黎明編3話
こんにちは、ヨワイ、改めブータと申します。ヨワイという名前は周囲から舐められるなど、いろいろ不都合がありましたので改名するに至りました。
いや、人豚相手にヨワイと名乗るとそれだけで馬鹿にされるのですよ。一応、自分はタタカウモノということで部族の顔なわけです。タタカウモノというのはその部族の精鋭達です。その一員が他部族から侮られるのは部族全体の不利益に繋がるという訳なのです。
嘆かわしいことに名前で相手を差別にしてはいけない、という道徳観念は人豚社会には存在しないのです。まあ、ヨワイという名前自身の由来に問題があった気もしますが。
因みに、このブータという名前の意味は特にありません。日本語のブタから取ったとかそのようなことは在りません。あしからず。あと、ツヨイのアホが幾つもあった名前の候補から勝手にこの名前を選びやがったとかそんな事実もございません。ええ、無いのですよ!
え、いつもと調子が違う?
イメチェンですよイメチェン。名前を変えたついでに今までの堅苦しいイメージを払拭したいと思っているのです。いわゆる、高校デビューとか大学デビューとかそういうものだと思っていただいて構いません。いや、バルバロイ的な人豚社会で堅苦しいとかマイナスイメージのほうが大きいんです。
え、余計に堅苦しくなっている?
そのようなことはありません。自分はこのイメチェンによって過去比300%のユーモアを持つに至ったものと確信しております。皆様もしばらくお付き合いいただければ、新しい自分が如何に面白く理知的で素晴らしい人豚だということが分かるに違いありません。
やはり、知的生命体たるもの、ユーモアがなくてはいけませんね。ユーモアがないとかアルコールのないビールみたいなものです。あるいはソフトウェアのないハードでしょうか。ただの漬物石にしかなりません。
という訳で、不肖ブータはユーモアにあふれた愉快な人豚としてやっていきたいと思う次第であります。はい。え? ユーモアのセンスがない? ……今、そう思った奴は放課後屋上に来るように。
さて、本日、自分たちはなんと人間と共に行動しております。というのも、何をとち狂ったのか略奪対象である土地の領主が人豚を傭兵として雇いたいと言ってきたからです。なにそれこわい、と思ったあなたは正常です。正直、傭兵として雇われることになった自分としても領主の正気を疑っているのですから。
何故、人間の領主が人豚を雇うことになったかというと、国のトップに出兵を命じられたにも関わらず兵士が足りないことと、人豚は雇われている間は人間を襲わないだろうから、だそうです。そりゃあ襲わないだろうけれど、その分は雇用にかかる費用とかに回ってくると思うのですが。
あと、神聖なる帝国の守り手として人豚たちの名誉と護国の精神を育むのだとかなんだとか。これは、従軍している聖職者――兵士の精神高揚の役割を担っているようです――の話なのですが。相手の正気と自分の耳を疑ってしまいかねないような発言でしたが、どうやらその聖職者は本気で言っているようでしたし、自分の耳は正常な模様です。
まあ、神の教えを広める義務があるとか言う理由があるにせよ、自分との話に応じてくれる数少ない人間です。金よりも貴重な世界の情報を知るためにも煽てて色々聞き出さなければいけません。
それに、人豚として国家を建設しようとしている以上、人間とのコネはとても重要になるのではないかと思いますし。まあ、こちらはあまり期待できるものではないでしょうが。ツヨイとか、こういうことには無頓着に過ぎるので、自分が代わりにやらなければいけません。
聖職者が勧めてくれた祈りの言葉などを意味が分からないながらもむにゃむにゃ復唱していると、聖職者は感激したのか色々教えてくれました。サモーン公爵という人物が自分たちの雇用主であり、この戦いの目的は異端の教えに汚染された狂人共を迎撃することだそうです。
異端、という言葉に違和感を覚えたそこのあなたは鋭い感性をお持ちです。そうです、異端です。異教ではありません。うっかり自分が異端という言葉の意味を聖職者に尋ねたところ、彼は目を輝かせて、何やら、神の子が神と等しいとかどうのこうのと話し出しました。人豚の中では話の通じる相手と思われたのか、自分は聖職者の延々と続く話を聞く羽目になりました。退屈していたんですか?
……まあ、他の人豚にこんな話をすれば殴られるのが精々ですからね。とりあえず、神の子が神と等しいかどうかが争いの争点であることは理解しましたが、何故それが重要なのかはさっぱり理解できませんでした。何やら内部の者にしか分からない深刻な問題があるのでしょう。まあ、部外者としては君子危うきに近寄らずを保ちたいですね。
それにしても、サモーン公爵とやらは人豚は雇われれば大人しくなるとでも思っているのでしょうか。強盗に金を払って警備を依頼するようなものの様な気がしてならないのですが。どちらかと言うと、人豚は人間が負けを認めて貢物を差し出したと認識しているようですし。まったく、人豚の常識をまるで理解していない決定としか言い様がありません。このままでは、公爵の思惑通りにいくとは到底思えません。自分の常識が相手の非常識である、ということが異種族、異民族では珍しくないようです。異種族、異民族の交流は斯くも難しきものなのでしょう。
さて、今、自分たちはトロフィーナとか言う沿岸地域を制圧した異端軍の脅威から帝都を守るために行軍中らしいです。自分たちの親玉、というかサモーン公爵の属しているのが正統コーンビフ帝国とかいう国らしいのです。そして、その帝都コーンビーフルには数千の兵士しかいないそうです。
ちょ、おま、自分たちが帝都に着くよりも先に陥落しているんじゃね、と思ったのですが、聖職者の方は正統なる帝国を守護する神のご加護によって異端の軍勢は足止めされていると言っていました。意味が分からないので何度か聞き返して、内容を自分なりに再統合したところ、
1.沿岸のトロフィーナに異端軍が船で異端共が攻めてきた
2.トロフィーナフルボッコ
3.異端軍と帝都の間に盾になる軍とかが一切ない、テラヤバス\(^o^)/
4.何故か動かない異端軍
5.神の奇跡に違いない!!←いまここ!!
ということらしいです。
え、異端軍はなんで動いていないの? 帝国の外交が上手いの? それなら、そもそも異端軍に攻め込まれる事態にならないよね? 進撃すればすぐにでも勝てるのに異端軍って馬鹿なの? ○ぬの?
……失礼、不適切な言葉を使ってしまいましたね。とにかく、帝国としても不思議でならない事態のようです。いったい異端軍では何が起きているのでしょうか。
……もしかして本当に奇跡でもあるのでしょうか? 人間以外にも自分たち人豚のような多様な生態系を示しているこの世界です。神っぽい何かが実在するということもあるのかもしれません。まあ、神の実在を確かめる手段が無いので実際のところどうかはわかりませんが。
まあ、そこまで脳天気に考えるのもどうかと思いますし、異端軍も無能ではないでしょうから、彼らが動かないことには何らかの理由があるのでしょう。例えば、異端軍はこちらが帝都に集結する直前に一気に進撃してきて各個撃破といった作戦を持っているのかもしれません。
帝都だけ落とした所で周辺の諸侯が服従することは無いでしょうし、というか帝国から独立したいという諸侯が多いとかいう話も聞きました。正統なケビア教の守護者に楯突くとは嘆かわしい限りである、とか聖職者様は憤っていました。
そうである以上、反抗勢力は叩ける時に纏めて叩いておきたいと異端軍側が考えるということは十分にありうるでしょう。聞いた話だと異端軍は4万とか訳のわからない大軍みたいです。これだけの大軍なら兵站とか諸々の問題で長期戦には向かないでしょう。ということはですね、
1.異端軍、帝国をフルボッコ
2.領地とか賠償金の支払い約束ゲットだぜ
3.飯もないし、本国も心配だから異端軍帰る
4.帝国側が一方的に約束破棄
5.異端軍泣き寝入り
という事態も外交次第ではありうるのです。さすがに、異端軍が万単位の軍勢をポンポン送れるようならとっくに勝負はついていたと思いますし。であるならば、ある程度帝国側が軍を集結するまで待つというのも考えられなくはないと思います。……いや、でもさっさと攻めるのが明らかに最善ですね。基本的に遠征軍は兵站の確保だけでも相当な負担になるはずですし。
もしかしたら、動かないのではなく動けない理由があるのかもしれませんね。情報が足りなのでなんとも言えませんが、こちらのほうが理由としてはしっかりしていると思います。例えば、本国の情勢が不安定で、すぐに帰れる準備をしておく必要がある、など色々な理由が考えられます。
単純に、異端軍が物凄く慎重で、罠を警戒しているとかそんなつまらないオチかもしれませんが。
まあ、事実がどうであるにせよ、ツヨイや自分としては帝国と異端軍の両者が相打ちになってくれている現状は理想的でしょう。帝国の権威がサモーンの方まで及ばなくなれば、ここに独立国家を設立する事も現実的になるでしょうし。まあ、帝国は帝都の守りも十分でないほど弱っているようですし、名目上臣従しておけば強くは文句を言えないのではないかと思います。我ながら気が早すぎるかもしれませんね。でも、晴れた日に傘を準備するのがブレイン担当としての自分の役割でしょう。そうなってくると、問題は他の諸侯となるわけで……失礼ながら、情報収集に行ってくるので、これでお暇させて頂きますね。
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ブータ大帝、そして、シーザ将軍が歴史の表舞台に立ったのはエンヤ川の戦い以降であるとされている。この戦いの前後の記録は聖戦軍側、帝国側の双方に残っており、歴史的資料が十分に信頼できるのである。
