第2話: 土の匂い
土の匂いがした。
馬車が止まり、幌の隙間から外の空気が流れ込んできた瞬間、アネリーゼの鼻腔がぴくりと震えた。王都の魔力を帯びた甘ったるい空気とは別のものだ。湿り気を含み、何かが静かに息づいている匂い。名前はつけられないけれど——生きている、と直感が告げる匂い。
アネリーゼは革の旅行鞄を抱えて馬車を降りた。
石造りの家が二十軒ほど、緩やかな丘の斜面に点在している。畑はあるが作物の背は低く、葉の色がどこかくすんでいた。王都から遠すぎて、大魔法炉の恩恵が十分に届いていないのだろう。
だが、足元の土は違う。王都周辺の灰白色ではなく、ここは茶褐色だ。踏みしめると靴底に微かな弾力が返ってくる。
鶏が一羽、アネリーゼの足元を横切って走り去った。朝でもないのに甲高く鳴いている。王都の養鶏場の鶏は成長促進魔法のせいで鳴く元気もなかったが、ここの鶏は違った。
「ようこそ、フィールデンへ」
白髪の老人が杖をつきながら近づいてきた。日に焼けた顔に深い皺が刻まれ、背は曲がっているが、目だけは鋭い。
「アネリーゼ・フォン・ヴァイスガルテンと申します。本日より、こちらでお世話に——」
「ああ、聞いとる。王都から料理人が来ると」
村長ハンス。グラーフから渡された地図に、連絡先としてこの名が記されていた。
ハンスはアネリーゼの旅行鞄を一瞥した。革の表面から包丁の柄がはみ出している。
「料理人、ね」
ハンスは村の中を見回した。通りに人影はまばらで、遠くの畑では魔法の淡い光が自動で作物を育てている。
「こんな辺境じゃ、料理も何もありゃせんがな。まあ、まずは飯でも食いなさい。長旅で腹が減っとるだろう」
ハンスの家の食卓に、三人分の食器が並んでいた。
アネリーゼの向かいに、栗色の髪を後ろで結んだ少女が座っている。十二、三歳だろうか。大きな茶色の目が、アネリーゼの旅行鞄から覗く包丁の柄をじっと見つめていた。
「孫のリーナだ。人見知りはせん」
ハンスがぶっきらぼうに言うと、リーナはぱっと顔を上げた。
「おねえちゃん、料理人なの?」
「ええ。料理を作るのが仕事です」
「すごい! おじいちゃんの作るご飯、いっつも同じ味なんだよ」
「リーナ。黙って食え」
食卓に並んだのは、パンと、焼いた肉と、芋のスープだった。
辺境とはいえ、魔法食品の流通は届いている。週に一度、王都からの行商が運んでくるのだろう。パンは膨張魔法で膨らまされたもの、肉には味覚増幅魔法の淡い紫光の名残がちらついていた。
「いただきます」
アネリーゼはまずパンを手に取った。
手のひらに乗せた瞬間、軽すぎると感じた。見た目は丸く整った形をしているが、中身がない。指で押すとスポンジのように凹み、離すとゆっくり戻る。
半分に割る。断面を見た。気泡が全て同じ大きさで、鋳型から抜いたように均一に並んでいる。匂いを嗅ぐ。甘味合成魔法が付与した甘さの信号が鼻をくすぐるが、小麦を焦がした時に生まれる複雑な芳香は——ない。
一口、噛む。
歯が抵抗なく沈む。ふわりと溶ける。味覚増幅魔法の甘さが舌の表面をさらりと撫でて、消えた。噛みしめて奥歯で潰しても、二口目で何も変わらない。スカスカの空洞を噛んでいるだけだった。
次に肉を切った。
ナイフを入れると、繊維が抵抗なく裂ける。即時調理魔法で一瞬にして火を通されたのだろう、焦げ目がない。メイラード反応が起こる余地すらなかったのだ。
口に運ぶ。
一瞬——旨い。
味覚増幅魔法が舌の上で炸裂し、肉の旨味が脳の奥を殴りつけるような鮮烈さで広がった。目を見開くほどの衝撃。だが、奥歯で咀嚼した瞬間にそれは嘘のように消えた。二噛み目には何の味もしない。肉の繊維を潰す触感だけが口の中に残った。
まるで、夢の中で美味しいものを食べたようだった。目が覚めれば何も残っていない。
「……」
アネリーゼは静かにナイフを置いた。
「どうした、口に合わんかね」
ハンスが匙でスープを啜りながら言った。
「いえ——美味しいです。美味しいのですが」
言葉が続かなかった。美味しい。確かに美味しい。舌はそう判断している。だが、二口目を期待する気持ちが湧いてこない。
