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パンを食べて泣いたことがありますか? ~追放された宮廷料理長と、味を忘れた世界~  作者: 歩人


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第60話: 種を蒔く

 大饗宴の翌朝。


 静かだ。


 石窯の前に立っている。一人で。まだ誰も起きていない。朝の光が東の空を淡い橙色に染めている。


 石窯の煙突。レンガ。鉄の扉。——追放の翌日にエルマーと二人で建てた窯。何百回もパンを焼いた窯。昨夜の大饗宴の余韻が残っている。テーブルには片付け残しの皿と杯。ガストンの花束が、まだ中央に飾られている。


 手に種がある。


 黄金麦の種。旅で集めた各地の種。砂漠のハーブ。火山の薬草。港町の海辺の野菜。——そして酵母の壺。各地で起こしたスターター。フィールデンで四年間育ててきた酵母。マティアスの融合酵母。


 全てを持っている。




 手紙がある。


 昨夜、客人たちが帰り際に置いていった手紙。——ファーリスは口頭で伝えてくれた。「砂漠に帰ったら、若い世代に発酵乳の製法を教え始める。お前に教わった温度管理を使って」。


 トビアスは手紙を書いていた。達筆な老人の字。


『魚醤の壺を十個仕込んだ。半年後に味見においで。——港の空気で作った魚醤は、儂の自信作だ。若い漁師たちに仕込み方を教え始めた。受け継がれるだろう』


 ガストンは——字が苦手だったらしい。ルッツに代筆を頼んでいた。


『山を下りた。街で飯屋を始める。名前はまだ決めてない。燻製はうまく焼ける。パンはまだ下手だ。教えてくれ。——ガストン(代筆: ルッツ。ガストンさん、すごく照れてたっす)』


 マティアスは手紙ではなく、融合酵母の培養メモを残していた。几帳面な字。魔法学院仕込みの書体。最後の行だけ——筆圧が変わっている。


『王都に融合料理学校を設立する。初代学長は俺だ。——嫌だとは言わせない。お前にも講師を頼む。年に一度、発酵の集中講義を。場所は王都の旧ギルド会館を改装する。グスタフが全面協力する。——お前のパンを待っている生徒が、もういる』




 畑に行った。


 昨日の畑。エルマーと二人で耕した畑。畝がきれいに並んでいる。実験区画には昨日蒔いた種が土の下に眠っている。


 まだ何も芽が出ていない。当たり前だ。昨日蒔いたばかりだ。


 だが——土の下で、何かが動いている。種が水を吸い、殻が割れ、根が伸び始めている。微生物が種の周りに集まり、共生の準備をしている。見えない。だが——確実に。


 しゃがんだ。土に手を置いた。


 温かい。朝日に照らされた土。微生物が呼吸する土。生きている土。




 母の声が聞こえた。


 遠くから。——いつもと同じように。


 十二歳の記憶。母の薬草園。母の手。——小さくて、節くれだった手。薬草を摘む手。煎じる手。娘の頬に触れる手。


「あなたの舌は宝物よ」


 母の遺言。


 十二歳のアネリーゼには——わからなかった。なぜ舌が宝物なのか。宝物は宝石や金貨や魔法の杖のはずだった。舌は——ただの体の一部。


 今はわかる。


 この舌は——味の中にある命の声を聴くための舌だ。酵母が仕事をしている音。乳酸菌が歌っている声。カビが静かに変容している息遣い。微生物が食を変えていく、その声を——聴くための。


