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パンを食べて泣いたことがありますか? ~追放された宮廷料理長と、味を忘れた世界~  作者: 歩人


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第11話: 父の塩漬け

 見知らぬ青年が、石窯の前に立っていた。


 朝の仕込みを終えて小屋を出たアネリーゼは、畑の向こうに見覚えのない影を見つけて足を止めた。痩せた体に旅汚れた料理服、だがエプロンだけは不自然なほど白い。ぼさぼさの黒髪を風にさらしたまま、石窯の周りをぐるぐると回っている。

 鼻をひくひくさせていた。匂いを嗅いでいるのだ。


「——あの」


 アネリーゼが声をかけると、青年が飛び上がった。振り向いた顔に焦げ茶の瞳が光っている。その指先に、いくつもの古い火傷痕が見えた。


「す、すみません! 勝手に入って——でも匂いが、ここから」


 青年は石窯を指さした。昨夜焚いた残り火はもう消えているはずだが、石壁に染みこんだ発酵パンの記憶がまだ匂いを放っている。


「あなた、フリッツさんの言っていた——」


「はいっ! ダルムの村から来ました、ルッツっす! 行商人のフリッツさんに聞いて——魔法を使わずにパンを焼く人がここにいるって」


 声が大きい。朝の静かな村に響き渡る勢いだった。


「あの——もう少し、静かに」


「あ、すみません」


 ルッツは口を押さえた。だがその目は静かにならない。石窯の天井、焼き跡の残る石の底、扉の隙間から覗く炉内の灰——すべてを食い入るように見つめている。

 料理人の目だ、とアネリーゼは思った。窯の構造を読み取ろうとしている。独学であっても、この青年は火を見てきた人間だ。指先の火傷痕がその証拠だった。




 畑の方から、大股の足音が聞こえた。


「おい。何の騒ぎだ」


 エルマーが鍬を肩に担いで現れた。見知らぬ青年の姿を認めて、琥珀色の目が細くなる。赤毛の額に汗が浮いている。朝一番で畑を見回っていたのだろう。


「フリッツの話を聞いて来た小僧だ。ダルムの村から」


 石垣の端に腰かけていたリーナが答えた。いつの間にか起きてきて、状況を把握している。


「ダルム? あの二つ隣の……」


「はい。俺、ダルムの食堂で料理を作ってたんすけど——魔法で作る料理が、どうしても」


 ルッツは言葉を探すように宙を見た。


「……何作っても同じ味なんす。甘いものも辛いものも、全部どこかで同じ。舌の上で終わるっていうか。鼻に抜けないっていうか。もっと深いところに届く味があるはずだって、ずっと思ってて」


 アネリーゼは黙って聞いていた。この青年の感覚は正しい。魔法食品の味は一次元的——味覚増幅魔法が舌の受容体を直接刺激するだけで、香りの揮発成分や後味を生むアミノ酸の分解は起こらない。


