初めての依頼、エリカの覚悟
ギルドの窓際。
差し込む午後の陽射しが、少女の手元を淡く照らしていた。
エリカ・ウォルターは、小さな鉄のプレートを手にしていた。
それは“ドッグタグ”――冒険者であることを証明する、個人識別の魔法刻印が施されたタグだった。
魔法で偽造を防止されており、
表面には確かにこう刻まれている。
『エリカ・ウォルター D級』
「鉄製……か」
ぽつりと呟く。
聞いたところによれば、ドッグタグは階級によって素材が変わるという。
- F〜D級:鉄
- C級:青銅
- B級:銀
- A級:金
- そして、S級のみが《ミスリル製》の特別仕様。
その最上位の存在は、今の自分にはまだ遥か遠い。
だが、確かに“この世界”に生きる証がここにある。
タグの刻まれた文字列を、エリカは指先でなぞる。
カイルとの旅路の中で学んだ表音文字。
音と文字が一対になっているおかげで、彼女は短期間で読み書きを覚えつつあった。
(──名前を持っている。居場所を得た)
ほんの少しだけ、胸の奥が温かくなる。
それでも顔には出さず、彼女は立ち上がる。
ギルドの一角。依頼掲示板の前には、数人の冒険者が群がっていた。
討伐、護衛、運搬、採集……難易度も報酬も様々。だが、D級に許されるのは、比較的簡易なものばかりだ。
「……ふむ」
手慣れた冒険者たちが物色する中、エリカは一歩下がって、掲示板全体を冷静に眺めた。
運搬よりも、戦闘経験が得られる依頼がいい。
とはいえ、無理は禁物。
ちょうどそのとき、隣に立っていた背の高い青年が話しかけてきた。
「お、新入りさん? タグ、ピカピカだな。初仕事ってとこか」
エリカは軽く頷いた。無言だったが、睨みつけるような目ではない。
「……ならこれ、オススメだぜ。魔物の駆除、街道沿い。手頃で名も売れる。危なくなったら逃げても死にはしねぇ」
「ありがとう。でも自分で選ぶ」
にべもない返事だったが、青年は苦笑して肩をすくめた。
それを見て、エリカは少しだけ頬を緩めた。
彼女の目が一枚の紙に止まる。
《街道沿いの小型魔物駆除。対象:ゴブリンまたは類似種。報酬8,000ルム。D級以上》
報酬は安いが、経験としては申し分ない。
(……これにしよう)
エリカはその依頼票を掲示板から外し、受付に向かって歩き出した。
少女の歩みに迷いはない。
ドッグタグが、陽光を受けてわずかに光った。
昼下がりの森に、乾いた風が吹いていた。
木々がさわめき、草の香りが鼻腔をくすぐる。
エリカ・ウォルターは、革鞘に収められた鉄製のロングソードをそっと握った。
それは、召喚されたときに与えられた最初の“武器”。
質素で実用的。だが確かに“命を奪うため”の剣だった。
(……あのときは、命令だった)
神殿で行われた“試し”。
言葉も疑問も拒絶も許されず、ただ命じられるまま剣を振るった。
心が追いつく前に、命が終わっていた。
(でも、今は──)
自分の意思で剣を抜く。
この世界で、“生きる”ために。
《依頼:南東街道沿いの魔物討伐》
《対象:ゴブリン、または類似種》
《報酬:8,000ルム》
《D級以上》
冒険者として初めて受けた、正式な依頼。
小手調べのような内容だが、森に差し掛かった途端、緊張が指先を冷たくした。
(命令じゃない。これは私が……選んだ仕事)
剣を抜けば、誰かの命を終わらせる。
今回は、逃げられない。自分の判断で、敵を見極め、斬るしかない。
「……来た」
茂みの向こうで、枝が折れる音。
空気が変わった。息を潜めて近づく獣の、沈んだ殺気。
現れたのは、緑の肌に黒い目を持つ小型の魔物──ゴブリンだった。
短剣を握り、喉を鳴らしているが、言葉は一切ない。
後方から、さらに三体。合計四体が、エリカを取り囲むように現れる。
(言葉を持たない。意思も、交渉もない)
目の前の存在は、人ではない。
けれど、それでも“命”だ。
「……悪いけど、私はもう選んだ」
鞘を抜いた瞬間、ロングソードが陽を弾いて鈍く光った。
ゴブリンが跳びかかる。
それと同時に、エリカは体を沈め、地を蹴った。
その動きは風のように速く──
最初の一体の喉元へ鋭く剣を振るう。
「……っ!」
黒い血が飛び散る。
次の瞬間、右から突っ込んできた二体目の腕を斬り払い、体勢を崩したところに蹴りを叩き込む。
空手の打撃が骨を砕き、魔物は呻く間もなく倒れた。
後方の二体が躊躇なく襲いかかってくる。
エリカは一歩後退し、回避と同時に一閃。
一本の刃が、真っ直ぐ心臓を貫く。
最後の一体が、距離を取って動きを止めた。
逃げようとしている。
エリカは追わなかった。
呼吸を整え、剣を構えたまま立ち尽くす。
「……もう一度言う。これは命令じゃない。私が、私の意志で斬った」
震える指先。
でも、眼差しは揺れない。
(私は“人”を殺したんじゃない。“生きる”ことを選んだだけ)
胸元のドッグタグが、微かに鳴った。
鉄の札に刻まれた名と階級――それは、少女の選んだ“生”の証だった。