第19話この音が止まるまで
私は玄関から飛び出した。何も持ってない。体一つだけ。靴は踵を踏んだままで張り出した。外は曇天。今朝降った、雨の残り香がまだ強く残っている。足元は水たまりで茶色に染まっていく、見えないからどうでもいい。景色があっという間に過去になる。静止した景色が存在しない。雪の家に着く頃には、制服に泥の柄ができている。顔にも跳ねた泥を手で拭い。恐る恐るインターホンを押す。
「はい、どちら様でしょうか?」
雪のお母さんの声だった。雪のお母さんとは一度しか会ったことがない。顔が分からないのも必然だった。
「喜多川雪のクラスメイトの葉月白です。雪にお話があってきました」
「雪のお友達?」
「まぁ、はい」
「学校ではお話しするの?」
「学校……雪は、あぁ雪さんはここ一週間学校に来てないですよ」
「え!?」
口を手で覆う。驚きを隠せないと言った表情だ。私にはなんとなく察しがついた。喫茶店の時、彼女は学校に来ていなかったのに制服を着ていた。つまりそういうことなのだろう。
「あー、えーと」
雪の母は、頭を抱える。
「えっと、その雪に会えますか?」
「ごめんなさい。今日はちょっと、話さないといけないことがあるので。お引き取りください」
「あ、ちょ」
勢いよく扉を閉められた。
お母さんは、血相を変えて近寄ってくる。
「ちょっと、どういうこと」
あぁ……白、なんで来たの?
「ねぇ、聞いてる?雪」
「うん……」
「じゃあ、どういうこと説明して」
「……」
「黙ってたって、何も進まないんだけど。ねぇ雪、雪」
「……」
「はぁ……」
ため息。頭を抱え何かを考えている様子。私はもうどうしようもないと、そう思った。思った途端、体は立ち上がり部屋へと足を進める。
「ちょっと雪、どこいくの?」
手を掴まれる。
私は無言で手を振り払う。
「あ、痛。ちょっと雪……」
バタン。
ドアを強く閉めた。
ドンドン。
ドアを強く叩かれる。
「雪。開けなさい」
バンバン。
三十分。私はドアを押さえ続けた。最後には、軽く拳で叩いたような音がした後、崩れ落ちる音がした。なぜか、鼻水を啜るような音もしたが、私には関係ない。カーテンを力を込めながら閉め、頭まで布団を被った。
今日の夜は長いだろう、そして明日も長いだろう。私は、変わることができないだろう。
いつものように朝がくる。ここ三日、流れる時間は同じだった。お母さんが、大きな声を上げながらドアを叩き、部屋から出てくるように言い聞かせる。私は耳を塞ぎ縮こまる。玄関の開く音がしたら、私は部屋を出て朝食を済ませる。リビングに長くいると、どうしようもない焦燥感にかられるので、足早に部屋に戻る。カレンダーを見ては、ペンで今日の日付を塗りつぶした。天井を見上げながら、過去を振り返り、吐き気に似た何かが私を襲う。私の心に言い聞かせる言葉は決まって……「逃げてない」だった。だってそうでしょ、学校に行けば白がいるんだもん。そんなこともわからず、お母さんは私に文句を言うんだもん。私なんて……必要ないんだもん。だからいいでしょ、立ち止まってたって。文句ないでしょ、私どうなったって。私は、ペンを握ってみたりもしたんだよ。震えて書けなかったけど。私は、もう一度歌ってみたりもしたんだよ。声は出なかったけど。あなたはいいよね、幸せそうで。窓の外の景色は、あまりにも眩しく私の目には何も映っていなかった。午後五時を過ぎたあたり、お母さんのご飯の準備をする音が聞こえる。そこに毎日、毎日、毎日、インターホンがなる。もちろん誰かはわかっている……白だ。玄関まで歩いていく音が聞こえたら、私は扉にそっと耳を近づける。微かに聞こえる話声。
「雪さん、いますか?」
「うん。いるんだけどね……まだ」
「部屋から出て来ないんですか?」
「そう……」
「そうですか……」
「毎日声はかけてるんだけど……全く反応がなくて」
