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パンを食べて泣いたことがありますか? ~追放された宮廷料理長と、味を忘れた世界~  作者: 歩人


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第6話: 畑の約束

 夕暮れの畑で、アネリーゼは膝をついていた。


 黄金麦の芽が七本。種を播いてから十日。細い茎は膝丈にまで伸び、金色がかった葉が夕風に揺れている。日ごとに背丈を増すこの子たちを見ていると、胸の奥が温かくなる。

 だが、七本では足りない。

 もっと広い区画が要る。黄金麦を本格的に育てるには、堆肥をき込んだうねを新たに作り、輪作の計画を立てなければならない。


 アネリーゼは立ち上がり、畑の周囲を歩き始めた。エルマーの畑と隣接する南側の一角に目をつけた。日当たりがいい。水はけも良さそうだ。堆肥の山からも近い。

 ここなら——


「何してる」


 振り向くと、エルマーが鍬を肩に担いで立っていた。赤毛が夕陽に透けて、燃えるような色をしている。


「エルマーさん。少し、この辺りの土を見せていただきたくて」


「この辺り、って」


 エルマーの目が、アネリーゼの足元を見た。彼女が立っている場所——それはエルマーの畑との境界線から、五歩ほど踏み込んだ位置だった。


「あんた、今どこに立ってるかわかってるか」


 声の温度が下がった。

 アネリーゼは足元を見た。確かに、石で区切られた境界を越えている。荒れ地とエルマーの畑の間に敷かれた古い石の列——それを踏んでいた。


「あ……すみません。つい、土の色を確認したくて——」


「俺の畑だ」


 短い一言だった。

 エルマーは鍬を地面に突き立てた。がつん、と鈍い音が畑に響いた。


「黄金麦を増やしたいんだろ。あんたが毎朝畑の周りをうろうろしてるのは知ってる。だが——」


 琥珀色の目が、真っ直ぐにアネリーゼを射た。


「実験場じゃないんだ、ここは」


 低い声だった。怒鳴っているのではない。むしろ静かだ。だからこそ、重い。


「俺が手で耕してる畑だ。親父が残した土地で——唯一、魔法農法に染まってない。あんたが勝手に使っていい土地じゃない」




 アネリーゼは黙った。

 反論の言葉が、出てこなかった。


 彼の言い分は正しい。

 この畑はエルマーが毎日、一人で鍬を振って耕している。魔法農法に頼らず、自分の手だけで守り続けている土地だ。そこに——外から来た人間が、「使わせてください」と頭を下げることすらせず、勝手に踏み込んだ。


「……おっしゃる通りです」


 声が掠れた。


「申し訳ありませんでした。あなたの畑に、無断で入りました」


 エルマーは何も言わなかった。鍬を引き抜き、肩に担ぎ直した。


「あんたの荒れ地は向こうだろう。そっちでやれ」


 背を向けて歩き出す。

 夕陽がエルマーの広い背中を赤く染めていた。袖を肘まで捲った腕は日焼けで黒く、筋が浮いている。

 あの背中が——怒っている、とアネリーゼは思った。だが、それだけではない気がした。




 小屋に戻った。

 窓辺の瓶を確認する。酵母は健在だ。表面がゆっくり上下して、呼吸を繰り返している。黄金麦の芽も順調に伸びている。

 だが、アネリーゼの気持ちは沈んでいた。


 エルマーが怒ったのは当然だ。だが、その怒りの底にあるものが——単なる縄張り意識とは違う気がした。


 あの日の会話を思い出す。

 「俺の親父は——この村で一番広い畑を持ってた」

 「領主は畑を没収した」

 「親父は日雇いに落ちて、酒に溺れて、俺が十五の時に死んだ」


 外から来た人間が、効率化の名の下に土地を変えた。

 父親の畑を奪ったのは、領主の「魔法農法のほうが効率的だ」という一言だった。

 ——あんたは外から来て、この土地を変えようとしている。それは——親父の畑を取り上げた領主と、何が違うんだ。


 答えたのは自分だ。「違わないかもしれません」と。

 あの時、エルマーは「まあ、見てりゃわかるか」と言って去った。だが今日、彼は怒った。

 「見てた」からだ。アネリーゼが境界を越えたのを。


 自分は——無自覚に、彼の聖域を踏み荒らそうとしていた。


 母の薬草手帳を開く。何度も読み返したページに、指を滑らせた。


 ——信頼は料理と同じ。急がせたら、味が出ない。


 母の字。薬草師として人々の信頼を得るまでの日々を綴った、走り書きのような一文。


「……お母様の言う通りですわ」


 アネリーゼは手帳を閉じ、瓶の酵母を見つめた。明日、きちんと謝ろう。そして——荒れ地の中で、自分の力だけでやれる範囲を考え直そう。




 翌朝、日の出とともに畑に向かった。


 霧が薄く立ちこめる中、黄金麦の芽を確認しようとして——足が止まった。


 畑の中に、誰かがいる。


 赤毛の青年が、鍬を振っていた。

 だが、エルマーが耕しているのは自分の畑ではなかった。荒れ地の一角——アネリーゼの畑だ。


 しかも、ただ耕しているのではない。

 石を並べて、区画を切っていた。


 大きめの石を等間隔に並べ、畝と通路を区切る境界線を作っている。すでに三本の畝の枠ができあがり、四本目に取りかかっているところだった。掘り返された土は黒い——深層の生きた土を表面に出す作業も、同時にやっている。


