固く握り締められ、僅かに震えています。


「おい、何をやってるんだ、テメエら」


 いつの間にか近くまで来ていたツヨイの声に自分の周囲を囲っていたオーク達は一斉に顔を強張らせました。人数を頼みにする程度では覆しようのない戦闘能力差がツヨイとその他の間にはあるのです。


「! ツ、ツヨイ!! 何でもないさ。オレたちはヨワ、ブータと話をしていただけだ。ほ、ほら、こいつこの前の戦いでインペリアに勝ち方を教えたんだろう? オレたちもこいつに話を聞こうって思ってな。な、そうだよな」

「オレにはオマエらがまたブータにいちゃもんをつけに来たように見えたんだがな」

「そ、そんなわけないさ、ブータが凄いのはこないだの戦いでよく分かったさ。なあ、そうだろ? みんな」


 一人のオークの取り繕うような言葉に、他のオーク達がそうだそうだと必死に同意を示していきます。まるで芝居か何かのような素早い変わり身です。

 ここまでツヨイが怖いなら始めから突っかかるような真似をしなければいいのに、と自分は思ってしまいます。

 自分も面倒な茶番劇に時間を食われるのは勘弁してもらいたいものなのです。


「オレはなっとくいかねえ……」

「あ?」

「お、おい、アカイ!」


 ところが、いつもとは違ってツヨイに面と向かって異議を唱える存在が現れました。アカイの周囲のオーク達は必死に彼を押しとどめようとしています。

 しかし、アカイは静止を力ずくで振り切り、自分を睨めつけながら身を震わせて呟きました。


「なんで、弱っちいこいつに指図されなきゃいけないんだ。こいつは戦いの最中に眠りこけるような役立たずじゃないか」

「……」

「……アカイ、それ以上言ってみやがれ」


 体調管理を怠った自分の失態を指摘されて、自分が黙り込んでいると、ツヨイがゆっくりとアカイに脅し文句を投げかけました。


「この前の戦いだって、どうせこいつは適当なことを言っていただけだ! オレのほうがずっとたくさん殺したのに、どうして弱くて役立たずのこいつばっかりがひいきされるんだよ!!?」

「アカイ、テメエ……」


 アカイの言葉にツヨイの顔は巌しくなり、唸り声が喉から聞こえてきました。威嚇するかのようにツヨイの毛は一斉に逆立ち、さらに、全身の筋肉が膨れ上がったことによって、一回りほど体が大きくなりました。周囲の空気が歪んでいるような錯覚さえ受ける程の怒気をツヨイは放っていました。

 尋常ではない様子のツヨイに周囲のオーク達も何か争いがあることに気がついた様子です。数名のオーク達は慌てて走り去って行きました。おそらく、争いの裁定権を握るオサを呼ぶためでしょう。それ以外のオーク達は、面白い見ものだと言わんばかりに自分たちの周囲を取り囲みました。気の早いオークが、殴りかかれ、などと囃し立てています。


「ま、待った、待った。今回眠りこけたのは俺が悪かったよ、ツヨイ」


 放っておけばツヨイがアカイに殴りかかりかねません。流石に戦いを前に仲間割れは良くないだろうと思い、自分は慌てて仲裁に入りました。今回、自分自身にも大いに非があるので後ろめたい気持ちもありますし。

 それと、アカイが感じているのであろう実行者よりも発案者が評価されるという現実への憤りも理解できないわけではありませんしね。

 力が評価の判断基準であるはずのオーク社会ではアカイの憤りはむしろ当たり前の感情ではないでしょうか。


「……ブータ、オマエは黙っててくれ」

「ちょっ!? ツヨイ!!」

「アカイ、さっきの言葉引っ込めろ。今ならまだ許してやる……」


 ところが、ツヨイは自分の制止を一顧だにせず、アカイを睨みつけました。周囲の野次馬達から、殴れ、蹴飛ばせ、などの叫び声が上がります。彼らは喧嘩が起こりそうだと期待に胸を膨らませているのでしょう。