特に、オークの軍勢と同伴した従軍司祭テリヤが残した手記には明確にブータという名前が記されている。
ブータと言う当時としては非常に変わった名前であり、このことから、ブータ大帝は当時からオークの中で有力な地位を占めていたものと考えられている。
当時のオーク社会の文化では有力なオサや特別に勇猛な者のみがシーザやインペリア、アレッサンドロなどの特別な名前を名乗ることを許されたのである。彼らの社会ではこれらの名前を名乗るだけで周囲から一目置かれたという。
これに対して、ブータと言う名前は極めて独特で、彼以前にはこの名を名乗った者はいないようである。だが、特殊な名前というだけにオーク達の間でも特別視されていたのではないか、と一般的に考えられているのである。
因みに、かの大帝の独特の名前のルーツが何処にあるのかは今日でも結論が出ていない。
西方のカリエにおける偉人の名前と極めて似ていることを根拠にブータ大帝が西方出身であるとする学者もいる。しかし、幾つかの記録からブータ大帝はサモーンのドンベリマウンテン出身であると見なされている。
この時代以前から、正統コーンビフ帝国とカリエ王朝は交易で結ばれていた。西方から伝わってきたこの偉人の名前が何らかの理由でオークにも知られるようになり、ブータ大帝がこの名前を冠するものとして選ばれたというのが本当のところではないだろうか。
一方、シーザ将軍の名前は当時の如何なる一次記録にも残っていない。元々、シーザという名前はオークの社会において最も勇敢な者に送られる名前である。この名は古代の大帝国の皇帝カイザーにルーツがあると考えられており、この名を冠するには半数以上の部族長の賛意が必要とされていたようである。いわゆるシーザ将軍の名前が歴史に記されるようになるのは、エンヤ川の戦いの3年後1133年のオークの独立宣言からである。かのオークがシーザ名を冠する以前になんと呼ばれていたかはいくつもの説があるが、今日においてもなお明らかではない。有力視されているものとしては、フトイ、デカイ、ヨワイ、ツヨイなどがある。
すでに特別な名前を冠するほどであったブータ大帝と比べて、この時期のシーザ将軍はごくごく普通のオークとして周囲に認識されていたのではないだろうか。ただし、ブータ大帝自身が、シーザ将軍が幼少の頃から親しい関係だった、と発言しているように、二者の間には若い頃から強い友情が存在したのだろう。
また、ブータ大帝は晩年、エンヤ川の戦いの勝利はシーザ将軍の功績である、とも述べている。この発言は若くして死別したシーザ将軍に対してブータ大帝による神聖化が行われており、極端に成果が強調されていると見なされている。しかし、エンヤ川の戦いの際にブータ大帝とシーザ将軍が肩を並べて戦ったことは間違いのない事実であろう。
従軍司祭の記録によれば、ブータという名のオークは非常に理知的であり、またケビア教への深い理解を示したという。手記には感動を抑え切れない様子で、オークは野蛮な異種族だと思っていたが、ブータと言う名のオークは理知的でケビア教の教えに感銘を受けた様子だった、と記してある。これは、ブータ大帝が若い頃から並外れて知性的であったという事を示している一例であろう。
また、ブータ大帝がケビア教に感銘を受けたということは非常に興味深い話である。彼が後に設立したブータ帝国は特定の国教を持たない国家であった。ブータ大帝自身、生涯を通していかなる宗教にも帰依していない。
建国祭などの行事においては各々の民種族が自分の信望する神体を祭り上げる事が推奨された。ブータ帝国の帝都、カエサリアでは神聖ケビア教の教会の目の前に正統ケビア教の聖堂が建っていた。
これに対してケビア教を始めとする一神教宗教勢力の原理派からは激しい反発があった。ムーン教国はブータ大帝を名指しして、ケビア教の最大の敵と認定している。逆に、正統ケビア教の主教は、ブータ大帝は異端から正しい信仰を守っている、と発言し、この素晴らしい役割をより完全なものにするために正統派に帰依するように、と何度も薦めている。
しかし、ブータ大帝は殊更にケビア教正統派を支援することもなかったし、神聖派を迫害することもなかった。このことは、異民族、異種族の集合国家であるブータ帝国の急速な拡大と安定に欠かせない要素であった、と今日では言われている。
ルーイ9世に率いられた聖戦軍は、結局トロフィーナに2週間も留まった。ルーイ9世がようやくその重い腰をあげたのは、兵力の集結を終えた正統コーンビフ帝国側が東方からの異端軍を粉砕することを声高に宣言したからである。
トロフィーナに留まったことにより勝機を逃した筈の聖戦軍であったが、戦闘すればたちどころに勝利した。
これは、聖戦軍の強さが理由と言うよりも、帝国が自らに忠実と思われる諸侯のみに出兵を要請して、兵力の集中という戦略の基本を守らなかったためである。さらには、これらの諸侯がろくに統制も取れないまま戦いに向かった結果、聖戦軍に易々と各個撃破されたのである。
装備の点でも問題があった。帝国に忠実な諸侯の幾人かは、常日頃から帝国の命令を完遂するために借金をしていた。それ故に、武装や兵站を十分に整えられない者もいたのである。
さらには、正統コーンビフ帝国が狼狽して早期に降伏しようとした事を知った帝国側の兵士の士気低下が避けられなかったことが一因であるとされている。
聖戦軍はトロフィーナを発って僅か5日で正統コーンビフ帝国の帝都コーンビーフルの城壁まで迫った。それでも帝国には何世紀にわたって築きあげられたコーンビーフルの城壁が残っており、聖戦軍側は攻撃を躊躇せざるを得なかった。
しかしながら、聖戦軍を前に野戦で連敗を重ねており、正統コーンビフ帝国は自信を完全に失っていた。帝都コーンビーフルでは徹底抗戦よりも降伏の議論が交わされた。帝国首脳部では如何にして帝国の犠牲を少なく和平を締結するかについて頭を悩ませた。
コーンビーフルの城壁は3重構造となっており、その一つ一つの厚みは大砲であっても容易には崩せない程であったと記録に残っている。そのため、諸侯の援軍によって防衛兵が揃った以上、10万の敵軍であろうと防御は可能だろうと帝国は考えていた。
しかしながら、コーンビーフルでは50万の人口を支えるために、毎日莫大な食料や水を必要にした。間抜けにも聖戦軍の襲来を予測出来なかった帝都には食料と水の十分な貯蓄がなかったのである。そのため、長期的な籠城戦になれば正統コーンビフ帝国は飢えて死ぬしかなかった。
さらに悪いことに、戦いに呼ばれなかった幾人かの諸侯が、聖戦軍に連敗を重ねた正統コーンビフ帝国に見切りをつけて、独立を宣言したのである。彼らは宗教的には帝国側であり、援軍を要請すれば兵を派遣する芽も十分にあった。しかし、それをすれば帝国は西域諸国の一国家となってしまうだろう。
正統コーンビフ帝国首脳部は帝国が一国家に身を落とすことに耐えられなかった。聖戦軍と和議を結び、その後反乱勢力を叩き潰そう、と帝国は考えていたのである。
しかし、帝国と聖戦軍との和議は全くといっていいほど進まなかった。連勝し続けている聖戦軍は、正統コーンビフ帝国のおよそ20年分の歳入に当たる金貨1000万の賠償金、トロフィーナに加えて、ヴェリーメロ、交易港カリムの割譲、さらにケビア教正統派の廃絶を突きつけたのである。
帝国側は無茶苦茶な要求に仰天し、当然ながらこれを拒否した。
正統コーンビフ帝国ではこのような条件を呑むくらいだったら、帝国から独立した諸侯に派兵を要請するべきではという意見も出た。帝国にしてみれば、聖戦軍との和議は諸侯の独立と比べまだ良い条件であるはずだからこその選択であり、無条件に要求を受け入れるつもりはなかった。
帝国の和議の条件は、金貨100万を10年間かけて支払うこと、及びトロフィーナの港を割譲するというものだった。
交渉を重ねても両者の間の溝は一向に埋まらなかった。業を煮やした聖戦軍はコーンビーフルへの総攻撃を行った。しかし、これまでの聖戦軍の常勝ぶりが嘘であるかのように、帝都の城壁はびくともしなかった。逆に大きな被害を出したのは聖戦軍の側であり、この戦争初めての勝利は城壁内にこもる帝国の人々を狂喜させた。帝国首脳部はこれによって和議の交渉が現実的なものになるのではないかと期待した。
しかしながら、この敗北によって聖戦軍の要求は弱まるどころか、より強硬になった。聖戦軍はあくまで強気に城壁攻めの損害の補償を求めたのである。賠償金は一括で金貨400万という膨大な額を要求した。
聖戦軍の不自然なまでの要求の背景には、聖戦軍の勝利に喜んだ教皇ライヒ3世の意向があったとされている。海路を使うことで物資が比較的安全に運べるようになったとはいえ、遠征の兵站を確保するための金額は当初の予想を越えて、莫大なものになっていたのである。兵站を担当した海洋都市国家の要求金額はムーン教国では到底賄えるものではなかった。ライヒ3世はヴィタミン、ミネラル、ウォータを散々に罵った。
しかし、三都市に、金を払えないのならば断固としてこれ以上物資の輸送はできない、と言われてしまえばそれ以上何もできなかった。
実際の所、三都市は相当に厳しい状況であったようである。正統コーンビフ帝国側は、大陸内海沿岸の部族に資金や武器を援助し、聖戦軍の補給路を叩かせた。兵を輸送した後、補給の為に必要な船は減るだろう、という三都市の予想は見事に外れたのである。これらの部族はかつて正統コーンビフ帝国に討伐されたが、それ以前は凶暴で命知らずな海賊として船乗りに恐れられていたのである。予想外の難敵に、当初の予定とは異なり、三都市は補給船に護衛船をつけなければいけなくなった。結果として、補給に必要な資金が大きく膨らんだのである。
