黎明編4話下
こんにちは、毎度おなじみブータです。
はてさて、何から話すべきでしょうか。とりあえず、自分の現状を話しますと、今、自分は宮廷の庭園の入口辺りにいます。もうすぐ、コーンビフ12世とやらが自分に会うために態々やってくるということで、とてもご苦労なことだと思います。どうやら、野蛮なオーク風情を由緒正しき宮廷内に入れるわけにはいかない、とか言う話が出たためにこういう処置になったそうです。まったくもって、種族によって露骨に差別されるのは決して愉快ではありません。自分が差別される側になると特に不愉快ですね。ですが、格下のものが相手を尋ねるものだという固定観念を持った自分としては、この状況にそれほど不満があるわけではないのです。皇帝が態々自分に会うために王宮を出てここまで歩いてくると思えば、我慢もできるというものです。
そんな事を考えていると、人間の一団がこちらに向かってやって来ました。紫色のマントをつけた人物が皇帝だという話を聞いていたので、その人物を探します。
「……なん……だと」
なんと紫色のマントを羽織った人物は馬に乗っていました。自分がここに来るときには態々遠くで馬車を降りてここまで来たというにもかかわらずです。警備の規則のため、馬車の侵入は禁止されていると聞き、自分は歩いたというにもかかわらず、皇帝は馬に乗っていました。この差は一体どうしたことなのでしょう。いえ、差があることは知っていました。ですが、我々のような立場の者にとって、遙か上位の人間が我々と同じ場所に落ちてくるというのは非常に心を豊かにするものなのです。ざまあ的な意味で。
まあ、それは仕方ないので、とりあえず、教えられた通りに頭を下げました。頭を下げるだけの行為で図書館の本が読み放題になるというなら安いものです。しばらく、頭を下げていると、視界の上の方で、紫マントが軽く手を上げる様子が見えました。教えたれと通りに頭を上げます。しかし、面倒くさいですね、これ。
間近で見る皇帝の顔というのは想像したよりも面白みのないものでした。
世間知らずのあんぽんたん丸出しとか、唯我独尊系の顔を予想していたのですが、目の前にいるのは、心労によって疲れ、肉体も全盛期を通り過ぎた中年の男性でした。昔は美男子で通ったのだろう顔の造形には至るところに苦悩を思わせるシワが入っており、その金の髪は白髪によってその鮮やかさを喪失していました。
そして、何よりもツヨイやテリヤ司祭の様な目の輝きが一切欠けていました。ツヨイやテリヤ司祭の様な存在が周囲を惹きつけて止まない存在、いわゆるカリスマの保持者であるとすれば、この皇帝はそういった要素が欠如しているとしか言いようがありません。この人物に付き従って行けば明るい将来を得られると周囲を信じさせるというよりは、諸行無常を強く印象づける人物と言ったところでしょうか。皇帝であるよりも、冴えない学者といったほうがイメージに合う気がします。
「チキーラ将軍から話を聞いている。……そなたはこの戦いについて知見を持っていると。率直に答えてもらいたい。この戦い、どうするべきかを」
「はっ、私が愚考致しますに、帝国は即刻異端軍共に攻撃を加え、これを撃滅するべきかと」
皇帝の声はその顔からイメージされる通り、どこか疲れきったものでした。予定通りの言葉に、自分は徹夜で暗記したセリフを淡々と述べます。
皇帝の周りに侍る幾人かが苦虫を噛み潰したような顔をしました。テリヤ司祭の言うとおり、今帝国の首脳部には主戦派と和平派がいるようです。しかし、主戦派も自分をパンダにするとは思い切った事をしたものです。
皇帝はその答えに驚いた様子も見せずに、自分に話を続けるよう言いました。
「その最大の理由はこれが神の思し召しであるからです」
「神の名をみだりに唱えるか! この野蛮なオーク共が!!」
暗記した通りのセリフを言った所、皇帝の取り巻きの一人が顔を真赤にして怒鳴りつけてきました。それはカンペを用意したチキーラ将軍に言ってください、などとは言えるはずもなく自分は黙り込みます。いや、今にも人間たちが剣を抜いて襲いかかってきそうで怖いとか、そう言う訳ではありません。図書館で本を読み放題というのはこの上ない魅力です。ただ、生きていないと本を読むことも出来ませんしね。
ふと横を見るとチキーラ将軍がしまった、という顔をしていました。何やら言ってはいけない発言だったようです。どうもこの人物を信用したのは失敗だった気がしてなりません。先ほどの発言の原稿はこの人物が用意したものですので文句や苦情はこちらの方にどうぞ、などといえる訳もなく沈黙を保ちましたが。
「洗礼も受けていない者が神の名を軽々しく口にするとは!」
「陛下、もはやこの汚らわしいオークに聞くことなど何もありません」
皇帝の取り巻きが口々にそんな事を言いました。どうやら洗礼を受けていない者が神の名をみだりに唱えてはいけないということが問題になっているみたいです。テリヤ司祭とか神の思し召しだとか、神の実心だとか、そんな事をさんざん口にしていたのでそれが当たり前だと思い込むのは仕方ないことなのでしょうが。まさか、ここまで問題のある発言だとは想像すらしませんでした。
ただ、自分のことを激しく批判しているのが皇帝の取り巻きの一部のみであるという事は何か別の意味があるような気がします。テリヤ司祭が言っていたことですが、文官と武官の仲の悪さは有名らしいのです。そして、自分を批判している人物たちはどうも軍人と言うよりは役人のように見えます。もっとも、それを言えばチキーラ将軍も軍人には見えないのですが。
そんな事を考えていると、皇帝は自分に話を続けるように言いました。取り巻きがまた騒ぎ出しますが、皇帝が手を下ろす動作をすると途端に静かになりました。
しかし、この場合、何を言えば良いのでしょうか。カンペの通り続けると再び轟々たる非難を浴びそうです。
ぶっちゃけるとこのカンペは、『神の名の下に』とか、『主がそれを望んでいる』とかのセリフから構成されているのですから。
と言うか、チキーラ将軍は正直聖職者の方が向いているのではないでしょうか。テリヤ司祭もなんで軍人にならなかったのかが不明な人物ではありますが、チキーラ将軍に至っては聖職者が天職のような気がしてなりません。
それはともかく、ここはカンペを無視して無難な受け答えをしておくべきでしょう。人殺しが正しいか正しくないか、どちらの観点からも10は理由をでっち上げられるのが前世における善良な現代人です。この程度、適当な理由をでっち上げられないわけがありません。
「先ほどの理由の他に大きく2つの理由があります」
自分がカンペを無視する形でそう言うと、チキーラ将軍が物凄く焦った表情で自分を睨めつけました。いや、流石にこの空気でカンペ通りに話すのは勘弁させて欲しい、と思いながら自分は話を続けます。まあ、上司たる皇帝の前ですし、チキーラ将軍も迂闊な行動はしないでしょう。
「一つは、正統コーンビフ帝国には戦って勝つ必要があるからです」
「それはどういう意味か?」
「現在、多くの諸侯や他国は正統コーンビフ帝国を恐るに足らずと考えている、ということです。この状況が続けば、彼らは弱った獲物から火事場泥棒的に富や権勢を得ようと群がってくるでしょう」
自分はそう言うと周囲を見回しました。自分の発言に対する聴衆の反応を確かめるためです。
宗教関係の話を自分がするのはタブーであったという事があった直後です。自分の常識は一切通じないものと考えて、周囲の反応を元に何を話すかを決めるべきですからね。という訳で、一般的であろう意見を適当に述べて反応を探るという寸法です。
皇帝の周囲の方々はこちらを愕然とした表情で凝視していました。何やら、不味いことを言ったのでしょうか。しかし、今の発言は帝国首脳部にとって常識であるはずです。そうでもなければ、異端軍相手に一部の諸侯しか招集しないという戦力の集中という戦術の大原則に反した悪手を打つ必然性がありません。ふとチキーラ将軍の方に目をやると彼もまた愕然とした表情で自分を見ていました。
「……確かに周辺諸国や諸侯には我が帝国に対して自らの権益を増やすように要求するものは多い。だが、そなたは帝国に面と向かってこれらが反逆を起こすような事態が起きると言うのか?」
「? 現状が続けば勿論そういう事も起こりうるでしょう」
「陛下! 差し出がましくも申し上げますが、この者は正統コーンビフ帝国の持つ歴史の重みとその正当性を知らないのです。このような者の話を聞くことに意味はありません!」
自分の言葉に対して皇帝に取り巻きの一人が叫ぶように進言しました。自分としてはごくごく当たり前の現状認識のつもりだったのですが、どうやら帝国首脳部にとってはそうではなかったようです。
しかし、帝国に対する反逆が出ないと言うのならば、彼らは一体この現状をどの様に見ているのでしょうか。諸侯や周辺諸国は帝国に非協力的で、自らの利益の最大化を望んでいると行動で示している、とは帝国も認めているはずです。そうでありながら、これらが帝国に対して致命的な反逆をすることはないと本当に思っているのでしょうか。非常に気になるところです。
「構わぬ。余は外部の者の率直な意見を聞きたいのだ。続けてみよ」
「分かりました。異端軍と戦うべき理由の一つは先に述べたとおりです。もう一つは、今が異端共を攻め滅ぼす絶好の機会であるからです。異端軍は先程の敗北で痛手を受けているでしょうし、それ以上に、精神的に動揺しているはずです。今戦えばこれまでの敗北を差し引いてもお釣りが来るほどの大勝利を得ることができるでしょう」
「無知なオークが。先ほどの戦いでお前たちが勝利したのは野蛮なサンド王国の連中だ。悲しむべきことに、異端とはいえ随一の大国であるライト王国の軍勢は無傷で残っておる。コーンビーフルの城壁という絶対の盾を捨てて我々が奴らを攻めれば手痛い反撃を受けるだろう」
自分が思うところを述べると皇帝の隣に立つ文官風の男は自分に向かってそう言いました。なるほど、と思いながら自分は適当な反論を考えます。と言うか、異端軍を構成する国家がどうなっているかなど全くもって知りませんでした。最初はまるでやる気がしなかった皇帝との対面ですが、存外勉強になるものです。
「確かにその危険性はあるでしょう。しかし、最初に述べた通りに帝国には戦って勝たねばならないという条件が存在するならば、いずれかは帝都の城壁を捨てて戦わねばなりません。そして、例え異端軍がまだ十分に組織化されていたとしてもこのタイミングであれば高い勝算があるのです」
「奴らはいずれ撤退するだろう。その時に逃げる異端軍を追撃して打ち滅ぼす方が確実ではないのか」
「それは、……」
全くもってその通りだなあ、と思いながら自分はチキーラ将軍を横目で見ました。将軍は睨めつけるように自分と話している文官風の男を見ています。どうも自分は即座に攻めるという方策を主張し続けなければいけないようです。正面の男の方が圧倒的に正しいと自分は思うのですが、これも仕事と割りきるしかありません。
「それは、必ずしも確実とは言えません。何故ならば、撤退する場合に当然ながら異端軍は追撃される事を想定するからです。そして、そうである以上、追撃を加えても異端軍を崩壊させることは出来ずに組織的な反撃を受けるでしょう。しかし、今すぐに異端軍を攻めれば、突然の敗北に呆然としている彼らを狼狽させて、異端軍を組織的に崩壊させることが可能であるのです」
「随分と飛躍のある話だな。異端軍の組織的な力とやらをよほど重要視しているようだが、それは貴様らオークの戦い方であって、我々の戦い方ではない」
「お言葉ですが、古今東西、大勝利というものはすべからく敵軍の組織的結合を破壊することにより達成されています。例えばハニハニバルは敵を包囲して組織的に反撃を行う意志を失わせるという戦術を多用しました。先の異端軍に対する私たちの勝利も運良く異端軍の司令官を打ち倒すことで彼らの軍としての纏まりを打ち壊すことによって達成されました。仮にこれがなければ、私はここに立っていることは出来なかったでしょう」