 よほど暇なのか、退屈していたのか何なのか、かなりの数のオーク達が周囲を取り囲んでいます。

 オーク達はなるべく戦わせないというのがチキーラ将軍の率いる帝国軍の方針でしょうから、どうしても暇になってしまうのは仕方のない事かもしれません。

 ですが、衆人の目の前で部族内の諍いを見せつけることは今後ツヨイにとって不利益となりかねません。できるだけ避けたいところです。

 もう遅いかもしれませんが、せめて殴り合いにならずにこのにらみ合いが終わることを望むばかりです。

 ツヨイが止まってくれるかは微妙なところですが、アカイは力の差をよく知っているツヨイが折れない以上何処かで妥協せざるを得ません。その決断がツヨイの堪忍袋の緒が切れる前に下されて欲しいのですが。


「一体なんの騒ぎだ!」

「オオオサ!!?」


 ツヨイとアカイの一緒即発の状況に終止符を打ったのは、当事者のどちらでもなければ、自分たちの部族の者でもなく、オオオサであるインペリアでした。

 殴り合い、と言うよりはツヨイがアカイをボコボコにするよりはマシですが、想定していた中では最悪の部類に入る決着の付き方です。

 この状況では集団の目の前で、ツヨイがインペリアの調停の言葉に従わざるを得なくなってしまうでしょう。そうなれば、オーク達がツヨイとインペリアのどちらをより評価するかは明らかです。

 案の定、インペリアは騒ぎを起こしているのがツヨイだと認めると口の端を僅かに上げました。


「どうしたんだ、ツヨイ。そいつはお前のところのヤツだろう。部族の中で争うのは構わんが、今は困るな。オオオサのオレが判断してやるから一体どうしたのか話してもらおうじゃないか」

「……インペリア、これはオレたちの問題だ」

「いつもはそうだが、今はそうじゃない。それで、そっちのヤツは何を言っているんだ?」


 やはりともいうべきインペリアの言葉にツヨイは顔を歪めると、彼の申し出を部族内不干渉の慣習を理由に拒否しようとしました。基本的にオークはそれぞれの部族の独立性が高く、全てをまとめる立場であるオオオサであっても他部族内の出来事に干渉することは通常困難です。

 ですが、この場においてインペリアの仲裁を拒否することは不可能でしょう。慣習的に他部族であっても、戦いを前に生じた仲間割れを裁く権限がオオオサにはあるのです。

 これは、戦場においては仲間割れが全体に致命的な損害をもたらしかねないというのがその理由です。

 しかし、裁く側がツヨイと犬猿の仲であるインペリアである以上、裁定はツヨイにとって不利な結論とはならなくとも有利なものとは成り得ないでしょう。インペリアにとっては跳ねっ返りでそれに見合った武力を有するツヨイと自身の序列を明快に示す場となるのですから。

 もっとも、ツヨイは他者を圧倒する武力の持ち主としてオーク全体の中でも勇名が知られており、いくらインペリアでも余程の理由がなければツヨイに露骨に不利な決着をつけることはできないでしょう。

 オーク社会では腕力が全ての栄光、名声、特権と直結しているのです。とは言え、流石にインペリアのようにオーク全体を束ねるオオオサともなると、政治的な要素も絡んでくるのですが。

 ともすれば、これ以上インペリアに余計な口実を与えないことがこの場では肝要です。ツヨイが下手にインペリアに噛み付かなければ、いくらオオオサとはいえ、ツヨイを罰することは難しいでしょう。