「だって、すごい顔してた」
テーブルの向こうから、リーナがまっすぐにこちらを見ていた。アネリーゼがパンを割り、断面を見つめ、鼻を寄せ、一口ずつ噛みしめていた動作を——全部見ていたらしい。
「おじいちゃんのパン、まずい?」
「リーナ! 客人に失礼だぞ」
「まずくはありません」
アネリーゼは小さく笑った。
「ただ——味が、一色なのです」
「いっしょく?」
「絵を描く時、一色だけで塗ることはないでしょう? 空は青だけではなくて、白や灰色や、夕方なら橙や紫が混じっている。本当の食べ物の味も、そうなんです。甘さの中に酸っぱさがあって、苦さがあって、名前のつけられない味が何層にも重なって——」
リーナがパンをちぎって口に入れた。もぐもぐと噛みながら首を傾げ、自分の舌で確かめるように唇を動かしている。
「甘いよ。美味しいよ」
「ええ。美味しいですわ」
アネリーゼは微笑んだ。胸の奥が、きゅっと痛んだ。
この子は一色の味しか知らない。それが当たり前で、それが美味しいのだ。
夕食後、ハンスが村の中を案内してくれた。
リーナが先を歩き、鶏を追いかけたり井戸の縁に登ったりしながら、「あれはペーター爺さんの家」「あっちはカタリナ婆さんの畑」と指さしていく。
「畑は魔法農法で管理しとるが、王都のようにはいかん。大魔法炉から離れすぎとるからな。食い物は週に一度、行商が運んでくる」
「村長さん。この村の方々は、ずっと——こういう食事を?」
「こういう食事、とは」
ハンスが足を止めた。杖の先が土に突き刺さる。
「……失礼しました。十分なお食事です」
「わしらは別に困っとらんよ。腹は満ちるし、体は動く。それで十分だろう」
十分。確かにそうだ。栄養は足りている。空腹にはならない。
——でも、誰も食卓で笑っていなかった。
村の外れに差しかかった時、一人の青年が畑の脇に立っているのが見えた。
赤い髪。日に焼けた肌。粗い亜麻の服の袖を肘まで捲り上げ、肩幅の広い体で鍬の柄に片手を預けている。
アネリーゼの足が止まった。
——あの赤い髪。馬車の窓から一瞬だけ見えた、畑で鍬を振っていた人。
青年がこちらを向いた。
夕陽が横から差し込んで、その目を照らした。
琥珀色だった。
深い琥珀色。蜂蜜を陽にかざした時のような、温かくて透明な色。だが視線は温かくなかった。品定めするでもなく、歓迎するでもなく、ただまっすぐにこちらを見ている。嘘のない目だ、とアネリーゼは思った。嘘がない代わりに、愛想もない。
「エルマー。王都から来た人だ」
ハンスが呼びかけると、青年——エルマーはアネリーゼを頭の先から爪先まで一瞥した。旅行鞄からはみ出した包丁の柄に、一瞬だけ視線が引っかかった。
「あんた、料理人か」
ぶっきらぼうな声だった。低くて短い。二文目まで待つ気のない話し方。
「ええ。アネリーゼと申します」
「この村に料理はいらない」
突き放すように言って、エルマーは背を向けた。鍬を肩に担ぎ直し、畑の奥へ歩いていく。日に焼けた首筋から腕にかけて均一に焼けた肌が、夕陽の中で赤銅色に光った。
アネリーゼは何も言い返せなかった。
「気にせんでいい」ハンスが杖を突きながら歩き出した。「あいつはああいう男だ。口が悪いだけで、害はない」
「……はい」
背を向けて遠ざかるエルマーの後ろ姿を、アネリーゼはしばらく見ていた。
——この村に料理はいらない。
その言葉は、王宮での追放よりも鋭く刺さった。
グラーフは「君の料理を理解できる舌は残っていない」と言った。それは悲嘆だった。
エルマーのは違う。必要ない。ただそれだけの、乾いた事実。
「おねえちゃん」
リーナがアネリーゼの袖を引いた。
「エルマーはいつもあんな感じだよ。でも、畑仕事は一番上手なの。みんな魔法でやるのに、あの人だけ自分で鍬を振るんだよ」
「……そうなのですか」
鍬を振る。魔法を使わずに。
それだけが、心の隅に引っかかった。
その夜、ハンスの家の客間に通された。
小さな部屋だった。木組みのベッドと、窓際に置かれた古い机。壁の燭台に魔法灯が一つだけ灯っている。
