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パンを食べて泣いたことがありますか? ~追放された宮廷料理長と、味を忘れた世界~  作者: 歩人


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第9話: 小さな食卓

 穂が、垂れていた。


 播種はしゅから三月。七粒の芽から分蘖ぶんげつを繰り返した黄金麦は、百本を超える茎に増え、一本一本の穂が重みで頭を下げている。朝露を纏った金色の穂先が、風のたびに波のように揺れる。

 小さな畑だった。石垣に囲まれた十歩四方の区画。王宮の大農場と比べれば塵のようなものだ。

 だがアネリーゼには、この畑がこの世界で最も美しく見えた。


「——刈り入れだ」


 ハンスが畑の端に立っていた。杖を地面に一度、短く突いた。

 あの日——荷物を戸口に並べられた日以来、ハンスはアネリーゼに直接話しかけなくなっていた。だが畑には毎朝来ていた。黄金麦の育ちを黙って見ている。水をやっている姿をリーナが何度か目撃している。

 今日、初めて——畑の中に入ってきた。


「穂が十分に垂れとる。明日が良い」


「はい」


 短い会話だった。だがそれはハンスにとっての許しの形だと、アネリーゼにはわかった。




 翌朝、畑に人が集まった。


 エルマーが鎌を二本持ってきた。カタリナ婆さんがむしろを広げた。ペーター爺さんが竿を立てた。ラウラが子供たちを連れて水を運んできた。

 誰も何も言わなかった。ただ、来た。

 あの集会の夜——「何も見とらん」とハンスが言い、エルマーが「一人の畑じゃない」と言った夜から、この畑は村の一角に根を下ろしたのだ。


 アネリーゼが最初の一株を刈った。

 鎌の刃が茎を断つ音。ざく、と小気味よい。穂の重さが手に伝わる。三千粒。この小さな畑から、およそ三千粒の黄金麦が獲れる計算だ。

 エルマーが残りを刈り始めた。無駄のない動きで茎を束ね、筵の上に並べていく。農作業の腕が確かなのは知っていた。あの節くれだった大きな手が、穂を傷つけないよう丁寧に束ねている。

 リーナが穂から零れた粒を拾い集めている。一粒も逃さない。


 脱穀は筵の上で棒を打ちつけ、籾殻もみがらを風で飛ばす原始的な方法だった。魔法の脱穀機などない。ここにはないし、使うつもりもない。

 夕方までかかった。筵の上に、両手に収まるほどの黄金色の粒が残った。


「少ないね……」リーナが呟いた。


「来年はこの十倍を播けます」アネリーゼは答えた。「この半分を種に残して——残り半分を粉にしましょう」




 石臼を回した。


 二つの石を重ね、上の石を手で回すと、隙間に入れた粒が擦り潰される。力のいる作業だ。アネリーゼの腕では半刻で限界が来た。エルマーと交代しながら、少しずつ粉にしていく。

 最初のひとすくいの粉が手のひらに落ちた瞬間、指が止まった。


 色が違う。

 野生麦の粗い灰色の粉とも、王都の精白された真白い粉とも違う。淡い黄金色を帯びた、きめ細かい粉だった。

 鼻を近づける。


 ——甘い。


 穀物の甘さの奥に、ナッツのような香ばしさと微かな花の芳香が混じっている。古文書の記述が蘇った。


 ——黄金麦の粉は、焼かずとも、粉の時点で甘い。


 千年前の料理人は、この粉でパンを焼いていた。




 仕込みの日。


 小屋の作業台に三つのものを並べた。黄金麦の粉。井戸水。そして——堆肥の温もりの中で育ち続けた天然酵母。瓶の蓋を開けると、果実のような芳香が立ちのぼった。

 粉に水を加え、酵母を混ぜる。手でねる。最初はべたべたと指にまとわりつく塊が、捏ねるうちに変わっていく。粘りが出る。伸びるようになる。叩きつけると跳ね返ってくる。

 グルテンのネットワークだ。小麦粉の中のタンパク質が水と結びつき、網目状の構造を作る。この網が、酵母の吐き出す二酸化炭素を閉じ込める。だから生地は膨らむ。


 布で覆い、窓辺に置いた。


 一日目——わずかに膨らむ。酵母が粉の糖を食べ始めている。

 二日目——倍に膨らんだ。酸味のある良い匂い。

 三日目の朝——三倍近くに膨らんでいた。果実のような芳香。

 あの最初のパンの時は、酵母がまだ弱くて倍にしか膨らまなかった。今は違う。堆肥の温もりで育った酵母は力を増し、三日で生地を三倍に押し上げた。


 焼く時が来た。




 石窯に火を入れた。


 薪を燃やし、石壁に十分な熱を蓄えさせる。灰を掻き出し、窯の底を湿らせた布で拭く。膨らんだ生地の表面に包丁で十字の切れ目——クープを入れた。蒸気の逃げ道を作り、均一に膨らませるためだ。

 生地を窯に入れ、石の扉を閉める。


 五分。窯の隙間から蒸気が噴き出した。酵母が最後の呼吸で二酸化炭素を吐き出し、生地をもう一段膨らませている。この温度では酵母は生きられない。だがその最後の力が、パンに命を刻む。