自分は適当に論説を述べます。昨日初めて知ったハニハニバルとか言うパチ物臭い名前の人物にも活躍してもらいました。実際の古今東西の大勝利がどうかなんて全く知りませんが言うだけならばただですし、そこに一つでも実例が絡まると存外説得力を持つように聞こえるものです。何しろ可能性を示すだけなら一例を上げるだけで十分ですし。
そんな事を考えていると自分と討論をしていた文官風の人物とは別の人物が叫ぶように声を上げました。
「もう十分だ! オークがよくも全てを知ったような口を聞けたものだ。いい加減その様な知ったかぶりは止めて黙っておるが良い!」
「……分かりました」
とりあえず、自分はその男に同意しておくことにしました。
あまり余計なことを喋ってボロを出してしまうのも不味いでしょう。適当なことを言っていたということがバレたら面倒な事になりそうですからね。
「いや、余はもっと話を聞きたいと思うのだが」
「陛下、もうお時間がありません。御昼食にはサモーン公爵との対談が予定されています」
「……そうか。大儀であった、オークよ。率直な意見、為になる」
皇帝はもう少し話を聞きたそうにしていましたが、側に控える男が、時間が押していることを告げると、あっさりと諦めて馬に乗ると去って行きました。
側近たちはそれに従って去って行きましたが、チキーラ将軍が去り際に一瞬自分のことを見据えました。
その瞳には憤懣の色がありました。
どうやら図書館使い放題という自分の野望は達成が極めて困難になったようです。あんなに頑張ってカンペを徹夜で覚えたというのに全てがパアです。しかし、自分がカンペ通りに話せなかったことは確かです。
ですが、カンペ自体の内容にも問題があったと自分は確信しているのです。
そもそも、ケビア教についてテリヤ司祭から話半分で聞いた内容しか知識がないオークがケビア教の教義や聖典の内容に基づいて論説を展開できるわけがありません。つまり、オークが宗教的観点からの論説を展開するということは誰かが入れ知恵したということを疑いようもなく示すのです。そして、それは今回の皇帝の求めている率直な答えであろうはずがないのです。
……まあ、今回自分が本当に率直な意見をいう事を求められていたかというと微妙なところですが。そもそも、自分程度が思いつける内容をより多くの情報を得てより多くの知識を持っているはずの帝国首脳部が勘案していないはずがありません。そして、未開の部族とすら言えるオークに意見を求めるなど何の意味もないことは彼ら自身分かっているはずです。
それにもかかわらず、皇帝が自分と対面したという事実及び長ったらしいカンペの存在はこの対談の本当の目的を示唆していると考えることも十分に可能です。本当に自分に求められていたのは勝手な意見を述べることではなく、戦うか否か、どちらを決定しても生じるだろう帝国内部の軋轢を生じさせない事であった、などといった様にも考えられるのです。
つまり、皇帝が異端軍と戦うと決めれば先ほど自分の意見にもの凄い批判を加えてきた文官と思われる一派が大きな不満を覚えるでしょう。一方で、皇帝が戦わないと決めればチキーラ将軍を始めとした武官系の人間に落胆と不満を生じさせてしまうはずです。テリヤ司祭に聞いた話だと正統コーンビフ帝国において武官と文官は激しく対立しているそうですし、先程実際に見た感じでも対立している幾つかのグループが存在することは確かなようです。である以上、皇帝はどちらの意見を選んでも、周囲から文官側についたとか、無能な武官のせいで帝国は無謀な選択をしてしまったとかいうように見なされてしまうのです。そして、そういったことは十分に起こりうるでしょう。
しかし、帝国から見て全くの部外者である自分が意見を述べれば、そういった問題は生じません。部外者の意見を参考にする、ということにすれば内部での対立関係を煽ることなく物事の決定ができますからね。勿論、その部外者の意見というのは内々に決まっている方針と一致するものでなければなりません。内情や実情に関して部外者の方が物事に通じているということなどあるわけがないのですから。
その場合、皇帝は異端軍を叩く腹積もりなのでしょう。そして、この戦いで唯一異端軍に勝利を収めたオークをコンサルタント、憎まれ役として利用することにしたと思われます。そして偶々自分に白羽の矢が立ったということであり、自分に求められた役割は粛々とカンペ通りに話すことだったという可能性があるのです。
それならば、話の途中で妨害するように叫び声を上げた文官の存在理由も分かります。つまり、武官ではなくオークである自分が戦いを進言したという事をはっきりと示すことで、オークが憎まれ役であることをはっきりと示す必要があったということになるのです。
あれ? もしかして不味いのではないでしょうか。
「大丈夫か、ブータ。いつものふてぶてしさがないぞ」
自分に求められていた可能性のある役割に気がついてしまった自分の顔は若干青ざめていたようです。テリヤ司祭にまで心配されてしまいました。自分たちは二人並んで王宮を離れて、宿泊施設に向かって歩いているところです。流石に皇帝と会うときは殊勝にも緊張した様子を見せていたテリヤ司祭ですが、それが終わると瞬く間にいつもの調子を取り戻していました。この逞しいとすら言える緊張感のなさは正直何とかならないものかと思わずにはいられません。
ともあれ、自分が散々後悔しているにもかかわらず、脳天気なアホ面を晒している司祭に自分は今まで考えていたことをとくとくと話してきかせました。帝国側がほんとうに必要としていたものがなんであったのかという事についての推察を述べると、テリヤ司祭は呆れたように言いました。
「なんだ、いつも通りか」
「……どういう意味ですか?」
「うむ、まあ気にするではない。お主の考えが突飛なものであろうとわしは何時でも相談に乗ってやるからな」
そう言って笑いながら自分の背をバシバシ叩くテリヤ司祭に、自分は憮然とした顔をつくりました。せっかく自分が正統コーンビフ帝国首脳部の実情とその考えを考察したというのにテリヤ司祭はまともに考慮することもしないのですから! 別にそれはないだろう、と自分の考えを否定されたところで構わないのです。ただ、せっかく人が考察を述べたというのにそれを一顧だにせず笑って済ませられるのには、正直苛立ちを感じてしまうのです。
というか、人の考えを突飛だとか、変わっている、といった一言で片付けてしまうことにはテリヤ司祭の思考能力に疑問を覚えざるを得ません。そもそも自分の推測や考えは与えられた情報を積み重ねることで得たものであり、自分と同じかそれ以上の情報を持っているはずのテリヤ司祭なら容易に理解できるはずなのです。
同じ事はツヨイにも言えます。というか、ツヨイのほうがもっと酷いと言えるでしょう。あのアンポンは自分に思考という行動の全てを任せたと言わんばかりに自分の意見を聞き流すのです。せっかく人が考察を述べ、その説明をしているというにもかかわらずです。
ツヨイが理解できていなさそうな場合、どの様に説明すればよいかを自分が何日も考えた末に、ようやくツヨイに一を伝える事が出来たと思ったら、難しいことを考えるのは全部お前に任せるから狩りに行こうぜ、などとあのアホは言うのです。あの脳筋は何の為に自分が懇切丁寧に説明をしたと思っているのでしょうか!? 議論をするとは言わないまでも、他者のフィードバックのあるなしは考察の完成度に大きな違いをもたらすのです。一人だけの視点だと物事の見方や考え方の幅に限界がありますからね。
そして、あのアホは極稀にですが、本当にごく稀にですが、腹の立つことに自分にとって盲点だった事を指摘したり、より良いアイデアを出したりするのです。だから、ツヨイがもっと積極的に議論をすればより良い結論を得ることができるはずです。それはツヨイにとってもメリットがあるはずなのですが、あの自分勝手なアホ面は考えるということにアレルギーでもあるのか自分が議論をしようとするといつも逃げ出すのです! 思い出しただけでもイライラしてきました。直感や発想は非常に優れているというのに! あいつは、どうして、それを、活かそうとしないのか!?
……失礼、少しながら取り乱してしまいました。ともかく、誠に残念ながらというべきか、ツヨイのアホは直感力や発想力という生まれ持った才能を伸ばそうとかいった克己心が欠如していると言わざるを得ないのです。何とかならないものなのとかとはつねづね思っているのですが、残念ながら自分のツヨイに対する啓蒙活動は実を結んでいるとは言えない状況です。
自分が考えに没頭したことで、テリヤ司祭との間には会話も無くなり、歩いている内に自分たちは宿泊施設である宿にたどり着きました。何故だか、ツヨイが入り口の前に堂々と立っています。
「おう、ブータ! ようやく終わったんだな! 待ちくたびれたぞ!」
「痛っ! ちょ、バシバシ叩くなよ、ツヨイ!」
自分が近づくとツヨイは破顔して自分の肩を勢い良く叩きました。いつも思うのですが、こいつには人並み外れた力の持ち主であるという自覚が足りていません。
「よし! これから女遊びに行くぞ!」
「え? まだ日も明るいだろう? それに今からって……一応、図書館の使用許可が出ているか確かめたいのだけど」
「そんな事を言ってるようじゃ、だめだ。大体女を抱くよりも紙が好きだっていうのは可笑しいだろうが。オレはお前のことを心配しているんだ」
自分は別に本が何よりも好きというわけではないのですが、どうもツヨイは勘違いをしているようです。自分が読書に執着するのはオークとして生まれてこの方、一度もまともに書籍に触れる機会がなかったからです。逆に女性といたす機会はなんだかんだと数多くありました。まあ、人間が相手だと目が死んだ魚の様で何も楽しくありませんでしたし、オークが相手だとまだマシでしたが態々やりたいと思える行為ではなかったことは確かです。そうである以上、今の自分にとっては貴重な機会である読書のほうが高い重要度を持っているのであり、別に自分が女性よりも紙に興奮を覚える異常性癖を持っているわけではないのです。つまり、何も可笑しいことはない、という結論が導き出されるわけです。
とは言え、相手は一度思い込んだら人の話を聞かないことに定評のあるツヨイです。正面から議論したとしても結局は力ずくでツヨイの我を通されるに決まっています。ここは、一抹の不安がありますがテリヤ司祭に協力を仰ぐことにしましょう。テリヤ司祭でツヨイを止められるとはなかなか想像できませんが。いや、可能性としてはむしろあれですが、そうなると本当にどうしようもなくなってしまいます。
「テリヤ司祭、貴方からもツヨイを説得してやってください。とりあえず、自分は図書館の使用許可が下りたのか確認しておきたいですし……」
予めチキーラ将軍が図書館に使用許可を出していたという可能性もあります。その場合、時間が経過すれば自分の失敗に腹を立てたチキーラ将軍が図書館の使用許可を取り消してしまうという事態も考えられるのです。まあ、始めから許可が出ていないという可能性もありますが。しかし、とりあえず自分は今から図書館に行くつもりなのです。
「ブータ、わしはツヨイの方が正しいと思うぞ。女遊びに行ってくるが良い」
「なっ!? ちょ!? 一体何を言っているのですか!?」
「よし、そういう訳だ。ブータ、行くぞ!」
テリヤ司祭ではツヨイの説得は到底できないだろうとは思っていました。二人は発想や思考のレベルが似通っていますし、自分の考えていることをそのまま言ってしまうタイプの性格であることは確かです。しかし、流石のテリヤ司祭でも聖職者という立場上ツヨイに賛成することはないだろう、と自分は思っていたのです。一応、ケビア教によれば姦淫は罪であるそうですからね。