とは言え、聖戦のために血を流したライト王国やサンド王国に更なる負担を強いることはさすがのライヒ3世といえども躊躇われた。それを行なえば、西域諸国におけるムーン教国の孤立を促しかねない、とはライヒ3世も考えたことであろう。そのため、教国は和議の賠償金で膨れ上がった戦費の補填を行おうと考えていたのである。
さらに、本国を遠く離れた遠征軍では諸侯や兵の不満が高まっており、城壁攻めに失敗した事で士気の低下は深刻なものになっていた。そもそも、初戦で勝利しておきながらトロフィーナにとどまり続けたことには、サンド王国側だけではなくライト王国側の諸侯も不満を持っていた。
当時諸侯の領地のほとんどは決して盤石といえる状態ではなく、彼らは様々な危機に備えなければならなかった。山賊や流浪の民から領民を保護すること、流行りの病への適切な対処、定期的に起こる戦争の為の資金・武具の備えおくこと、そして何よりも、隙あらば、相続権を主張して、領土を奪おうとする血縁者への警戒を絶やすわけにはいかなかった。かの英雄グレイプ・ウォーロックですらも聖戦で領土を留守にした間に血縁者に全ての財産を奪われているのである。聖戦に参加した諸侯の本音としてはなるべく早く本国に帰りたいというところであっただろう。
そうである以上、聖戦軍首脳部としては厭戦気運の高まりに対処する必要があった。そのために、首脳部は勝利によって得られる莫大な利益を強調する必要があったのである。10万もの大軍である聖戦軍をもってすれば、コーンビーフルを落とすことは可能だろうという目算が聖戦軍の姿勢を後押しいた。
これに、正統コーンビフ帝国は動揺した。聖戦軍が本気で帝国を滅ぼすまで戦いを止めないとしているのではないか、と想像したのである。聖戦軍側は和議を単なる時間稼ぎとしてしか見ていないのではないか、と帝国側は思うようになった。
正統コーンビフ帝国は長期戦を覚悟しなければいけなかった。聖戦軍の目的が長期戦による兵糧攻めを行おうとしていると推測される以上、兵糧と水の確保は急務だった。
幸いにも聖戦軍は帝都コーンビーフルを完全に包囲したわけではなかった。すぐ横を流れるエンヤ川など、防衛に向いた地理的条件を帝都は有していたからである。そこで帝国は、包囲網の穴を利用して物資の輸送を行おうと考えたのである。
サモーン公爵がその任務にあたることになった。公爵は戦闘を避けるために夜半、松明を灯すことなく自らの兵団と傭兵として雇ったオークを従えて帝都を発った。この高い練度を必要とする任務にオークもわざわざ率いていったのは、帝都内におけるオークの横暴が目に余ったからである。
帝国首脳部はサモーン公爵が引き連れてきた異形の種族に初めは驚き、そして嫌悪した。オーク達は帝都においても自分たちの流儀を貫いたのである。あの野蛮な連中を追い出せ、とまで帝国民は言ったが、貴重な戦力を追い出すことが可能なほどの余裕は帝国にはなかった。そして、仮に帝都内にいるオークが帝国に牙を向けた場合、帝都を守る城壁も、数々の地理的な障害も役立たないという問題があった。
そこで、帝国首脳部はオークを帝都の外に追い出すことにしたのである。サモーン公爵とオーク達には補給線の確保と維持という、一見地味だが重要な任務が課せられた。その結果、オークにどれほどの力を与えるかという点については考慮されなかった。野蛮な種族であったオークは確かに略奪者として脅威であった。しかし、オークが帝国を打ち破る国家を創り上げるという危惧は狂人の妄想でしかありえなかったのである。
一方、聖戦軍側は長期戦が不可能だと認識していた。大陸内海における海賊の跋扈は補給線に大きな打撃を与えた。食料が不足した聖戦軍はトロフィーナなどで物資の徴用を行った。
この際、あちこちで暴走した聖戦軍による略奪が行われたようである。しかし、確保できた食料は十分とは言えず、早期に決着を着けることが出来なければならなかった。それと、同時に聖戦軍は遠征に費やした莫大な戦費を正統コーンビフ帝国から回収することを望んでいた。そのためには、圧倒的な戦果が必要であるように思われた。
聖戦軍首脳部のこの方針は戦略の幅を狭めた、と今日では評価されている。
攻撃の糸口を求めていた聖戦軍は、ある晩、闇に紛れて帝都を離れる集団を発見した。やがて、幾つかの情報から、脱出した集団の中に帝国の信用厚いサモーン公爵が含まれていることを知ったのである。聖戦軍はサンド王国を主勢力とする4万の軍団を組織して、これを撃滅しようとした。これを指揮したのはサンド王国の王弟スモー・モスド大公であった。
対するサモーン公爵の軍は1万の人間からなる兵団で組織されており、これに6000のオークの部隊が別行動で進軍していた。
聖戦軍は、丸太を連ねた簡易的な橋をエンヤ川にかけると、後を追う形でサモーン公爵軍と激突した。
素早い渡河は事前に簡易的な橋の基礎を築いておいた聖戦軍側の先見の明と、サンド王国の土木技術に優れた兵によって可能となった。しかし、新月の闇夜に聖戦軍が一兵も損なうことなくエンヤ川を渡河したという事実にはモスド大公の優秀さが必須であっただろう。
聖戦軍がエンヤ川をこれ程素早く渡る、とは予想していなかったサモーン公爵軍は、追いすがってきた聖戦軍に瞬く間に蹴散らされた。
公爵軍を散々に蹴散らして、サモーン公爵を捕虜にした聖戦軍は、その勢いを持って異形の怪物ども、オークの軍団を血祭りにあげようとした。
こうして有名なエンヤ川の戦いが幕を開けたのである。
聖戦軍40000、オーク側は6000であり、7倍近い兵力差であった。
聖戦軍側にとってみれば、オークとの戦いは敗残部隊の残りを叩き潰し、勝利をより完全なものにするという程度の意味しかなかった。軍団の総指揮権を持っていたスモー・モスド大公は、すぐにも突撃しようとしていた兵たちをまとめ上げると、オークの逃げ場を完全に塞ぐように軍団を動かした。モスド大公の指揮は優れていた。彼の軍団は血気にはやり統制を崩すことなく、オーク軍を包囲していったのである。
対して、オークの部隊はエンヤ川を背後にするように陣を敷いた。その動きは鈍重であり、混乱して逃げ惑っている様子であった。聖戦軍側は退路を絶ったオークの愚鈍さをあざ笑った。
「神の名のもとに怪物どもを打ち倒せ!」
モスド大公の叫びと共に戦いの火蓋は切って落とされた。
聖戦軍側の第一陣として、軍馬に乗った騎士が槍を構えて突撃していった。通常とは異なり露払いとして弓矢を用いなかったのは、それをするまでもないと聖戦軍側が考えたことに加えて、矢が不足していたからである。聖戦軍は急いでサモーン公爵軍を追った為に、十分な矢を用意する時間がなかったのである。
これは、オーク側に活路を与えた。遠くから矢を連続的に放たれていたら、中距離攻撃に対して対抗手段のないオーク軍には対処のしようが無かっただろう。しかし、聖戦軍側が初めから接近戦を選択したことで、オーク達は、まずは戦意を失わずに戦うことができたのである。
聖戦軍側は、退路を絶たれ、混乱するオークを撃破するという戦いを想定していた。しかし、オークの反撃は予想を超えて遙かに苛烈だった。オーク軍は馬に乗って突撃した聖戦軍の第一波を完全に足止し、それどころか逆に圧倒し始めるほどであった。
この時、オーク達は自分たちの逃げ道の無いことを知っており、生き残るためには目の前の敵を倒すしか無いことを理解していた。対する聖戦軍側にとってみれば、戦果をより大きくする程度の目的であった。この意識の差が、局地的なオーク側の優勢という結果を生んだ。
それでも、聖戦軍側が本腰を入れて、歩兵部隊を仕向けると徐々にオークは押されて後退をし始めた。ここで、モスド大公は逸る味方を抑え、オーク軍に対する包囲網を維持させた。彼は、オークを一体たりとも逃がすつもりはなかったのである。包囲網は完璧であり、何処にも隙は存在しなかった。モスド大公には、後は数の優位を利用して、敵を殲滅するだけで十分であるように思われた。
ここに及んで、オーク達は全滅の一歩手前でかろうじて踏みとどまっているように見えた。当然、聖戦軍側は勢いづいて、一斉に攻勢をかけた。特に、ライト王国側から参加した騎士の戦いぶりは目覚しいものであった。
もともと、モスド大公がライト王国側の諸侯に戦いを許さず、後詰めに回し続けていた事に、彼らは大きな不満を感じていた。そのせいで、彼らはサモーン公爵軍との戦いで十分な功績を立てることが出来なかったのだ。
諸侯の再三に渡る攻撃許可の申し出に辟易したモスド大公が渋々許可を出した時、彼らは持てる力を一気に開放してオーク軍に襲いかかった。彼らは隊列を組み、槍を構えるとオーク軍に突撃を仕掛けた。その突破力は凄まじいものであり、オークの陣形を一気に崩した。
ところが、次の瞬間、オークは聖戦軍の左翼に戦力を集中して、全力で突撃をかけた。これは、ライト王国の騎士や兵が突撃したことで兵が薄くなっていた部分を狙っての攻撃であった。
「ここを突破すればオークの勝利である」
このとき、攻防の真っただ中にいたと言われているブータ大帝はそう叫んだと伝えられている。
スモー・モスドが差し向けた応援が到着する前に、オーク軍は聖戦軍左翼を破った。そして、その勢いのまま、聖戦軍の背後に回りこんだのである。後を追おうとした聖戦軍の兵士たちは友軍に道を塞がれる格好になり、追撃を加えることが出来なかった。
そして、気がついた時、聖戦軍は前方を川に塞がれて、後方からオークの猛攻を受けていた。総指揮官の意図を外れ、聖戦軍の予備兵力がオーク軍に突撃を行っていたことで、後方には十分な兵力が無かった。
聖戦軍分軍団の総指揮官であったスモー・モスド大公は、逃げ惑う兵たちを叱りつけていたところをオーク兵に組み伏せられ命を落とした。勇猛果敢で知られたサンド王国王弟のあっけない最後であった。モスド大公の死はオーク軍に幸いであった。数で圧倒的に優っている聖戦軍が立ち直り、立ち向かってくる可能性を断ち切ったからである。
