第5話濡れた髪を乾かして
「いいじゃん雨宿り、なんか、かわいい」
「可愛いって……」
「私、好きそのバンド名」
「ほんと?」
「うん」
「よかった……」
「じゃあ今日から私たち『雨宿り』だね」
「雨宿り……でもバンドって何すればいいんだろうね」
「やっぱり、わざわざバンド名まで決めたんだから、曲作……」遮るように店員が声をかけてくる。
「お待たせいたしました。コーヒーと火の実特製プリンです」
「ありがとうございます」
「ご注文は以上でよろしいですか?」
「はい、大丈夫です」
「では、ごゆっくり召し上がりくださいませ」
「ありがとうございます」――
「いただきま」何事もなかったかのように、食べ始める雪に声をかける。「作曲ってこと?」
「あっ、忘れそうになってた。そう作曲、バンドと行ったらオリ曲じゃない」
口にプリンを運びながら私を見る。
「私、曲なんて作れないよ」
「ギターアレンジとかはすごいできるのに?」
「いやその、私歌えないじゃん……」
「私も作れないし、どうしようか……」
沈黙。私の動き出した時間は足を止める。ふと、後ろを振り返るとギターを抱え何もない道を歩く私がいる。前を向いた私は答える。
「私やってみるよ。できるかどうかはわかんないけど」
「うん。わかったでも無理しないでね……」
「うん……」
これ以上の言葉を交わすことなく、私はプリンを口に運んだ。
「美味しい」
私たちの始まりは地味で、日常の延長線上にあった。
私たちがバンドを組んで二日が経った。薄い雲に覆われた空から、薄っすらと赤い光溢れている街を背に、旧校舎で肩を寄せ合っている。
「曲……大丈夫そう?」
「うん……大丈夫……」
「そう……」
会話が止まる、雪はこれ以上曲について聞くことをなかった。その代わりなのか肩に頭を寄せて来た。温度は服越しにも伝わる。一分ほどで、雪は立ち上がった。真意は分からない。だが、この時間は心地よかった。
「帰ろう。白」
「うん」
自宅に着く。
「ただいま」その言葉は空を切る。
「あ、そっか。千春さん出張だった……」
部屋までの階段は、一段上がる度に音をたてた。部屋に入ると視界の真ん中には、弦の切れたギターが映る。それを横目に椅子へ座った。新しく買ったギターは傷ひとつなく、板は光を反射している。
「ふぅ……」
息を吐く。出た息は震えていた。コード進行はとりあえずなんでもいい。私は構え、弾き始めた。
(順調……このままいけば)
声を出す。
「っ」
ゲホゲホゲホゲホ。
頭を駆け巡る蓋をしていた記憶。
過去の形は箱型だろうか。それとも球体?
記憶は形をなし影を落とす。それは立体でも、平面でもなく、液体だった。溢れて出した何かが視界をぼやけさせた。
九年前……
私たちは、模範的な家族だった。父は、出張が多かったけれど、休みの日には遊びに連れて行ってくれる良い父親だったと思うし。母は、専業主婦をやり、献身的に父のサポートをする理想の母親だったと思う。なんの角もない綺麗な円。私たちはそう、球体のようだった。
この時までは……
押入れ、少し空いた隙間から微かな光が入ってくる。耳を両手で押さえ、小刻み揺れる視界。
父と母の口論の原因は、父の不貞行為だったそうだ。この時の私には、父が具体的にどんなことをしたのかは分からなかったが、母が父を捲し立てる姿を見て、子供ながらに父は取り替えしのつかないことをしたのだと理解した。怒りの矛先はわかっているのに、もうどうしようもないという事実が、母の目の覇気を失わせ、復讐や恨みのような感情に変わっていったのが目に見てわかった。私たちの関係は球体だった、だったけれど材質はガラスだった。衝撃はすぐに広がり、粉々になる。
離婚したのは小学三年生の頃、苗字が変わり、クラスの生暖かい哀れみの目を感じた。家に帰ると雰囲気はまた違った。張り詰めた空気は、家中を充満し、母の顔はいつも暗い。母ずっと咳き込んでいて、明らかに顔色が悪くなっていた。
「お母さん」
「何」
母は、頭を抱え考え込んでいる様子だ。
「元気ないけど大丈夫?」
私は、小さく声をかけた。
「あぁ、うん。大丈夫」
「ご飯もあんまり食べてないんじゃ……」
「はぁ。大丈夫だって」
「わかった……」
弱っていく母を元気付けようと子供ながらに考えた。考えた……
「ねぇ、お母さん。見て」
「何……」
ソファーに項垂れる母は、顔をこちらに向ける。
「お母さんのために曲を作ったの、ほら」
歌詞ノートを見せては、目を輝かせた。
「そう……ちょっと後でにしてくれる」
「ねぇ聞いてよ」
「後でにして……」
そう言った後、母は私に背を向けた。
私は気にせず音を鳴らした。響くギターの音は、甘いチューニング。弾ける言葉の粒は、あの頃の思い出を蘇らせる。暗い部屋にカーテンの隙間から薄い光が差し込んでいた。母の被った布団は厚く、光を通さない。色が見えない顔に薄い膜のような空気。音はただ目の前に落ちていく……