「独学で色々試したんすけど、全然うまくいかなくて。それで村で浮いちまって」


 ルッツの声が小さくなった。旅汚れた服の裾を握る指が、白くなっている。




 アネリーゼが返事をする前に、ルッツは頭を下げた。深く。額が膝につくほどに。


「弟子にしてください! 何でもやります!」


 真っ直ぐだった。さっきまでの萎縮が嘘のように、焦げ茶の目が光を帯びている。


「まだ何も食べさせていませんよ」


 アネリーゼは苦笑した。弟子を取るつもりはない。自分のやっていることは実験の域を出ていない。


「なら、食べさせてください。俺の舌で確かめさせてほしいんす」


 その言葉に、アネリーゼは口を閉じた。味に対して誠実な姿勢だ。


「……わかりました。一つだけ」


 小屋から布に包んだパンを持ってきた。焼いてから一日が経ち、外皮は柔らかくなっている。代わりに生地の風味が深まり、乳酸の酸味と穀物の甘味が一つに溶け合う時間帯だ。

 ルッツは受け取った。まず匂いを嗅いだ。鼻に近づけ、ゆっくりと息を吸い込んだ。


 目が変わった。


 焦げ茶の瞳の奥で、何かに火がついた。口に入れる前から——この青年は匂いだけで、これが自分の探していたものだと気づいている。

 噛んだ。一度。二度。三度目で、ルッツの顎が止まった。味が——多すぎるのだ。一度に押し寄せる風味の層に、処理が追いついていない。


「……これっす。俺がずっと探してた——この、奥に行く感じ。舌の上で終わらない。噛むたびに変わる」


「発酵の味です。酵母という目に見えない小さな命が、時間をかけて風味を作る」


 ルッツは両手でパンを包むように持ち、もう一度、静かに言った。


「弟子にしてください」


 二度目の言葉は、さっきとは重さが違った。味を知った上での、覚悟の声だった。


「ルッツ。一つだけ条件があります。ここでの調理に魔法は一切使いません。それが守れるなら——手伝いとして受け入れます」


「よろしくお願いしますっ、師匠!」


「師匠ではなく——」


「師匠!」


 訂正を聞いていない。リーナが笑った。エルマーが鼻の頭を擦った。




 その日の午後。


 エルマーが畑仕事の帰りに、小屋に立ち寄った。


「あんた。明日、塩湖の方に行くぞ」


「塩湖?」


「フィールデンの北に小さな塩湖がある。昔は塩を採っていたらしいが、今は誰も使っていない。魔法の精製塩が安く手に入るからな」


 アネリーゼは手を止めた。塩。塩蔵は魔法以前の最も基本的な保存技術だ。古文書にも記述がある——塩の浸透圧が微生物の繁殖を抑制し、同時に乳酸菌の選択的増殖を促す。漬物の原理そのものだ。


「天然の塩が採れるんですか?」


「さあな。見てみないとわからん。ただ——」


 エルマーが言葉を切った。何か言いかけて、飲み込んだ。鼻の頭に手が伸びかけて、止まった。


「……ただ、何です?」


「何でもない。明日、日の出に畑の端で」


 それだけ言って、背を向けた。大股の足音が遠ざかる。

 アネリーゼは首を傾げた。エルマーが言葉を飲み込む時は、何か胸の内に引っかかるものがある時だ。あの癖を——いつから覚えていたのだろう。




 翌朝。


 日の出前に畑の端に着くと、エルマーが先に立っていた。肩に鍬ではなく、革の袋を掛けている。


「ルッツも来るっす!」


 後ろからルッツが駆けてきた。昨夜は小屋の隣に寝袋を広げて野宿したらしい。朝露で髪がさらにぼさぼさだ。

 リーナはハンスに朝の手伝いを言いつけられて来られないと、昨日のうちに悔しそうに言っていた。


 北へ向かって歩いた。フィールデンの村を抜け、石垣の道を過ぎると、やがて土の色が変わった。白い粉を吹いたような地面。塩分を含んだ土壌だ。

 三十分ほど歩くと、窪地の底に小さな水溜まりが見えた。


「あれだ」


 塩湖と呼ぶには小さすぎた。池、あるいは水溜まり。だが岸辺の岩に白い結晶がこびりついている。


 アネリーゼは跪いて水を掬った。舌に含む。


「……塩味はある。だけど——これは」


 普通の塩とは違った。苦味が少ない。丸い。奥にかすかな甘味がある。ミネラルが豊富な天然塩の特徴だ。精製塩のような尖った塩辛さではなく、多層的な味がする。


「岸の岩を見てください。この結晶——」


 岩にこびりついた塩の結晶を指で擦り取った。淡い翠色をしている。


「翡翠色……。鉄分と微量元素の混合で、こんな色になるんだと思います」


 アネリーゼの声が興奮で上擦った。古文書に記述があった。翡翠の塩。ミネラルが極めて豊富で、漬物に使うと乳酸菌の発育を選択的に促進する。腐敗菌を抑えながら、発酵を助ける稀少な塩。


「すげえ……きれいな塩っすね」ルッツが目を丸くした。


 だがアネリーゼが翡翠の塩に触れた瞬間——背後で、エルマーが声を漏らした。


「……親父がこの塩で肉を漬けていた」




 アネリーゼは振り向いた。


 エルマーは塩湖の岸辺に立っていた。革袋を足元に下ろし、翡翠色の結晶がこびりついた岩を見つめている。琥珀色の目が、遠い場所を見ていた。


「親父は——ここの塩を採っていた。俺がガキの頃だ」


 エルマーの声は低く、いつもの断定的な調子が薄れていた。


「冬が来る前に、この塩で肉を漬けてた。壺に入れて、塩を振って、蓋をして——三日待てと言った。三日経つと、肉が変わるんだ。生のままじゃ食えない硬い肉が、柔らかくなって、味がしみてる」