総大将を失った聖戦軍の多くは我先に逃げようとした。戦意を保っていたものもいたが、彼らのほとんどは逃げてくる味方に邪魔されて、戦うことが出来なかった。川の前で立ち往生していた兵たちは後ろから逃げてくる味方に川に押しやられ、溺死していった。オーク達は聖戦軍の退路を断つと、最後の攻勢をかけた。聖戦軍はその力をろくに発揮することも出来ずにオーク軍に打ちのめされ、川に溺れ、壊滅した。
聖戦軍側の死者は30000、対するオーク側の死者は100余りであったと伝えられている。負傷者は聖戦軍側が8000、オーク側が2000であった。オーク側の負傷者は、ほとんどが再起可能なものであったという。
まさに完勝であった。歴史を紐解いても、これほどの兵力差でありながら少数側が大勝利を収めた例は、そう多くはない。
多くの歴史家や戦史家が、圧倒的な兵力差にもかかわらず聖戦軍が大敗を喫した理由について様々な面から考察を行なっている。
聖戦軍側に敗北の理由を見出す者は、聖戦軍側の連戦による疲労が予想以上だった、矢などの幾つかの重要な武装を欠いていた聖戦軍は本来の戦いをすることが出来なかった、ライト王国とサンド王国の潜在的対立による軍内部の不和、などの理由をあげる。
逆に、オークの勝因からこの戦いの趨勢にアプローチする者は、日頃からサモーン公爵領で略奪行為を重ねていたオーク軍の強靭さや、戦士としてオークが持つ種族的な優位性について検討している。
また、ブータ大帝が晩年述べたように、若きシーザ将軍をはじめとする個々の勇猛な戦士の存在もオークの勝利に寄与したこと間違い無い。この戦いで生き残った聖戦軍側の騎士の一人は、凶暴な一体のオークが聖戦軍の陣形を崩した、と述べている。
しかし、何よりものこの戦いの勝敗に欠かせないものは、ブータ大帝が考案した作戦であるだろう。
川を背にすることで、逃亡の可能性を自ら潰し、浮き足立つ味方を決死の兵にする。さらに、自軍を包囲した敵軍の弱い箇所を突破し、敵軍を逆に川に追い詰めるという作戦、所謂背水の陣、を考案したのはブータ大帝であった。
モスド大公はこのブータ大帝の策謀の糸にまんまとかかった。彼は、異形の異種族を完全撃破して戦果を完璧なものにするという誘惑に勝てず、オークを決して逃がさないように布陣したのである。そのことによって、オークはモスド大公を破りうるだけの戦意を持つ事になったのである。
サモーン公爵軍が敗北してからの僅かな時間に、ブータ大帝は圧倒的な聖戦軍を打ち破るための作戦を考案し、これを実行に移したのである。その作戦立案の早さ、劣勢でありながら川を背にするという大胆な発想、そして僅かの時間でそれを実現する実行力は、ブータ大帝が戦術家としても極めて優れていたということを示している。
ブータ大帝が何処でこの作戦の着想を得たのかという疑問は、今日でも議論が絶えない。
多くの者は、ブータ大帝が独自に考案した、と考えている。当然のことながら、この当時、オークには戦術研究の文化は存在しなかった。しかし、ブータ大帝の観察力はサモーン公爵領での戦いを通してこの作戦の基礎となる発想や思考力を得た、と考えることはそれほど飛躍があるわけではない。
サモーン公爵領で公爵軍とオーク勢の間に繰り広げられた戦いは、規模こそ小さいものだったが、人間側は少しでも優位に立つために様々な戦術を考案し、実行した、と記録に残されている。幼少のブータ大帝はこれらの戦いから多くの物事を学んでいたのだろう。決死の兵の厄介さ、包囲することの優位性、罠のかけ方など数多くの物事をサモーン領における小競り合いから学んだ、とブータ大帝自身後に述べている。
だが、一部では彼がコーンビーフルの図書館でその作戦を知ったと主張する者もいる。すなわち、古の大将軍ハニハニバルやアレッサンド大王の戦術についての書から、ブータ大帝が背水の陣を知ったというのである。
実際、オークの傭兵団がコーンビーフルに滞在していた時、帝都の図書館に非常に興味を持っていたオークがいたという記録が残っている。しかし、この時、オークはとうとう立ち居入りを許可されなかった様であり、ブータ大帝がこの戦いの前にハニハニバルやアレッサンド大王の戦記を読んだという事実は存在しないと考えられる。
また、もし仮にブータ大帝がハニハニバルの戦術を事前に知っていたとしても、大帝の持っていた戦術の才能は否定できるものではない。実際、ハニハニバルの戦果にあやかろうと同様の作戦を採った将軍で、その戦術の本質を理解していなかったがために全滅の憂き目を見ることになった者は多い。
大歴史家ムカシ・コウサはエンヤ川の戦いを歴史の流れを大きく変えた戦いであると位置づけている。この戦いの結果こそが、ブータ帝国建国の種子となった、とは彼の言葉である。歴史に分岐点があるとするならば、この戦いこそがそれであったと言えるだろう。
また、ムカシ・コウサはこの戦いの勝敗について次のように述べている。
『聖戦軍側の総指揮官スモー・モスド大公は天才的とは言わないまでも、優秀な指揮官であった。しかし、エンヤ川の戦いにおいて彼は致命的な過ちをおかした。彼は、オーク軍を羊の群れとみなして戦ったのである。
それ故に、オーク軍の退路を完全に断つことが可能である場面において、それを行うことに躊躇を覚えなかった。相手が本当に羊であったならば、包囲されたことで萎縮して、容易にこれを打ち倒すことができただろう。
しかし、オークは決して従順な羊ではなかった。完全な包囲は、むしろオークという羊を反撃せざるを得ないほどに追い詰めてしまったのだ。そして、大公にとって何よりも不幸だったのが、この羊たちが獅子に率いられていたということである』
レーキシン著 ブータ帝国記より
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まったく世の中は理不尽なことだらけではないかと思う今日この頃です。ブータです。本日は皆様にこうして所見を述べる機会を得たことを大変喜ばしく思っております。
……ところで自分は誰に向かって話しているのでしょうか? いや、何か危険な予感がするので詮索は止めておきましょう。
さて、話は変わりますが、本日は皆様にお尋ねしたい事があります。正義についての話です。
ある組織が犯罪に関与したとして、その末端構成員までが犯罪者として扱われる、というのは正義といえるのでしょうか?
その構成員が犯罪に直接関わったのならともかく、何もしていないのに罰を受けるというのはいかがなものかと思うのです。ましてや、末端構成員には不正を止める決定権などないのです。
正義感に満ちあふれ、悪を断固として認めない皆様は、もしかして一罰百戒として、それは致し方ないと判断されるかもしれません。
刑罰には犯罪に対する抑止力という側面があります。故に、犯罪者側から見て罰は十分に重いものでなくてはいけません。
ならば、組織の不正はその構成員全員に負わせるべきだというのもある面から見たときには正しいでしょう。
しかしながら、私は、皆様に問いかけたい。
もし、皆様自身や、皆様の身内、知り合いが組織の末端構成員として組織の不正の罰を受ける事になった時、皆様はそれをよしとするのか、と。
それでも、泣いて馬謖を斬る様な正義感を持つ皆様はおっしゃるかもしれません。
末端構成員が不正を知りながら何もしないのは無為の罪であり、もし、不正を知らないのならばそれは無知の罪である、と。
しかし、末端構成員が不正の存在を知り、あちこちにその不正を訴えていた場合はどうなのでしょうか。
そこまでやって、不正が改善されなかったとして、それは末端構成員の責任になるのでしょうか。個人の力にはそれぞれ限界があるのです。
正義の鉄槌たらんとする皆様は、不正を行った組織に属していた事事態が罪である、と断罪するかもしれません。
ですが、その構成員にははじめから選択肢を与えられずに組織の末端構成員となったのです。
法の平等こそ正義であると考える皆様は当然ながら、生まれや、育ちによる差別を強く否定するものでありましょう。
また、確かに刑罰は犯罪に対する抑止力という側面を持ちますが、これは、犯罪を減らすためにあるのです。
そうである以上、正しい行いをした者には褒章が与えられなければいけません。
正義の体現者である皆様にとって大きな驚きかもしれませんが、ムチだけで正義を貫き通せる個人は非常に少ないのです。そもそも個人が正義に反する理由の多くは、他に選択肢が無いから、というものなのです。
正義はそれを擁護するものを守り、生かさなくてはいけないと私は思うのです。
そう、私、ブータは主張します。正義とは――
「おーい、ヨワイ、聞いてるか?」
「っ! なんだよ、ツヨイ。人がせっかく気持ちよく正義について妄想にふけっていたのに。というか、ヨワイっていうな!」
「そのセイギってなんだ」
「……ヤルときの色々な技のことだ。多分な」
「なんだ、まじめな顔をしてそんなことを考えるなんて、ヨワイはあんがいむっつりだな」
「まったくもって失礼なやつだ。というか、ブータと呼べ。そもそも、この名前はお前が決めたものだろうが」
ヨワイとブータ、どっちの名前も自分にとって満足なものではないが、まだしもブータの方がましと言えるのです。そもそも、この名前はこいつが勝手に決めたものだというのに!! 改名の名前選びの時、もう少し良い名前の候補もあったのに!!
「なんだ、まだ怒っているのか。しょうがないじゃないか。ヨワイの方が慣れてるし、呼びやすいし」
「っ!! これっぽっちも怒ってなんかいない」
だからといって、文明化された知識人である自分がそのような些事で怒ることなどありえないのです。
「ヨワイってけっこうしつこい奴だなあ」
隣で勘違いした愚か者がなにか呟いていますが、当然ながら真実をかすってもいません。ええ、断じて!!