「ツヨイはいつもお気に入りだけをひいきして、オレたちがいくら倒してもひょうかしやがらない。いつも、この口だけのやくたたずばかりがひいきされているんだ!」


 アカイがインペリアに自分の主張を述べ始めた間に自分はツヨイに近づくと、小さくささやきました。


「ツヨイ、ここは大人しくインペリアに従っておいたほうが――」

「アカイっ!! テメエ!!!」


 アカイの発言に激昂したツヨイが怒りの叫びを上げました。凄まじい声量に自分の鼓膜は痛みすら感じました。

 相変わらずのツヨイの直情型ぶりは大したものです。その後の損得など一切考えずに楽しかったら笑い、憤りを感じたら怒り、常にツヨイ自身に対して正直に生きています。そして、その結果自分の目論見というか方針が不可能になるのに10秒すらかかりませんでした。

 そうそう、最近、ツヨイに色々考えた計画や目論見が台無しにされても、ほっこりとできるようになりました。むしろ、ツヨイによって方策が修正変更を余儀なくされないと不安を感じる事もしばしばです。まあ、そういう場合でも大抵は自分の視界の外でツヨイが何かしらをやらかしたという事を知ることになるのですが。


「オマエの話は後で聞いてやる。今は黙っていろ」

「っ!!」


 インペリアの挑発的な態度にあっさりとツヨイは引っかかっていきり立ちました。それを予期していた自分は必死にツヨイの手を引っ張ると睨めつけるように自分に視線を向けたツヨイに小声で忠告します。


「ツヨイ、今は言う通りにしておいた方がいいってば。余計なことを言うと相手に付け込む口実を与えるだけだ」

「そんなこと知ったことか! オレはイヤなヤツの言う事なんかぜったい聞いてやるもんか」

「ツヨイ! 子供じゃないんだから……」


 怒りの収まらないツヨイを懸命に自分が抑えている間に、アカイはインペリアに向かって自らの主張というか自分への不満を述べていました。

 曰く、口だけで何もできないにもかかわらず、ツヨイの威を傘に立てて我が物顔で振舞っている、犬のように尻を振ってツヨイに取り行った、普段は威勢がよくても戦いの時はいつも後ろの安全な場所にいる臆病者だ、などなど自分には身の覚えがない事ばかりの気がします。

 まあ、アカイにとってはそれが真実なのかもしれません。どうも、彼は空想と現実の区別が曖昧になるところがあるようですから。

 しかし、分かってはいましたが随分と嫌われたものです。そんなことを考え、アカイの主張を聞き流していると、ツヨイが怒りに身を震わせながら尋ねてきました。


「……ヨワ……ブータはくやしくないのかよ」

「いい気分はしないけど、別にわざわざ怒るほどの事じゃないだろう。それに、アカイの言う通り口の上手さなら負けない自信があるからな」


 ここで暴れてはこちらの不利となるばかりです。少なくともオオオサが両者の話を聞くというスタンスを取った以上、今は黙っていたほうが得策でしょう。

 幸いにも、この前の戦いで自分が一瞬先陣を切ったという事実は恐らくインペリアも知っているでしょうから、アカイの自分への批判の1つは正しくないということがすぐに示すことができます。

 そしてアカイの発言の一つが嘘であることが示されれば、それ以外も同様に嘘であると周囲を説得することはそれほど難しくありません。信用というのは説得術において非常に大切な要素なのですから。


「……オマエがそう言うなら……でも、オマエがバカにされたんだぞ! オマエのスゴさをまるでわかっていないヤツに好き勝手言われて平気なのかよ」

「別に相手が自分のことを低く見積もってくれても問題はないよ」


 ツヨイの怒りは竹を割ったように真っ直ぐで心地の良いものでしたが、一方で一度も叱られたことのない子供のような幼稚さも含んでいました。

 確かに、ツヨイはオーク社会においてその勇名を讃えられた事はあっても、貶められたことはありません。ツヨイが重症を負って倒れていた時も、部族のオーク達は彼に面と向かって侮辱の言葉を投げかけたりはしませんでした。強いものを尊重するというオーク社会の文化がその根底にあったことは間違いないでしょう。

 それに対して、武力では平均以下の自分は褒められるよりも侮られる事の方が遙かに多いのです。多少の批判や悪口など今更ですし、そういった事にいちいち怒るだけの意義も自分は見いだせないのです。