「……」
「私はどうすれば……」
顔を手で覆う。
白は唇を噛んだ。
「また来ます」
「うん……」
ガチャ。ドアが閉まる。
「雪……聞こえてる?」
ドアに息が当たるほどの、近くに立っていることがわかる。
「あなた、どうしたいの?」
こんなものに明確な答えがあるわけない。本当にうるさい。私は部屋の隅耳を塞いだ。
あれからどのくらいの日にちが経っただろう。一枚目のカレンダーは、真っ黒に染まっている。もう二枚も半分終わりかぁ……お母さんは、最近私に話しかけてこない。でも家のインターホンは毎日、毎日、毎日、毎日、毎日、なり続けた。うるさい。お母さんは毎日パートに行っているわけではないので、私の肋は少しずつ骨ばっていった。お昼のニュース番組。鳴らない目覚まし時計。割れたスマホ。一人の食事。どれも慣れてしまった。次第に私は寝る時間が多くなっていった。
『「インターハイ行けなかった」「成績下がってみたいだけど大丈夫」「創作は逃げじゃないかな」咳き込む私の姿に重なる、白の歌声』
頭の中を駆け巡る映像。
これをずっと繰り返している……
中学の時に書かされた、なりたい職業。確かあの時、先生が言っていた言葉。
「将来の夢や目標、その理由も一緒に書いてください」
当たり前のように発する言葉に、私は戸惑っていた記憶がある。その時、私は何て書いたっけ……みんなは、自分の親の仕事を書いたり、なりたい職業ランキング上位のもの書いていたのは覚えている。
あ。そうだ。私は白紙で出したんだった。正確に言うと丁寧な「夢なんてものはありません」と言う文章。反骨精神?今思うと恥ずかしい。でもあの時の私の気持ちはそれ以外になかったと思う。
今の私にもう一度同じ質問をされたら何て返すだろうか。多分今も同じ文章を書いてしまう。手は勝手に動いて、鏡を描くだろう。何もないから。
(じゃあなんで、大人が思い描く道を歩かないの?)もう一人の私が心の中で囁く。
私は、蓋をした。
目を開けると、いつもの光景が広がっていく。何もない真っ黒な天井。
食べ物でも食べよう、そう思った。冷え切った白ごはんをレンジに入れ、くるくる回る食器を眺める。冷蔵庫、おかずを探してみたけれど何もなかった。残った温まった白ごはん。食材を見る。箸を握ってみる。手を見る。
「あれ、どうやって食べるんだっけ……」
私は、箸を見つめながら握り方を変えようとした。でも体は答えてはくれなかった。
やることもなく、なぜかお風呂に入る。頭からシャワーかけ、濡れる指先を見つめる。髪も、体も、洗うことはなくお風呂から上がる。
濡れる髪の毛をそのままにして布団に戻った。私はどうして生きているのか、わからなくなった。
(ねぇ、あなたはどうしたいの)
(わからない)
(ねぇ、なんで学校に行かないの?)
(わからない)
(ねぇ、何になりたいの?)
(わからないです……)
クラスの人たちは今どうしているのだろうか。確かめる術のない私は、部屋の窓がひっそりと外を見た。私の居場所はどこにもない。
ピンポーン。
もう十七時だ。今日もお母さんが玄関に行くだろう。
「あれ?」
誰の足音も聞こえない。そう言えば、玄関の音なってないな。私はゆっくりと部屋のドアを開けた。インターホンの前、映像には白が下を向きながら返事を待っていた。
ピンポーン。
二回目のベルが鳴る。私は、一歩下がった。
「はぁ」大きなため息が、マイク越し伝わってきた。私の手は勝手に動いていた。通話、インターホンにつくボタンが赤く点滅する。
「はぁ、はぁ」
私のこの息は白に伝わっているだろう。白は背を向けていた体をこちらへ向けた。
「雪?」
小さく、白は呟いた。
「雪?雪だよね、話があるの。話がしたいの。声が聞きたいの。あなたに会いたいの。ねぇ雪、聞いてるんでしょ……」
カメラいっぱいに白の顔が映った。彼女の目には水が溜まっていた。なんで?