さてさて、状況を説明することにいたしましょう。我々人豚は、サモーン公爵軍と一緒に正統コーンビフ帝国とかいう公爵の親玉である国の首都コーンビーフルに防衛軍的な何かとして入りました。
コーンビーフルは某異世界の某島国の某首都ほどでは無いですが、人が物凄く多く、巨大で美麗な建築物が数多く在りました。なんというか、歴史的な観光地に来たような気分でしたね。幾つかの石造りの巨大建築からはかつて存在した強大な権力機構と長い年月とが感じられました。
人口密度は某島国の寂れた地方都市といった感じでしょうか。この場合、どちらが異常なのかは疑問を覚えるところであります。
街路は整然と区画整備されており、良い感じでしたね。この世界にきてから初めて文明というものに接したという感覚を得ることが出来ました。人豚のバルバロイ的な社会にもようやく慣れてきた所ではありますが、やはり文明とは良いものですね。
本来の仕事である防衛兵としての視点から見ると、コーンビーフルはとてつもなく巨大な城壁に囲まれておりまして、防衛側としては頼もしい限りでした。
この城壁は100年以上をかけて築きあげられたという話を聞いたときは感動を覚えました。一世代を越える年月にわたって一つの事に取り組んだという事は知的生物の持つ素晴らしい能力の成果といえるでしょう。
伝統というものは時として尊ばれ、時として路傍の石程度の価値しか無いものと見なされるものです。ですが、こうした偉大な建築物を間近で見ると、伝統を守ろうと固執する人々の気持ちも分かる気がします。
それと同時に、これほど偉大な建築物が防衛のため、つまり他者を排除するために築かれたということに、自分は一種の諦観を覚えました。この世界でも知的生物は莫大な資金、労力、年月を武器、防具の為に費やさねばいけなかったのかと。まだ、武器に費やされるよりは、こうして帝都内を守るために費やされたほうがましなのでしょうが。
そんな、事を考えながらも、やはり防衛側としてはこの城壁は頼もしい限りです。
可能であるなら、できるだけ長くここに留まりたいと思いましたね。生き残れる可能性が高そうですし。
……結局、一週間もしない内に追い出される羽目になったのですが。
少し考えてみれば、文明化されていない人豚達が問題を起こさないわけがありません。豚でも分かることです。人豚なだけに。
さて、人豚たちはいつもの様に行動し、当然ながらコーンビーフルの人々は物凄く怒りました。当然ですね。盗み、たかり、強盗、婦女暴行、これだけやって人々が怒らなかったら、自分の正気を疑わざるを得ません。
特に有力貴族の令嬢を襲いかけたのがいけなかったようです。いや、ただでさえ色眼鏡を通して見られがちな新参者がいきなり有力者にケンカを売るとか、無謀を通りこうして勇者とすら言えそうです。……全然そんなものではないですが。勇者がするのはタンス泥棒くらいですからね。おそらく、件の人豚は何も考えていなかったのでしょう。人豚にはもう少し自重というものを学んで欲しいです。後先考えるくらいの思考力ももって欲しいですね。
とにかく、帝都の人々を怒らせた結果として、野蛮なオーク共を打ち殺せ、とまで言われてしまいました。自分といたしましては、異種族や人豚というステレオタイプな考え方で一括りにするのはよろしく無いと思うのですがね。ほら、自分のように清く正しい紳士もいるわけですし。
あ、それと、自分たちの種族の名前が今回明らかになりました。オークというのが、人間達が自分たちの種族を指して言う名前だそうです。これからは自分たちのことをオークと言うべきでしょうかね? まあ、オークという言葉には差別的なニュアンスがあるようなので、しばらくは人豚と呼びつづけることにいたしましょう。
いや、決して私心があるわけではないのですが、一文明人として読書でもしようとしたら図書館への立ち入りを禁止された、ということがありました。対応は正直最悪でした。蔵書を盗むつもりだとか、館内を汚そうとはこれっぽっちも思っていない自分に向かって、盗人のオークめ、などと暴言を向けられたのですよ!! 知識を広く知らしめる目的で設立されたはずの図書館でありながら、種族で一方的に差別するとは!! その上、言われもない暴言を吐かれるとか、正直私憤、じゃなく義憤を覚えざるを得ません!!
今なら、かのキング牧師や公民権運動に立ち上がった人々の気持ちが分かる気がします。
野蛮な種族!? 理性のない盗人!? そうやって一方的に決めつけて押さえつけているからこその結果として、そうであるというだけなのに!! 人の向上する機会を否定しておきながら、こちらが自分たちと比べて劣っているなどとのたまうのは深刻な想像力の欠如以外の何者でもないっ!! キリッ!!
……ふう。
落ち着きました。見苦しいところをお見せしたこと深くお詫び申し上げます。いや、理性的な文明人としても憤りを覚えざるを得ない扱いを受けたとはいえ、こうして感情をあらわにしてしまうとは、恥ずかしい限りです。
まあ、帝国は異端軍との戦いで一杯一杯ですし、問題には丁寧な応対よりも早急な対処が求められているということも理性的に理解できます。しかし、せっかくのこの世界についての知識を得る貴重な機会を奪われたことに、自分自身予想以上に腹立っていたようです。まあ、この世界の都を見ることができた、というだけで今回はよしとしましょう。
さて、現状について説明をしなくてはいけませんね。こと戦争において敵の情報は万金に値しますが、人を知り己を知れば百戦危うからず、という言葉の通り自分たちの現状把握もそれと同じくらい大切ですからね。
現在、自分たち人豚の集団とサモーン公爵軍とは、帝国の首都を離れてライスフィードとかいうところに向かっています。一応、隠密行動ということで日が暮れてから出立しました。もうそろそろ夜明けが近いと思いますね。行軍の名目としては食料などの確保ということになっています。
まあ、実際には人豚を追い出すためのものでしょうが。そもそも、聖戦軍が攻めてくるという話が出て聖戦軍がやって来るまで半年以上の時間があるのです。いくら無能な為政者であっても、首都に必要物資を備えておかないわけがありませんからね。
首都の中には大きな穀物倉庫が密集した場所がありましたし、保存場所も十分にあるはずです。残念ながら倉庫の中には入れませんでしたので、実際にどれほどの備蓄があるかは分かりません。しかし、土地面積から簡単に見積もると1年ほどは楽々籠城できるのではないか、と思います。
予想外に兵が集まりすぎてしまった為に物資が足りなくなった、などという事態も考えられないこともありません。しかし、そもそも帝都に居る兵は帝国の一部諸侯のみが出兵したものだそうです。帝国としては自国の隅々まで安全を保障する義務がある以上、首都のみを守るわけにはいかないという事なのでしょう。
つまり、論理的に考えると、食料が足りなくなる、というのは真実味が薄いのです。
「それにしても、夜に行動するのに明かりを使ったら簡単に見つかるんじゃないのかな」
ツヨイが珍しく弱気なことを言っています。自分としては日頃積もりに積もった何かを晴らすために、ここぞとばかりに囃し立てたいです。
がさつなツヨイに対して自分が慎重な意見を言うと、いつもこいつは、心配性だな、などとのたまうのです。心配なのはお前の危機意識だ、と言ってもこいつはまるで気にしません。
伏兵とか、罠とか、他の人豚の恨みを買うとか、戦利品の分配とか、物品管理とか、いくら文明化されていない人豚社会だとはいえ、色々と重要な物事はあるわけです。こういった利害関係は人豚たちの間で設けられる交渉の場で議論され、決定されます。
一応一族の期待の星であるツヨイにはもっとしっかりとしてもらわないと困るのです。人豚社会では戦いで活躍した者の発言権は強いですからね。だというのに、コイツはこうしたことは面倒だといってすぐに投げだしてしまうのです。しかも、自分たちのオサもツヨイと同様なのです!! マジふざけんな!
自分を含めた何人かが代わりに交渉しますが、交渉の場では、戦いで活躍していない自分たちは塵芥のように扱われています。正直投げ出したいですが、そうするとうちの部族は明日の食事をも満足に確保できなくなりかねません。
こいつの無頓着の尻拭いをひたすらにやっている自分の言うことに、ツヨイはもう少し耳を傾けるべきだと思うのですが。
そんなツヨイが珍しく、本当に珍しくこいつが慎重でまともな意見を言ったのです。何が起きるか分からない戦場では警戒しすぎるくらいが丁度良いですからね。この機に、わざとツヨイを囃し立てて、いつも自分がどんな理不尽さを味わっているかをこいつに教えてやれたらどんなにすっきりするでしょう。今回のもまず間違いなく、なんとなくそう思った、という程度の言葉でしょうし、論破することは容易いはずです。根拠や推論に基づいてこいつが何かを話せるとは端から期待していませんし。
ですが、戦いに関してこいつの勘はやたらと当たることが多く、下手に笑うと最終的には自分に跳ね返ってくることになりかねません。
下手に、自分がツヨイの言葉を否定して、自分が間違っていたなんてことになったら……!!