 自分は他のオークとは確かに異なっており、それ故に理解されないというのは極々当たり前の帰結です。

 むしろ理解されないからこそ自分には好き勝手に動けるというメリットがある、とも考えられます。

 国を創るには日の当たる功績だけではなく、決して表沙汰にはできない謀略も必要となることでしょう。そして、謀を行う際には警戒されているよりは侮られている方が有利なはずです。謀とは相手に知られないで行うからこそ意味があるのですから。

 ツヨイが建国の光となるならば、影の役割は自分こそが果たすべき役割でしょう。


 そんな事を考えていると、自分への批判のネタが尽きたのか、アカイはようやく話すことを止めました。

 それを確認したインペリアはツヨイの方へ顔を向けました。


「こいつの話によると、ツヨイ、オマエがブータばかりを特別に優遇しているという話だが何か反論はあるか?」

「っ!! ふざける――」

「ツヨイ、俺が話す」


 インペリアの言葉に烈火のごとく反応するツヨイの腕を引くと自分はインペリアを見据えました。


「アカイの言う事はどれも真実ではない」

「うそだ!! そいつは口先だけのうそつきだ!! そいつはっ――!!」


 自分の言葉に顔色を変え喚き立てるアカイが大人しくなるのを黙って待ちます。

 すぐに度を失って叫ぶアカイと口論になっては論理も何もあったものではありません。ただの罵り合いに終始してしまうでしょう。議論の際は落ち着いていたほうが聴衆の心象も良くなります。

 アカイが自分の事を口が上手いといった通り、論理的に物事を話す自分の能力は他のオークとは全く別の教育を受けてきた分の差があります。例え相手が人間であっても知識や話術でそうそう遅れをとるつもりはありません。

 当然ながら、自分はその優位を最大限に活かしたいと考えています。

 そのためには、アカイと直接罵り合いをすることを避け、インペリアとのみ話して、彼に判断を委ねるのです。これにより、裁定権を明確にインペリアに委ねることで彼のオオオサとしてのメンツも立ちます。そして、明らかにアカイに非があるとなればインペリアも無茶な裁定を下すことはできないでしょう。

 アカイが静かになったのを確認して自分は再び口を開きました。


「先程も言った通りアカイの言葉は嘘だ。少なくとも1つは確実に嘘であると簡単にこの場で明らかにできる」

「うそだ!! うそにきまっている!! そいつはいつも上手いことばかり言っているだけだ!! ――!!」

「……このままでは俺の見解を主張することができそうにないが」


 自分が話しだした途端、アカイは再び大声で喚き始めました。それを横目に自分はインペリアに暗にアカイを黙らせるように求めました。オオオサとしての権限でツヨイを黙らせてアカイの話を聞いた以上、大勢の野次馬を前にしてインペリアは自分の意見も聞かざるを得ません。

 もちろん、オーク社会では木っ端の如き地位の自分だけならばその必要もなかったでしょうが、自分がツヨイの代わりに話している以上、インペリアは内心がどうであれ無視することができません。もちろん、強引に無視することもできますが、それはオーク達のインペリアへの評価を落とすことに繋がる公算が高いのです。オークの中では相当に政治的能力に優れたインペリアは必ずそのように考えるでしょう。そして、利害を考えればインペリアはオオオサとして公正に振る舞うことで満足すると思います。


「口だけは上手いこのウソつきやろうが!! オマエは――」

「――黙れ」

「っ! オオオサ、こいつは、っ!!?」


 予想通り、インペリアはアカイに静かにするように命じました。一瞬怯んだアカイでしたが、すぐに気を取り直すと尚も言い募ろうと試みます。その声をかき消したのはインペリアの手により振り投げられた一振りの大剣でした。半ば水平に投げ出された大剣はアカイのすぐ横を高速で通り過ぎ、大地に深々と突き刺さります。