 十分。匂いが変わった。

 甘く、香ばしく、深い匂い。生地の表面が百五十度を超えた時、アミノ酸と糖が反応する。メイラード反応メイラードはんのう。数百種の風味化合物が生まれる瞬間だ。ナッツの香り。キャラメルの甘さ。トーストの香ばしさ——焼きたてのパンの匂いの正体は、この化学反応が織りなす交響曲だった。即時調理魔法では、この反応は起こらない。時間と温度がなければ、生まれない味がある。


 二十分が経つ頃には、匂いが畑を越えて広がっていた。




 窯を開けた。


 掌に乗るほどの小さなパンが二つ。生地が少なかったから、大きなものは焼けなかった。

 だが表面は美しい焦げ色に輝いていた。クープが開き、中から白い生地が覗いている。叩くと、こんこんと軽い音。酵母の呼吸が作った無数の気泡が詰まっている証だ。

 最初のパンとは違う。あの時は不格好で、膨らみも不十分だった。三月を経て、酵母は力を蓄え、アネリーゼの手は覚えた。同じ材料で、同じ窯で焼いたのに——パンは成長していた。


 割った。

 ぱりっ、と皮が砕ける音。中から湯気が立ち上る。気泡の大きさがばらばらで、光が当たると蜂の巣のように見えた。不均一。不揃い。それは生きた酵母が作った、自然の造形だった。


 窯の前に、人が集まっていた。


 リーナが一番前にいた。目を丸くして匂いを嗅いでいる。カタリナ婆さんが目を細めている。ペーター爺さんが鼻をひくひくさせている。ラウラが子供の手を引いて、じっと窯を見つめている。

 ハンスが杖をつきながら来た。何も言わない。だが、来た。

 エルマーは——いつの間にか、アネリーゼのすぐ隣に立っていた。腕を組んで、窯の方を見ている。




 食卓は、畑の端に即席で作った。


 筵を広げ、脱穀に使った板を渡して台にした。カタリナ婆さんが自分の畑の野菜を持ってきた。ラウラが魔法竈まほうかまどで温めた芋を皿に盛ってきた。ペーター爺さんが井戸水を汲んできた。

 豪華な食卓ではない。焼きたてのパン二つと、ありあわせの野菜と芋。

 だがアネリーゼの目には、宮廷の晩餐より美しく映った。


 パンをちぎった。小さく。集まった人の数だけ。

 最初のひとかけらをリーナに差し出した。


「食べてみて」


 リーナは受け取った。小さな指で掴み、口に入れた。

 噛んだ。


 少女の目が——見開かれた。


「……甘い」


 もう一度噛んだ。


「酸っぱい。甘い。苦い。それから——名前がわからない味がいくつも」


 リーナの目に涙が溜まった。なぜ泣いているのか、本人にもわかっていないようだった。ただ、噛むたびに表情が変わる。


「これが——一色じゃない味?」


「ええ。それが本当のパンです」


 カタリナ婆さんは、ひとかけらを口に入れて目を閉じた。ゆっくりと顎を動かし、やがて深く息を吐いた。泣かなかった。ただ、長い間目を閉じていた。

 ペーター爺さんは黙って空を見上げた。何度も何度も咀嚼そしゃくしながら、首を振った。信じられない、というように。

 ラウラは子供に自分のかけらを分けてやり、子供の顔を覗き込んだ。子供は目をぱちぱちさせてから、笑った。


 ハンスは最後にひとかけらを受け取った。皺だらけの手で口に運び、噛んだ。二度。三度。四度。


「……婆さんの婆さんが言うとった」


 声が低かった。


「昔のパンは泣けるほど美味かったと。わしは嘘だと思うとった」


 杖を地面に突いた。一度。強く。


「嘘じゃなかった。——美味い」


 アネリーゼは返事ができなかった。声を出したら崩れそうだった。

 代わりに心の中で呟いた。


 ——お母様。焼けたよ。みんなで、食べてるよ。




 誰が言い出したわけでもなく、食卓は続いた。


 パンは小さかった。一人に行き渡るかけらはひと口分もない。だがその周りに、人が座った。カタリナ婆さんが漬物を出し、ラウラが焼き芋を割り、ペーター爺さんが干した肉を削ってきた。どれも魔法食品で味は一色だったが、焼きたてのパンのかけらと一緒に口に入れると——不思議と、味が変わって感じられた。

 パンの余韻が、他の食べ物にまで染みていく。


 リーナが石垣に腰かけ、足をぶらぶらさせながら芋をかじっている。ハンスがその隣で杖を傍らに置き、珍しく背中を伸ばしていた。


 エルマーは石垣の低い部分に座っていた。アネリーゼが腰を下ろした場所の、すぐ隣だった。

 意識してそこに座ったのか、たまたまだったのか。本人は畑を見つめたまま、芋を齧っている。

 肩が近い。袖が触れそうな距離。だがそこに無理はなかった。収穫を一緒にやり、石臼を交代で回し、窯に火を入れるのを見守った。一日の仕事を共にした者同士の、自然な距離だった。