その教えにもかかわらずその教えを体現しているはずの正統コーンビフ帝国の帝都に娼館が存在しているというのは人間や知性というものの面白さ、複雑怪奇さを表していると言えるでしょう。
とは言え、神の教えを代弁するはずの司祭階級がそれってどうなのでしょう、と思わずに入られません。ケビア教では神の教えによって人間は堕落から救われると説いているそうですが、ここに明らかな反例が存在しています。とりあえず、自分は決してケビア教を信仰しないことに決めました。
「ツヨイ、そいつにしっかり女遊びの面白さを教えてやれよ!」
「おう!」
「ちょまっ!? テリヤ司祭、あんたは聖職者だろうが! ツヨイも離しやがれ! 俺は正常だって言っているだろうが! 別に女性は嫌いじゃないけど今は他にやりたい事があるだけなんだ! だから、好きにさせてくれよ、おい!? 話し聞けよ、ツヨイ!」
自分は図書館に行こうと必死に足掻きました。生命というものは本質的に、どんなに絶望的な状況であってもなお足掻き続けるものなのですから。そして、その絶望的な末にただの有機物の集まりであった物が知性を持つまでに至ったのです。ならば、自分も足掻かない訳にはいかないでしょう。この世界に生を受けた存在として、他の誰もと同じように。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
まあ、当然ながら無駄な抵抗でした。うん。分かっていました。こうなるであろうことは。
自分はツヨイに引きずられるようにして娼館街までやって来ました。以前、遠目に見た時はそれなりに賑わっていた様子でしたが、まだ、昼過ぎということもあって静かな様子です。とは言え、オークは時間なんて関係なしにこの近辺に群がっていますし、それに付き合わされる女性の悲鳴も聞こえないわけではありません。
ケダモノの様な叫び声や悲鳴が否応なく耳に入ってきてしまいます。元から高かったとは言えないテンションが一気に最低値まで落ち込みました。そのうち欝になるかも知れません。別にケビア教に感化されたわけではありませんが、こういう行為はどうにも好きになれません。相互に愛がないと駄目とまでは言いませんが、心など全く通じる必要はないかと言うと、その様なことはないと思うのです。正直、ただすっきりするだけならば相手がいようが自分でしようが、そう変わるものではないですし、それならば態々暴れる相手に無駄な体力を使うよりもスマートに処理を済ませるのが賢い文明人のあり方だと思うのです。
もう一つ重要なことには、残念ながらこの世界では衛生管理という概念が十分に広まっていません。どういうことかというと、女性を抱こうとすると非常に臭うのです。いくらオークだからと言って、先進的な文明人であった記憶を持つ自分です。自らの体を清潔に保つということについては、この世界の平均的な人間を遙かにしのいでいるのです。そして、結果として人間の汚れと体臭にどうにも我慢がならないのです。
残念ながらツヨイやテリヤ司祭に言わせればそれは変態だということです。まあ、革新的な考えというのは何時の世も最初はマイノリティであるのです。いずれこの考えが世界に広まることは物質が原子から構成されていることと同じくらい明らかなことですし、さして気にする必要もありません。
そもそも、避妊など当然考えもせず無計画に子供を作り、結局餓死させるのと比べれば、自分で処理するということは遙かに賢く人道的でもある行為なのですからね。それに、お金もかかりません。その分を書物や武器防具などに当てれば、将来の投資にもなるのです。
「よし! ブータ、着いたぞ!」
「え? ああ、うん。じゃあ適当に済ませて帰ろうか」
既に帰ることしか考えていない自分とは対照的に、ツヨイはやたらと元気でした。
「おい、ブータ。折角ここらで一番の店に来たんだ。もっと気張っていこうぜ!」
「俺はすぐにでも帰りたいんだけど」
「それは本当に可笑しいだろう。この前の戦いの時は無茶苦茶凄いこと言ったのに、こんな事でそんな世迷いごとみたいなこと言うなんて、もったいないと思うんだがなあ」
嫌がる自分の発言をまるで聞こうとする素振りも見せず、ツヨイは好き勝手な事を言います。人の話を聞く素振りを見せるということはコミュニケーションを円滑に進めるための妙技であると思うのですが、いつも通りのツヨイにはそんな事は関係ないのでしょう。
というか、本当にこの前の戦いの自分の発言を持ち上げることは止めて欲しいです。あれは実際のところ適当な法螺を吹いたらたまたまそれが現実と似たものだったというだけですし、作戦も碌なものではありません。上手く言ったからいいものの、全滅する可能性のほうが高かった内容でした。もう二度とあんな高すぎるリスクのある戦いはしたくありません。ハイリスク・ハイリターンなどというものではありません。ウルトラハイリスク・ハイリターンというべきものです。
確かに、あの時オークが勝つには勢いで上回っているうちに敵の頭を叩くしかなかったとは思いますが、囮を使った陽動等、もっとうまい作戦も今思えば実現可能だったはずです。しかも、あの時自分の作戦では敵の大将を叩くという発想が出てきていませんでした。そうである以上、自分にとってあの戦いを例えると、1000万円の借金を背負っていたらたまたま1億円の宝くじがあたった、とでも言うべきものなのです。そして、自分の実力としてはなんの成果もあげられなかったに等しいのです。
だから、ツヨイには先の戦いの話を自慢気に話す事は止めてくれないかと、あの日からそれとなく何度も何度も言っているのですが、アホの聴覚は平常運転なのかまるで聞く耳を持ちません。
「いい加減それは止めて欲しいんだけれどなあ……ところで一番いい店って大丈夫なのか? 店は静まっている様子だけど」
昼間にもかかわらず他の店からはオークの怒鳴り声や女性の悲鳴が聞こえてきますが、この店ではその様な物音は聞こえません。扉も完全に閉まっていて静かなものです。こうしたサービス営業店が昼間に閉まっているという事は別段驚くことではありませんが、一軒だけが静まり返っているという状況には何かきな臭いものを感じずにはいられません。
「ああ、なんかインペリアの連中が普段は利用しているみたいでな、他の連中は入れていないんだ」
「お、おい。それって大丈夫なのか?」
「大丈夫、大丈夫」
何かさらりと重要なことを言ったような気がしてならないのですが、自分が慌てて聞き返してもツヨイはまるで返事をせずに娼館のドアを叩き破るように開けると自分を引きずりながら建物の中に入って行きました。ドアを開けるときの大きな音に慌てたように人間の男が部屋の奥の扉から転がり込んできました。
「一体何ごとだ!?」
「おう、客だ」
「!!」
部屋に飛び込んできた男は自分たちの姿を認めると凍りついたように動かなくなりました。茶色の髪を持った小太り気味の中年男性です。やがて、男は我に返ったのか、身を屈めるように手揉みをしながら自分たちに話しかけてきました。
「申し訳ありません。生憎当店は今やっておりませんので。お引取り願えませんでしょうか?」
「別に他の店は普通に客がいるぞ」
「他所様はそうかも知れませんが、ウチはそうではありません。皆寝ていますし、残念ですが……」
へりくだった物言いですが、男の言葉には巌とした拒絶がありました。随分と嫌われたものですが、十分理解できる話でもあります。ところが、ツヨイは全くもって理解できなかったようです。手で頭頂を掻き回しています。ツヨイの苛立った時の癖のようなものです。
「金はあるんだ。別に寝ているなら起こせばいいだろう?」
「ウチにいるのは皆毎日一生懸命に働いて疲れているんです。とてもそんな無理が出来る状態じゃありません。よろしければ、他の店に口利きを致しますので」
「オレ達はこの店に来たんだ! ぺちゃくちゃ喋ってないでさっさと相手を出せよ!」
話を逸らして誤魔化そうとしている男の様子にツヨイは怒ったように声を荒げました。どうやら、面倒事になりそうです。
「さわがしいな。どこのバカがさわいでいるんだ?」
自分のこういう種類の予感は一度も外れたことがありません。今回もツヨイはいつも通り厄介ごとを呼び寄せたようです。
部屋の奥から現れたのはツヨイ以上の巨体を持つオークでした。オークは眠たげに周囲を見回すと、自分たちを睨めつけました。
「またか。ここはインペリア様とオーク軍団の大将達専門の宿だ。お前たちみたいなどこの馬ともしれない連中は痛い目を見ない内に帰るんだな」
「……ツヨイ、大将って何の話だ?」
「ああ、なんかインペリアのその取り巻き連中がここに帰ってきてから自分たちの事をそう言っているんだ。有名な話だぞ。知らなかったのか?」
巨体のオークの口から出た大将という謎の言葉の意味をツヨイに小声で尋ねた所、ツヨイは呆れたように事情を説明しました。先ほどの戦いでの大勝利に酔ったオークの一派が権威というものに興味をもってそう名乗るようになったということなのでしょうか。野蛮と人間からは見なされているオークが肩書きだけは人間と同じように一人前に名乗っているのですから、他から見たら滑稽以外の何者でもないのかもしれません。
自分としては自らの情報収集の不備を指摘された格好になって悔しい限りなのですが。情報収集の重要性を理解しているという事は他のオークと比べて自分の持つ最大の強みのはずです。にもかかわらず、よりにもよってツヨイにその不足を指摘される格好になるとは屈辱の極みです。先の戦いの後、自分は帝国や異端軍の情報を集めようと躍起になっていて、自分たち、オーク社会の現状について情報を集めることを怠っていました。これでは足元がお留守と言われても反論のしようがありません。
自分が悶々と恥辱に悶えていると、こちらの動きが無いことにしびれを切らしたのか、オークが叫び声を上げました。
「てめえら、とっとと出ていかねえのか!? それとも追い出されてえっつうのかよ!?」
「ツヨイ、向こうは駄目だって言っているし、ここは引いたほうが、ってツヨイ!」
ツヨイは怒鳴り散らしたオークを見やると、引き返そうと言う自分の言葉を無視して、無言で近づいて行きました。真正面から向かってくるツヨイを見て、相手が誰だか分かったのか巨体のオークの顔には驚愕と狼狽の色が見えました。
「てめえは――!?」
次の瞬間、部屋の横にあった机に巨体のオークは叩きつけられていました。机の脚は折れ、その上に置いてあった木皿等が床に散らばる音が辺りに鳴り響きます。悲鳴のような声が上がりました。見やると中年の男が引きつった顔でツヨイと倒れたオークを凝視しています。
「ツヨイ!? 面倒事は不味いだろう!?」
自分もそうツヨイに声をかけました。どうやってこの自体を収拾するかを考えていると、部屋の奥から複数の足音が聞こえてきました。その音に自分が意識を向けた直後、ドアを吹き飛ばさんばかりの勢いで部屋に入ってきたのはインペリアでした。
「一体、何が起きたんだ……」
「あのオークが暴れているんです! 助けてください!」
インペリアは部屋を見回すと重々しい声で問います。インペリアの暴力的な貫禄に、数瞬の間、誰もが凍りついたように立ちすくんでいました。しかし、人間の中年男性がツヨイから距離を取るように身を引きながらも沈黙を破りインペリアに答えました。
その言葉にゆっくりと、インペリアはツヨイへ顔を向けます。その拳は血管が浮き出るほどに握り締められている様子が見えました。一度その拳が振るわれれば爆薬のような威力を発揮することでしょう。ツヨイの肩がいつもより強ばっているように感じました。
「テメエは、また、何をしにきたんだ? 百人殺し。この前の戦いで大層なあだ名が着いたようだが、まさか俺たちに歯向かおうとでも言うのか?」
