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パンを食べて泣いたことがありますか? ~追放された宮廷料理長と、味を忘れた世界~  作者: 歩人


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第52話: 妹

 亜麻色の髪が、朝日に透けていた。


 正門の前に立つ若い女性。二十歳。最後に見た時は十六歳だった。背が伸びた。頬のふくらみが少し削げた。だが目は——変わっていない。母譲りの、深い青緑の目。


「マルガレーテ」


 名前を呼んだ。声が震えた。


「お姉様」


 妹が一歩踏み出した。両手に何かを抱えている。布で包まれた四角い束。


 二歩。三歩。——立ち止まった。あと数歩の距離で。


 抱擁を予想していた。四年ぶりの再会だ。駆け寄って抱きしめるのが自然だろう。


 だが——妹は止まった。そしてアネリーゼも、動けなかった。


 四年間の沈黙が、二人の間に立っていた。




「お姉様……お変わりなく」


「あなたこそ。——背が伸びましたね」


「少しだけ」


 ぎこちない会話。まるで初めて会う人のように。


 四年間。手紙の一通もなかった。声も顔も知らないまま過ぎた千四百六十一日。その間にアネリーゼは石窯を建て、酵母を起こし、パンを焼き、砂漠を歩き、王都に戻った。マルガレーテは——何をしていたのだろう。


「中に入りましょう。広場のほうへ」


「はい」


 並んで歩いた。回廊の大理石に二人の靴音が響く。アネリーゼの革靴と、マルガレーテの細い踵の靴。




 広場の隅のベンチに座った。炊き出しの準備が始まっているが、まだ人は少ない。


 マルガレーテが膝の上の包みを見下ろしている。布の中身を両手で押さえている。


「マルガレーテ。それは——」


「手紙です」


 布をほどいた。


 手紙の束。——多い。五十通は超えている。全て封がされている。宛名はどれも同じ。「アネリーゼ・フォン・ヴァイスガルテン様」。


「書いていました。ずっと。追放の翌日から——」


 マルガレーテの声が震えた。


「でも出せなかった。父様に……禁じられていたから」




 父の顔が浮かんだ。厳格な顔。四角い顎。冷たい目。「料理は伯爵家の仕事ではない」。


 妹にも禁じていたのか。——追放された姉に手紙を出すことさえ。


「父様は……お姉様の名前を出すことも許しませんでした。お姉様の部屋はそのままです。誰も入ってはいけない。何も触ってはいけない。まるで——最初からいなかったかのように」


「……」


「でも私は書きました。毎週一通。四年間。出せないとわかっていても」


 五十通以上の手紙。出されなかった五十通以上の言葉。


 アネリーゼは束を受け取った。重い。紙の重さではない。四年間の重さ。


 一通目を取った。封を開けた。




 日付は、追放の翌日。


『お姉様。


今日のお夕飯は、お姉様がいないと味がしませんでした。

魔法料理人が作ったスープです。いつもと同じ味のはずです。でも味がしない。

お姉様がいないと、同じ料理でも違うのだと知りました。


マルガレーテ』


 短い手紙だった。十六歳の少女の筆跡。まだ丸い字。


 二通目。


『お姉様。


今日、お姉様の部屋の前を通りました。扉が閉まっています。

中にお姉様の匂いがまだ残っている気がして、少し立ち止まりました。

父様に見つかって叱られました。


マルガレーテ』


 三通目。四通目。五通目。


 日常の報告。天気のこと。庭の花のこと。魔法の授業のこと。食事のこと。——食事の話が多い。姉が作っていた料理の記憶が、手紙のあちこちに散っている。




「読まないでください。——いえ、読んでください。恥ずかしいけれど」


 マルガレーテが顔を赤くしている。


「途中から、手紙というより日記になっていて……お姉様に話しかけるように書いていたので」


「ありがとう。全部読みます」


「……本当に?」


「もちろん。四年分の——あなたの声ですから」


 マルガレーテの目が潤んだ。だがこらえた。唇を噛んで。




「お姉様」


「何ですか」


「私は——魔法が使えます」


「知っています」


「父様は私を認めています。魔法の才能があるから。ヴァイスガルテン家に相応しいと」


「ええ」


「でも——」


 マルガレーテの手が震えた。膝の上で。


「私は。お姉様の料理のほうが——好きだった」


 声が、かすれた。


「お姉様が作ってくれたスープが好きだった。お姉様が焼いてくれたパンが好きだった。魔法料理人の料理は美味しいけれど——お姉様の料理には、何か違うものがあった。温かさ。手が触れたものの温かさ」