「……あんたのパン」


 エルマーが言った。畑を見たまま。


「なんだか知らんが、うちの親父が作ってた塩漬けの肉を思い出した。子供の頃の味だ」


 それだけ言って、また黙った。鼻の頭を指先で擦っている。


「——ありがとうございます。それは、とても嬉しいことです」


 アネリーゼは横を見なかった。見たら、この穏やかな距離が壊れてしまいそうだった。

 代わりに、畑を見た。刈り取ったあとの株が並ぶ、小さな区画。ここから始まった。灰色の汚染土を掘り返し、黒い土を出し、種を蒔いた。芽が出て、穂が実り、今日——パンになった。


 風が吹いた。刈り株の間を抜ける、冷たい秋の風。

 だがこの石垣の内側は温かかった。人がいるから温かい。


 誰かと焼いたパンは、一人で焼いたパンと違う。

 いや——正確には、誰かと分かち合ったパンが、違うのだ。同じ窯で焼いた同じパンでも、一人で食べるのと、隣に人がいるのとでは、味が変わる。

 なぜだろう。理由はわからない。科学では説明できない。古文書にも書いていない。

 だが——舌は知っている。




 日が傾いた。


 村人たちが三々五々帰り始めた。カタリナ婆さんが空の皿を抱え、ペーター爺さんが竿を畳み、ラウラが眠りかけた子供を背負って歩いていく。

 リーナが最後まで残っていた。パンのかけらを一つ、布に包んで大事そうに握っている。


「おねえちゃん」


「なに?」


「また焼いてね。今度はもっと大きいの」


「ええ。来年の種から——もっとたくさん焼きます」


 リーナは笑って、走っていった。ハンスの家の方へ。

 畑に残ったのは、アネリーゼとエルマーだけだった。


 窯の残り火が、ちりちりと微かな音を立てている。空が茜色に染まり、畑の刈り株が長い影を落としている。


「エルマーさん」


「ん」


「来年は、果実酢も作ってみたいと思っています」


 エルマーが怪訝けげんな顔をした。


「酢?」


「ええ。母の薬草手帳に、果実を壺に入れて放置すると酒になり、さらに時が経つと酢になると書いてあるの。酵母だけじゃない——この世界にはまだ、見えない命がたくさんいるはずです」


 アネリーゼは村外れの丘を見た。花もつけず実もならない、歪んだ古木が数本立っている。昔は果物の木だったとハンスが言っていた。あの木が何の実をつけていたのか。もしかしたら——


「……そうか」


 エルマーは立ち上がり、腰の土を払った。


「あんたは止まらんな」


「止まれません。パンは始まりにすぎないから」


 エルマーは鼻の頭を擦った。何か言いかけて——やめた。代わりに片手を上げて、背を向けた。


「じゃあな。明日、かまどの石を持ってくる。約束だからな」


 大股の足音が遠ざかる。夕焼けの中を歩く赤毛の影が、畑の向こうに消えていった。




 一人になった畑で、アネリーゼは窯の前に座った。


 テーブルの上にパンの切れ端が残っていた。食べるのが惜しくてリーナがわざと残したものだ。口に入れると、焼きたてとは味が変わっていた。外皮の食感は柔らかくなり、代わりに生地の味がより深く、丸くなっている。

 発酵パンは焼いた後も変わり続ける。酵母が生前に生み出した有機酸やアミノ酸が、時間とともに新しい化合物を作る。一日目と二日目で違う味がする。魔法パンは最初の一口から最後のひと欠片まで同じ味だが、このパンは——まだ生きている。


 母の薬草手帳を開いた。擦り切れた表紙。あの追放の朝に持ち出した、唯一の私物。


 ——薬草も、思いもよらない組み合わせから効能が生まれる。


 お母様。私は今日、パンを焼きました。

 不格好で、小さくて、一人分にもならないパンです。でも——みんなで食べました。

 隣に人がいました。


 手帳を閉じた。


 その時——村の入口の方から、車輪の軋む音が聞こえた。

 馬車だ。管理官の黒い馬車ではない。もっと軽い音。荷物を積んだ、行商人の荷馬車の音だった。

 目を凝らすと、夕暮れの薄闇の中に、ほろをかけた小さな荷馬車が停まったのが見えた。御者台から降りた影が一つ、鼻をひくひくさせながら辺りを見回している。


 パンの匂いは——まだ、村に漂っていた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


メイラード反応は1912年にフランスの科学者ルイ=カミーユ・メイラールが発見した化学反応です。150℃以上でアミノ酸と糖が反応すると、数百種類の新しい化合物が生まれる。焼きたてのパンの匂い、コーヒーの香ばしさ、ステーキの焦げ目——全部これ。名前は小難しいですが、要するに「焦げ目がつくと美味くなる理由」です。


リーナの「噛むたびに変わる」を書いた時、手が止まりました。一色の味しか知らなかった子供が初めて多色の味に出会う瞬間を、どう書けばこの子の驚きに追いつけるだろう。結局、名前のつけられない味を「名前がわからない味」とそのまま書きました。名前がないことが、この世界の食文化が失ったものの大きさを物語っている気がして。


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