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パンを食べて泣いたことがありますか? ~追放された宮廷料理長と、味を忘れた世界~  作者: 歩人


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第54話: 融合宣言

 羊皮紙を前にして、三人が座っている。


 広場の端の長テーブル。アネリーゼ。マティアス。エルマー。


「五箇条でいい。長い宣言は誰も読まない」


 マティアスが言った。筆を持っている。灰青色の目が鋭い。


「第一条。大魔法炉の出力について」


「現在の制限レベルを維持する。出力55。微生物と魔法の共存範囲」


「第二条。魔法料理と発酵料理の関係」


「対立するものではなく、共存する。どちらも食文化の柱」


「第三条は——融合料理の位置づけですね」


 アネリーゼが口を開いた。


「融合料理を新たな食文化の中心とする。魔法の精密制御と微生物の力を組み合わせた料理」


「第四条。教育」


「各地に発酵技術の教育拠点を設ける。魔法料理人ギルドが運営の中核を担う」


 グスタフが頷くだろうか。——頷くと信じる。あの男はパンを食べた。味で納得した男だ。


「第五条」


 エルマーが口を開いた。珍しく自分から。


「辺境と王都の食材流通を——双方向にする」


「双方向?」


「今まで王都は辺境から食材を吸い上げるだけだった。逆をやる。王都の融合料理の技術を辺境に。辺境の在来種を王都に」


 マティアスが少し驚いた顔をした。——エルマーが制度の話をするとは。


「いい。書く」




 宣言文を清書した。


 マティアスの字は整っている。魔法学院で鍛えられた筆跡。格式ばった書体で五条を並べた。


 末尾に——署名欄を作った。


「何人で署名する」


「三人で十分です」


 アネリーゼが言った。


「発酵の代表として私。魔法の代表としてマティアスさん。農民の代表としてエルマーさん。——三つの立場から」


「ハンスも入れたい」


 エルマーが言った。


「辺境の年寄りとして。あの人は三百年前の発酵の記憶を持っている最後の世代の孫だ」


「ハンスさんに聞いてみましょう」




 ハンスは白い髭を撫でながら、宣言文を読んだ。


「……わしの婆さんが言っておったことが、こうして紙に書かれる日が来るとは」


「署名していただけますか」


「もちろんじゃ。わしの代わりに婆さんの名も書きたいくらいじゃが——」


「ハンスさんの名前で十分です。あなたがここにいることが、お婆様の意志の証です」


 ハンスの目が潤んだ。——泣かなかった。白い髭を撫でて、しっかりとした字で名前を書いた。


 リーナが横から覗いている。「私も書きたい!」。——まだ早い。だが気持ちはありがたい。


「リーナさんの名前は、次の宣言で。あなたが大人になった時に」


「約束ですよ!」




 謁見の間。


 二度目の宮廷。だが前回とは空気が違う。前回は進言——「出力を下げてくれ」という請願。今回は宣言——「こう生きる」という表明。


 国王ヴィルヘルム四世が玉座にいる。左に大臣たち。右に魔法推進派の代表。グスタフも——前回と同じ場所に立っている。だが表情が違う。前回は政治の顔。今回は——少しだけ柔らかい。


「アネリーゼ・フォン・ヴァイスガルテン。前へ」


 前に出た。膝を折った。


「陛下。本日は進言ではなく、宣言をお持ちしました」


「宣言?」


「はい。魔法と発酵の共存に関する五箇条の宣言です。署名者は四名——発酵料理人アネリーゼ、魔法料理人マティアス・アッシェンブレンナー、農民エルマー、辺境の長老ハンス」




 宣言を読み上げた。


 一条ずつ。声が広間に響く。


「第一条。大魔法炉の出力は現在の制限レベルを維持し、微生物と魔法の共存を保障する」


「第二条。魔法料理と発酵料理は対立するものではなく、この国の食文化を支える二つの柱として共存する」


「第三条。融合料理——魔法の精密制御と微生物の力を組み合わせた料理を、新たな食文化の中心とする」


「第四条。各地に発酵技術の教育拠点を設け、魔法料理人ギルドが運営の中核を担う」


「第五条。辺境と王都の食材流通を双方向とし、在来種の保全と融合技術の普及を両立させる」


 読み終えた。——静寂。




 大臣の一人が口を開いた。


「第四条。ギルドが教育を担うとあるが——ギルド長の同意は得ているのか」


 グスタフが前に出た。


「得ている。——というより、俺から申し出た」


 大臣が目を見開いた。魔法料理人ギルドの長が、発酵教育を推進する側に立っている。


「融合パンを食った。食えばわかる。魔法だけでは出せない味がある。——だが魔法なしでも出せない。俺たちの腕が——もっと広い場所で使える」


 グスタフの声は低く、確信に満ちていた。あの夜、初めて融合パンを食べた男が。「捨てなくていいのか」と震えていた男が。


「使い方を変えるだけだ。——俺はもう、捨てなくていいと知っている」




 国王が立ち上がった。


 二度目。国王が立つのは——重大な決定の時だけ。


「問おう。この宣言が実行された後、市民の食卓はどうなる」


「変わります、陛下」


 アネリーゼが答えた。


「魔法の甘味合成は戻りません。味覚増幅も弱いままです。パンの味は今までと違います。保存も完全ではありません」


「それでよいのか」


「はい。——代わりに、噛むと甘みが出るパンが生まれます。時間をかけて熟成したチーズが並びます。漬物が食卓に戻ります。味噌が、酢が、燻製が。三百年間この国になかった味が——戻ります」