「オレ達はただこの店に来ただけだ。お前になんかに用はない」
「なんだと……?」
しかし、ツヨイは相変わらず問題を起こすことにかけては天才的ですね。インペリアとたった一言言葉を交わしただけでここまで険悪な雰囲気を作れるとは驚きです。
自分が半ば現実逃避しながら、他人事のようにそんな事を考えていると、インペリアが自分の方へ顔を向けてきました。彼は僅かに驚いた顔をすると、顔から怒りを消して笑みさえ浮かべました。
「随分と久しぶりだな! 確か、ブータ、という名前だったか?」
「は、はあ、この前の戦いから数日しか経っていないと思いますけど」
「しかし、今まで何処に居たのだ? この辺りでお前を探したが終ぞ見つからなかったぞ?」
インペリアから予想すらしなかった好意的な声に虚を突かれた自分は、あまりにも間抜けな返答しかできませんでした。しかし、インペリアが自分を探していたとは一体どういうことなのでしょうか。正直、理由がさっぱりです。
「あの時はお前の言うとおりだったな! あの時、まさか異端軍の連中が襲ってくることを的中させるとは大したもんだ。本当のところを言うとだな、オレはあの時、オレたちが勝てるとは思っていなかった。それを、お前の作戦の通りにしたらあっさりと勝ってしまった!」
「は、はあ……」
「理屈ばかりこねる連中は役立たないと思っていたが、そんな事はないのだな」
何やら、インペリアはもの凄い誤解をしているようです。しかし、今更、異端軍が攻めてくるという主張はただの出任せだったと言える雰囲気ではありません。ですが、最低限、作戦に関する誤解は解いておくべきでしょう。
そう思い、自分はインペリアに向かって話し出しました。
「あの時の作戦は正直碌なものじゃありませんでした。褒められるほどのものではありません」
「何を言っているんだ。勝ったではないか。圧倒的に」
「それは偶々上手く言っただけであって、あの時の最善ではありませんでした。あの時の戦いは一歩間違えればこちらの全滅もあり得たのです」
ツヨイに何度も述べた説明をしながら自分はインペリアの表情から彼が話を理解しているとは言い難い事を認識していました。
確かに、オーク全体の傾向である結果だけで物事を評価するという姿勢からは、その結果が大幅な余裕をもって達成されたものなのか奇跡的に成立したものなのかを判別することに意義を見出すことは困難でしょう。しかし、長期的な成功を得るためには、こうした原因にも着目することが大切なはずです。ある局面で奇跡が起きたとしても、それは長い時間の中で続く類のものではないのですから。
「ずいぶんと難しく考えるやつだな。だからこそ、あの時俺たちが勝てる方法がすぐに分かったのか。なるほど」
「そうではなくて、ですね……いや、何でもないです」
予想通り全くもって理解していないインペリアに自分は説明を続けようとして、途中で考えを変えて止めました。国を創るとか大層な夢を持つツヨイはこの話を理解しておかなければなりませんが、よくよく考えればインペリアにまで態々理解させる必要はないのです。むしろ、自分たちにとっては競争相手とも言える相手なのですから。
「ブータ、これからもオレに色々と助言をしてもらえないか」
「は?」
「オレはオオオサだからな。オレはオレの部族だけではなくオレたちみんなの事を考えて動かなくてはならん。だから、どうしたらいいか、決めるのが難しいときはお前の意見を聞かせてもらいたい。この前の戦いでオレたちが勝ったから、これから帝国絡みで面倒事が増えるだろうしな。だから、オレたちの為にお前の考えをこれからも教えてもらえないか? いつでも何か考えがあれば俺達のところへ来てくれて構わんからな。何なら、俺達の所で寝泊まりしても構わんぞ」
インペリアの言葉は自分にとって意外なものでした。まさか、オークが大局的な視点で物事を語る日が来ようとは。いや、流石にオークと言えども物事を考えるだけの能は在るということなのでしょう。
自分もオークとして生まれましたが、人間だった時と比べて思考力にそれほど差が生じているとは思えません。ただし、それを活かそうとする文化がオークには存在しないというだけではあるのです。しかしながら、この事が思考をすることへの大きな壁となっているのです。
腕っ節の勝る者がより優れた者であると見なされるオーク社会内において上位の存在になる手法としては、将来のことを考えて計画的に行動するよりも粗暴であることの方が遙かに優れているのです。勿論、オーク社会内において守らなければいけない戒律のようなものも存在しますが、自分よりも上の存在には身体能力で追い越すまでは逆らわない、仲間にはしっかりと分け前を与えるなどの極々単純なものばかりです。
それにもかかわらず、このオーク社会の頂点に位置するインペリアはこれから起こるだろう未来を予測し、その解決策までをも示してみせたのです。聡明なる皆さんは簡単なことをそんな大げさに言うのかと思うかもしれませんが、自分が生まれてからオークでこれだけの事を考えられる者とは会ったことがありませんでした。
それに、インペリアがこれから面倒事が生じると思い至る過程において、彼は外から有用な意見を取り入れることがほとんど出来なかったはずなのです。
外部から十分に情報を得ることなく自ら未知の将来を予測できるということは簡単にできることではありません。ツヨイやインペリアは自分が思考能力において他のオークと比べて優れていると述べていますが、これは、自分が人間だった時の記憶を利用することができている、ということを無視しても得られた評価ではありません。むしろ、別世界での歴史や出来事の知識がなければ、自分がオークという種の行く末を予想できたとは思えないのです。
後世から見てあまりにも滑稽な判断をしたと組織の指導者が非難される例は歴史を読み解けばいくらでも出て来ます。こういった事例では指導者の頑迷な思い込みや視野の狭さが原因の場合が多いですが、物事を判断するために十分な情報が揃っていなかったために、後の人々から見て愚かな決断に至ったという場合も確かにあるのです。
インペリアはツヨイと自分にとって大きな障害となるかも知れない、そんな考えがふと自分の頭をよぎりました。もちろん、インペリアは自分たちと同じ種族であり、ツヨイの夢にとっては協力できればそれに越したことはないのですが、オークという種族の内部にもこの帝国と異端軍の争いのような対立関係がない訳ではないのです。
「っ、ダメだ!」
「ツヨイ?」
突然、ツヨイが叫び声を上げました。自分が驚いてそちらを見ると、ツヨイはインペリアを睨めつけるように見ていました。思いつめたような、不安そうな顔です。傍若無人、楽天家のツヨイには到底似つかないものです。
「一体どうしたんだ、ツヨイ?」
「そうだな。オレはブータにこれからも考えを聞かせて欲しいと思っているだけなんだがな」
「それは、ダメだ!」
インペリアの言葉に、ようやく自分が彼に勧誘されていたことを思い出しました。答えが余りにも自明なためつい返答を忘れていたようです。
「意見を求められれば答えはしますが、自分から頻繁にそちらに向かうことは難しいでしょう。自分はツヨイと同じくナカオオアナの者ですから。普段は仲間と一緒にいなければなりませんから」
ただでさえ、部族内ではツヨイのお気に入りというだけで今の地位を得たと自分は思われているのです。その上、他部族の勢力圏に行ったとなれば余計な注目を浴びて火種を生みかねません。基本的にオークは自らの属している部族内でその生涯を完結するものです。人間などに追い詰められていながらも種族内での内輪の争いが耐えないオーク社会では、部族内の勢力争いで敗れたオークが部族から追い出されることはそれほど珍しくはありませんが、こうしてはぐれオークとなったものが他の部族に受け入れられることは稀です。受け入れに関して決定権を持つオサにしてみれば、かつて他の部族で勢力争いをしたであろうオークの存在を、自分の地位を脅かしかねないと分かっていながら認めるということはまずないからです。
実際に、自分の部族にはこうした者はいませんが大きい部族には数名こうしたオークがいるという話です。聞くところによると、どうも他部族出身のオークというものは冷たい扱いを受けるもののようです。具体的には、移籍後の部族で目立つと周囲から袋叩きにされたり、食料などの分け前が少なかったり、などの待遇を受けるようなのです。この理由は、部族社会において最下層の者を置くことで、下の階級のオーク達の不満を逸らす効果がある為ではないかと、自分は考えています。江戸時代にも同様の制度がありましたし、こう言う仕組みは社会が高度化されるにつれ必然的に生じる現象なのかもしれません。
という訳で、他の部族出身のオークというのはオーク社会において異端であり、それ相応の視線や扱いを受けることになっている、というのが自分の認識です。そうである以上、わざわざ他部族に入り浸るようなことは控えるべきなのです。
しかし、自分の常識的な答えにインペリアは不満そうな顔をしました。
「別にオレたちのところに来てもいいんじゃないか? オレたちのところの方が食い物にも女にも困らねえしな」
「インペリア! ブータはオレの仲間だ! 余計なこと言ってんじゃねえ!」
「余計なこととは随分な言い方だな。オレはただ、ブータはオレたちのところにいたほうがより活躍できるはずだと思って誘っただけだ。何せ、オレたちはオレたちだけじゃなくお前たちも含めた全部を考えなくちゃいけないからな」
何やら、自分を無視して、ツヨイとインペリアが口論を始めました。どうも、二人とも前提を誤解したまま話を進めているようです。インペリアは自分を取り込もうとしているようなのですが、自分にはそれに応じる意志が全くないのです。
しかし、インペリアがここまで自分を高く評価していたことには驚きました。が、逆にここまで自分を引き入れようとしている態度には何か裏があるのではないかと思ってしまいます。
そう、例えば、インペリアにはツヨイに対する警戒心があり、ツヨイの弱体化を狙って側近と思われる自分を引き離そうとしているのではないか、とかいった本当の理由が存在しそうです。今考えたこの仮説は、インペリアのツヨイに対する一貫した冷たい態度などとも矛盾なく受け入れることができます。インペリアにしてみれば、ツヨイは彼に匹敵する力を持った強力な対立相手なのかもしれません。
「残念ですが、自分はツヨイと同じナカオオアナのタタカウモノです。オオオサの要請には答えますが、私にはツヨイや仲間がいるのです」
「ブータ……」
「……ふう、そうか」
とりあえず、インペリアの提案には応じない旨をはっきりと述べておきます。応じないと決めたならはっきりと態度で示さないと余計な面倒事を引き起こしかねないですからね。
ツヨイが隣で何やら呟きました。インペリアは数瞬の後、ため息をつくと、ぎこちない笑顔を作って頷きました。
「それは残念だ。ところで、ブータ。この店に女を買いに来たのか? 生憎、オレたちの仲間以外はこの店では女を買えないことになっているんだ。分かったら、出て行ってくれないか……そこの礼儀のなっていないガキと一緒にな」
インペリアの言葉に、礼儀がなっていないのはどっちもでは、と思いながらも、自分は心の中でツヨイを説得するための言葉を模索し始めていました。この店をで女を買えないということを、上手にこのまま帰るという口実に昇華させたいですからね。
そんな風に自分は考えていたのです。
「くっ……インペリア、頼む」
「は?」
「え?」
ところが、ツヨイの次の行動に自分と、インペリアは唖然とすることになりました。ツヨイがインペリアに頭を下げているのです。
あのツヨイが! 傍若無人に定評のあるツヨイが! まさか気に入らない相手に頭を下げる日が来ようとは!!