 鉄が土に混じった石を打ち砕く音がしました。

 地面に小さなクレーターを作るほどのその威力が直撃すればアカイなどではひとたまりもないでしょう。

 流石のアカイと言えども身の危険を感じたのか、口を閉ざして黙り込みました。


「……オオオサ、明らかに彼の発言は虚偽が含まれている。彼は俺のことを戦いとなるといつも後ろで縮こまっていると言ったが、この前の時に俺はその言葉が嘘であることを戦いぶりで示した。あの時、俺は一番先に駆け出した」


 自分はインペリアと周囲の聴衆に向けて話しました。

 インペリアが必ずしも公正とは言えませんが、これだけの数の聴衆の意見を無視することは避けるでしょう。

 つまり、聴衆を味方に付けられるか否かがこの場合重要なのです。そして、不特定多数の聴衆を味方につけるには複雑な論理よりも単純明快な言葉が有効です。それに、アカイに口がよく回ると批判された以上、あまり喋ることは聴衆の心象を悪化させることになるでしょうし。

 今回の場合、幸運にもほぼ全ての聴衆がこの前の戦いの時の自分の行動を覚えているでしょうからそれを利用しない手はありません。


「……確かにあの時、ブータ、オマエは一番最初に駆け出していたな。なるほど、オマエが臆病者だというこいつの言葉は嘘に違いないだろう。だが、オマエが部族の中でツヨイに贔屓されているという話はどうなんだ?」

「インペリア、貴方は嘘によって相手を貶めようとした者の言葉を信じるのか」


 自分の返答にインペリアは黙り込みました。周囲の野次馬も自分の意見に賛同する様子を見せています。アカイは明らかな虚偽を口にするべきではありませんでした。今回の聴衆は自分たちの部族の内情を知らないのですから、この場で見聞きした物事からしか事実を判断できません。嘘がたった一つでも、自分が嘘をついたと言うことを強調すればアカイの話が全て虚偽であるという主張は聴衆に容易く受け容れられるのです。


「……なるほど。ブータ、オマエの言う事のほうが正しいようだな。それで、今回の騒ぎの原因はそいつということでいいんだな」

「……そうだ」

「そいつは棒叩きの刑にしろ。戦いの前に勝手に騒いだ罰だ。それと、ツヨイ、オマエはオマエの部族をしっかりとまとめておけ」


 インペリアが裁定を下しました。アカイは棒叩きの刑、そして、ツヨイには部族の管理不届による口頭注意で片がついたようです。一応まだツヨイはオサではないのですが、実質的なツヨイの権力を考慮すれば口頭注意も仕方ありません。ツヨイ本人も妥当と考えたのか、インペリアの言葉に反駁する気はないようです。

 一時はどうなることかと思いましたが、自分とツヨイにとってかなり理想的な決着を得ることができました。

 横目で見ると、アカイは顔を赤く、ついで青く染めています。インペリアの部下が数人がかりでアカイを地面に這いつくばらせると、一人が棍棒を持って近づいていきます。

 近づいてくる苦痛にアカイは悲鳴を上げました。拘束から必死に逃れようともがきますが、彼を抑えているオーク達を振りほどくことはできません。思わず自分は目を逸らしました。

 攻撃を仕掛けてきた相手に同情できるほど自分は人格者ではありませんが、一応は同じ部族として思わぬところがないわけではありません。

 アカイの敗因は自分のことを口が上手いだけと批判していながら、議論という土俵で勝負をするしかない状況に追い込まれた事でしょう。自分の能力が十分に発揮できる戦いをするという事は非常に大切な事なのです。