「あーもー。うっさいのよ。あんたのキンキンした声を私に聞かせないでちょうだい」
「い、いやそんなつもりじゃ」
「じゃあそれは何?父さんに買ってもらったギターじゃない、そんなもの持ってきてどうしたいって言うのよ。励ます?笑わせないで。あんたの下手くそな歌なんて、聞いてもイライラするだけよ。早くこの部屋から出ていって」
ソファーを揺らす。ギシギシと鈍い音が部屋の中に広がり、ただ時計の音だけが聞こえてくる。
「歌、上手だって、まえお母さんが……」
「あんなの嘘に決まってるでしょ。そんな事より」
「え、ウソ……?」
「もーほんとに、早く出て行ってって、言ってるでしょ」
私は無言で自分の部屋に戻った。見ていた景色は、明るいものばかりで、暗くなった景色はいつか明るくなると勘違いをしていたのだ。本当に馬鹿みたい……頭の中にループするその記憶は視界を歪ませた。
バタン。
リビングの方で大きな音が響く。
急いで下に降りるとそこには苦しみながら倒れる母の姿があった。
畳み掛けるような出来事に私は何も考えることができなかった。
「きゅう急しゃ……」
母はスマホ指差し私に助けを求める。流れる涙を拭いスマホ手にとる。
(救急車?あれ何番だっけ……?え、あ、ここの住所は?え、あ)
頭の回路が繋がらない。目の端に映る千春さんの連絡先。迷わず押した。
「あ、もしもし、姉さん?どうしたの」
「……」
「え、もしもし、もしもし?」
(あれ、声が……)
「ねぇ。聞こえてるの?」
(でない……)
「え、切るよ」
「、」
「え、大丈夫?ねぇもしもし」
「っ、」
何も考えられない、早く早くしないと。
「たす、けて」
母の声が微かに入る。
「え?今どこ、家?家だよね。あ、ちょ、救急車呼ぶから待ってて」
ブチ。
電話が切れた。
スマホを手から落とし天井を見上げた。その後、数分後に救急隊員が駆けつけその場は収まった。
母の容体は悪く、入院となった。そして私は祖母に引き取られた。声は次第に戻っていったが歌うことはできなくなった。
「しーちゃんは、お母さんのお見舞い行く?」
祖母が私に聞いてくる。
「いや、今日学校の友達と遊ぶから」
「お母さんも心配してるから、たまには顔見せなさいね」
「うん……」
私はあの日以来、母と顔を合わせていなかった。もちろん友達と遊ぶなんて嘘である。
中学一年――
母の容体は良くなる気配がなく、入退院を繰り返していた。
祖母の家に帰ってくる母は無口で何も話そうとはしなかった。精神的なものなのか、病気のせいなのか。何も話してくれない人のことなんか、わかるはずがなかった。家に用意された私の部屋は、ギターが一本だけ飾られているような質素な部屋だった。歌えなくなった私は、なぜだかギターを弾いてはやめ、弾いてはやめを繰り返していた。私に音楽をやる価値はないそう思っていたのに……
中学三年――
母の病状が悪化し、ほぼ寝たきりの状態になった。その日は雨で、夏の暑さが鼻につんとくる。今日は母の誕生日、祖母に誘われ今日ぐらいは面会にくるように言われていた。
私は靴に手を伸ばす。
話すことなんて何もないのだから、行く意味はない……
伸ばした手を引き戻した。私は踵を返し、自習室へと向かった。部屋中に広がる匂いは、一つだけなのに何故か淀んでいる。揺蕩うカーテンの近くには、風がない。端の席に腰を下ろし目を閉じた。
ピロンピロン。
静寂の中一つの音で目を開ける。
母の葬式は、もう決まっていたかのように、迅速だった。親戚に囲まれながら慰められる私の顔に、申し訳程度に出る涙。この涙の形は、球体なのだろうか……私にはわからない。看取ることもできたはずの母の死は小さな決断によって変わってしまった。私はまた取り返しのつかないことをしてしまった。
「白、大丈夫?」
葬式の後、千春さんが声をかけてくる。
「あぁ、はい……」
「これからどうするの?」
「あ、えー。このまま、おばちゃんの家から学校に通おうかと思っています」
「母さん、いや、そのおばあちゃんと話したんだけど、白の元の家で私と暮らす方がいいんじゃないかって。えっと白は、どうしたい?」
「なんで、そんな話なってるんですか?」
「白の学校が近いってのもあるし、姉さんから家を受け継いだからせっかくなら元の家に戻った方がいいんじゃない?って思っただけ……」
「そう、ですか……」
「嫌、だった?」
「えっと、その、考えさせてください……」
バタン。
何かが落ちる音がした。 視界は弦の切れたギターに戻る。するとそこには、あの時の歌詞ノートがあった。記憶の霧は私をむせ返らせた。
そして私は思う、自分勝手な行動の全ての原動力は、過去への執着の結果なのだと……
大きく、手を振りかざした。振り下ろした先にはギターがあったが空ぶってしまった。
「いまさら……」
ピロン。
静寂の中一つの音が、心臓を打つ。
(明日も練習やる?)