ほら見ろ、やっぱり俺の言う通りだっただろ、などと言われた日には、自分の堪忍袋の緒が切れること間違いありません。
それは、いつも自分が感じていることだというのに!! それにこいつのドヤ顔まで加わったら、怒りが人間界を越えて有頂天に達すること、一寸の疑いもないでしょう。
という訳で、魅力的ではあるのですが、この選択肢は選びません。主に精神安定の為に。
さて、真面目にツヨイの発言について考えてみましょう。つまり、ツヨイの発言が正しい場合どうなるかをシミュレートしてみるのです。
1.敵、なんかハッケーン
2.敵、城壁からのこのこ出てきた連中をぶちのめせ
3.こちら、うわあ、やられた
……これは、ひどい。いろんな意味で。というか、こちらのやられ方が不真面目極まりないですね
そもそも、敵がこちらを発見したからといって、いきなり攻撃を仕掛けるかは不明瞭ですし。守りが薄くなるだろう帝都を攻めるというのも選択肢としてはありでしょうからね。
それにこちらの戦力がかなりのものである以上、追撃にもそれなりの兵力が必要でしょう。少数の追撃だったら数の利でもって叩き潰せばいいだけです。こちらに匹敵するだけの兵を動かせば、帝都を囲む兵力が減ることになります。
遠征軍というものの例に漏れず、異端軍も兵站とかに苦しんでいるのでしょう。戦いでは勝っていながらどうしても攻めきれないのですね。
そのため、帝国と異端軍の間では和平交渉が行われていると聞きます。そして、帝都を囲む兵というのはそれだけで帝国側への交渉材料となっているはずです。帝国側の首脳部が帝都にいる以上、帝都を囲む兵は帝国にとって目に見える脅威でしょうからね。
まあ、確かに自分たちを打ち倒せば、より大きい交渉材料となるかもしれません。ただ、逆に失敗するようなことがあれば交渉に際して大きなマイナスとなること間違いないでしょう。帝都を包囲するまでに異端軍は十分に勝利してきたはずですから、メリット、デメリットの期待値は微妙な所ではないでしょうか。そもそも、自分たち人豚を異端軍が討ち取った場合、帝国は喜ぶことはあっても悲しむことはなさそうな気がします。
……逆に考えれば、自分たち人豚を異端軍に始末させる事が帝国側の目的である、という仮説も立てられてしまうのですね。これは迂闊に話せないことですが。横を行軍しているサモーン公爵軍としては人豚を打ち倒すことに疑問を覚えることすら無いでしょう。そう考えると、人豚の軍勢がエンヤ川と公爵軍に挟まれる形になっていることにも恣意的なものが感じられてしまいます。
まあ、あくまで仮説ですし、帝国が味方を裏切るような愚かな真似をしないと期待するしか無いですね。一応用心はしておきますが。……公爵軍がそのつもりだった場合、用心しても意味が無い気もしますが。最悪、ツヨイだけでも逃げられるようにしておくべきですかね。
異端軍がこちらに攻撃を仕掛けられるかは怪しいところでしょう。敵がこちらに攻撃を仕掛けるにはエンヤ川とかいう滅茶苦茶に広い川を渡らなければなりません。戦争にあたって元々あった橋は全て破壊されたそうですし。
これは、なかなか厳しいことではないかと思います。自分たちが出立したのは夜ですので、これを追撃しようとする場合、夜にこの大きな川を渡ることになります。
文明の明かりを当たり前のものとした皆様には分かりづらい事かもしれませんが、夜に行動するというのはそれだけで非常に大変なことなのです。月明かりがあれば、まだなんとかなります。ですが、今夜は新月でした。本当に真っ暗です。
ここまで暗いと、松明の明かりでもなければ迂闊に歩くことも出来ません。
自分たち人豚は山間部に住んでいますので、うっかり足を踏み外して転落、といういろんな意味で笑えない事になりかねないのです。その危険性は、隣にいるツヨイとかいう人豚が詳しく語ってくれるかもしれません。
そんな暗闇の中を異端軍は松明も付けずに渡河する? 小さな川ならともかく、最深部は人の背丈を越えるエンヤ側を? はっきり、言わせてもらいましょう。そんな馬鹿げたことが可能だとは思えません。明かりを灯したとしても厳しいでしょうし、その場合、当然ながらこちらが見逃すはずがありません。つまり、異端軍と戦いになるという可能性は低いのではないでしょうか。
つまり用心するべきは……
「見つかると言うよりも、他のことを心配したほうがいいかもしれない、と思う」
「ん、どういうことだ?」
自分の話にツヨイは耳を傾けた様子を見せた。
自分は声を落として言う。
「サモーン公爵軍は俺たちを倒すことに躊躇しないだろう。そして、俺たちは今、公爵軍と川に挟まれる形になっている」
自分の言葉にツヨイは僅かに驚いた様子を見せた。
「でも、アイツらが俺たちを倒そうとしているっていう話は前からあっただろう」
サモーン公爵が、人豚を雇おう、と訳の分からないことをのたまうた時、これは人間の罠だ、という意見が自分たち人豚の多数を占めました。結局公爵が武器や食料などの物資を提供したことで、人豚たちは疑問を覚えながらも従軍しています。
そして、今日まで、サモーン公爵は人豚に敵対行動を取っていません。しかし、今までそうだったからと言って、明日も同様であるという保証はないのです。むしろ、相手の油断を利用するというのが罠の定石ですので、自分たちはより一層警戒する必要があるでしょう。
「今まではあいつらにとっていい機会じゃなかっただけかもしれないだろう? そして、今の状況はあいつらにとって絶好のチャンスのはずだ」
「……分かった。一緒に来てくれ」
そう言うと、ツヨイは大股で歩き出しました。
タタカウモノとしてツヨイの名は人豚社会に知れ渡っています。若くありながら傑出して勇猛な人豚として、です。腕力と社会的地位が比例した人豚社会で、ツヨイは一介の名士の立場だと言えるでしょう。
そして、基本的に人豚の名士は軍団のリーダーにもアポ無しで面会することができるのです。
「あー、誰だ、お前らは?」
インペリアという名前の人豚がこの雇われ人豚軍団のリーダーです。黒ずんだ肌に潰れたアンパンのような顔立ち、ツヨイよりひとまわり大きい体格の持ち主です。その人豚が地面が響くような大声でツヨイに向かって尋ねました。
あ、一応言っておきますと、自分の隣にいるあんぽんたんは自分たちの部族内では最も大きいです。また、圧倒的な筋力と瞬発力を持ち、部族の中では最強であること間違いないでしょう。
普通、部族で最も強いものがオサになります。ですが、ツヨイの場合、歳が若いということと、本人が面倒臭がっているという理由で、まだオサにはなっていません。腕力ばっかり強くなったものの、面倒くさいことは一切やりたがらないなどとツヨイはどうしようもないですからね。
それでいて王国を創りたいなどと大層な夢ばっかり見ているこいつには、そろそろバチが当たってもいいと思いますね。自分はひたすら頑張っているというのに。いくら文句を言ってもあっちへふらふら、こっちへふらふらと本人は素知らぬ顔です。
「ナカオオアナのタタカウモノ、ツヨイだ」
鋭い眼光で睨めつけるインペリアに些かの怯みも見せることなくツヨイはそう答えました。こういう時ばっかり、というかこういう時だけしっかりするのです。このあんぽんたんは。
え? 睨まれて自分はビビってなんかいませんよ。ホントですよ。いや、まあ大きいということはそれだけで他者に圧力を加えますから、その迫力に動揺するということはごくごく普通だと思いますが。動物の世界では如何に自分を大きく見せるかということが重要なわけですし。
「ナカオオアナ? ふん、それでお前は一体何のようだ?」
「こいつ、ブータが重要な話がある」
「ちょっ!?」
おまっ、いきなり人に話を振るな!! ツヨイが懸念について話すものだと思っていた自分は迂闊にも醜態を晒してしまいました。
……そうですね。ツヨイなら自分で説明するよりも自分に説明させますね。そんなことも予測出来なかった自分の失敗です。
「いったいどいつが話があるってぇんだ。そのブータとやらは何処にいる?」
インペリアはわざとらしく首を左右に振りました。ブータという名の人豚が見つからないか、といった演技をしています。インペリアの取り巻きはゲラゲラ笑い、自分たちを囃したててきました。
どいつもこいつも失礼極まりありません。部族同士の利益対立は非常に多い為に、他の部族に対して冷たく応対することは多々ありますが、流石にこれは酷過ぎるでしょう。
ともかく、向こうは話を聞こうという意図が欠如している様子です。
これ以上ここにいても無駄でしょう。微妙に震えだしているツヨイをさっさと連れて帰らなくてはなりませんし。迂闊に流血沙汰を起こされると困りますからね。
「ツヨイとか言ったか? 今度はちゃんと眼に見えるやつを連れて来るんだな。それとも、図体ばかりでかいくせにアリンコしか連れてこられねえ軟弱者なのか」
一通り取り巻きが笑い終わるのを待って、インペリアはそう言った。
この黒アンパン野郎。畜生の分際でツヨイのことまで馬鹿にしやがった。
自分は衝動的にツヨイを押さえていた手を離し、拳を握りしめて振り返った。ニヤついた顔に嗜虐的な目を光らせて、インペリアがこちらを見ていた。
罠だ、と思ったときには時すでに遅く、ツヨイがインペリアに飛びかかっているところだった。全力で拳を握りしめたツヨイは易々とインペリアの巨体を殴り飛ばす。
周囲の笑い声が止んで、辺りは急に静かになった。
「おいおい、いきなり殴るなんてひどいじゃないか」
殴られた頬を手で抑え、目を不気味に輝かせて、インペリアがゆっくりと起き上がった。インペリアの取り巻き連中はいつでも飛びかかれるように、と身構えている。
「スマンな、ヨワイ。怒らせちまったようだ」
「……いいよ。向こうは始めからそのつもりだったみたいだし」
インペリアはツヨイから手を出させるように挑発を重ねていたのだろう。
軍団のリーダー、オオオサは名目上多くの部族を束ねる者であり、特定の部族にのみ利益を誘導したり、特定の部族を排除したり、といったことは許されない。無論これは名目上の話であり、実際はそれなりに利益誘導や対立する部族に不利益をもたらすといったことが存在する。
しかし、それがあからさまにすぎれば他部族の批判は免れない。
だが、相手側に落ち度があればその問題は解決する。今回の場合、将来国を創るであろうとは言え、現在は一介の名士に過ぎないツヨイがオオオサに殴りかかったのである。インペリアとしては煮るなり焼くなり好きなように料理できるだろう。
ツヨイは罠にかかったのだ。それ自体はツヨイや、それを止められなかった自分の落ち度である。インペリアのやり口は、腹立たしい、の一言だ。
「散々、挑発しておいてよくそんなことが言えたものだな!」
「あー、そんなところに小せいのがいたのか。小さすぎて見えなかったぜ。それにしても弱っちそうなやつだな」
「あ、そういえばこいつ、ヨワイって呼ばれてましたぜ」
黒アンパンの言葉に彼の取り巻きの一人が応えた。
「はっはっは、ヨワイか。そんな弱っちいのをひきつれて自分はツヨイとか名乗っていんのか? そんな小せいのと比べたら誰だって強いだろうなあ!」
「てっめえ!!」
挑発を重ねるアンパン野郎にツヨイが再び殴りかかった。ツヨイの拳とインペリアの拳が交差した。今度、殴り飛ばされたのはツヨイだった。インペリアは口元を嘲笑に歪ませた。
「おいおい、いくら何でもオオオサを殴っておいてただで済まそうなんて考えてないよな? お前ら、少しばかりこいつを、っ!?」
地に転がったツヨイを見下ろしながら余裕ぶって演説をしていたインペリアは不意に体を傾けた。
「はっ、どうだ、俺の拳は!!」
ツヨイが起き上がり叫んだ。おそらくインペリアはツヨイに殴られて脳震盪を起こしたのだろう。インペリアもその取り巻きも不意の事態に驚愕の表情を浮かべている。ツヨイの無双ぶりを普段から目の当たりにしている自分としては、ツヨイに殴られて意識を保っているというだけで驚きなのだが。と言うか、このあんぽんたんの怪力無双ぶり異常だと常々思う。
「……っ、てめぇ」
インペリアの声色から余裕の響きが消えた。
事態がここに及んでは、血を見ずには済まないだろう。まあ、この際だ、言いたいことは言っておこう。
「ざまあないな、インペリア。出る杭を打とうとして逆に打ち返されるとはな」
殺意すら含んだ眼光が自分を貫いた。真実ほど人を怒らせるものはないというが、完全にインペリアを激怒させてしまったようだ。どうしようもなくまずい事態であるはずなのに、何故か自分の口元は笑みを形作っていた。
まったく、自分としたことが、あんまりな応対ばかりしている。
隣のあんぽんたんの悪癖が伝染ったのだろう。そして、忌々しいことながらその事に若干の喜びを感じている自分はすでに手遅れの様だ。まったく、こいつと一緒にいると退屈とは無縁になること間違い無い。
いや、しかし、これだけは言っておこう。言わせてもらおう。
「警告をしにきただけだったのに、どうしてこうなった」
「あっ! そう言えばそうだったな!」
隣のアホがそんなことをほざいた。
おい、忘れていたのかよ。今度からはトリアタマと呼んでやろうか。
「警告だぁ?」
自分とあんぽんたんの漫才に余裕を取り戻したのかインペリアが嘲笑の響きと共にそう言った。
「そうだ、このヨワイがオレたちが今キケンだってことが分かったから、わざわざ伝えに来てやったんだぜ」
おい、隣のあんぽんたん、呼び方がヨワイに戻ってるぞ。
「危険? そんな弱っちい奴に何が分かるってんだ?」
「こいつはすっげえぞ。力はからっきしだが、頭はむちゃくちゃにいいんだぜ。てんさいってやつだな!」
おい、ツヨイ、やめろ。公衆の面前で普段はしないベタ褒めとか、恥ずかしい事この上ないわ!!
