この雨が止まるまで(起)
私はこの日見てしまった。
ドアの隙間、わずか五センチに収まる彼女の姿。
晴れ間に降る雨のように不思議で、瞳の中に深く焼きついた。
始まりはいつも唐突で不確かでそして曖昧。
私はここで一つ大きな病気にかかってしまった。
それは、風邪でも、癌でも、ましてや恋でもない。
治りかけていたはずのそれは、些細な風でまた揺れる。
その病名は『 』
肺に沈澱した気持ちを吐き出すように重い咳をした。
高校三年の春。
始業式から二週間ほど経ち、浮き足立つ心も落ち着いてきた、そんな日。スズメの鳴き声が、鼓膜を揺らす。
カーテンの隙間から微かに漏れ出る窓の光と、まだ残る分厚い布団。
目に映るカレンダーは去年からの使い回しで、なんの役にも立たないが我が物顔で壁に掛かり、こちらを見ている。
それが私の朝の景色。
鏡を見るたび、ひどくなっている目の下のクマと、窓から入るやけに眩しい光。どちらも与える感情は同じで起伏がない。
なんの思い出もない学校の制服は妙に重く、ブレザーの袖にいつも手がつっかえてしまう。化粧っ気のない私は、準備に時間がかかることは基本的にないが、今日は随分とギリギリになってしまった。
机に置いてあるおにぎりをカバンに詰め、玄関まで急ぐと後ろから聞き慣れた声がする。
「白、いってらっしゃい」
千春さん。
母が死んだ後、開いた隙間を埋めるようにいる彼女はやって来た、母の歳の離れた妹。
高校一年の時からの付き合いだが、いつもこの言葉には息が詰まる。
なんて返していいか分からない。
視界の切れ端にいる彼女はいつも笑ってこちらを見ている。
直視できない。
私は、つま先を見るようにコクリと頷き、逃げるようにドアを開けた。
埃っぽいギターケースを抱え歩くこの道。春の並木道は、桜色のカーペットを敷いて、新しい出会いを祝福していた。
キンコン カンコン キンコン カンコン 。
鳴り響いたチャイムは、クラスを静かにすることはなく、話し声が止まることはない。どうしようもない疎外感が私を襲い、次第に額が机に吸い込まれていった。
教師が教壇の前に立つと、ようやく話し声が止まる。朝のつまらない話は、私にとって眠気を誘うものでしかなかった。
目を瞑りながら聴いていると、本当に寝てしまった。
——いつもと同じ夢。
父と母の口論の声が警察を呼ばれるほどヒートアップしている。押入れの中、小刻みに震える視界。
時間と共にぼやけていくはずのものが、明瞭に残っていた。
遠くから何か聞こえてくる。体が揺れてその声はより鮮明になる。
「葉月さん、葉月さん」
重たい瞼を上げた先には、同じクラスの——喜多川 雪 がいた。
「二限目、体育だよ」
「あれ、寝てました?」
「うん。それはもうぐっすりと」
「え……」
「右目、涙出てるけどどうしたの?」
「ふぇ?」
よく分からない音を出した後、涙を拭う。
手にはしっかりと水滴が残っていた。
「悪い夢でも見た?」
心配と哀れみの中間の表情は千春さんと重なった。
咄嗟に拒絶するように言葉をこぼす。
「あはは、あくびだよ、あくび」
少し早口な話し方は、取り繕っているようで逆に怪しかった。
「そっか」
ただの相槌。そこに意味なんてないのだろう。考えた先にいるのはいつも虚像の敵。わかってはいるけれどいつもそこに足を運んでいる自分がいた。
「じゃあ、私先に行くから。早く来なね」
私は小さく「うん」と言う、それを聞いた彼女は、足早に教室から出ていった。
クラスの男子たちは、あたかも誰もいないかのように、楽しく談笑している。
私が今座っている席は果たして私のために用意されたのだろうかと不安になる。
満たされている空気に押し出されるように教室を出た。
外はまだ肌寒くジャージのチャックを上まであげた。
朝とは違い空には曇天が広がっていた。
授業はいつも通り、日常に一ページとして通り過ぎていく。
目の前を流れていく映像は、多分どこを切り取っても、私の思い出となる場所を見つけることはできない。
刻々と過ぎていく時間の流れは早く、今私の目の前に広がる景色は、朝のホームルームと同じ。