アネリーゼはベッドの端に腰を下ろし、旅行鞄から革表紙の手帳を取り出した。
母の薬草手帳。
表紙は擦り切れ、角は丸くなっている。追放の朝に持ち出した、唯一の私物。
ページを開く。母エレーナの筆跡が、薬草の絵と共に並んでいる。丁寧で少し右に傾いた文字。インクの色は褪せているのに、指でなぞると母の声が聞こえる気がした。
——あなたの舌は宝物よ。
十二歳の時に聞いた、最後の言葉。
エレーナは平民出身の薬草師だった。伯爵に嫁ぎ、幼いアネリーゼに薬草園で「目に見えない命」の大切さを教えてくれた人。薬草に語りかけ、根の匂いを嗅ぎ、葉の裏側まで観察する母の姿を、アネリーゼは隣でずっと見ていた。
あの頃は——隣に、誰かがいた。
お母様なら、この村の食卓を見て何と言っただろう。
あのスカスカのパンを割って、一瞬だけ味のする肉を噛んで——
「一色の味」と呼ぶだろうか。それとも、アネリーゼには見えない何かを見つけるだろうか。
もう、訊くことはできない。
手帳を閉じようとして、指が止まった。
ページの間に挟んでいた押し花——王都の窓辺のハーブの花弁がぱらりと落ちて、その下に別のものが挟まっていた。
羊皮紙。小さく折り畳まれた一枚。
——グラーフから渡された地図だ。出発の際に受け取り、ハンスの名前を確認した後、ここに挟んでいたのを忘れていた。
アネリーゼは地図を広げた。
燭台の魔法灯に翳す。フィールデン村を中心に、周辺の地形が手描きで記されている。丘、小川、森、畑。グラーフの几帳面な筆跡で、要所に注釈が添えられていた。
——と。
村の北東、丘の中腹に、小さな書き込みがあった。他の注釈より古いインクで、別の筆跡。グラーフではない誰かが、かつてこの地図に書き加えたものだ。
「種の墓場」。
アネリーゼは息を止めた。
種の——墓場。種が眠る場所。種が埋葬された場所。
古文書の記述が脳裏をよぎった。かつてこの大陸には数百種の食材が栽培されていた。魔法汚染で荒廃する前の世界には、天然酵母のパン、果実酒、乳加工品——微生物と時間が織りなす豊かな食文化があった。
その種が、墓場に埋められている?
それとも——眠っている?
アネリーゼは地図を握りしめた。
心臓が早くなっている。気づけば手が震えていた。
もう一度、地図を見る。「種の墓場」の横に、さらに小さな文字が添えられていた。擦れてほとんど読めないが、目を凝らすと——
「古代農園跡」。
窓の外で、夜風が木々を揺らしていた。
遠くで鶏が一声鳴く。
明日。明日、あの丘に行こう。
アネリーゼは地図を手帳に挟み直し、枕元に置いた。
目を閉じると、琥珀色の光がまぶたの裏に残っていた。あの青年の——エルマーの目の色。嘘のない、冷たくもないが温かくもない、まっすぐな琥珀色。
——この村に料理はいらない。
その言葉を反芻しながら、アネリーゼは唇を噛んだ。
いらない、と言われた。
追放された先でも、自分の仕事は必要とされていない。
手帳の表紙に、指先が触れた。
——お母様。私はまた、いらない人間になったみたいです。
返事はない。返事は、十二年前から、ない。
だが「種の墓場」という四文字が、暗闇の中で灯火のように胸に点っていた。
まだ終わっていない。この土地には何かがある。この土の匂いが、そう告げている。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
エルマーの第一声を「この村に料理はいらない」にしたとき、自分で書いておきながらアネリーゼの気持ちになって凹みました。追放された先でさらに拒絶されるって、なかなかキツい。でも実は、エルマーが「いらない」と言い切れるのは、彼自身が魔法に頼らず生きている人間だからなんですよね。いらないと言えるだけの実感がある。そこが、ただの意地悪とは違うところです。
「種の墓場」という書き込みがグラーフの筆跡ではない、という設定は書いている途中で浮かびました。あの地図に誰が何を書いたのか——まだ自分にもわかっていません。
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