 ルッツが息を止めた。アネリーゼも動けなかった。エルマーが自分の過去を語るのを、初めて聞いている。


「親父はそれを『冬の備え』と呼んでた。魔法の保存食が出回る前、この辺りの農家はみんなやっていたらしい。塩で漬けて、干して、時には煙でいぶして——食い物を冬の向こう側まで持たせる技だ」


「それは……塩蔵です」


 アネリーゼは息を呑んだ。塩蔵。乳酸発酵による保存。エルマーの父は——知っていたのだ。


「お父さんは、どこでその技を?」


「じいさんだ。じいさんがまたそのじいさんから教わった。ただ——」


 エルマーの声が沈んだ。


「親父の代で、途切れた」


 風が塩湖の水面を撫でた。小さな波紋が広がり、岸辺の翡翠色の結晶を濡らす。


「魔法農法が来て、畑を取られた。保存魔法が出回って、塩漬けなんか要らなくなった。親父は——それでも、しばらくは続けていた。壺に肉を漬けて、三日待って。だが」


 エルマーが岩の上にしゃがみ込み、翡翠の塩を指で擦った。


「誰も食わなくなった。魔法の保存食の方が楽だし、味も——いや、味は同じだったんだろうな。あの頃の俺にはわからなかった。子供だったから。ただ、親父が壺を洗って棚にしまった日のことは覚えてる」


 静寂が落ちた。

 塩湖の水面が、雲の隙間から射した朝日を映して光った。


「壺を——しまったんですね」


「ああ。二度と出さなかった。それから酒を飲むようになって、体を壊して——俺が十五の時に死んだ」


 エルマーの言葉は淡々としていた。感情を押し殺しているのではない。何度もこの記憶を反芻した人間の、擦り切れた平坦さだった。




 アネリーゼの胸の中で、二人の父親の姿が重なった。


 エルマーの父。自分の手で肉を漬け、冬を越す技を持っていた男。魔法の波に飲まれ、畑を奪われ、自分の技を使う場所を失い——壺をしまい、酒に溺れ、死んだ。

 遺したもの——「この塩で肉を漬けて、三日待て」。


 自分の父、ヴィルヘルム。名門ヴァイスガルテン伯爵。家名を守ることが全てで、娘の料理への情熱を「伯爵家の仕事ではない」と切り捨てた。追放の決裁書に署名した男。

 遺したもの——何もない。いや、一つだけ。認めてもらえなかったという、痛み。


 捨てた父と、遺した父。


 エルマーの父は壺をしまった。技を捨てたのではない。使う場所がなくなっただけだ。だが息子に言葉を残した。「三日待て」——その一言に、塩蔵の本質が圧縮されている。

 自分の父は何を残した? ——何も。

 いや。その「何も」が、自分を宮廷料理長にまで駆り立てたのだ。認められたい一心で。


「エルマーさん」


 アネリーゼは翡翠の塩を掌に載せた。淡い翠色の結晶が、朝日を受けて鈍く光る。


「お父さんの塩漬けの技——それは発酵です」


 エルマーが顔を上げた。


「塩で肉を漬けると、塩の浸透圧で腐敗菌の活動が抑えられます。同時に、塩に耐えられる乳酸菌だけが選択的に生き残り、増殖する。乳酸菌が作る酸が肉を柔らかくし、うま味を引き出す。三日待つ——その三日間で、目に見えない小さな命が肉を変えているんです」