 その時、遠くで雄叫びが響きました。

 オークたちにとっては聞き慣れた叫び声でした。その声を聞いた誰もが、何が起きたかを瞬時に把握しました。

 戦士たちが戦いに際して恐怖に打ち勝つための叫びです。己と味方を鼓舞し、死の恐怖から逃れるための声です。

 戦いが始まりました。異端軍との、おそらく最後となる戦いが。


「……そいつの棒叩きは後だ。全員すぐに戦えるようにしておけ!! ツヨイ、オマエはここにいる連中を率いろ」

「!」

「!!? オオオサ、そいつは!!」


 インペリアの思わぬ言葉に自分は驚愕しました。彼に付き従う取り巻きも同様に驚いた表情を見せています。

 オオオサ候補となるオークには幾つかの部族を率いる機会を与えられるものです。つまり、インペリアの発言はツヨイがオオオサとなる可能性を高めることになります。

 ツヨイとインペリアは犬猿の仲ですが、戦いを前にして、インペリアはツヨイに対して抱いているはずのわだかまりを捨てたという事なのでしょうか。


「こいつらの中じゃ、こいつが一番戦いが上手い。ただし、ツヨイ、合図があるまでは勝手に動くな。それと、ブータ、オマエには色々と意見を聞きたい。一緒に来てもらおうか」

「……え? あ、ああ、分かった」


 思わぬインペリアの申し出に自分は最初戸惑いましたが、我を取り戻すとすぐにインペリアの後ろについて行きました。戦いにおいて情報は万金に値しますから、それが真っ先に得られるだろうこの申し出を断る理由はありません。


「ブータ!!?」

「ツヨイ? どうしたんだ?」


 自分が数歩歩き出した時、後ろでツヨイが焦ったような叫び声を上げました。

 振り返ってみると余裕を失った表情のツヨイが自分を見据えています。


「ブータ、早くついてこい」


 背後から声をかけてきたインペリアにツヨイが表情を険しくした事で、自分は大体の事情を察しました。

 そう言えば、この前自分はインペリアに勧誘のようなものをされたことがありましたが、あの時もツヨイは猛反発していました。

 あの申し出からそれほど日が経っていない以上、ツヨイの頭に、自分が部族を去るかもしれない、という自分にとっては視野の外にある考えが浮かんだとしても不思議ではありません。

 自分がインペリアと共にこの場を去ろうとしているのは事実ですから。ツヨイの心情を考えれば、自分はこの場に留まるべきかもしれません。ただ、今回のインペリアの申し出は非常に魅力的なものです。ツヨイにしても部隊の指揮を成功させればオオオサへの道が一気に開けてくることになります。

 また、下手に断って現在のオオオサの心象を悪化させることを考えれば、快諾する以外の選択肢はありません。

 普段ならばツヨイにそうした事を説明するのですが、生憎今は長々と時間を取ることが不可能です。

 それでも、せめて一言だけでもツヨイに何かを伝えておかねばならないでしょう。


「俺は俺の能力の限りを尽くす。だから、お前も頑張れ。お前の、俺たちの夢を叶えるために」

「ま、待ってくれ、ヨワイ!!」

「ツヨイ、無事に帰ったら、また一緒に女でも買いに行くか」


 必死な表情を浮かべるツヨイに自分はそう言って笑いかけます。

 この前の経験は帝都コーンビーフルの娼館の現状やそこで働く女性たちの生活などを直接見ることができたという点で、自分にとって興味深いものでした。人間たちが普段どの様に暮らしているかを知ることは、自分の知識の引き出しを増やすことにもつながりますし、自分自身の知的好奇心を大いに満たしてくれるものなのです。だから、またツヨイと一緒に遊びに行くのも良いのではないか、あの体験から数日を経て自分はそう考えるようになっていました。自分の相手を務めたあの美しい少女がその後どうなったのかを知りたいという気持ちもありますし。

 自分の言葉に目を軽く見開いたツヨイは何かに耐えるように歯を食いしばった後、自分をまっすぐに見据えました。


「やくそくだぞ!! ぜったいだからな!!」

「ああ、約束だ」


 そう言い合って、自分とツヨイは別れました。ツヨイは、倒れていたアカイを引き起こすと同時に周囲のオーク達を整列させます。それを後ろ目にしながら自分はインペリアの後ろを駆け足でついて行きました。


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