正直申し上げますと、自分はツヨイがインペリアに向かって殴りかかるものとばかり思っていました。気に入らないことは拳でぶち破るのがツヨイクオリティですから。
とりあえず、槍が降ることを心配するべきでしょう。今、帝都は異端軍に包囲されていますので、槍が実際に降ってくる事態は確かに想定可能です。先ほどの戦いで戦力を半減とは言わないまでも大きく減らしたはずの異端軍にそれをするだけの余裕があるかは疑問ですが、大量の槍が降ってきた場合の対処法は考えておくに越したことはないでしょう。
いや、しかし、想定可能な程度のことが起こるという発想自体が間違っているかもしれません。
むしろ、想像を越えた事態を想定するべきではないでしょうか。
そう、例えば……水が降ってくるとか。帝都には下水道がありますが、行政の財政不足の為に主要部以外は長らく整備されておらず、詰まっている箇所も多いそうです。帝都の排水能力を上回る大量の水に襲われれば、至る所が水浸しとなり、この都市は大打撃を受けるでしょう。異端軍が帝都に水を降らせるためにはエンヤ河の水をポンプか何かで汲み上げて上空に放水すれば……よくよく考えれば異端軍にも帝国にもこういった事を可能にするエンジンなどの動力源は無い様なので、この心配は杞憂でしょう。とは言え、堰などを利用して河の流れを変えるという水攻め手法は実現可能であると思われます。つまり、自分たちは異端軍の水攻めの可能性までをも注視する必要があるのです。
「どういうつもりだ?」
「……」
インペリアの声に自分は我に返りました。
……あんまりに驚いたせいか今まで何を考えていたのか分からなくなっていまいました。
途中、かなり滅茶苦茶なことも考えていましたが、言葉にして出すという愚挙は犯さなかったのは幸いでした。
周囲の自分に対する印象に荒唐無稽なことを考える狂人というタイプのものが追加されることは無いでしょう。水攻めの心配があるとか、自分はアホかと。地形的に考えても、そもそもこれだけ大きい河川の流れを変えるなど短期的にできるものではありません。もう穴があったら入りたいという言葉そのものの気分です。
しかし、一体、ツヨイはどうしてしまったというのでしょう。何か変なものでも食べたのでしょうか。インペリアの問にも何の返事もないので、見ている自分も不安になって来ました。
まさか、暴虐無人が治るクスリでも拾い飲みしたというのでしょうか。
だとしたら、なんと素晴らしいことでしょう。是非とも事実であって欲しいですが、単にツヨイの気まぐれで殊勝な態度をとっていると言う事も考えられます。事実が何処にあるのか気になって不安で仕方ありません。
現実的に考えれば、事実はツヨイの気まぐれという極々普通で、そして残念なものなのでしょうが、一抹の希望を抱いてしまうというのが自分という存在なのです。
頑として沈黙を続けるツヨイにインペリアは業を煮やしたのか、苛立った表情をみせ、その後、何かを思いついたように顔を歪めました。
「理由もなく、オレたちの店で女を買わせてくれだあ? そんな勝手な言い分に、いいだろうとオレが言うとでも思ったのか?」
「……」
「おい、笑え、この能なし野郎を」
インペリアがツヨイを指してそう言うと、今まで固唾を飲んで二人の様子を見守っていた彼の取り巻き連中が一斉に笑い出しました。
正直、聞いていて不快ですし、だからと言って、突っかかるのも何の益もなく馬鹿馬鹿しいだけです。
「ツヨイ、もういいだろ?」
自分はツヨイの腕を引きながら小声でささやきました。
しかし、ツヨイは自分の手を振り払うとインペリアを睨めつけんばかりの表情で見ました。
「……他の奴らには聞かせたくない」
沈黙を挟んでのツヨイの言葉は驚きでした。インペリアに向かって彼の取り巻きを外すように言ったのです。ツヨイはそれ以上口を聞こうという様子を見せず、他の面々も驚いたのか身動きもせず、何も言いませんでした。結果として自分達は驚くほど静かな部屋の中に立ちすくむことになりました。
この二人の間が友好どころか一緒即発の関係にあることは当人たち自身が誰よりも自覚しているはずです。正直、この二人が二人っきりになって殴り合いに発展しなければ奇跡だ、と自分は思います。いや、どう考えてもツヨイが殴りかかりそうです。
勿論、現状インペリアにツヨイの提案に応じる理由はありません。彼には何のメリットもないですからね。彼の取り巻きも何を馬鹿なことを、と言った表情でツヨイを見ています。
しかし、一体どうしてツヨイはこんな無謀な提案をしたのでしょうか。はじめに無茶な提案をして、目的の要望を受け容れられやすくするというテクニックは話術の基本ですが、良くも悪くも馬鹿正直なツヨイがその様な小細工を弄するとは思えません。
とすると、ツヨイはこの娼館を利用したいという強い希望があり、それは他者には何か話したくない類のものである、と言う事になります。
しかし、ここで大きな疑問が生じます。ツヨイが話したがらないその理由とは一体何なのか、というものです。良く言えば明け透けな性格のツヨイが可能な限り秘匿したいことなど存在しうるのでしょうか。自分のアレの大きさまで自慢するツヨイです。どの様な理由であってもツヨイが恥ずかしがったり、言いたくないと感じることなど想像もできません。
「何を馬鹿な事を! こいつは二人っきりになったらオオオサ様に襲いかかるつもりに違いありません! こんな奴の言うことに耳を貸す必要はありません。まどろっこしいことをせずに、皆さんでやってしまえばいいのでは……」
沈黙に耐えかねたのかこの娼館の店主と思しき人物がそんな事を言いました。オーク達全員の視線が彼に集中したことに圧迫感を感じたのか、途中から上ずった様な声になっていました。ふと見るとインペリアが人間男性を見る目には露骨に軽蔑の色が浮かんでいました。
「いくら、腕っ節に自身があろうがこれだけの逞しい旦那様方に囲まれれば何もできる分けありません。ですから、――」
「だまれ! オレたちを臆病な人間どもと一緒にするな! オレたちは臆病者のように一人に何人もで襲いかかることはしない!」
「っひ!?」
焦ったように言葉を続ける人間でしたが、インペリアの怒りの剣幕に恐怖の叫びを上げると慌てて、部屋の奥のドアの近くへ引き下がって行きました。
因みに、インペリアの言葉とは裏腹に、オーク社会でも無勢に多勢でもって襲い掛かるというのはよくあることです。当然ながら、そちらの方が勝率が高いですし、結果的に損害が少ないことも多いからです。人間から略奪を行う際も基本的に守りの数が少ない村や町を優先します。
ですが、オーク社会においては勇猛であるという事が何よりも評価されるのです。
そのために、表立って自分より弱い相手と戦ったり、数を頼んだり、という様子を見せると、他のオークからは臆病な奴というレッテルを貼られ侮蔑されてしまいます。一度、臆病者というレッテルが貼られるとオーク社会では指導者の立場に就くことは絶望的になります。心配性であるというだけでも出世に悪影響を及ぼすことが多いのです。そのせいで、オーク社会の指導者は基本的に脳筋のみとなり、将来性のない戦いのみを惰性で繰り返す事になっているのです。因みに、当然のことながらメリットとリスクを勘案するという理性的な人間の必須事項を身に付けている自分には臆病者のレッテルが貼られています。
とは言え、勇猛に戦い続ければ戦死する可能性が高いことは間違いありません。敗戦の場合に殿を務めるということはオーク社会ではもっとも勇猛果敢であることの証であると見なされますが、この役に就いたものが生きて帰ってくることは極稀です。だからこそ、突撃するしか能のないオークはさっさと死んでいき、指導者にはまだまともにものを考えられるオークが就くことになるのですが。
極言すると、オーク社会で成功するには、如何に自分が勇猛であるかを周囲に印象づけながらも生き続けること、可能な限り勝てる戦いにのみ参加するということが大切になるのです。
同時に、オークの指導者はリスクを回避しようとすれば臆病者と見なされてしまう場合は断固として自身が勇猛であることを示さなければならないのです。
そして、人間の言葉の言い回しには大きな問題がありました。人間の言うとおりにすれば、あたかもインペリアがツヨイを怖れたと見なすことができてしまいます。そうである以上、インペリアは内心では賛成していたとしても、迂闊に人間の言う通りにする事ができないはずです。もしかしたら、内心では余計な口を出した人間に怒り狂っているのかもしれません。
「……いいだろう。お前たちは下がっていろ」
「それは!?」
「黙ってさっさと下がっていろ!」
結局、人間を怒鳴り散らした後、しばらくの間をおいて苦虫を噛み潰す様な顔をしながらもインペリアはツヨイの提案を受け容れました。取り巻きのオークによる多少の反論はありましたが、インペリアが言葉を重ねるとしぶしぶといった様子で部屋を出ていきました。
「ひっ!?」
中年の人間もインペリアの取り巻きの一人に掴みあげられ、引きずられるように部屋の外に放り出されて行きました。
「さあ、とっとと話して貰おうか。一体どんな理由があるっていうんだ、ツヨイ」
「……誰にも言わないって誓うか」
「……いいだろう、誓ってやる。だからとっとと話せ」
よほど言いたくないのか尚も理由を述べることを渋るツヨイに、インペリアは苛立った表情で早く話すことを促しました。
「ツヨイ、俺も席を外したほうがいいか?」
自分は今のところツヨイとインペリアと同じ部屋に残っています。ですが、ツヨイが可能な限り誰にも聞かせたくないのならば、自分もまた部屋を出ていくべきでしょう。ツヨイが何を話すのか気にならないといえば嘘になりますが、親しき仲にも礼儀ありという言葉もあるように、いくら友人であっても相手が話したがらないのなら聞くべきではない、と思います。
「いや、いい。おまえの話だから」
「……俺の?」
自分の提案に対するツヨイの返答はまるで予想していなかったものでした。自分に関することでツヨイがインペリアに喋ることを躊躇したその話が一体何なのか、まるで想像できません。インペリアを見ると、唖然とした、はっきり言えば馬鹿みたいな面を晒していました。彼にとってもツヨイの返答はよほど驚きだったのでしょう。
「ブータは……」
「俺が?」
話し始めようとして、言い淀んだツヨイですが、暫くの間を置くと意を決したように口を開きました。
「ブータは女に興味が持てないみたいなんだ」
「いや、その発言には誤解がある上に限りなくどうでもいい話だろうが」
ツヨイの口からついに漏れでたその言葉は自分の心構えの遙かに下を墜落して行きました。自分が異性に興味が無いというのは酷い誤解ですし、仮に、ツヨイにそう写ったとしても、これほどまでに喋ることを渋る価値のある情報とは思えません。
「そんな事はない! だって、ブータはオレが女を買いに行こうって言った時、本の方が好きだって言ったじゃないか!」
「別にその時はそういう気分だったっていうだけじゃないか」
「ブータはいつもそうだろう!!?」
別に、そういう気分じゃないというのは誰でもあることだと思うのです。確かに他のオークと比べると自分の性に対する欲求が小さいですが、決して無い訳ではありません。
その気になれば人並みに致していますし、それはツヨイも知っているはずです。まあ、オークとしては控えめであることは確かなのですが。ですが、やることに夢中になって略奪中の相手から手痛い反撃を受けるよりはましだと思います。驚くべきことに、オークは一通り敵戦力を駆逐すると略奪行為に夢中になってしまい、その間に敵が再び戦力をまとめて襲いかかってくる、ということも珍しくないのです。
しかし、何でしょうか、この気持は。普段傍若無人に振舞っているツヨイからオークとしての常識を説かれるとはどういうことなのでしょう。普段あれ程非常識というか好き勝手に振舞っているツヨイにだけは言われたくない、と思ってしまうのも無理ない事だと思います。ツヨイがツヨイとしてしか生きることができないように、自分も自分としてしか生きられないのです。
「ほ、本当なのか!?」
ところが、インペリアまでがツヨイと同じ反応を示しました。それどころか、愕然と信じられないものを見たかのような表情です。
「いや、だから……」
「こいつは、ブータは昔からすぐに面倒だって言ってやらないで済ませてばっかりだったんだ」
「そ、それは……」
ツヨイの言葉に絶句そのものの様子でインペリアはたたずんでいました。いや、だから、そんなに深刻な問題のように話されても困るのです。これっぽっちも問題ありません。
そんな自分の思いとは裏腹にツヨイは悲壮なまでの様子です。
「だから……だから、オレはブータが少しでもいい女とやればブータもまともになるんじゃないかと思って」
「おいィ!!? 人がまともじゃないかのような言い方はどうかと思うんだが」
「……分かった……そういう事ならいいだろう。それと、この事は他の奴らにも黙っておく」
ツヨイはアホでした。インペリアもアホでした。というか、インペリア、仮にも今帝都にいる全てのオークのトップがこんなことであっさりと前言を翻すとか大丈夫なのでしょうか。
「! すまない、インペリア」