 エルマーの目が、微かに揺れた。


「親父は……それを知ってたのか?」


「理屈は知らなかったでしょう。でも、体が覚えていた。何世代もの農家が積み重ねた経験が、お父さんの手に残っていたんです」


 言いながら、アネリーゼは自分の声が震えていることに気づいた。エルマーの父が持っていた技術。自分が古文書から学んだ知識。それが——ここで、重なった。


「お父さんは、この世界で発酵食を知っていた最後の世代だったのかもしれません」




 横で、ルッツが拳を握りしめていた。


「すげえ……発酵って、そんな昔から」


「魔法が普及する前は、誰もがやっていたことです。塩で漬ける。干す。燻す。時間をかけて、食べ物を変える技術——それが全て、魔法に置き換えられて消えた」


 アネリーゼは翡翠の塩を握りしめた。掌に食い込む結晶の角が痛い。


「でも、エルマーさんのお父さんは覚えていた。途切れかけた糸が——まだ、切れていなかった」


 エルマーは立ち上がった。塩湖の水面を見つめたまま、しばらく黙っていた。

 やがて、鼻の頭を擦った。


「……あんたに言ったのは初めてだ。この話」


「え?」


「親父の塩漬け。村の誰にも言ったことがなかった。恥ずかしかったんだ。魔法の保存食がある時代に、わざわざ塩で肉を漬けるなんて——そんな古臭いことをしていた親父が」


 エルマーの声が低く、硬くなった。


「——けど」


 アネリーゼを見た。琥珀色の目が、真っ直ぐにこちらを向いている。


「あんたの話を聞いてたら——親父のやっていたことは、古臭いんじゃなかった。忘れられただけだった」


 アネリーゼは頷くことしかできなかった。何か言おうとして、言葉が見つからない。この男がずっと一人で抱えていたもの——父への恥と、父への愛と、その二つの間で引き裂かれていた年月。それが今、翡翠色の塩の上で、静かに解かれようとしている。


 ——この人にも、失ったものがある。


 アネリーゼは思った。自分だけではなかった。追放された自分だけが何かを失ったのではない。この村の青年も、魔法の波に父を奪われ、技を奪われ、誇りを奪われていたのだ。




 帰り道、三人で翡翠の塩を革袋いっぱいに詰めて歩いた。


 ルッツが興奮気味に話している。


「師匠、この塩で何を作るんすか? 漬物っすか? 肉の塩漬け?」


「まずは野菜の塩漬けから試します。塩分濃度を三段階に分けて——薄い方から二分、三分、五分。乳酸菌の活動を観察して、最適な濃度を見つけましょう」


「三段階! すげえ、科学っすね」


「科学というより、実験です。わからないことだらけなので」


 ルッツの体力は確かだった。革袋を軽々と担ぎ、険しい道でも足取りが乱れない。


 エルマーは二人の後ろを歩いていた。口数が少ない。だが——背中が、いつもより軽く見えた。何十年も棚の奥にしまっていた壺を、誰かに見せてもいいと思えた。その事実が、肩から何かを下ろしたのだろう。


「ルッツ」


「はいっ、師匠!」


「師匠ではなく——まあいいです。一つ聞きたいのですが、あなたは魔法が使えますか?」


「あ、はい。料理用の基本魔法なら一通り。味覚増幅と、簡易保存と、加熱促進と——」


「それは良かった」


 ルッツが首を傾げた。


「でも、魔法は使わないんすよね?」


「ええ。使いません。でも、魔法が使える人がいてくれることは重要です。なぜ魔法を使わないのか——魔法と比較して初めてわかることがあるから」


 ルッツの目がきょとんとしたが、すぐに真剣な顔に戻った。


「わかりました。使わないけど、持っておく。道具箱にはあるけど、今は出さない——そういうことっすね」


 素直で、飲み込みが早い。この青年は良い助手になる。




 村に戻ると、リーナが石垣の上で待っていた。


「遅い! 何してたの?」


「塩を採ってきたの。ほら、見て——」


 アネリーゼが掌に載せた翡翠色の結晶に、リーナの目が丸くなった。


「きれい……。宝石みたい」


「宝石より大事なものよ。この塩があれば、野菜を漬けることができる」


「漬ける?」


「塩と野菜を壺に入れて、待つの。三日、五日、もっと長く。そうすると野菜が変わる。酸っぱくなって、味が深くなって——保存もきくようになる」


 リーナが首を傾げた。


「パンと同じ? 待つと変わるの?」


「そう。パンは酵母が粉を変える。漬物は乳酸菌が野菜を変える。どちらも、目に見えない命が時間をかけて働いてくれる」


「エルマーさんのお父さんもやってたんだよね」


 リーナが何気なく言った。アネリーゼは驚いてエルマーの方を見たが、彼は背を向けて鍬を持ち直しているところだった。聞こえていたのかいないのか——肩が微かに揺れた気がした。


