第16話頬に落ちた雨粒
文化祭ステージが終わった。私たちはまだステージ裏にいた。雪の様子はおかしかったが、無事本番が終わってほっとしている自分がいた。
「雪、お疲れ」
「うん……」
雪の表情はまだ暗い。
「体調悪い?ステージの時も顔色悪かったけど……」
「いや、大丈夫……大丈夫……」
雪は顔を片手で口を覆い、もう片方の腕で二の腕を握り締めている。少し震えているように見えた。
「本当に大丈夫?」
「うん。大丈夫だから……」
雪は逃げるように走ってその場から離れようとする。
「雪……」
私の呼び止める声は雪には届かなかった。
――「続いての発表は三年、吉岡さんと同じく三年の木嶋さんによる漫才です」
「どーもー」
つまらない漫才が後ろで始まる。
私の居場所はここにはない。押し出されるように外に出た。
歩く廊下は、煌びやかで心に残る不安との対極の位置にいる。頭の中では、なぜ雪があんな表情をしていたのか、逃げた理由はなんなのかずっと考えていたが答えは出なかった。
「あの、雪どこにいるか、知りませんか?」
クラスメイトに声をかける。
「雪ちゃん?そういえば見てないな、この時間から仕事のはずなんだけど」
「そう、ですか……」
「葉月さん、代わりに入ってくれない?今人手が足りなくて……」
教室で待っていればいつか雪もくるだろう、そんな淡い期待を持ちながら、その提案を了承した。
教室は、多くの人で賑わっていた。嫌嫌やっていたはずの男子たちも、慣れた手つきで客を捌いている。それから三十分、裏で仕事をしていても、雪は一向に現れなかった。文化祭の終了時間は十七時、今は十六時半。
「飲食店のクラスの人は、片付けをはじめてください」
生徒会の人たちがいろいろなクラスに伝えまわっている。人は次第に減っていき、掃除が始まる。お客様はいないのに、私たちは忙しさを増していた。
「よ、白さん」
「あ、奏多くん……」
「ライブ見たよ。すごく、良かったぁ」
「ああ、あぁ」
一瞬喜んだが、雪を思い出し表情が暗くなった。
「見てほしくなかったの?」
「いや、嬉しいよ。ありがとう」
「あ、そう」
「ねぇ、雪どこにいるか知らない?」
「いや、知らないけど」
「そう……」
「何かあった?」
「いや、何もないよ……」
「なら聞かない」
「そうして……」
掃除が終わっても雪の顔は見当たらなかった。
「今日打ち上げいく人ー」
クラスの男子たちの声が教室に響く。それにわらわらと人が群がっていく。私はそっと教室を出た。
学校中を探しまわった。中庭、屋上、体育館、旧校舎。繋がらない電話、既読にならないメッセージ。雪の足跡はどこにもない。
「おかえり、白」
「ただいま……」
「今日のライブ良かったよ」
顔をわしゃわしゃとされる。私の顔は暗いまま。
「どうした?元気ないけど」
「ちょっと今日、疲れちゃったからかな」
「もうお風呂入ってるから入っちゃいなさい」
「うん……わかった」
湯船に滲む感情は何色でもない。
今日も合わせて二日、雪からは一通も連絡は来なかった。もちろん、私の送ったメッセージは既読にならなかった。
月曜日――
不安と期待を抱えながら、学校に向かう。何事もなかったかのように教室にいて欲しい、私はそう……思った。
先生が教壇に立ち話し始める。内容はなんとなくわかる。
「えー、今日、喜多川は風邪で休みだ。みんなも風邪には気をつけるんだぞ。えー、今日の予定は――」
風邪……
体調悪かったんだ……と楽観的とらえることはできるはずもない。
ブン。
ポケットの中にあるスマホが揺れた。
(雪)『放課後、火の実で話したいことがあるので来てください』
たった一文だけ送られてきた。
『なんで文化祭の日、帰ったの?』
私の送ったメッセージには、既読がつかなかった。
放課後――