「言っておくが、今回オレが許すのはあくまでも特別だからな。次はないぞ」
「分かっている。……この借りはかならずかえす」
そこの二人は物語でライバル同士がお互いを認め合うシーンのごとく互いの手を握り合っていますが、この和解の内容はしょうもないものです。犬猿の関係を超えて手を結ぶ程のものではありません。
いや、逆に考えればこんなしょうもない事で和解できる程度の対立関係でしかなかったということなのかもしれません。立場上はともかく、ツヨイとインペリアは同じオーク社会のスーパーエリートであり、性格や思考には似た部分がありますし。
「おい!」
インペリアが自分の部下たちを大声で呼びました。すぐに幾人もの駆け足気味の足音が近づいてきます。
「オオオサ、大丈夫ですか!!?」
部屋に入ってきたオークの一人が先程は持っていなかった剣を片手に携えていました。対するこちらは丸腰です。これは早まったかもしれない、と思いながら自分はツヨイと剣を持ったオークの間に入りました。直後、ツヨイに腕を掴まれ、投げられるようにツヨイの後ろに弾き飛ばされました。自分の身体はテーブルをなぎ倒し、床に転がりました。
「テメエ……そんなにあわてふためいて、何をやっている! オレの前でそんな無様を曝すとは何事だ!!」
「ひっ!?」
「何が気に入らねえって、無手の相手に武器を持っていやがることだ! そんなんだからテメエは臆病者って言われるんだ!!」
何かを殴る音と共にインペリアの叫び声が聞こえました。音のした方に目を向けると剣を握っていたオークが床に叩きつけられていました。インペリアは容赦なくそのオークにあびせ蹴りを加えます。必死で身を守ろうとするオークの耳をインペリアは掴むと力任せに引き上げました。苦痛の悲鳴が部屋を満たします。
「いいか、オレたちが武器を握るっていうことは相手を殺すっていうことだ! だから、オレたちは武器を脅しには使わねえ。殺してしまえば脅す必要なんぞないんだからな! にもかかわらず! テメエは! こいつらにビビって! 剣なんぞを持ってきた!! いいか、脅しに武器を持ち込むっていうことは! テメエが、武器なしでは相手に敵わねえってことを大声で叫んでいることとおんなじだ!! そんなんで、相手がびびると思うのか!? そんなんだから、テメエはいつまでもビビリって呼ばれるんだ!!」
「で、でも、オオオサ、――」
「いいか、オレはオオオサだ。こいつらに限らず、連中は少しでも気に入らねえことがあればオレたちに文句を言いに来る。そんな時、テメエがビビっているざまをまざまざと見せられたら、連中はどう思うか、テメエも分からねえわけじゃないよな。いいか、いつまでもビビリじゃあただの負け犬だ。屑だ。そんなものに価値はねえ。テメエもオレ達と同じタタカウモノになったなら、勝たなくちゃいけねえ。少なくとも、心意気では負けるんじゃねえ。オレの言っている意味が、テメエ、分かるよな……」
インペリアはそう言うとビビリと呼ばれたオークを放り投げました。言葉にならない悲鳴と、放り投げられた身体が部屋に備え付けられた机と椅子を引き倒す音が部屋を満たしました。
「とっととすっこんでろ」
インペリアがそう言うと、引き倒されたはずのオークは痛みを必死に堪えている様子で、慌てて立ち上がると転がるように部屋を出ていきました。
部屋にはインペリアとツヨイ、インペリアの取り巻きのオークが4名、そして、先ほどの人間の男性が一人いる状況です。
「こいつらにここで女を買わせてやることにした」
インペリアが淡々とそう言いました。彼の取り巻きはそれぞれに驚愕の表情を作りました。まさか、インペリアがツヨイの願いを聞き入れるとは思いもよらなかったのでしょう。
「オオオサ、本気ですかあ!?」
「こんな奴らにそこまでしてやる事は――」
「こいつ、ツヨイが話した理由にオレは納得した。理由を言わねえってのも分かった。だからだ。もっともあくまでも今回だけだがな。何か文句があるのか?」
口々に反対意見を述べる取り巻き達でしたが、インペリアの言葉に渋々といった様子で押し黙りました。
インペリアの取り巻き全員が押し黙ると、彼は人間の方に顔を向けました。自分が知っているどのオークよりも巨体を持つインペリアに顔を向けられて、その表情に怖れをなしたのか、人間男性は血の気の失せた様子でした。
「テメエの店には確か生娘がいたな? そいつをこいつにあてがってやれ」
「! そ、それだけは勘弁を! 他の女ならいくらでも用意いたしますから!」
「オレの言うことが聞こえなかったのか? さっさとしろ! ……どうしても嫌だって言うなら、まあ、仕方ねえがな。テメエがこの世に留まっていたいと思わねえなら、オレは構わんぜ」
インペリアの脅しに人間男性の顔は土気色に変わりました。ですが、それでも彼はインペリアになかなか応じようとはしませんでした。自分が思った以上に抵抗しています。
インペリアは生娘と言っていました。こんな娼館で男性を知らないということは、この男にとって何か特別だということなのでしょう。もしかしたら、彼にとって話題の女性は大切な存在なのかもしれません。
とても、面倒です。下手をしなくても、この男の恨みを買う事になるでしょう。自分が。
それに、自分自身その様なことをして気分良くはいられません。それならば、普通の娼婦を相手にしたほうがまだマシです。
というか、この世界の娼婦というのがどういうものなのか、知的好奇心もありますし、手馴れた相手のほうが好ましいのです。
娼婦が普段どの様な生活をしているか、何故その職に就いているのか、宗教との兼ね合いはどうなっているのか、などなどには個人的に強い興味がありますし、何より、この帝国を理解することへもつながります。
国家の本当の状態というのはその国が持っている武力よりもそこに生きる人々に反映されるものです。逆に言えば、人を見ることは国を見ることと同じなのです。
自分がかつて存在していた世界では、靴みがきの少年が株に手を出したという話からバブル崩壊を予測した人物がいました。並外れた洞察力の持ち主であれば、道行く人々の様子からその国の将来を予測することも可能でしょう。
自分にはそこまでの能力は到底ありません。ですが、より多くを見聞きすることで現在を知ろうとすること、未来を予測しようと試みることは無駄ではないはずです。
「あの、自分は別に普通の相手が良いのですが」
「ほ、ほら、あの方も別によいと言っているではないですか。今、皆の者を呼んでまいりますので――」
「テメエ、オレが連れて来いと言ったんだ。さっさとその女を連れてきやがれ! それとも、ここで死にてえのか!!?」
自分はインペリアに希望を伝えたのですがまるで聞いてもらえません。インペリアは渋り続ける人間の男を壁に叩きつけると、最後通牒とも言える様相で脅し文句を叫びました。
「あの、イン――」
「おい、ブータ」
仕方なく、希望をまた言おうとした自分の腕をツヨイは掴むと、自分の耳元でささやきました。
「インペリアはオマエに生娘の味を知って欲しいと思っているんだ……オレはいつも自分で楽しむばかりで……すまない、オマエは一度も生娘を抱いたことがなかったな。すまない。だから一度味わってみろ。そうすればオマエがオカシイのも治るかもしれない」
「い、いや……」
別に抱きたいと思ったことなど無いとか、そもそも俺はおかしくないとか、色々と言いたいことが多すぎて自分はすぐにツヨイに反論することができませんでした。
しかし、ツヨイの言っている通りであるならば、インペリアの行動は自分に対する善意からのものということになります。
生娘というのはオーク社会では貴重、というか瞬く間に消えて行くものですから、珍しいということで非常に高い価値がつけられます。
そして、それを味わうことができるのはタタカウモノの中でも特に活躍したものや力のあるものに限定されます。因みに、ここで言う活躍とは、その肉体を活用してどれだけの敵を殺したかという事を示しています。
また、生物学的観点からも、生娘が重宝される事は容易に分かります。普通、オークに攫われた女性は劣悪な環境の中で長生きしません。事実上、これらの女性の出産機会は一度しかありません。という事は生まれてくる子供は初めに相手をするオークの遺伝子を受けている可能性がもっとも高いのです。生物が持つ自らの遺伝子を増殖させようとする欲求に従えば、処女に人気が集まるというのも、妥当な現象なのです。
しかし、生娘は散々痛がって泣き叫ぶのが常であり、その相手をするのかと思うと今から憂鬱な気分になります。
正直な所、インペリアの善意はありがた迷惑以外の何物でもありません。自分は決して嬉しくないし、この人間は間違いなく不幸になるでしょう。正に、地獄への道は善意で舗装されている、という言葉の通りです。本人にとっては間違いなく善意からの行動なのでしょうが、決して幸福を生むことはないのです。
「インペリア、俺はむしろ、普通の男慣れしている相手が良いのですけれど」
「なんだと? オレの決定に不満があるっていうのか?」
「ブータ! すまない、インペリア」
え? なにこれ? なんで、ツヨイがインペリアに申し訳なさそうにしているのでしょうか。あと、インペリアの周囲のオーク達は信じられないものを見たかのような表情を浮かべて自分の事を見ています。
「いえ、不満、があるわけではないのですが、普通の相手のほうが嬉しいというか、モガ!!?」
「ブータ、せっかく、わざわざ、インペリアだけに話したのに、オレの努力をむだにするつもりか」
言葉を続けようとした自分の口をツヨイが取り押さえました。抗議しようとしても、自分の力ではツヨイの手を振りほどくことすらできません。
しかし、現状、周囲の反応を鑑みるに、自分の態度にもどうやら問題があったのかもしれません。
なるほど。どうやら、オーク社会において自分の行動は奇異の目で見られるに値するようです。
普段積極的に女性を抱こうとしない分には、今まで一度もこうした問題にはなりませんでした。別段、自分の行動を一挙一動注視するオークはツヨイも含めて皆無ですし、それよりも誰もが女性を抱くことに夢中ですから。しかしながら、あからさまに女性に関心がない事、特に生娘、オーク社会では極めて高い価値を持つもの、を示すことは周囲の驚愕や奇異の視線を生むようです。
もう少し、多様性を許容してもいいとは思いますが、よくよく考えてみればかつて自分が過ごしていた人間社会でも、奇人、変人が好意的に受け止められていたかというと、必ずしもそうではありません。嘆かわしいことに、文明化された国家であってすら、無理解から来る差別はなくならないものです。まして、オーク社会でマイノリティを容認、保護する文化があるわけがありません。
全く、我ながら稚拙な行動をしたものです。いくら望ましくなかったとしてもここでインペリアの心象を悪くすることは何の益もないどころか、損得勘定のできない子供の駄々そのものです。
インペリアの行動はほぼ間違いなく善意から来ています。独善的な視点からのそれであるため、相手の立場からすれば必ずしも望ましいことではないのですが、インペリアは自らの行いに何の疑問も感じていないでしょう。別段、オークに限らず、こういう独善的なタイプの人物は何処にでもいます。そして、この手のタイプの好意を否定することは、この手の人物の機嫌を最も悪化させる何よりの方法なのです。
そうである以上、自分もこうした場では一般的なオークと同様の行動を取るべく務めるべきです。自分に対するインペリアの心象をわざわざ悪くする愚行は控えるべきですからね。
ツヨイの身の程知らずとも言える夢の前に、オーク社会で頂点に立つというのはスタートラインでしかありません。
ですが、ツヨイの野望への道は果てしなく遠くまで続いているといっても、その過程を軽視しては、山を登る前に転んでしまうといった事態にもなりかねません。つまり、オーク社会内において、早い段階からツヨイの派閥が一定の発言権を持つことは必須ですし、それに伴うはずの権力闘争で敗れることは論外です。
そして、権力闘争を乗り切るには、他のオーク達と一定の関係を築く必要があるでしょう。全てのオークを敵に回せば対処しようがありませんし、他の勢力と敵対するにしても、自分たちの勢力が大きいことに越したことはありません。そして、勝てそうな見込みがない場合は、時勢が変わるまで戦わずに済ませることが必要になります。
インペリアがツヨイの最大の障害になる可能性が高い以上、彼との交渉手段は手放すべきではありません。ですがツヨイとインペリアの犬猿ぶりはオーク社会内でも有名な話で、二人の間に交渉の場が設けられるとは思えません。
……まあ、今回のような特別な場合はそうでもないようですが。
しかしながら、どちらにせよ交渉の場は多いほうがいいはずで、何故か自分に対して好意的なインペリアとはなるべく友好な関係を築き、維持していくべきだと思います。
「あー、もう大丈夫だ、ツヨイ」
「?」
「インペリア、本当に自分が生娘という栄光を得ても良いのですか? 恐れ多いと感じてしまいます」
とりあえず、インペリアの提案が恐れ多いという体を装います。これならば、今までの自分の発言とそれほど矛盾しませんからね。インペリアとしても、ブータという虚弱な相手に非常に大きな栄誉を与えた、ということを意識することになるでしょうから、大いに機嫌を良くすることが期待できます。