「マルガレーテ……」


「父様は私を認めた。お姉様を追い出した。——でも私は、お姉様の側にいたかった。ずっと」




 崩れかけた。


 泣きそうになった。——こらえた。こらえなければならない。ここで泣いたら、マルガレーテが自分を責める。「姉を泣かせた」と。


 深呼吸をした。一つ。二つ。


「マルガレーテ」


「はい」


「あなたが来てくれただけで——十分です」


 手を伸ばした。妹の手に。


 マルガレーテの手は細い。白い。魔法使いの手。土を知らない手。インクの染みがある——手紙を書き続けた手。


 触れた瞬間、マルガレーテが崩れた。


「お姉様——っ」


 抱きついてきた。肩に顔を埋めた。声を殺して泣いている。体が震えている。


 背中に手を回した。小さい背中。——四年間で少し大きくなったが、まだ小さい。


「大丈夫です。大丈夫ですよ、マルガレーテ」




 どれくらいそうしていたか。


 マルガレーテが顔を上げた。目が赤い。鼻の頭も赤い。——母に似ている。泣いた顔が。


「すみません……お姉様の服、濡らしてしまって」


「構いません。——洗えばいいだけです」


 笑った。マルガレーテも——少しだけ笑った。四年ぶりの、姉妹の笑い。




 ルッツが遠くから走ってきた。


「師匠! 朝の仕込みが——」


 二人を見て、急ブレーキをかけた。


「あっ。——すんません、邪魔しちゃ駄目っすよね」


「大丈夫ですよ。ルッツ、紹介します。妹のマルガレーテです」


「妹さん!? 師匠に妹がいたんすか!」


「いましたよ。ずっと」


 マルガレーテがぎこちなく頭を下げた。「マルガレーテ・フォン・ヴァイスガルテンです」


「ルッツっす! 師匠の一番弟子っす! あ——もしかして師匠に似てるっすか? 髪の色が同じっす!」


「はい……お姉様に似ていると、昔から言われます」


 ルッツの無邪気さが、場の空気を柔らかくした。——この弟子はいつもそうだ。




 エルマーが広場の端で木箱を積んでいた。


 マルガレーテがエルマーを見た。それからアネリーゼを見た。


「お姉様……あの方は?」


「エルマーさん。フィールデンの——大事な、仲間です」


「仲間」という言葉を選んだ。——他にどう言えばいいかわからなかった。


 仲間。それは嘘ではない。だが全てでもない。


 マルガレーテが首を傾げた。「仲間」という言葉に何かを感じ取ったようだ。妹の勘は昔から鋭い。


「……素敵な方ですね」


「え?」


「見ればわかります」


 何がわかるのだろう。——聞かなかった。




 午後。手紙の束を、宿舎に持ち帰った。


 一通ずつ読んだ。時系列順に。


 追放の翌日の手紙から始まり、一年後、二年後、三年後。マルガレーテの筆跡が年とともに変わっていく。丸い字が少しずつ整っていく。内容も変わる。十六歳の日記のような手紙が、十八歳になると自分の考えを書くようになり、十九歳では魔法の研究について報告するようになる。


 だが全ての手紙に共通することがある。


 冒頭が「お姉様」で始まること。末尾が「マルガレーテ」で終わること。


 四年間、一度も途切れなかったこと。




 束の最後の一通に——違和感があった。


 封がされていない。マルガレーテの筆跡ではない。角張った、力強い筆跡。見覚えがある。


 父の字だった。


 手が震えた。


 開いた。


『アネリーゼ。お前の料理は——』


 それだけだった。途中で止まっている。インクが滲んだ跡がある。——筆を置いた場所。迷った場所。何を書こうとしたのか。


 わからない。永遠にわからない。父は書きかけて、やめて、封もせずに置いたのだ。


 マルガレーテが見つけて、手紙の束に入れたのだろう。姉に届けるために。




「これは……私が書いたものではありません」


 マルガレーテが戻ってきた。夕方の光の中で。


「父様の書斎で見つけました。書きかけて、捨てもせずに置いてあったの。——お姉様に、見せるべきだと思って」


「……ありがとう」


「父様は……不器用な人です」


「知っています」


「でも——何か、書こうとしたんです。お姉様に」


 何を書こうとしたのか。「お前の料理は不味い」? 「お前の料理は認めない」? それとも——。


 わからない。わからなくてもいい。


 父が筆を取ったこと。それだけが——事実として残っている。




 夜。炊き出しの後。


 マルガレーテが手伝いたいと言った。魔法で火を起こせるという。


「魔法で小さな炎を——こうして」


 指先に青白い光が灯った。蝋燭ほどの炎。魔力制御が精密だ。


「……綺麗ですね」


「お姉様の発酵も綺麗です。パン種が膨らむところを見ました。——生きているみたいで」


「生きていますよ。酵母は生き物です」


「魔法と、微生物と。どちらも——見えない力で世界を変える」


 マルガレーテが微笑んだ。——姉に似た微笑み。だが少し柔らかい。


「お姉様。私——しばらくここにいてもいいですか」


「もちろん」


「帰れと言われても帰りません」


「言いませんよ」


「——約束です」


 約束した。四年間守れなかった約束の代わりに。



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