「余は先日、炊き出しのパンを食べた」


 国王の声が静かになった。


「魔法のパンとは違った。甘くなかった。だが——噛んでいると、何かが出てきた。小麦の味だと言われた。五十年以上パンを食べてきたが、小麦の味を知らなかった。——それは、恥ずかしいことだ」


 謁見の間が——息を飲んだ。国王が「恥ずかしい」と言った。


「余は、二度と味のない食卓に戻りたくない」


 短い言葉。——だが決定的な。


「宣言を承認する。五箇条の通り——実行せよ」




 署名の場が設けられた。


 羊皮紙が国王の前に広げられた。


 アネリーゼが最初に署名した。筆跡は——母に似ている。丸みのある、でもしっかりした字。


 マティアスが二番目。整った字。魔法学院で鍛えられた書体。


 ハンスが三番目。老人の字だが力強い。


 エルマーが——最後。


 筆を持つ手が、少しだけ震えていた。字が得意ではない。鍬を握る手が、筆を握っている。


 ゆっくりと、丁寧に。一画ずつ。エルマーという四文字を。


 鍬だこのある指。インクの跡が指に残った。——手のモチーフ。パンをこねる手。土を掘る手。袖を掴んだ手。手を繋いだ手。そして今——名前を書く手。


 書き終えた。


「……下手だな」


「読めます。十分です」




 宮廷を出た。


 廊下で——マルガレーテが待っていた。


「お姉様。見ていました。——すごかった」


「すごくはないですよ。五条を読み上げただけです」


「でも——お姉様の声が、広間に響いた時。私——泣きそうになりました」


「泣いていいんですよ」


「泣きませんでした。お姉様も泣かなかったから」


 ——強い子だ。この妹は。




 夕方。炊き出し。


 今日は特別なメニュー。宣言の日だから。


 融合パン——マティアスの蓄熱石で発酵を制御した、魔法と微生物の合作。漬物の盛り合わせ——翡翠の塩で漬けた蕪と大根。海藻出汁の粥。バターを塗ったパン。チーズの薄切り。


 チーズはフランスだけでも四百種以上あるという。地域ごとに気候が違い、微生物が違い、草の味が違い、だからチーズの味が違う。日本の味噌もそうだ。赤味噌と白味噌。信州味噌と仙台味噌。土地の文化がそのまま発酵食品に宿る。


 魔法食品は画一的だった。どこで食べても同じ味。効率的。均質。——だがそれは、「その土地の文化」を失うことでもある。


 融合宣言が目指すのは、多様性の回復だ。画一的な魔法食品から、多様な発酵文化へ。ただし魔法の利便性は残す。


「このチーズ——同じ材料でも、王都と辺境で味が変わるんすか?」


 ルッツが聞いた。


「変わります。空気中の微生物が違うから。同じ作り方をしても、場所が変われば菌が変わり、味が変わる」


「じゃあ王都のチーズは——王都にしかない味っすか」


「そうです。だから各地で作る意味がある」


 ルッツの目が輝いた。——記録帳に書き込んでいる。「場所が変われば菌が変わり、味が変わる」。




 夜。炊き出しが終わった。


 広場は静かだ。宣言の日。だが祝祭の騒ぎはない。——まだ飢餓の危機は完全には去っていない。移行期だ。これから何年もかけて、発酵文化を根づかせていく。


 マティアスが広場の隅で酒を飲んでいる。一人で。


「マティアスさん」


「ああ。——いい酒がないから水を飲んでいるが」


「そのうち果実酒が醸せます」


「楽しみにしている」


 沈黙。


「マティアスさん。ありがとうございます」


「何がだ」


「最初から——ずっと。三番勝負の時から」


「あの時はお前を潰す気だった」


「知っています。でも——あの勝負がなければ、融合料理は生まれなかった」


 マティアスが水の入った杯を見つめた。


「……お前に負けたから、考えざるを得なかった。魔法だけでは足りないと。——それが悔しかった。今でも悔しい」


「悔しさが融合を生んだのですね」


「言い方を変えるな。——悔しさは悔しさだ」


 少しだけ笑った。マティアスも——少しだけ。




 深夜。


 宿舎に戻る途中、王宮の地下へ続く階段の前を通りかかった。


 人影があった。


 二人。三人。——暗くてよく見えない。だが声が聞こえた。


「宣言は出された。だがまだ覆せる」


「炉に行ければ——出力を戻すのに十分ある」


「あの女と魔法の裏切り者がいなくなれば——」


 足音が遠ざかっていった。


 心臓が冷えた。——出力を戻す。微生物をもう一度殺す。三百年前に戻す。


 全員が宣言を受け入れたわけではなかった。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


融合宣言。五つの条文を読み上げるだけの場面ですが、書いていて緊張しました。


国王の「余は、二度と味のない食卓に戻りたくない」。権力者がパンの味で動く。これがこの物語の核心です。理論でも計算式でもなく、「食べたらわかった」。


エルマーの署名。字が得意ではない農民が、鍬だこのある手で丁寧に名前を書く。——手のモチーフの集大成の一つです。パンをこねる手、土を掘る手、袖を掴む手、手を繋ぐ手、そして名前を書く手。


そして最後。全員が納得したわけではない。暗闇の中で、まだ声がする。


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