「はっ、その天才とやらはなにが分かったってんだ? アリンコが攻めてくるとかか?」
インペリアが馬鹿にしたようにそう尋ねた。
「呑気なものだな、もうすぐ人間の大軍が攻めてくるというのに!」
場の雰囲気に流されるように、自分はそう叫んだ。
ただ、この時、自分にはその言葉が本当かどうかはまるで確証がなかった。というより、都合よくそのような事態が起こるとは思ってもみなかった。さらに言えば、攻めてくるのはサモーン公爵軍だと思っていた。ただ、インペリアの顔を歪ませることが出来れば満足だった。
そして、叫んだ後、一種の高揚感に身を任せながらも、自分のことを過大評価して天才だと言ってくれたツヨイの信頼を裏切ってしまったことに、自分は若干後味の悪さを感じていた。我ながらどうかしている、と思う。だが、そもそも感情の動きは理性を裏切るものなのだろう。
「……バカバカしい、一体何処にそんな大軍がいるっていうんだ」
自分は黙って指さしたサモーン公爵軍のいる方向を。インペリアは表情に理解の色を浮かべた。
「サモーンの連中が危険だと言うのか? そんな事はもう聞きあきたわ!」
「誰がサモーン公爵だって言った?」
ほとんど無意識の内に自分はインペリアにそう答えていた。自分自身の結論としては攻めてくる可能性が最も高いのはサモーン公爵軍だと思っていた。だが、それではインペリアの想像力の範疇の答えにしかならない。どうせ、事実でなくとも構わないのだ。ならば、精々大ぼらでも吹いてやる。そう思っていた。
「何を言ってやがる。他の人間の軍が何処にいるってんだ?」
「サモーン公爵軍が戦っている相手がいるだろう?」
「!!」
その一瞬、確かにインペリアの顔は驚愕に染まった。そこには不意を突かれた驚きと恐怖が確かに浮かんでいたように見えた。
「……バカバカしい!! あの連中がどうやってここまで来れるってんだ! このでかい川が見えねえっていうのか!?」
その通りだ、と思いながらも自分は確かに笑っていた。
そんなことに脅威を覚えるのは余程の臆病者か、想像力豊かな者だけだ。凡俗の思考しか持たないインペリアには理解出来ない事に違いない。そして、彼らはツヨイの夢も現実味のない夢想として一笑に付すだろう。だからこそ、ツヨイの隣に立つのは自分なのだ。
「おっ、おい! あれは!?」
「え?」
だから、サモーン公爵軍のいる方向に黒い甲冑の大軍――異端軍――が見えた時、一番驚いたのは自分だったに違いない。サモーン公爵軍の青い軍旗を異端軍が飲み込もうとしていた。異端軍の兵力は1万以上であること間違い無いだろう。
あんな黒ずくめで暗闇の中をよくぞ渡河、行軍できたものだな、と何処か他人事の様に思いながら。
朝焼けの大地を暗闇に染めるような異端軍の雄叫びが人豚たちの耳に届いた。
「ば、ばかな!?」
誰かが叫んだ。叫ばずにはいられない、そんな状況だ。いや、本当にどうしたら良いのかもサッパリだ。
数の差でおそらくサモーン公爵軍に異端軍側が勝利するだろう。その後、彼らがどう動くのか。
こちらに向かって来られたら、敗走するしか無い。ここに至ってはツヨイだけでも逃がす算段をしておいたほうがいいかもしれない。
「ヨワ、じゃなかった、ブータ」
「あ、ああ、ツヨイ、なんとか――」
逃げる方策を考えないと、話しかけたツヨイに対して、自分はそう答えるつもりだった。しかし、ツヨイは自分の言葉を途中で遮った。
「連中に勝つための作戦を頼むぜ」
「逃げ、……え?」
自分は愕然としてツヨイの顔を凝視した。こいつは何を言っているんだ。
見るとインペリア達が自分を凝視している。
「っ……勝つ方法があるのか?」
一瞬、言いよどんだが、決心したのかインペリアはそう尋ねた。
不可能だ、自分がそう答える前にやはりツヨイが勝手に答えた。
「当たり前だろう、なんたって、ヨワ、ブータはこの事を予測していたんだぜ! もちろん、敵を倒すための方法も考えているに決まっているだろ! な! ヨワイ!」
ブータと呼べ、と言い返す余裕も与えない、ツヨイの見事な無茶振りだった。
いやいや、無理に決まっているだろ、と答えられたらどんなにか楽だっただろうか。しかし、鬼気迫る目で自分を凝視するインペリア達の前でそんなことを言うことはできそうにない。もし、言ってしまったら連中の刃は自分に向けられるのではないか、と感じられるほどであったのだ。
「……不可能とは言わないが、現実的に実行できるとは思えない。何しろ、失敗すれば全滅するしか無いのだから。俺たち全員がそれに納得するとは思わないな」
とりあえず、適当に誤魔化すことにする。困難だと言って逃げる方策について早急に考えたい。それなのに、インペリアは間髪を置くことなく尋ねてきた。
「御託はいい!! どういう方法なんだ!?」
「あの場所で川を背にして布陣する」
とりあえず背水の陣っぽい作戦を提案することにする。受け入れられないだろうが、むちゃくちゃだと言われてもそれなりに反論出来るだけの理があるからである。
「それでは、逃げ場がないではないか!」
「逃げ場をなくすための作戦だ」
インペリアの取り巻きの叫びに自分はそう返した。間を置かずに続ける。
「大軍を前にして勝利するには俺たち全員が必死に戦わなければいけない。ここで戦えば、戦闘から逃げ出すものが多くいる筈だ。だが、逃げ場がなければ全員が必死に戦わざるをえない」
「ただ全滅するだけだ! そんなものが策だなどと言えるか!」
全くもって妥当な反論が返ってきた。他も同調している様子だ。まあ、ともあれこれで逃走手段についての建設的な話ができるだろう。
「ヨワイ、それで勝てるんだな?」
だが、余計なことにツヨイがそんなことを言ってきた。まさか、この期に及んで無理だなどと言えるわけがない。
「……勝とう、とすればそれしか無いと思う。だけど、実際に勝つことは限りなく難しいはずだ」
背水の陣なんてもので勝てるのは一部の天才だけだ。そんな不可能に賭けるより、ここは急いで退却したほうが良いに決まっている。
「ああ、なるほど。こいつらじゃ無理ってことだな」
おい。
おい、ツヨイ。せっかく丸く収まりそうなのに余計なことばっかり言ってんじゃねえ!!
そう叫べたらどんなに幸せだろうか。人間の軍を前にして仲間割れが起こりそうな状況である。
ここはインペリアが大人の対応を見せてくることを祈るしか無い。
が、現実は非情である。
「てめぇ」
インペリアがツヨイを睨みつける。ツヨイは莫迦にした様子で手を振ってみせた。
「ヨワイが言っただろ。あの連中に勝てる作戦はあるけど、それは、難しいって。臆病なお前らじゃ確かに無理だな」
大剣が大地に振り下ろされた。クレーター状に土を抉り、石と鉄が激しくぶつかり合う音が聞こえた。
震えるほどに大剣をきつく握りしめたインペリアの形相には憤怒の怒りが見て取れた。
「……いいだろう。そこのチビの言うとおりにしてやる」
いやいや、その寛容さは要らない。自分たち、というかツヨイの非礼を見逃して退却の手段を考えるような建設的な思考が必要だと思うのだが。
え? なんでみんな動いているのかな。そんなに死にたいのかな。訳が分からないよ。
自分が混乱の極みにある間に人豚たちは自分の指さした場所に向かって動き始めていた。
「心配すんな。お前はどうすれば勝てるかを教えてくれた。なら俺たちが勝ってみせるさ」
隣のツヨイがそう言って自分を励まそうとしていた。コイツは……
確かに、今更心配した所でしょうがない。こうなてしまった以上、自分も腹をくくるしかないだろう。
隣のあんぽんたんはアホだが戦いに関しては優秀だ。案外、なんとかなるかもしれない、そう思うことにした。そうでもしないと、恐怖に押しつぶされそうな自分の心が耐えられそうになかったから。
「まったく、ツヨイはいつも自分勝手だ。言っておくが簡単に勝てる戦いじゃないぞ」
「俺が勝ってみせるさ。俺とお前が組めばどんな相手だって倒せるさ」
「なんとかなるといいんだけどね」
まあ、隣のあんぽんたんに、取り乱してみっともないところは見せられません。精々頑張るとしましょう。
先程は取り乱してしまい、申し訳ありません。ようやく落ち着きました。
そう、自分は今この上なく落ち着いています。人豚達が川に背後を阻まれ、前方には数万人ほどはいるかと思われる異端軍がいたとしても、自分は完璧に冷静さを保っていします。
予め、こうなることが予測できていたために覚悟ができているからでしょう。そう、覚悟ができている限り、人は幸せだと誰かが言っていました。……違いましたけ?