 母は知っていた。平民の薬草師。「見えない命が、薬草を変えるのよ」。微生物という言葉を知らなくても、見えない命の存在を知っていた。


 涙が一滴、土に落ちた。


「……お母様」


 声に出した。


「私の舌は——宝物でした」


 十二歳の喪失が、二十四歳の肯定に変わった。




 足音が聞こえた。


 エルマーが来た。鍬を持って。朝の光の中で、琥珀色の目がこちらを見ている。


「種を蒔くか」


「はい」


 並んで立った。畑の端に。黄金麦の種を手に持って。


 蒔いた。一粒ずつ。土に落とし、指で軽く覆い、手で押さえる。エルマーが同じことをしている。隣で。同じリズムで。


 ルッツが駆けてきた。


「師匠! 俺にも蒔かせてくださいっす!」


「どうぞ」


 ルッツが種を受け取った。慎重に蒔いている。——いつもは雑だが、種だけは丁寧に扱った。


 マルガレーテが来た。白い指で種を拾い、土に置いた。魔法使いの指。昨日は菌糸に触れた指。今日は種に触れている。


 リーナが走ってきた。「私もやるー!」。ハンスが杖をつきながら後ろを歩いている。


「リーナ。一粒ずつ。丁寧にな」


「わかったー!」


 六人が畑に立っている。種を蒔いている。朝の光の中で。




 スターター文化という概念がある。


 サワードウの種——スターター——は、正しく世話をすれば何百年でも生き続ける。種菌を毎日少量の粉と水で養い、冷暗所で保管し、定期的にリフレッシュする。


 サンフランシスコのブーダン・ベーカリーという店のスターターは一八四九年から続いている。百七十年以上。ゴールドラッシュの時代にフランス人パン職人が持ち込んだ酵母が、代々の職人に受け継がれ、今も毎日パンを膨らませている。


 種菌は「生きた遺産」だ。金や宝石と違い、放っておけば死ぬ。毎日の手入れが必要。だが手入れを続ける限り——永遠に生き続ける。


 アネリーゼが各地に分けたスターターも、そうなるだろう。ファーリスの砂漠で。トビアスの港で。ガストンの飯屋で。マティアスの学校で。それぞれの土地の空気を吸い、それぞれの微生物と混ざり合い、それぞれの味に変わっていく。


 同じ母から生まれた種菌が——百の土地で、百の味になる。




 種を蒔き終えた。


 水をやった。エルマーが井戸から水を汲み、ルッツが運び、アネリーゼが畝に沿って注いだ。マルガレーテが魔法で水の温度を整えた。リーナは「もっとかけるー!」と言ってハンスに止められた。「やりすぎだ」。


 畑を見渡した。何も芽は出ていない。土があるだけ。だが——全てがここにある。


 種。微生物。水。太陽。そして——時間。


 時間だけが、種を芽に変え、芽を茎に変え、茎を穂に変え、穂を実に変える。時間だけが、粉を生地に変え、生地をパンに変え、パンを食卓の記憶に変える。




 石窯に戻った。


 パン生地を仕込んだ。今日の分ではない。三日後に焼く分。いつものサワードウ。黄金麦の粉。フィールデンの水。翡翠の塩。四年間育ててきた酵母。


「師匠。今日は何を作るんすか」


 ルッツが横に立っている。記録帳を構えて。


「まずは、パン生地を仕込みましょう。今日の分は——三日後に焼けますから」


 大饗宴が終わっても、明日も明後日もパンを焼く。今日仕込んだ生地は三日後に膨らみ、窯で焼かれ、食卓に並ぶ。その日にまた新しい生地を仕込む。——終わりはない。菌は生きている限り、味を変え続ける。


「じゃあ俺も仕込むっす。昨日のパン、師匠に褒められたから——もっとうまくなりたいっす」


「いいですね。——粉の計量から」


「了解っす!」




 午後。石窯の前で。


 マルガレーテが座っている。指先に魔法の光を灯しながら、酵母の壺を眺めている。


「お姉様。この酵母——光を当てると、動きが変わる?」


「変わるかもしれません。微生物は光にも反応します」


「じゃあ——魔法の光でも?」


「試してみましょう。それが融合です」


 マルガレーテの顔が——輝いた。研究者の顔。母の血。姉と同じ血。




 夕方。畑が見える丘の上に立った。


 種を蒔いた畑。何も芽が出ていない畑。だが——土の下で種と菌が動いている畑。


 エルマーが隣に来た。いつものように。


 二人の影が長く伸びている。夕日が畑を照らし、黄金麦の穂が金色に光っている。風が吹いて、穂が波のように揺れている。


「エルマーさん」


「何だ」


「来年の春——」


「ああ」


「——また、蒔きましょう」


「ああ」


 短い言葉。だが——そこに全てがある。「来年」。「また」。「一緒に」。未来がある。


 二人の視線が畑の向こう、地平線に向かった。


 風が吹いた。黄金麦が揺れた。夕日が沈んでいく。




 石窯の煙突から煙が上がっている。


 パン生地が発酵を始めている。目に見えない酵母が、粉と水の中で静かに働いている。二酸化炭素を出し、生地を膨らませ、味を作り、香りを生んでいる。


 三日後——パンが焼ける。


 一週間後——種が芽を出す。


 一ヶ月後——芽が伸びて葉をつける。


 一年後——黄金麦の穂が実る。各地のスターターがそれぞれの土地の味に変わる。融合料理学校が最初の生徒を迎える。ガストンの飯屋が開店する。ファーリスが砂漠の若者に発酵乳を教え終えている。


 時間は——味方だ。


 時間こそが、最高の調味料。




 この世界で最も美しい一皿は、まだ生まれていない。




(了)



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