「しつこい」
「え?」
白の顔は、形容し難いほどに歪んだ。
「しつこいって、言ってるの。聞こえない?あなたが目障り、鬱陶しいって私は言ってるの」
「雪、いるなら顔見してよ。もう一回だけ話そうよ。私、言えなかったこといっぱいあるから。ね、もう一」
私は被せるように言った。
「私はない。早く消えて」
彼女はどんな顔をしているだろうか。私に見えるはずはない。つま先、力を踏み締め床は濡れる。
「ねぇ雪、抱えきれないものがあるんでしょ?ねぇ、私にも半分ちょうだいよ。なんなら全部……私に話してよ……」
耳障りがいいな。気持ち悪い。
「白、言って来なかった。今言うわ……あんたなんか大嫌い」
「あ、」
ブチ。
インターホンを私は殴った。
案外スッキリする。気持ちがいい。体が絹のように軽い。明日ならどこかに飛べるかもな……なのになぜ、私は膝から崩れ落ちているのだろう。なぜ、前が見えないのだろう。なぜ、無性に自分を殴りたいのだろう。唯一体の真ん中にピンと張っていた糸が、切れた音がした。
「クソ……」
私は、殴った。部屋で一人、殴れる部位を全て。不思議と痛みは心地いい。自分を殴れば許してもらえる気がして。そんなことを考える私も殴った。殴った。時間を忘れ気が済むまで。玄関からドアの開く音がした。少しだけ、集中が途切れてしまう。私は眠るように意識を飛ばした。
目が覚めると時間帯は同じだった。微かに漏れる夕日、私を照らすと昨日傷が鮮明に見えてた。なんかもうどうでもいい。今はもう十一月か。全てを置いて旅に出よう、私はそう思った。外の光に当たるのは何ヶ月ぶりだろうか。夕日になってしまった太陽の光も今の私にとっては、とても眩しい。裸足の私は、だらしない服のままフラフラとマンションの上へと向かった。今日の空は曇り空が近く感じる掴めそうだ。いつもより山が情けなく見えるこの場所で私は呟く。
「さようなら」――
屋上。柵に手をかけたその時だった。服の襟を思いっきり掴まれ、引き戻される。
――「はぁはぁ」
二人の呼吸が重なる。
私の目の前には、白がいた。
パン。
痛い……
頬には感じたことがないほどの痛みが押し寄せる。痛みのせいか、何なのか頬に涙が流れた。
「何しようとしてたの?」
怒り、悲しみどちらとも取れない白の声は震えていて静かだった。私は呼吸しかできない。でもその呼吸もできているのどうか怪しい。腰の抜けた私の胸がらを白が掴む。
「ねぇ、何をしようとしてたのって聞いてるの。ねぇ、ねぇ、ねぇ」
白の声は、次第に大きくなっていく。
「死にたいの?」
私はずっと白の目を見ている。
「何とか言ってよ、雪。ねぇ、雪」
体全身の力抜けていく。
「ねぇ、喋ってよ」
白の声は徐々に弱くなっていき、目尻に溜まっている涙が溢れ出す。服を掴んだまま、胸の中で泣いている白の姿を見て現実が頭に追いつく。私がさっき何をしようとしていたのか、それによって波紋のように広がっていく負の連鎖を今やっと理解した。
「はぁはぁはぁ」
自然と呼吸の量が増えていった。でももう引き返せない。私は白の手を振り払い、後退りした。
「雪?」
「こないでって言ったよね。顔も見たくないって」
白は私の方へ手を伸ばす。それをすぐにはたき落とした。白は目を逸らしてくれない。私は左下に顔を逸した。
「私は、あなたが嫌い……」
私の頭の中にあるのはそれだけ……
下を向く私を白の温かい体が包み込む。
「いや、やめて。離れて」
押し除けようと手で押すが、体は離れない。
「離れないよ」
「いや、はなれて」
「嫌だ」
「はなれて……」
私の声がどんどん小さくなっていく。
「絶対離れない」
白の力どんどん強くなっていく。
「きつい」
「あ、ごめん」
白が手を離した。
私は三歩後ろへ下がった。
「ちょっと、雪……」
「来ないで、近づかないで。はぁはぁ」
手を前に突き出し下を見る。
白のつま先は、まだこちらを向いていた。
「なんでくるの?なんで一人にさせてくれないの?」
私は、ゆっくりと口を動かす。
「会いたいから」
「そんなの自分勝手だよ。自己満足……誰もそんなの望んでない」
「自己中心的なのは雪もでしょ……勝手にやめるって言って、勝手に抱え込んで、勝手に死のうとして。全部、全部、自分勝手だよ」
「私は、あなたを求めていないし、あなたは私なんて必要ない、早くいなくなってよ」
「なんで、雪に決められなくちゃないの?誰が必要で、誰が不必要なのか決めるのは私だよ。勝手わかったようなこと言わないでよ」
「あなたに私なんていらないでしょ?」
「いるよ」
「じゃあ、どこに」
私の声で、手すりの上に止まっていた鳥が、飛んでいった。
「じゃあ、どこに私の居場所があるの?」