とは言え、大多数の人豚はそうではありません。呆然とした様相を見せています。ここは一発喝入れが必要でしょう。
とりあえず、自分はインペリアにその旨を述べました。彼の人豚はものすごい形相で自分を睨んできましたが、自分はこの上なく冷静です。なんというか、物質的な束縛から解放されたゆえの冷静さというやつでしょうか。
ともかく、今、インペリアは人豚に向かって演説をしています。
「すでに逃げ場はない!! 生き残りたければ死ぬ気で戦え!! 死ぬ気で戦え!!」
優雅さや格調高さとは無縁の演説ですが、それなりに効果があるようです。呆然としていた人豚が覚悟を決めたように武器を握りしめています。
……なんとなくインペリアやその周囲にいる自分たちに怒り狂ったような視線が向けられているような気がしますが、自分は冷静そのものです。流石に、人間との戦いを目前に仲間割れとかは無いでしょうし、問題ないでしょう。
どの道死ぬなら、と味方に向けて暴発するより人間たちと戦ったほうがまだしも生存の可能性がありますからね。
人間の軍団は、自分たちを囲むように布陣しています。鼠一匹足りとも逃さないという完璧な包囲網です。なんとか途中で逃走できないか思案していた自分としてもその考えを捨てざるを得ません。
生き残るには戦って勝つしか無い。
おそらく、他の人豚もそう思うでしょう。
人間たちの布陣が完了すると、最初に騎兵が突撃してきました。横一列に並び、槍をまっすぐに構える様は彼らの練度の高さを感じさせました。一騎の騎兵ではなく、集団の騎兵というものがあるとすれば正にこれなのでしょう。
おそらく、いつもだったら人豚たちは一目散に逃げ出したでしょう。しかし、今回は事情が違います。ブータ、インペリアを始めとした人豚の勇猛なタタカウモノ達が最前列に並び、その後ろで他の人豚たちも武器を握りしめています。何故ならば勝たなければ彼らは死ぬしか無いからです。状況は絶望そのものですが、人豚たちは最後の一兵まで戦うでしょう。
因みに、今回、自分も含めてほとんどの人豚は槍を持っています。この豊かな武装は、サモーン公爵の後援によって成り立ちました。人豚軍団の活躍はサモーン公爵とご覧のスポンサーの提供でお送りします。
人間と人豚、武器のリーチはさほど変わらず、軍としての練度は人間が上という状況です。人豚の戦意は鬼気迫るものがあります。一方人間たちは、戦意が劣っているという訳ではないですが、連戦で多少は疲れているはずです。
――人間たちは失敗したのではないか。
ふと、そんな考えが浮かびました。
人豚たちの移動は素早いものとはいえませんでした。その期に攻撃を仕掛けていれば、退路が残っていたために人豚たちは戦うよりも逃亡しようとしたでしょう。そうすれば、彼らは易々と自分たちを討ち取れたはずです。
しかし、完璧な戦果を求めるあまりに人間たちは戦いを非常に困難なものにしてしまいました。
人間側の犯した誤りに上手く付け込むことが出来ればあるいは、と思うのです。
いえ、思い込みたいのですね。こんな所で終わってしまうわけにはいかないのですから。
自分たちは死ぬわけにはいかないのです。ツヨイの描いた荒唐無稽な夢を現実のものとするまでは。
「オオオオオオオオォォォ!!!」
「アアアアアアアアァァァ!!!」
人豚と人間の雄叫びが他の全ての音を消し去った。次の瞬間、人豚と人間は激突した。至る所で金属と金属が、血と血が、雄叫びと雄叫びが激しくぶつかり火花を散らした。
自分も必死で槍を突き、振り回した。槍の一突きがたまたま騎兵の軍馬の腹に当たった。軍馬は苦痛に身を捩り、彼もしくは彼女に乗っていた騎士はバランスを崩して転倒した。必死に立ち上がろうとする騎士の体を自分も含めた幾つもの槍が打ち据え、貫いた。鮮血が自分の顔を濡らす。鉄の匂いを感じた。
インペリアが手に持った大剣を振るうのが見えた。彼の桁外れの肩力は易々と騎士とその馬を打ち倒した。インペリアが雄叫びをあげた。つられるように他の人豚も吶喊の声をあげた。
人豚たちは人間の騎兵を完全に止めることに成功していた。むしろ、突撃の勢いを殺され、動けない騎兵を槍でもって葬った。死んでいった騎兵の顔には驚愕の表情があった。彼らは人豚が突撃を受け止められるとは思ってもみなかったのであろう。それでも、多くの騎兵は刃に倒れることなく戦い続けた。
その時、異端軍が大きく動いた。波が押し寄せるように兵士が槍を構えて突撃してきた。これもまた整然と列を組んでいる。対する人豚は第一波との戦いで足並みが乱れている。
不味い。
そう思うが、どうすることもできない。眼の前には騎兵がいるのだ。
「バラけるな!! 固まれ!!」
誰かがそう叫んだ。
誰かが後ろに下がり、それに追従するように他の人豚も後退し、結果として人豚達の分断は避けられた。しかし、人豚側はますます川に追い詰められた。
忌々しいことに、人間たちの戦いぶりは見事であった。厳しい訓練の賜であろう兵同士の見事な連携が、敵軍の集団としての戦闘能力を凄まじく高めている。そこには、人豚が死ぬ気で戦った所で太刀打ち出来ないだけの差がある。
何処かでこの包囲を突破しなければ、全滅するしか無い。人豚たちは一人残らずここで死ぬだろう。
その確信にも近い予想に自分は恐怖を感じた。
気がつけば、自分は走り出していた。まだしも他と比べて布陣が薄いように見える異端軍の左翼側に向かってである。
「ヨワイ!!」
誰かが叫んだ気がした。誰かが自分を引きとめようと掴んだ。
「ここを倒せば勝てる!!」
無我夢中で手を振り払うと、自分も何かを叫んだ。包囲網を突破できれば死ぬしか無いのだから、ここで行くしかない。
「むちゃしやがって!」
いつの間にか自分の横をツヨイが走っていた。その姿を見た時、体全身に力が漲った。
「ツヨイ!」
「こいつらを倒せばいいんだな!!」
ツヨイの全身の筋肉が盛り上がった。次の瞬間、横薙ぎに振るわれたツヨイの槍が前方の兵士をまとめて薙ぎ払った。ツヨイの槍をまともに受けた人間は、体をくの字に曲げて自分の身長よりも高く吹き飛ばされた。相変わらず、ツヨイの力は桁外れているということを槍の一振りは明確にした。
目の前の人間たちの目に恐怖の色が浮かんだ。
「オオオオオオオォォォ!!!」
後ろから吶喊の声が聞こえた。
自分はひたすらに剣を振るっていた。槍はいつの間にか落としていたようだ。
しかし、必死に責め立てても人間の陣形は崩れる様子を見せなかった。幾人もが刃に倒れていったが、残った人間は隊列を組み果敢に反撃を試みてきた。左方向からは人間の本体が回りこんでくる様子が見えた。
「倒せ!!」
誰かが叫んだ。
「ここを倒せば勝てるぞ!!」
また誰かが叫んだ。
そして、人間の主力が向きを変え人豚達に襲いかかる、その前に、とうとう目の前の陣形の一箇所に穴が開いた。
「続けぇ!!」
黒い人豚が叫び突撃していった。他の人豚も我先にと突破を目指す。
人間の左翼は今や決壊した堤防のごときだった。初めは小さな穴であったのが、そこに殺到した人豚のために周囲を抉られ、たちまちの内に陣形を分断した。自分とツヨイも完全に崩壊した包囲網を走り抜けた。
包囲網を破った人豚は反転して向きを変えると異端軍に襲いかかった。後ろから攻撃される事になるとは夢にも思っていなかった異端軍は、満足な反撃も出来ずに慌てて逃げようとしていた。
何処かでひときわ大きい歓声と怒号があがった。その叫び声に人間たちは大きく動揺した様子を見せた。
「攻めろ!!」
誰かが叫んだ。人豚達が自然と吶喊の声をあげた。自分も叫びながら剣を構えて突撃していた。
とうとう人間たちは脇目もふらずに逃げ始めた。いや、逃げようとした。
しかし、目の前にいる味方に道を阻まれて、人豚の剣や槍に命を落としていった。あちらこちらで味方同士であるはずの人間がぶつかり合っていた。我先に逃げようとする人間たちは転倒した味方を踏み殺し、尚も戦おうとする人間を弾き飛ばした。そして、鎧を着たままた川に入り、溺れていった。
気がつくと、大地を埋め尽くさんばかりであった異端軍は何処にもいなかった。足元には、地面を半ば埋め尽くすように人間だったものが転がっている。たまたま頭の残っている死体の一つが自分を睨みつける格好で転がっている。多くの人間を飲み込んだはずの大河は赤く染まっていた。血の匂いが辺りを満たしている。生々しい生と死の様な匂いだたった。
「オオオオオオオオオォォォ!!!」
黒い人豚、インペリアが勝どきの声をあげた。
「「「オオオオオオオオオォォォ!!!」」」
他の人豚がそれに続く。気がつけば自分もまた、隣のツヨイと共に叫んでいた。
勝った!!
生き残ったのだ!!
自分は何も考えずにただ叫んでいた。
未だかつて経験したことのない高揚感と疲労感、ようやく感覚が戻り始めた全身の痛覚、それだけが自分の中にあった。