雪からメッセージが届いていた。
「ふぅ……」
一息吐いた。外を見ると奇しくもあの日と同じ雨が降っていた。でもいまはそれでいい。
私の中の積雪は、この壁を登るにたる高さなのだろうか。この雨が私の雪を溶かす前に、ギターを持った。今日だけは、今日だけでいい、歌いたい……
「んーんー」
体から噴き出す音は弱々しく、ハミング程度だがもうそれでいい。最初のコードはそうだなぁ、ルート、3rd、7th、#9th。部屋からその音しか聞こえてこない。あとはただ夢中に弾き続けた。夜明け前、完成したその曲の名前はまだない。
感情の切れ端のような歌詞がノートに書かれてあるが、これを人に見せることができるのだろうか。持っていたギターをスタンドに置き、気絶するように眠った。目が覚めると太陽はもう、一番上まで登っている。重たい瞼を擦りながら下に降りると、千春さんの姿があった。
「白、おはよ」
「帰ってたんだ……」
「さっきね、昨日はどうだった、何もなかった?」
「うん。大丈夫だったよ」
「そう、それならよかった」
「出張どうだった?」
「まぁ、普通って感じ」
「そうなんだ。じゃあ私お風呂入ってまた寝るから」
「ちょっと日曜だからって、羽伸ばしすぎじゃない」
「大丈夫だよ、じゃおやすみ」
「もう……」
寝支度を済ませ部屋に戻ると、視界の端にギターが映る。昨日の夜を思い出し声を出してみる。
ゲホ ゲホ
部屋に入る光は、そう長くは続かないみたい。心に残る亀裂は、歪に形を取り戻そうとしていた。
私の朝は早い。スズメの鳴き声が鼓膜を揺らし、カーテンの隙間から朝日が差し込む。そんな光景を背に、準備を始める。制服の袖に通る腕は、軽やかで迷いがない。淡々と進む朝の時間を追い越し、家を出る。
「いってらっしゃい」
「いってきます……」
ぼそっと返し、家を出る。
閑古鳥が鳴く道は、草木の匂いが漂ってきた。
「雪」
「あ、白」
「あ、昨日はごめん、練習いけなくて……」
「そんな、大丈夫だよ。体調悪かったんだよね。仕方ないよ」
「今日さ、やろうよ……」
「あ、うん、じゃあ放課後ね」
「うん」
旧校舎――
晴れの日に見る教室の机には、木漏れ日が入ってチラチラと揺れている。
「白」
名前を呼びながら教室に入ってくる。
「あ、雪」
「なんか緊張してる?」
「その、曲……できたよ」
「え、嘘。聞かせて」
「スマホ、だけど……いい」
「もちろんだよ」
ボイスメモの再生ボタン押す手は、恥じらいと恐怖が入り混じり、そこまで届かない。
「もう少し待って……」ポチ「あ、押しちゃった」
流れる音に耳を塞ぎたくなる、思わずその場から立った。落ち着きのない私とは対照的に、彼女は真剣に曲を聴いている。曲が終わり、余韻が体を落ち着かせない。
「ど、どうだった」
「なんていったら良いんだろ」
「え、よくなかった?」
「いや一言で表せないくらい」
「くらい?」
「よかった」
何度見ても変わらない笑顔に、やっと肩の荷が落ちる。
「勘違いしちゃったじゃん、ほんと、やめて怖いから」
「いや、ほんっとに、めちゃくちゃよかったんだもん、曲ってこんなに短時間で作れるもんなのやばすぎるんだけど。あとここのメロディ私すごく好き、あとここも、あとここ」
「なんかテンション高いね」
「当たり前でしょ」
雪はここが好きだの、ここの演奏がすごいだのずっと言っていた。そんな彼女の目の中に私がいるということが嬉しい。徐にギターを取り出し曲のフレーズを弾く、彼女もそれに合わせるように歌い始める。形のない音が形を成し息をする。新しい色が重なり合う瞬間、名もなき音に名前が浮かぶ。陽光が私たちを照らし、記念すべき一曲目の演奏が終わった。
「ありがとう、歌ってくれて」
何故かでる感謝の言葉。今はただ『ありがとう』と伝えたかった。
「えっと、どういたしまして?」
「あ、ごめんなんでもないの」
「ありがとうはこっちのセリフだよほんと。私、コピバンになるんだろうなって思ってた。それでいいやってちょっと思っちゃってた。それは本当にごめんあとありがとう」
「私もちょっと思ってたし、いいよそれは」
「あのさ、話変わるけど、この曲の曲名ってなんなの?」
「あ、そうそう。思いついたんだった」
「え、今」
「うん。今」
「何なったの?」
「傘」
「おーいいね。かわいい」