——キンコン カンコン キンコン カンコン。
「明日までに進路希望調査票を持ってくるんだぞー。まだしてないやついっぱいいるからなー」
帰り際、教室に響く教師の声。鞄の中にある紙はまだ、白紙。
私に明日はなく、『今日』という名前の連続。常に今を見ては流していく作業。そこに未来はなかった。
不思議と焦りは形を成さないが、私の周りをふあふあと浮いているのは感じていた。
「あ、雨」——
靴に手を掛けた手は止まった。
徐々に大きくなる雨音は、止む気配がない。
鞄の中を弄るが傘はなかった。
「天気予報では晴れだったのに……」
つい独り言をこぼしてしまう。
ザー
無情に響いている。
外を見つめながら、何人かの帰る姿を見送る。
そこには感情はなくただ見つめるだけ。
誰も私には見向きもしなかった。
私は踵を返した。
行く当てもなく、教室に戻る。するとそこには、管楽器を持った吹奏楽部が、数名居座っていた。そう言えば、音楽室は私のクラスと同じ階にあったような気がする。慣れない教室の配置。バレないようにそっと、その場を離れた。
目的もなく校舎を歩き回る。
人の気配は薄れることなく存在し続け、また下駄箱近くまで戻ってきてしまった。
目に入るのは、受験者数低下により旧校舎の閉鎖の案内のポスター。
「旧校舎……」
旧校舎につながる道は立ち入り禁止のテープが貼られている。でもそこには何度も通り抜けられた形跡が残っていた。
寂れた古い校舎。
なぜまだ存在しているのか入った時から謎だったが、学校曰く壊すお金がないそうだ。でも最近やっと壊す日程が決まり本格的に規制が始まったらしい。と言っても壊すのは再来年。
校舎少し回ったところに、壊れているドアがあると最近盗み聞きしたことがあるがそれは本当なのだろうか。
半信半疑で向かってみると。
「あ、これか」
そこには本当に壊れているドアがあった。
開けるとまず初めに感じるのは埃の匂いだった。静かな教室が並ぶ。明るい校舎から照らす光で埃が舞っているが目で見える。ここなら誰もいないと確信し、足を一歩一歩と奥に進めていく。
幻聴のように人の声が聞こえるが、さっきの校舎の余韻が残っているだけのように思えた。奥へ進むにつれてその幻聴はどんどん鮮明になっていく。
気づいた時には教室に人影が見えた。
咄嗟に隠れる。
人の声の正体は歌声だった。
急いでその場を離れようとする。
私の足は心の逆へと足を進める。いつの間にか扉の前に屈んでいた。
何で。心の中でそんな感情が生まれたけれどそんなことはどうでも良かった。引力は逆らえないほど大きくなっていく。
そこには五センチほどの隙間。見ることができるのは片目だったけれど、十分すぎる。
立っていたのは同じクラスの――喜多川さんだった。
「なんで、喜多川さんが……」
声が出た口を押さえる。
クセのない長い髪と、すっと通った鼻筋、まっすぐに伸びた長い足。 改めて単体で見ると、思わず見入ってしまう。
でもそんなことより、聞き入ってしまうこの声はなんだろう。
不思議な魅力が彼女にはあった。
鏡は私を写すがそれ以上のことをくれない、でも何で人が歌う歌に自分が重なったときこんなにも嬉しいのだろうか。
彼女の声は今の感情をダイレクトに表現していた。
一曲歌い終える頃には、何故か手が動く。息を潜めていた私の自我が、鼓動と共に手が呼応する。私は立ち上がった。
パチパチ。
早かった拍手は徐々にゆっくりになっていく。静寂を切り裂いた拍手は、自分の手から出たとは思えない。彼女の目を見つめながら拍手を止めた。
驚いた顔で見つめている。
時が止まるように頭の中の音が消えた。
「見てた?」
さっきまで気にならなかった雨が窓に当たる音、微かに聞こえる部活の掛け声が鼓膜を撫でる。
目を泳がせ、声を絞り出す。
「あ、その。た、たまたま見かけて。えっと、そのこれは……無意識というか」
自分の手を見つめて固まってしまう。
「そう……なんだ」
彼女は、少し俯き何かを考えていた
「う、歌」
「歌?」
顔をあげこちらを見る。
「その、すごく良かった……」
良かった……これは感想として合っているのだろうか……彼女の顔はポカンとしたままだった。
