第11話積雪
七月――
電話越しに震える声の主は春。
「雪……負け……ちゃった」
「インターハイ一歩手前まで行ったんだよ、すごいことだよ……それに……」
私は、何を言ってるのだろう。気休め程度の慰めは一番傷つくとわかっているのに……出てくる言葉はそんなものばかり。次第に大きくなる彼女の泣き声は言葉を詰まらせた。
「ごめんね。こんな事、雪に言ってもどうにもならないのに」
鼻詰まった声はか細い。
「いいよ、私も何できなくてごめん……」
私はただ謝った。長くなる電話は切るタイミングを失い、春のスマホの充電がなくなることで切れた。
ピロン。
(ごめん、充電切れて、変なタイミングで切れちゃった。長い時間、ごめんね)
今思ってことを全部書いたような文で、ざらついている。
(大丈夫だよ、今日はゆっくり休んで)
一文だけ、そっと添えて私はスマホを閉じた。いつの間にか外は暗くなっている。揺蕩うはずのないカーテンは風になびいているように見えた。ベットの上で仰向けになって天井を見るが何もなかった。
ピロン。
父。
(一人暮らしは大丈夫そうか?)
淀んだ空気は、電子には伝播しない。私は今呼吸をした。返事を返そうと文字を打つ手は、想像以上にいつも通り。
(なんとかなってるよ)
(本当にごめんな。父さん九月くらいには一旦帰って来られそうだからそれまで我慢して)
(うん、わかった。心配しないでほんとに上手くやってるから)
(そうか、体には気をつけるんだぞ)
(うん)
(雪、おやすみ)
(うん)
スマホをベットに投げ捨て立ち上がる。部屋に脱ぎ捨てられた服の中から、パジャマを見つけ出し着替える。リビングには生活感がない。キッチンの溜まった洗い物はそろそろ片付けないといけない。
八月末――
無事に終わったコンテスト一次試験。
余韻に浸る間も無く忙しない日々は過ぎていく。これでいいのだと、これがいいのだと私は思った。歌う練習をしていると咳き込む回数が増えているような気がする。白の曲はより繊細に、複雑に、なっていく。白から見える私の背中は、小さくなっているだろうか。そんなことを考える私は遠いところにいるのだろう。踏み出した彼女の背が見えたあの日から変わっていないな。
ガチャ。
「ただいま雪」
「おかえり、お父さん」
帰って来るのを知ったのは一日前。慌てて綺麗にした部屋は少し不恰好だった。
「雪ー、ちゃんとしたご飯食べてなかっただろ。ほらこれ」
カップ麺の入ったゴミ箱を掴んでは私に見せる。
「いや、そんなにいっぱいは食べて……ないよ」
「食費はちゃんと振り込んでたのに……面倒くさがっただろ」
「はは」
「まぁ。今日からちゃんとしたもの食べような」
「うん……」
「て言っても簡単なものしか作れないけどね。今日はカレーで良い」
「うん。カレー好き」
次の日――
「雪、どこかに出かけるのか?」
「お見舞いと友達に会ってくる」
「お父さんもお見舞い行こうかな」
「でも、私もう出ないと間に合わない」
「あぁ、じゃあ後から行くよ」
「お母さんに伝えとく」
「うん。ありがとう」
お母さんのお見舞いは定期的に行っている。病気も回復傾向にあり、最近は元気に会話ができている。
ガラガラ。
「お母さんいたよ」
「あぁ雪、今日も来てくれたの。ありがとう」
「いいよ、そんなこと気にしなくて。今日は体調大丈夫なの?」
「ここ最近は調子いいかも、退院できる日も近いってお医者さん言ってたし」
「そう、ならよかった。あのお父さん帰ってきてるの知ってる?」
「もちろん聞いてるわよ、雪の食生活のこともね」
「もーう、お父さん余計なこと言って」
「最近顔がふっくらとしてきたんじゃなーい」
「気のせいだよ」
「そう」
花瓶に入った花は枯れている。
「この好きだったのに枯れちゃったのよねー」
「次にでも買ってくるよ新しいやつ」
「うん。ありがとう」
枯れた花を捨てる時、なぜか悲しい気持ちになる。
空の花瓶を洗っていると、空気が変わった、ような気がした。
「雪……成績が下がってるみたいだけど、大丈夫なの?」
「あぁ、ちょっと気が抜けただけだよ。次の学期は取り戻すから大丈夫」
「進学するのよね?」
「うん、そのつもりだよ」
九月――
新学期が始まる。
「ゆーき」
背中に飛び乗るのは春。元気そうで安心した。
「今年の夏はあんまり遊べなかったよね。雪はどこか行った?」
「私たち、受験生だよ。そんな遠くに遊び行ってないよ」
「まぁそうだよね」
ヘクョン
「あれ雪風邪?」
「いや、そんなことないと思うけど」
「気をつけなね」
「うん……」
案の定風邪を引いた。二次試験が終わった後でよかった。朦朧とする視界の中で、土曜のことが頭の中を回っていた。白の焦る表情と微かに聞こえる電話の声。私の前には、糸が垂れてくれない。夢のような現実。逃げる私の足は、どこへ向かっているのかわからなくなる。白の優しさが純白のナイフのようで、痛かったことを覚えている。その映像が頭の中でループする。気がついたのは十七時頃。家のチャイムがなっている、宅急便かな?お父さんはご飯でも買いに行ってるのだろうか。インターホンを見る余裕がない、私はそのままドアを開けた。
ガチャ。
「白?なんで」
なんでいるのか頭が働かない。
「え、あ。心配だったから」
「私なら大丈夫……」
私は、膝から崩れ落ちた。そんな私を白は移動させベットまで戻ってきた。
「雪ご飯食べたの?」
私は小さく頷く。その後に続けて。
「大丈夫だから帰っていいよ今おと」
『お父さんがいるから大丈夫』と、言おうとしたが白の額が背中に当たる。
「風邪移っちゃうよ」
聞き耳を持たず顔を埋めている。
何も言わない、エアコンの音だけが聞こえる。色々な感情が混ざった無音。返す言葉はないけれどなぜか嬉しかった。
ガチャ。
お父さんが入ってくる。二人とも困惑した様子、当たり前だ。適当に紹介をした後、白はそそくさと私の部屋から出ていった。部屋から出ていったのに一向に玄関の音が聞こえない。気になって部屋の外見ると微かにリビングから声が聞こえてくる。
「知り合ったのは、今年の四月で、バンドを本格的に組んだのは六月です」
「そう……だったんだね、原因が分かってよかったよ」
「あ、はい……」
「一つだけ言いたいことがあるんだけどいい?」
「はい、大丈夫です」
「その活動って今やる必要性ある?」
「でもこの時期はさ、二人にとって大事な時期だよね?」
「この貴重な一年を棒に振ってまでやる理由が私には見えてこない」
「反論がないってことは、先を見据えてないってことでいいかな?」
「創作……個人的な意見で、申し訳ないけど、今やっている創作は逃げ……じゃないかな。何かをやらなければならない、でも何もやってない自分。程のいい逃げ場。受験という大きな壁にぶち当たるのを避けて、楽な壁に挑戦しているように見える」
聞こえてくる言葉は、綺麗な正論。薄いドアに背中を預け蹲る。
私の中に降り積もる感情が、心の色を鈍くさせていた。