「なんだ? そんな事を心配していたのか。気にすることはない。折角の機会なのだ」
「まるで夢みたいです。こんなこと初めてですから。どうしても不安を感じてしまって、初め不快にさせてしまったことは謝ります」
「なに、喜んでもらいたならそれでいいのだ。ツヨイの所では経験も出来なかったことだ……存分に楽しむのだな!」
なるほど。インペリアの発言、その裏にはツヨイに対する激しい対抗意識があったのですね。ツヨイのできないことをインペリアが行うということはどうやら彼の自尊心を大いに満足させる様です。
しかし、インペリアは随分とツヨイを意識したものです。現在のトップにここまで注目、警戒されていてはツヨイが勢力を伸ばすことも困難になるかもしれません。
そんな事を考えていた時、ドアが開き、先程剣を持っていたオークが部屋に入って来ました。
「あ、あの人間、準備ができたそうですぜ、オオオサ」
まだ、床に叩きつけられた身体が痛むのか若干ぎこちない動きでインペリアの側まで歩いて行くと彼はそう言いました。
「そうか、では、ビビリ、そこの客人を案内してやれ」
「え、はい」
インペリアにそう言われたオークは唖然とした顔で自分を見て生返事をしました。彼は自分に付いて来るように合図すると、身体を引きずるようにして部屋を出ていきました。
「あー、じゃあ行ってくる、ツヨイ。……オオオサ、貴方にはいくら感謝しても足りません」
とりあえず、ツヨイと、そしてインペリアにそう声をかけると自分は部屋を出ていきました。
「オメエ、なにもんだ?」
驚くほど静かな廊下を歩いていると、先導をしているビビリと呼ばれていたオークが尋ねてきました。
「……普通のオークですよ」
特別な相手ではありません。まっとうに答える気も更々しなかったため、自分は簡単に答えました。
「前の戦いの時、お前は敵が来ることを予測しただろ……あれは出まかせだったんじゃないのか」
「……鋭いですね。その通りですよ」
続く相手の言葉に自分は少し考えて返事を返しました。別に全く予測していなかった訳ではありませんが、その可能性は低いと自分は見積もっていたわけですし、そう間違ってはいないでしょう。
そして、この言葉が、インペリアの耳に入ったとしてもさほど問題にはならないはずです。
むしろ、インペリアのツヨイに対する態度を見る限りにおいて、優秀という点で目立つのはあまりプラスになりそうもありません。オークの頂点、『王』として君臨するインペリアの目には自分に取って代わりかねない相手というのは当然警戒の対象でしょうし、場合によっては粛清すべき敵と映るかも知れません。
幸いに、インペリアの能力と自分の能とする所ではまるでベクトルが違うため、彼も自分がライバルになり得ないということは理解しているはずです。ですが、それでも、自分がツヨイに親しいことが公に明らかな以上、あまり優秀だと見なされるべきではないのです。
その点、ただ幸運に恵まれた存在として見なされたほうがインペリアの警戒心を刺激しないでしょう。
ところが、自分の答えは目の前のオークにはお気に召さなかったようです。
「オレだって、敵がくるかもしれないって思ってたんだ。なのに、なんでオマエが生娘を得るんだ!?」
「……」
オークは自分に向かって怒りの声を上げました。その顔には嫉妬と憎しみの色が浮かんでいました。
まあ、彼の心情も理解出来ないわけではありません。
ですが、いくら考えたとしても、それを口にするか、行動に移さなければ他者に理解されるわけがありません。そして、その発言、行動は他者に記憶されます。結果としてそれが正しければその考えを評価されることもありますが、考えが事実と異なっていた場合は相応の不利益を被ることになるのです。その上、場合によっては考えが正しかったとしても評価されないことも多いのです。
もっとも、反対に過剰に評価されることもあります。話はそれますがこの考え、アイデアとそれに対する評価とはどの様な関係が妥当なのかは考慮するに値します。
ですが、自分は何も答えませんでした。目の前の相手には何を言っても理解されるとは思えなかったからです。普通のオークと自分とでは思考や物の見方がまるで違うのですから。
「黙っていねえでなにか言えよ!」
「……」
「っっ!!」
自分が何も答えないことに怒り、それも無駄だと悟ったのか、とうとう目の前のオークは自分への追求を止めました。なんの会話もなく、自分たちは廊下を歩いて行きます。
「ここだ」
そう言って、オークは廊下の一番奥にあるドアを開けました。自分が彼の指図に従って部屋に入ると大きな音を立てて乱暴にドアが閉められました。
その音に部屋の奥で何かが動きました。小柄な人影です。
「あー……はじめまして、というべきかな」
何といえばいいのか分からず、自分は結局そう言うと人影に近づいて行きました。板張りの床、漆喰の壁、そして開かないようになっている窓、そして質素な椅子、机、ベッドが目に映ります。人影は椅子に腰掛けてこちらを見ていました。昼間だというにもかかわらず、木窓により外光を遮断した部屋の中は薄暗く、外の明るさに慣れた自分の目が人影をはっきりと捉えるまでには多少の時間がかかりました。
「……!」
美しい。最初にその人影の容貌をはっきりと捉えた時、自分の心に浮かんだ感想はただその一言でした。
机の上に置かれた燭台と木窓の端などにある小さな穴から入ってくる光が金糸の髪を輝かせていました。そして、病的なまでに色白くきめ細かい肌と彫刻家が丹精を込めて削り磨き上げたようなその顔の輪郭は、その人物をして有機的な生物よりも無機的な彫像や美しい絵画といった印象を自分に与えていました。人形だと言われればそのまま信じてしまいそうです。しかし、先ほどの人影の身じろぎがこの美の具現とも言うべき存在が確かに生きていることを示していました。正直、これほどの美貌であるならば娼婦になどならなくともいくらでも道はあったのではないか、とすら思ってしまいます。
次に自分が目の前の存在から受けた印象は痛々しさでした。目の前の少女の瞳は無機質なガラスのように何の感情も映していません。その表情も凍りついたかの様でした。本来ならば感受性豊かに、笑い、怒り、泣き、笑うはずの存在がこの場においては感情を殺しきってただ座っているのです。その事があまりに、あまりに勿体無いと、どうしようもないと、思ってしまうのです。
何よりも、自分がこの少女を地獄へと突き落とす事になる、ということが落ち込み気味の自分の気分をさらに沈めていました。
見方を変えれば、この相手に限ってはどうしようが泣き叫ばれる事が無さそうなのがせめてもの救いですが。
この少女といたさなかった場合、少女の口から店主へ、そして店主の口からインペリアへと話しが伝わる可能性があります。それにより、インペリアの感情を悪化させる可能性を勘案すれば、しないという選択肢はあり得ません。さらに、下手に他のオークから異常な存在であると思われた場合の不利益は自分から選択肢を奪っていました。
「……はじめるぞ」
「…………っ…………」
自分の言葉に、少女は微かに顔を歪め、しかし、すぐに無表情に戻りました。必死に感情を押し殺そうとしている少女のなんと健気で、そしてなんと哀れなことでしょうか。対する自分のなんと醜悪なことでしょう。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「これで出血を抑えるといい」
そう言って自分は少女に綿の布を渡しました。完全に清潔というわけではありませんが、止血することが優先されます。少女は緩慢な動作で布を受け取りました。痛みを感じるのか一つ一つの動作に青い顔で震える少女は痛々しく、鋭い刃で刺されたかのようにそれを見る者にここで行われた行為の無恥と醜悪さを突きつけました。
あるいは、弱い者が自らよりも弱い者に暴虐を振るうことほど無恥で醜悪なことは他にないかもしれません。
加害者は自らが受けてきた苦しみを他者に押し付けるということなのですから。
強者は弱者が何を感じるのかを知ってはいません。この無知が悲劇に繋がることを思えばそれもまた問題がないと看過できるものではありませんが、強者であるかぎり弱者と同じ思いができないのは仕方が無いことなのです。象が思うままに歩き、自らによって踏み潰された蟻の苦しみを理解できなかったからといってそれは罪だと言えるでしょうか。難しい問題だと思います。
ですが、弱者はそれを知っているのです。そして、それを知っているにもかかわらず、その苦しみを、嘆きを、絶望を知っているはずなのにもかかわらず、他者を虐げるということは、加害者の下衆で卑しい心を証明し、自らが苦痛と嘆きの奴隷たることを示すことなのです。
しかも、自分は周囲がそれをするように迫ったからその行為を行ったわけではありません。自らの益を考え、その為だけに全てを行ったのです。
……もう止めておきましょう。いくら落ち込んだところで、意味はありません。結局のところ自虐というものは自己憐憫に繋がっており、本人は罪を償っているつもりでも、実のところはただ、自分の行いを正当化しているに過ぎません。例え、他者を蹴落としても、絶望の深淵に哀れなる人々を沈めることになろうとも、自分は決して後悔をしてはいけないのです。
何故なら、ツヨイの馬鹿げた夢を一緒に叶えたいと思ってしまったのですから。
その砂上の楼閣とも言うべき夢を叶えるには、それこそ、何百、何千の怨嗟の声と死骸とを積み重ね、骸をしてその城の土台としなければいけません。
そうなることは、自分には分かっていたはずなのです。予測できていたはずです。
今更、自分が直接純白を汚すことになった運命を嘆くのはただの自己憐憫に過ぎません。
だから、自分だけは決して悔やんではいけないのです。どれほどの悲劇を生もうと、どれだけ無辜の民を死なせようとも。
そう思い、自分は気持ちを切り替えました。あるいは切り替えようとしたのです。
とりあえず情報を集めようと、自分は部屋を眺め回しました。
木張りの床にできたシミ、ところどころ剥がれた壁の漆喰、足が一本折れている椅子が部屋の奥に横倒しになっていました。ベッドも若干がたついています。床に残る自分の足跡が、積もったホコリの存在を教えていました。シーツには最初からあちこちにシミがついていました。
施設のメンテナンスはあまり熱心には行われていないようです。
これは経営状態の問題ということも考えられますし、そもそも部屋を綺麗に保つという文化が娼館にはないという想像もできます。裏通りの娼館に清潔であることを求める客が多いとは考えにくいです。
あるいはその両方かもしれません。
近年、帝国における各種の税が上がっているというのは、テリヤ司祭を始めとしてどの人間も口にしていることです。貴族、つまり特権階級にも新たな税を課そうとして失敗した、という話も聞きます。それならば、税の取り立てがしやすいこうしたサービス業では他以上に税が取り立てられている可能性は高いです。そして、そうであるならば娼館はその負担に喘いでいると思われるのです。
これは想像に過ぎませんが、逆に、あえて店内を薄汚れた状態に保つことで取り立ての手を緩める事も考えられるのです。
よくよく思い出してみますと、ソーさんの店、服屋も壁や床が汚れていなかったわけではありません。しかし、ホコリで足跡が見えるほどではありませんでしたし、壊れた家具も少なくとも眼に見える所には置いていませんでした。何故、ここまでの差が生じるのかは個人的に興味深いところです。
また、部屋やこの建築物の構造部分は石材でできているようですが、ところどころに穴が開いたようになっており、その部分は木材などで補修がされています。何らかの理由で構造部分が壊れたか、無くなった後、石材の代わりに木材を利用したのでしょう。
おそらく木材よりも石材のほうが高かったために、建築物の持ち主は石材を使うことを諦めたのではないかと考えられます。用いられている木材の木肌を見るに補修されたのはそう昔のことではありません。
これは、さらにもう一歩踏み込んで考えると、これは帝国の物流のコストが最近になって急速に上昇していると言う事の影響かもしれません。
以前、テリヤ司祭が帝都の神殿の大理石は遠くから内海を船で運ばれてきたと言っていました。
もちろん、この建築物に使用されている石材は大理石ではありませんが、近場に石材の採掘所があるという話が無い以上、ある程度遠くから運ばれてきているはずです。
そして、これだけの都市を造るためには大量のこの建築物に使用されているような石材が大量に必要であったはずなのです。
自分が見た限り帝都にある古い建築物は比較的小さなものも含めて全て石造りであるということは、かつては石材を安価に入手できたということを示していると考えられます。逆に、今日、補修に木材が使用されていることは何らかの理由で石材が手に入りにくくなったということを示していると考えられるのです。
まあ、もっとも、これ以外の理由によって木材で補修されているという可能性も十分にあるのですが。