「あ、うん。ありがと……」
そう一言返すとまた黙ってしまう。
外の雨はより一層強さを増している。窓が風で打ち付けられ音を立てた。
「ギター、いつも持ってるよね。部活入ってたっけ?」
「いや……部活はどこにも入ってない」
私はまた下を向いた。ギグバッグの肩紐が少し下がった。
「何で持ってきてるの?」
何で……頭によぎる嫌な記憶をすぐに奥にしまい口を開く。
「癖で、なんとなく……」
「そう……私もよく癖で、二年の時の教科書持ってきちゃう。あはは」
最後の乾いた笑いは、不安そうだった。
彼女の顔を見ることができない。
逃げよう、そう思った。
「あの、私違うところ行きますね。あと今日のことは誰にも言わないので、えっと、さようなら」
下がった肩紐を元の位置に戻し、背を向ける。
「ちょっと待って」
動き出そうとした足は空中で止まる。
止まった足は思ったより簡単に動き始めた。そんな私に彼女は、また声をかける。
「高校一年の夏、公園でギター弾いてた?」
「何で知って……」
そっと後ろに振り返ろうと首を動かす。
「あ、やっぱり、そうだったんだ」
何かが外れたように表情が明るくなる。私の肩を握ってはピョンピョンと飛び跳ねた。
「あの喜多川さんは何でそのことを知ってるんですか?」
「えーっと、見かけたの帰り道」
(誰にも気づかれていないと思っていたのに何で……)
「でも、それ以来見かけなくてさ顔以外分かんなかったからずっと話す機会がなくてもしかしてって思ってたんだけど」
少し早口で何を言っているのかわからなかった。
「ギター聴かせてよ」
「いや、私。もうギターやめたから」
目を逸らす。輝きに満ちた彼女の目は少し眩しすぎた。
「でも、持ってきてるじゃん」
「いや、だからそれはただ癖で」
はぐらかそうとしたがダメだった。
「弾けないわけじゃないんでしょ?」
「それはそうだけど……」
「じゃあ聴かせてよ、一回だけでいいからお願い」
両手前に合わせている。
なぜここまでするのか、私には理解できない。
「だめ?」
瞑っていた目を片方開けてこちらを見る。
私は数ヶ月前、一口食べた甘い果実を床に放り投げた、何もかも忘れるために……でも今また、それ拾おうとしている。いや、もう拾っていたかもしれない。それに気づきたくなかったから、今こうして彼女に言い聞かせている。
逆行している気持ちと行動。意思と関係なく、声が出た。
「一曲だけ……なら」
不思議と驚きはなかった。
教室の明かりはなく、古い机と椅子が、後ろの方に並べられている。彼女は、その中の一つの椅子を真ん中まで持ってきて、ここに座れと言わんばかりにぽんぽんと、椅子を叩いている。
「電気……つけないの?」
「あー、電気ね。ちょっと待って」
彼女は、スイッチのところまで行きボタンを押すがつかない。
「なんでつかないの?」
「いやー多分。電気通ってないんだと思う。ここ壊される予定の建物だし」
スイッチをパチパチ押しながら話す彼女は少し申し訳なさそうな顔をしていた。
「大丈夫だよ。手元が見えないほどの暗さじゃないし」
「そっかよかった」
胸を撫で下ろす彼女を横目に、ギターをケースから取り出す。
出てくるのは、ボディの大きいアコースティックギター。
鉄臭い。弦は茶色い部分が目立っている。ギターを触る私の指先が目の端の映る。
爪は少し伸びていた。
チューニング。
雨が静寂をより濃くし、教室の中には弦一本一本の音が鮮明に聞こえる。
ジャーン
開放弦が教室に広がる。
「よし……」
小さく呟いた。
「何弾くの?」
向かいに座る彼女は、背もたれを抱えながら座っている。揺れ動く椅子に、期待が詰まっているように感じた。
「AGEHAのカンパニー」
「あ、あー。あーね……」
「知らなかった?変えようか?」
「あ、ううん。大丈夫。葉月さんが好きな曲を聴きたいから」
「そう……じゃあこのままで」
「うん」
弦を一弦ずつ引きながら話す。
「私、喜多川さんが羨ましいよ」
「え、何で?」
「私は歌えないから」
そう言った後、困惑した彼女を横目に曲を弾き始めた。