茜色の空が静かに街を覆っていた。見慣れていたはずの橋上からの景色が、やけに胸に残る。揺蕩う川の光が、心に一滴の感情を落とした。焦りは、足のスピードを速め、歩いていたはずの私の体は、いつの間にか走っていた。
カランカラン。
雪はいつもの席に座っている。服は制服。私が来たことにも気づかず、ずっと外を見ていた。
「お待たせ……」
「白……」
何も話そうとはしない雪。私から切り出せる雰囲気にはなかった。無言に耐えかねて、コーヒーを注文した。コーヒーが届いた後も、冷めるまで何も話そうとはしなかった。痺れを切らした私が、話を切り出そうとした矢先に、雪が話し始めた。
「ねぇ、白……」
私を呼ぶ声は、誰が聞いても分かるくらい震えていた。俯いた顔を上げ、私を見る。思わず視線をずらした。指先が、冷たくなる。
「私、『雨宿り』やめようと思う」
「え、なんで」
拾い集めた言葉は、とても拙い。目がひとつの場所を見ていられない。感情は行き場をなくしていた。
「私はもう白と一緒にいられない……」
外は徐々に光を無くし、照明だけが私を照らしていた。
「え……」
声は、湿度を帯びている。
「ごめん、さようなら」
それ以上何も言わず、雪はその場から立ち上がり、逃げるように立ち去る。雪の背中に、かける言葉が見つからない。伸ばした手も、雪の手を掴むには遅すぎた。
バン――
扉が閉まる音は、やけに大きく店内に響いた。
雪の目尻に溜まった涙が、何を意味するのかはわからない。その光景が瞼の裏に張り付いたままとれない。雪との記憶がループしていく。周りの喧騒が、孤独を確固たるものにして、視界は霞み、心臓の鼓動が早くなる。それでもゆっくりと、残酷に時間は流れていった。
ふと時計に目をやると、針は十九時を指している。外はもう夕方ではなく夜に近い。
ピロンピロン――
着信音が店内に鳴り響く。
私はやっと呼吸をしたような気がした。
「もしもし、白?今どこにいるの?」
「火の実っていう。きっさてん……」
「ん、どうしたのその声、泣いてるの?」
「泣いてないよ……」
鼻水を啜った。
「まぁ、いいわ。白、早く帰ってきなさい。何時だと思ってるの」
「うん、今から帰るよ……」
「そこは家から遠いの?」
「駅の近く……」
「あぁ、もういい。迎えにいくから駅で待ってて」
「うん……」
ブチ。
電話が切れる。
手に力が入らず、スマホを床に落とす。拾い上げても、もう一度落としてしまう。小刻みに震える手を見て、視界がぼやけてしまった。
「出なきゃ……」
消えそうな声呟いた。
暗い空に雨は、降っていない。街には空虚な車の音だけが聞こえている。店の窓に映る私の顔が、この街の風景と重なり同化していく。駅までの道を照らす街灯が、ところどころ消えている。私の足元には、影を落としていなかった。ゆらゆらと蛇行しながら駅までの道を歩く。遠くないはずの道が途方もなく感じた。心が体を追い越しては、戻ってきて離れる。靴底は地面に引っ付いて離れようとせず、ベリベリと音を立てながら歩いているような感覚があった。
横を通りすぎた車が後ろで止まる。
「白」
振り返るとそこには、千春さんがいた。
「まだこんなところにいたの?早く乗って」
「うん」
車の中は終始無言だった。
過去になっていく景色。
私の心は、『火の実』に置き忘れてしまった。
家に着いた。
「ご飯食べる?」
「いらない……」
私は、そのまま部屋へ直行した。
今にも体が床に落ちて、砕けてしまいそう。無意識に進む足をただ眺めながら、階段を進む。
部屋に佇む、アコースティックギターが、弾いてほしそうに私を見ている。ギターのボディに手を伸ばしても、私の心は温まらない。淀んだ空気が廊下からの光を屈折させ、部屋に光がうまく届かない。輝いて見えていた景色は、どどめ色のように、くすんでいた。
微かに光る月光も雲に隠れ、外には雨が降り出した。