「……エルマーさん?」


 声をかけると、エルマーは振り向かなかった。鍬を振る手を止めず、背を向けたまま言った。


「あんたの荒れ地だろ。あんたの好きに使え」


「でも、これは——」


「黄金麦用だ」


 ぶっきらぼうな声。


「七本の芽が育って、種が増えたら植え替えがいるだろ。畝を四本作っておく。輪作ってやつを、あんたはやりたいはずだ」


 アネリーゼは息を呑んだ。

 輪作。——あの日、堆肥の作り方を説明した時に一度だけ口にした言葉だ。「同じ作物を同じ場所で作り続けると土が痩せるから、区画を分けて順番に作る」と。

 聞いていたのだ。一度きりの、何気ない説明を。


「それと」


 エルマーが四本目の畝の端に石を置いた。ようやく振り向く。額に汗が光っている。袖を捲った腕に、土がついていた。

 鼻の頭を——指の背で、くいっ、と擦った。


「窯だ」


「え?」


「あんたが石窯を作りたがってるのは知ってる。リーナがべらべら喋ってたからな。——あそこの石垣の脇に場所を空けた。石は俺が運ぶ」


 アネリーゼは言葉を探した。昨日あれだけ怒っていた人が、今朝は黙って畝を切り、石窯の場所まで確保している。

 意味がわからなかった。いや——わからないふりをしているだけかもしれない。


「エルマーさん。昨日のこと、本当に申し訳——」


「使っていい」


 遮るように言った。


「ただし、結果を出せ」


 もう一度、鼻の頭を擦る。視線がアネリーゼから逸れ、畑の向こうに投げられた。朝霧の中で、金色がかった黄金麦の芽が揺れている。


「結果も出さねえうちから、俺の畑にまではみ出すな。——まず、あんたの土地で証明しろ」




 リーナが走ってきたのは、その直後だった。


「おねえちゃん! エルマー! 大変、大変!」


 息を切らせて畑に飛び込んできた栗色の髪の少女は、エルマーが掘った畝の端を指さした。


「石! 石に何か書いてある!」


「何?」


 エルマーが近づいた。四本目の畝を掘っている時に脇に除けた、大きな平たい石。膝ほどの高さで、表面が苔に覆われている。

 リーナが苔を剥がしていた。朝露で湿った苔の下から、灰色の石肌が現れる。


「ほら、ここ! 文字みたいなの!」


 アネリーゼはしゃがみ込んだ。

 確かに、石の表面に彫り込みがある。風化して浅くなっているが、人の手で刻まれた線だとわかった。

 古代文字だ。

 種の墓場の門柱に刻まれていたものと、同じ書体。


「読めるのか」エルマーが背後から覗き込んだ。彼の影がアネリーゼの肩に落ちた。


「……少しだけ。古文書で見た書体です」


 指先で溝をなぞる。風化が激しく、判読できない箇所もあるが——いくつかの文字は読み取れた。


「『この——に——かつて——百の窯が——あった』」


「百の窯?」リーナが目を丸くした。


「ここには——かつて百の窯があった、と……読めます。たぶん」


 百の窯。

 この土地に。この荒れ地の下に、かつて百もの窯が並んでいた。

 千年前。古代農園文明の全盛期。種の墓場の段々畑で育てた食材を加工するために、百の窯が火を噴いていた。パンを焼く窯、陶器を焼く窯、食材を乾燥させる窯——。


「エルマーさん」


「なんだ」


「この石は、この土地に窯があった証拠です。千年前——魔法が全てを覆い尽くす前の時代に、ここでは人の手で食べ物が作られていた」


 エルマーは石の文字を見下ろした。長い沈黙があった。

 風が吹いて、黄金麦の芽が一斉に揺れた。エルマーの赤毛も、同じ風に乱れた。


「……百の窯、か」


 低い声で呟いた。


「親父は知ってたのかな。この土地が——そういう場所だったってこと」


「お父様は、何か言い伝えを?」


「いや。ただ——」


 エルマーは畑の端を見渡した。彼が毎日、一人で鍬を振ってきた土地。魔法農法に頼らず、手で耕し続けてきた場所。


「親父が一つだけ教えてくれたことがある。『この塩で肉を漬けて、三日待て。そうすると冬も食える』——魔法じゃない保存の仕方だ。親父はどこでそれを覚えたんだろうな」


 それは——発酵こそしていないが、塩蔵保存の知識だった。魔法以前の保存技術の断片。エルマーの父が誰かから受け継ぎ、息子に伝えた——たった一つの、途切れかけた糸。


「エルマーさん。お父様の知識は——きっと、この土地の記憶の一部です」


 エルマーは答えなかった。鍬を持ち直し、五本目の畝に取りかかった。


「窯の石、選んでおくから」


 それだけ言って、土を掘り始めた。

 鼻の頭を一度擦ってから。




 午前中いっぱいかけて、エルマーは六本の畝を完成させた。