「雨宿りがあるでしょ」
「あんなもの、逃げ場所でしかないよ。受験が嫌で、家にいるのが嫌で、教師が嫌で。目の前にある現実を見ないように作っただけ……所詮逃げでしかないんだよ。でも初めの頃は思ったこのまま逃げられるかもって、でも違ったあなたは私を置いていった……いや、私は元から横に立ってすらなかった。必要なんてなかったんだよ」
「決めないでよ、私の気持ち……」
「何?違うとでも言うの?やめて、そういうの……」
「違う」
「だからやめてって」
「違うよ……雪は何もわかっていない」
「何も違わないよ」
「ううん。違う。これだけは、はっきり言える、違う」
「あぁ、もう、うるさい。あなたは私なんて必要ないし、この世に私は必要ない」
耳を塞いだ。
「聞いて、雪」
耳に当てていた手を白に握られる。
「やめて」
「聞いて」
白の目からは離れられなかった。
「好き」
「は、何言ってるの?」
白が言っていることをそのまま理解することができなかった。
「好き、全てが」
「そんなこと言っても何も起きないよ。この世は漫画じゃない、世界そう単純じゃない」
「でも、好き。雪といる時間が、歌う声が、交わした言葉が、何もかもが好き……」
「そんなわけないよ、好きに永遠はないし、私たちの時間は偽物で、ただの現実逃避だよ」
「今まで歩いた道は、逃げ道であっても偽物ではない、絶対に、絶対に……」
「じゃあ、白は一生逃げ続けるの?私にはわからないよ。逃げているのか、好きを選んでいるのか、私にはわからない。だから、今歩いている道の名前がわからない」
「私もわからない。これが逃避なのか、好きなのか」
「じゃあ、この手は何?わからないなら来ないでよ、私を惑わせないでよ……」
私の目からはなぜか涙が溢れた。
「ねぇ、雪。好きを証明させて欲しいんだ。私に……」
白は、力を抜き腰を落とす。でも手は、しっかりと温かった。
「証明……」
「そう、証明。私はずっとわからなかったし、今もわかってない、好きの正体なんて。ねぇ雪、ずっとやろうよ。二人で。でさずっとやって言ってやろうよ。大好きだってさ。多分できると思うだ私。ねぇ雪、ねぇ雪、好き?」
「わからないよ、わからない。でも好きだと思いたい……」
こんなことを言ってしまっていいのか。また、逃げてしまっていいのか。もう一度掴んでしまっていいのかこの手を……
「うん。私も思いたい、好きだと思いたい」
顔を上げると、夕日に照らされる白の顔が見えた。とてもきれいな笑顔だった。頬には、一本の筋が光を集め、きらりと光る。
「多分私、白の笑顔好きよ。これ変わらないと思う」
彼女は、またにこりと笑った。
「もう一度一緒にやろ、雪」
差し伸べられた手、私掴んでしまっていいのか。いや、もう掴むしかないのかもしれない。私たちは、この道を歩くために生まれてきたのかもしれない。もう決まっていたのかもしれない。
あの時から――
背後から、小さな拍手が聞こえてきた。雨の中差し込む光はとても眩しい。この時くれた小さな肯定が、今でも忘れられない。
「ねぇ、白……」
「なに?」
「ありがとう」
「何?どれのこと?」
「初めて会ったときにくれた拍手のお礼、それだけじゃないけど……今は、それだけ。だって時間はいっぱいあるんでしょ、ずっと……一緒なんだから」
「雪……」
「でも、ちゃんと言わないとな……本当にごめ、」
途中で白に抱きつかれ、言葉を詰まらせる。
「ちょっと白、話してる途中なんだけど……」
「あ、そうなの続けて」
「いや、この体勢は流石に……」
「いいよ、このままで」
「はぁ。ごめんなさい。何も決めずに逃げてごめんなさい」
「いいよ」
「私は、自分のためにあなたを傷つけた。本当にごめんなさい」
「いいよ」
「本当にごめんなさい……」
「うん。私こそごめんなさい、向き合わなかった、気づくことができなかった。本当にごめんなさい。これで終わりにしよ、あとはもうありがとうで」
「うん。ありがとう、白」
私は白の胸に顔を埋めた。
「そろそろ戻ろう、雪。外暗くなってきたよ」
私の肩をポンと叩き、白は立とうする。
「待って」
「え、何?まだ言いたいことあった?」
「約束して……」
「約束?うんするよ。一生一緒ね」
白は、小指を立てて言った。
「それじゃ、弱いよ」
「えー。じゃあ、どうすればいいの?」
「おまじない、もっと強固な」
「おまじない?」
私は、困惑する白の左胸に片耳を当てこう言った。
「この音が止まるまで一緒に居て」
白は小さく頷いた。
私たちは、大きな病気にかかった。それは、風邪でも、癌でも、ましてや恋でもない。あの時に見た景色が、治りかけていたはずの私たちにもう一度蘇らした。その病気の名前は『夢』