とにかく、帝都であっても物質面などで民草の暮らしは決して豊かではない、という事は確かだと思われます。
ふと耳を澄ますと、女性のものと思しき幾つもの叫び声が聞こえてきました。あまり遠くからの声ではなく、おそらく、インペリアやその取り巻き、もしかしたらツヨイも、事に及び始めたのかもしれません。
多少、自分の気分が低下することを自覚しながら、自分は同じ部屋にいるもう一人に目を向けました。止血は終わったのか、先程渡した布はベッドの下に投げ捨てられており、そして、少女はその肢体を惜しげもなく晒し、虚ろな瞳で天井を見上げていました。
「……毛布くらいかけたらどうだ」
「……」
自分がそう言っても彼女は何も言いませんでしたが、無感動に身体を動かすと毛布をつま先から肋骨の下の辺りまで引き上げました。
少女が肋骨が見えるほど痩せていることに、自分は今さらながらに気づきました。痩せすぎ、とまでは言いませんが、決して栄養状態が良いとは言えません。
てっきり、この少女は大切に扱われていたものと思っていたのですが、必ずしもそうではないのかもしれません。もしくは、大切に扱われてなお、十分な食事を与えることができないほどに帝都は食料に不足しているのでしょうか。
ふと、少女の顔が青白いことに気が付きました。最初から彼女は純白とでも言うべき白い肌をしていましたが、これほどまで色白くはありませんでした。
「顔が青いぞ、大丈夫か……?」
「……」
問いかけても頑なに何もしゃべろうとしない少女に、仕方なく自分は近づいて様子を見ました。肌の病的なまでの青白さ、乾いた唇、荒い呼吸に汗のない肌、疲労と酸欠、脱水症状でしょうか、自分は水を探して部屋を見回しましたが、水差しのようなものは置いていませんでした。
仕方なく、いつも自分が持ち歩いている水袋を取り出しました。鹿などの動物の革と布を組み合わせたような簡単な物で、清潔さには問題がありますが、この際贅沢はいえません。
「口を開けろ」
「……」
少女の口に水をゆっくりと流し込んで行くと、次第に彼女の顔から青白さがひいていきました。少女の汗がシーツを濡らしています。どうやら、脱水症状と熱中症が複合していたようです。
「お、おい!?」
もう大丈夫だろうと思って、自分が水をやるのをやめようとした所、少女は素早く自分の手から水袋を奪うと、必死に水を飲み出しました。自分が驚いている間に少女は瞬く間に袋の水を飲み干しました。相当に水が欲しかったのでしょう。
「水差しとかはこの部屋にないのか? あるなら、持ってきてやるが」
「!!?」
水を飲み終わって一息ついた様子の少女に自分が声をかけると、彼女は初めて自分の存在に気がついたかのように驚き、自分の顔を見ると泣き出しそうに顔を歪めました。
必死に殺していたはずの感情が自らの必死な姿を見られたことで表に出てきてしまった、というところでしょうか。少女に、大丈夫か、と声をかけるのも躊躇われて、自分は何も言わずに顔を逸らしました。
しかし、黙り込んでいると、嫌でも他の部屋から悲鳴や嬌声が耳に入ってきます。気にしない様にしても、そのことによってより一層声を意識してしまいます。沈黙に耐えかねて、自分は少女に向かって話しかけることにしました。
「普段はどんなものを食べているんだ?」
「……」
案の定、少女は目を合わせようともしません、ですが、自分は話しかけるのを止めませんでした。沈黙してしまえばより一層、自分の行いを意識させられることになるからです。だからこそ、自分の意識を守るために話しかけ続けたのです。
「……肉か? 魚か? パンか?」
「…………そんなもの食べられるわけないじゃない」
少女の方でも沈黙を続けることに耐えかねたのか、長い沈黙の後、吐き出すようにそう呟きました。
「そうすると、どんなものを食べているんだ?」
「……」
最初思っていた以上にというべきか、少女の肉付きから想像できる通りというべきか、彼女の食生活はかなり貧しいもののようです。娼館を経営する立場であると思われる人間の中年男性からあれだけ特別に庇われていたこの少女ですらこの扱いというのです。おそらく、他の娼婦たちの生活環境はそれ以上に悲惨なものなのでしょう
「……」
「……どろどろの何かよ……最近は本当にそれだけ……」
何それエロい。不謹慎にもそんな事を思ってしまいました。まじめに解釈するなら、小麦の粥のことなのでしょう。自分たちオークも帝都に来てからは毎日のように食べている食事です。自分たちの場合、それに加えて多少の肉や野菜が付くのですが、少女の方はそんなものはないようです。
ふと、顔を自分から逸らしながら喋る少女の耳が目に入りました。
長い金髪に隠れがちですが確かにその耳は角張ったような形をしていました。美の神が創ったとしか思えないような容姿の少女だからこそでしょう、その耳の歪さが自分の目に止まったのです。
確かに歪でした。まるで、切り取られたかのように。よく見ると耳の端が腫れていました。
「その耳……」
「!!!?」
自分が疑問を口にのぼらせた瞬間、少女はこれまでの無気力な反応をかなぐり捨てて、手で耳を隠し、自分を睨みつけました。その表情には恐れと怒り、悲しみと絶望が相混ぜになっていました。
最初、自分は少女が人間とは思えないほどの美しさだと感じましたが、もしかしたら、本当に彼女は人間ではないのかもしれません。
人間よりも遙かに美しく、そして特徴的な長い耳を持った種族、耳長。耳については一致しませんが、少女の耳は切断されたと考えれば辻褄は合います。
自分が聞き及んだ限りの話では誇り高い種族です。
かつて、自分たちの獲物として連れてこられた時、この種族は監視の隙を突いて自害しました。この事件の後、貴重な獲物を失ったということで自分たちの部族は内々で相当に揉めていました。
「……」
「……」
自分を親の仇のように睨みつける少女の目には涙すら浮かんでいました。その様に自分は強い罪悪感を覚えました。
ですが、彼女にとって加害者である自分が慰めの言葉をかけることなどできる訳がありません。彼女を怯えさせることなしに近づくこともできないでしょう。
「……」
「……」
自分は何を言えばいいのか分からず、少女は自分を睨みつけるばかりで何も言いません。重い沈黙が部屋を満たしました。
「すまなかった」
「……」
自分はそう言うと少女から目を逸らしました。弱い自分はこれ以上、彼女を見つめ続ける事ができなかったのです。だから、部屋の入口へ目を向けながら、自分は話を続けました。
「俺は、お前を襲った。きっとそれは醜いことだ……それは、俺自身がそうすると決めたことだ。だから、その責は俺にある」
「……今更……今更、許しを乞うっていうの!?」
「……いや、許しは請わない。これは俺が、俺のために選択したことだからだ」
自分は少女に振り返ること無く言葉を続けました。半ば、自分に言い聞かせるように。
「蛮人の考えね! お前は悔やむことも省みることもない、滅びるべき獣よ!」
「昔、大馬鹿が途方もない事を言ったんだ。かつて、と言っても数年前の話だがな」
「……何の話だっていうの?」
どの様な信念を持っていたといても、邪な行為や醜い行為が正当化されることはあり得ないと思います。力のない者を一方的に嬲ることは、心を持つ者であるならば嫌悪感を覚えてしかるべきです。
生物学的にも弱者の存在を認めない限り、生命体が高度な社会を構成することは難しいはずです。
しかし、人間を始めとする意思を持つ者は、信念によって自らの行為を正しいと信じ、嫌悪感を無視して歩んできたのです。他者から見れば略奪としか映らなくとも、略奪者は自らの一族を守るため、自らの信じる神のため、そうした理由で愚かな蛮行を重ねてきたのです。
それが、正しい事だとは言えるわけがありません。ですが、人を統べ、国を創り繁栄させるという過程にはその愚行がきっと必要だったはずなのです。
「俺は、馬鹿な俺はそれを一緒に叶えてみたいと思った。あいつの夢、俺たちオークが新たな国を創るという、馬鹿な夢をだ。その過程で、きっと俺は多くを殺し、奪い、蛮行に明け暮れる。それは醜いことだ。汚らわしいことだ。だが、それでも、俺はそれを後悔するつもりなんてない。この蛮行は俺があの馬鹿と一緒に見た夢へと続く道だから」
「……」
そう、自分は既にツヨイと共に進むと決めているのです。どんなに罪悪感を感じたとしても、自分の罪に恐怖したとしても、決して立ち止まるわけには行かないのです。自分はそう強く胸に刻みました。
□■□■□■□■□■□
初めての事が終わった後、憎悪と嫌悪感に燃えるミントにそのオークは微かに笑いながら水を差し出した。
始めは拒んだミントだが、口に水が触れた瞬間、彼女は体の発した欲求に屈した。その自らの浅ましさを恥じ、ミントは涙を流した。
「痛かったのか」
勘違いも甚だしい労りの言葉にミントは激昂した。呪われろ、醜い醜悪な蛮族よ、獣め、悪魔よ。少女は思いつく限りの言葉で自らの始めてを奪ったオークを罵倒した。
オークが激昂するかもしれないという可能性を彼女は怖れなかった。むしろ期待した。怒り狂った蛮人が自らを殺すことを。
ミントに死の恐怖はなかった。気高きエルフとしての灼熱の怒りがそれ以外の全ての感情を燃やし尽くしていた。エルフとしての尊厳を致命的なまでに汚された彼女にとって生はもはや苦痛ですらあった。
しかし、オークは変わらずに笑みを浮かべていた。せめてその顔を怒りに歪めてやらんとミントは有らん限りの罵倒を続けた。
誘拐されて奴隷として娼館に売られてから覚えたあらゆる悪態を全て言い尽くすに及んで、ようやくミントは口を閉ざさざるを得なかった。もはや彼女には罵倒する言葉すら残っていなかった。
「なるほど、お前の言うとおりかもしれないな」
オークが自然体でミントの言う事を肯定した時、少女の目は涙であふれた。彼女にとって最後に残された反撃の手段を嘲笑われた気がして。攫われて、売られて、エルフとしての誇りをあまりにも容易く傷つけられて、それでも決して泣くことのなかった少女の目から。
これほど心かき乱されたことはなかった。今更どうして心が揺れ動くのか、少女は全く知りようがなかった。
「泣きたかったら泣けばいい。恨みたければ恨め。その全てを飲み込んで俺は俺たちの新しい国を創る」
オークの大言にミントは泣くことを止めた。彼女は思わず信じられないものを見たような表情でオークを凝視した。オークの言葉に少女は燃え盛る炎の如き意志を感じた。
次に少女が感じたのは荒れ狂うような憤りだった。
自分たちの国を創る。
それはエルフたちにとって古くからの夢であった。傲慢にも森を我が物にしようと大軍で押し寄せた人間たちを遂に打ち破ったエルフの英雄レータスの伝説が少女は好きだった。その英雄が、自分たちには国が必要だと周りに説いたのだ。
エルフの誰もがかの英雄を愛していたし、その再来を願っていた。
エルフにとって不幸なことに英雄は毒矢によってその生命を失った。
仮に彼が生きていればエルフは人間に侵されることのない国を創っていただろう。
しかし、英雄はこの世界を去り、彼の後を継ぐ者は未だ現れていない。
それでも、何時か人間に脅かされない国を創るのだとエルフたちは信じていた。
それを野蛮さのみが取りえの蛮人が成し遂げると言ったのである。
ミントが知るオークは人間よりも野蛮で無謀で、そして豊かな森から貧しい山へ追われた負け犬であった。その負け犬が恥知らずにも自分たちの英雄と同じ大望を言い放ったことに少女は腹を立てた。
「国を創る!? 無理よ! お前たち野蛮な負け犬どもにそんな事ができるわけがないわ! お前はホラ吹きよ!」
「できないと端から決めつければできるものもできる訳がない。ホラでも吹き続けて吹き通せば国を創ることもできるさ」
憎々しいことにもオークの言葉はエルフの英雄の言葉と酷似しているように彼女には思えた。
『国を創ろうという希望の若葉を虚弱とあなた方は言うが、如何なる大樹もかつては若葉だったのだ』
英雄は彼の大望を疑問視する長老達に向かってそう言ったという。
よくよく考えてみれば、忌々しいオークの言葉と英雄のそれとはそこまで似ていない。
だが、ミントはオークの言葉に英雄のそれを重ねてしまっていた。何故自身がそう思ったのか、彼女には分からなかった。
しかしながら、ミントはオークに心が揺さぶられたことを認めないわけにはいかなかった。
奴隷として過ごした屈辱の日々を少女は一切の感情を放棄することで耐えてきた。感情がなければ如何なる扱いをされても如何なる辱めを受けても受け流すことが出来た。
できていたはずだった。
だが、冷たく押し殺し続けられていたはずの少女の心は今や暴れまわっている。
オークの野蛮なはずの言葉は凄まじい熱量をもって少女の凍ったはずの心を溶かし尽くしていた。
どうして今更こんなにも心が揺れるのか分からず、少女はただ親を見失ったヒヨドリのように怯えていた。
蛮人の言葉に心が揺り動かされたなどと少女には認める訳にはいかなかった。それを認めてしまえば、彼女を支え続けてきたエルフとしての誇りは根底から崩れかねなかった。
少女はそう思った。
だから、ミントは自分の心が揺れ動いたのは蛮人への憎悪ゆえだと信じた。
あるいは、信じようとしたのである。
ホープ・コン著 『大帝を愛した女たち』より