「リーナ。よく知ってたわね」


「おじいちゃんが昔、言ってた。エルマーさんのお父さんは変わり者だったって。壺に肉を入れて待つ人だったって」


 リーナの記憶力と観察力には驚かされる。この少女は、大人たちが忘れかけている言葉を、ひょいと拾い上げてくる。




 夕暮れ。


 小屋の前で、翡翠の塩を乾かしていた。石の上に薄く広げ、夕日の残り熱で水分を飛ばす。淡い翠色の結晶が、茜色の光を受けて不思議な色に変わる。


 エルマーが来た。

 畑仕事を終えて、腰の土を払いながら。いつもの時間だ。最近は毎日、夕暮れ時に小屋の前を通る。何かを届けるわけでもなく、ただ通る。立ち止まって、窯の火加減を確認して、何も言わずに去る——はずだった。


 だが今日は、立ち止まったまま、塩の結晶を見下ろしていた。


「エルマーさん」


「ん」


「お父さんの壺——まだ残っていますか?」


 エルマーの手が止まった。腰に当てた右手の指が、一瞬だけ強く握り込まれた。


「……壺?」


「塩漬けに使っていた壺です。もし残っているなら——見せていただけませんか。古い壺には、乳酸菌が棲みついている可能性があります。何年も塩漬けを繰り返した壺の内壁に、菌が——」


「ある」


 エルマーが遮った。声が低い。


「親父の壺は、まだうちにある。棚の奥にしまったまま、一度も出していない」


 アネリーゼの心臓が速くなった。十年以上前にしまわれた壺。その内壁に、もし乳酸菌の休眠胞子が残っていれば——黄金麦の種が千年の眠りから覚めたように。酵母の胞子が水と粉で息を吹き返したように。


「見せてください」


「……今からか?」


「はい。今すぐ」


 エルマーは鼻の頭を擦った。何か言いかけて——やめた。代わりに片手を上げて、歩き出した。


「来い」


 短い一言だった。だがアネリーゼは、その背中に——エルマーがこれまで見せなかった何かを感じた。恥でも怒りでもない。もっと静かな感情。誰かに自分の過去を見せてもいいと思った人間の、背中だった。




 夕日が村の屋根を赤く染めている。


 エルマーの家へ向かう道すがら、ルッツが小屋の前で火の番をしている姿が見えた。リーナが翡翠の塩の結晶を一粒、大事そうに布に包んでいる。


 エルマーの歩幅は大きい。アネリーゼは小走りでついていく。前を歩く男の赤い髪が、夕焼けに溶けるように光っている。

 エルマーの心の壁が——一つ、外れた。あの塩湖の岸辺で、父の話をした瞬間に。誰にも言ったことがなかったという話を、自分に。


 なぜ自分に話してくれたのか。

 その問いが浮かんだ瞬間、アネリーゼは考えることをやめた。理由を問えば言葉が要る。言葉にすれば形が決まる。まだ名前をつけたくない何かが、胸の中で静かに温かい。


 壺がある。エルマーの父が遺した壺。

 そこに、菌が眠っているかもしれない。魔法に追いやられ、壺の内壁にしがみついて、十年以上も眠り続けた乳酸菌が。


 アネリーゼは歩きながら、掌の中の翡翠の塩を握りしめた。角が指に食い込む。痛い。だがこの痛みが、今を確かなものにしてくれる。


 エルマーの父は壺を遺した。塩の記憶を遺した。「三日待て」という言葉を遺した。

 自分の父は何も遺してくれなかった——けれど。


 まだ親父の壺が残っている。


 エルマーの背中が、茜色の光の中を歩いていく。あの壺を開ける時、この男は何を思うだろう。

 アネリーゼの足が速くなった。追いつきたいのではない。隣を歩きたいのでもない。ただ——この先に、見たいものがある。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


ルッツの「何を作っても同じ味になる」という悩み、実はこれ現代の料理にも通じる問題です。化学調味料を多用すると、和食も中華もイタリアンも最終的に同じ「うまみ」に収束するという話を料理人から聞いたことがあります。出発点は違うのに着地点が同じ——ルッツはそれを言語化できないまま苦しんでいた。アネリーゼが「酵母がいないから」と原因を即座に特定したシーンを書いていて、知識って人を救うんだなと改めて思いました。


アネリーゼの試験「三日間魔法を使わずに働く」は、パンの発酵日数と同じです。三日待てるかどうか。結果を急ぐ人間に発酵は教えられない——これが彼女の信条の核心。ちなみに天然酵母のパンは種類によっては5日以上発酵させることもあり、三日はむしろ「短い」方です。ルッツにとっての本当の試験は、三日の先にある長い道のりそのものかもしれません。


次回、三日後の朝——ルッツの手を見たアネリーゼは、一つの決断を下します。


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