 アネリーゼとリーナは堆肥を運び、畝に鋤き込んだ。黒い土と堆肥が混ざり、指で触ると弾力のある、生きた土壌になっていく。


「おねえちゃん。エルマー、昨日怒ってたよね?」


 堆肥を運ぶ途中、リーナが小声で言った。


「ええ。私が悪かったの」


「でも今日、朝からずっとおねえちゃんの畑を耕してたよ。私が来た時にはもう二本目だった。まだ暗いうちから始めてたんだと思う」


 アネリーゼは返事に詰まった。

 暗いうちから。日の出前に。昨日の夕方に怒った人間が、翌朝の暗いうちから、怒った相手のために畝を切っている。


「不思議な人ですね」


「不思議っていうか——おじいちゃんが言ってた。エルマーは口が下手なだけだって」


 リーナはあっさりとそう言って、堆肥を畝にひっくり返した。




 日が傾く頃、ハンスが杖をつきながらやってきた。


 畑の変わりようを見て、皺だらけの額に眉を寄せた。整然と並ぶ六本の畝。黒い土に堆肥が鋤き込まれ、境界の石が等間隔に並ぶ。荒れ地の端には、石窯を建てるための空き地まで確保されている。


「……エルマーがやったのか」


「はい」


「あの朝の早い小僧め。頼んだのか?」


「いいえ。朝、畑に来たら——もう始めていらっしゃいました」


 ハンスは短く鼻を鳴らした。何か言いたげだったが、言わなかった。代わりに石の文字を見た。アネリーゼが苔を落として乾かしておいた、あの平たい石だ。


「百の窯、か」


「読めるのですか、村長さん」


「読めるわけがなかろう。リーナが大騒ぎして走っていったから、あらまし聞いた」


 ハンスは杖で地面を叩いた。いつもの癖だ。


「婆さんの婆さんが言っとった。この土地には眠っているものがあると。——種だけじゃなかったのかもしれんな」


 それだけ言って、背を向けた。数歩歩いてから、振り返らずに付け加えた。


「あの小僧に、無理させるなよ」




 夜。


 アネリーゼは窓辺に座り、酵母の瓶を膝に載せていた。布を外すと、甘酸っぱい匂いがふわりと立ちのぼる。表面が静かに上下している。呼吸。千年ぶりに目覚めた命の、穏やかな呼吸。


 今日の出来事を、頭の中で反芻していた。


 エルマーの怒り。——「実験場じゃないんだ、ここは」

 エルマーの行動。——暗いうちから畝を切り、石窯の場所を空けてくれた。

 エルマーの言葉。——「使っていい。ただし結果を出せ」


 言葉と行動が、ちぐはぐだ。

 いや——ちぐはぐなのではない。たぶん、彼の中では一貫している。

 境界を越えるな。だが、お前の場所ではやれ。結果を出せ。俺は——認めてやる用意がある。


 あの鼻を擦る仕草を思い出した。ぶっきらぼうな声で「窯だ」と言いながら、鼻の頭を指の背でくいっと擦る。何かを言い淀む時の——照れているような、考え込んでいるような——癖。


 「親父が一つだけ教えてくれたことがある」


 塩蔵保存の知識。魔法以前の技術の、最後の一滴。エルマーの父から息子へ、たった一つだけ受け継がれた記憶。

 あの石に刻まれた「百の窯」と、エルマーの父の塩漬けの知恵は——同じ根っこから生えた、別々の枝なのかもしれない。


 アネリーゼは瓶を窓辺に戻した。

 明日から、この畝で黄金麦の苗を植え替える。酵母を育て続ける。堆肥を熟成させる。そして——石窯を建てる。エルマーが選んでくれる石で。


 結果を出す。

 この土地で。この手で。


 瓶の中の酵母が、一つ大きな泡を吐いた。


 目を閉じると、百の窯が火を噴く光景が浮かんだ。千年前のこの土地。煙が立ちのぼり、パンの匂いが丘を越えて広がっていく。何十人もの料理人が、手で生地を捏ね、窯に火をくべ、焼き上がったパンを笑いながら分け合っている。


 ——この土地にはかつて百の窯があった。


 ならば、まず一つ。

 たった一つの窯から、始めればいい。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


実はこの話、最初はアネリーゼが一人で黙々とパンを焼く予定でした。でもリーナに生地を触らせるシーンを書き始めたら、教えることで自分も発見する——という流れが生まれて、計画を全部書き換えました。


グルテンの「目に見えない網が、目に見えない息を捕まえる」というリーナの台詞は、科学の教科書には絶対に載らない表現です。でも、たぶんこれが一番正確な説明だと思う。子供に教えるって、自分の理解を試されることだなと改めて感じた一話でした。


エルマーの「窯、もうちょっとましなの作るわ」は、彼なりの最大級の感想です。書いていて、不器用な人間の愛情表現ってこういうものだよなと。


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