旅立ちと冒険者ギルド
翌朝──
朝露に濡れた葉が陽光を反射し、静かな森の空気がふたりを包んでいた。
焚き火の跡から立ちのぼる白煙の前で、エリカは静かに天を仰いでいた。
「……行くわ。私は、“無刃流”の本山へ」
決意を告げると、カイルは荷物の紐を縛る手を止め、ゆっくりと顔を上げた。
「ソウエンか……」
彼の口からこぼれたその言葉に、エリカは頷いた。
「その国に行くには、二つの国をまたがなければならない。険しい峠と、盗賊が巣食う谷を越える必要がある。路銀も要る。命を狙われることもあるだろう」
「覚悟はできてる。自分の足で、強くなるって決めたの」
エリカの言葉は、凛としていて迷いがなかった。
昨夜の対話、そして心の内側で芽生えた“理想の剣士像”が、彼女の背を押していた。
「……そうか」
そう言ったカイルは、ふっと口元を歪め、呆れたように笑った。
「まったく、お前ってやつは。言ってみれば、初めての恋の相手に何も告げずに旅立とうとするなんてな」
「え……?」
エリカはわずかに目を見開いた。
カイルはそのまま、軽く地図を広げながら語る。
「お前の目。初めて見たとき、心臓が止まるかと思った。強くて、美しくて、それでいてどこか壊れそうで──守りたいと思った」
エリカは言葉を失ったまま、彼を見つめる。
「正直、旅に同行したいと思ってた。けど……それ以上に、お前が選んだ道を、誇りを持って歩いてほしかった」
「……」
「だから言っておく。俺は本気だ。今すぐじゃなくてもいい。お前が帰ってきたとき、また隣にいられる男でいられるよう、俺も俺の道を進む」
そのまなざしは、いつもの冗談混じりの軽さではなかった。
まっすぐで、真摯な――まるで剣のように揺るぎない目だった。
「……私にそんなふうに言う人、初めてよ」
そうつぶやいたエリカは、わずかに頬を染め、背を向けた。
「……ありがとう、カイル。あなたに出会えてよかった」
「またな、“無銘の剣姫”」
別れの言葉に、エリカは肩越しに微笑みを返し、静かに歩き出した。
国境の街――
その石畳の道を、黒いマント姿の少女が一人、静かに歩いていた。
陽に揺れる金髪のボブカット、透き通った青の瞳は、通行人の目を引いたが、本人は気にも留めず、ただまっすぐに目的地を見据えていた。
(あと二国を越えなきゃ……)
目指すのは、古より剣士たちが集う“無刃流”の総本山。
だが、旅路には通行証と路銀が要る。
少女――エリカ・ウォルターは、街の中央にある重厚な石造りの建物へと足を向けた。
冒険者ギルド《灰狼の杯》レグニス支部。
強者と野心家が集うこの場所で、彼女は旅のための第一歩を踏み出そうとしていた。
「剣士志望か。登録には初期試験がある。うちは実力主義だ」
受付の女性は事務的に告げた。
「冒険者の階級は上からS、A、B、C、D、E、Fの七つ。初期試験で得られるのはD級からF級まで。C級以上は、信頼と実績が要る。剣士志望は、うちの教官と試合してもらう。武器は木刀。文句はある?」
「ありません」
エリカは静かに頷いた。
試験場に案内される途中、壁に飾られた歴代冒険者たちの肖像画が目に入る。
その中には“伝説の剣士”と呼ばれる者もいた。
試験場は石造りの道場だった。
陽の差し込まぬ屋内に、すでに一人の男が立っていた。
「俺が担当教官のゲルダ。元B級冒険者だ」
年は五十前後、鋭い眼光と引き締まった体躯。
手にした木刀は重厚で、まるで風そのものを斬り裂くような気迫をまとっている。
「流派は風刃流。風を読み、風と舞い、風の隙間に斬撃を差し込む。気力の扱いにも長けた流派だ」
「……よろしくお願いします」
エリカもまた、渡された木刀を手に構える。
背筋を伸ばし、わずかに体をひねるその構えは、剣術の常識からは外れていた。
(変わった構え……いや、“型”そのものが違う)
ゲルダは目を細めた。
この少女の剣は、何かが根本的に異なる。
だが、迷いはない。芯が通っている。
「構えろ。――試験、開始!」
先に動いたのは、ゲルダだった。
踏み込みと同時に、風を裂くような水平斬り。
(速い!)
エリカは瞬時に見切り、木刀で受け止めると、足を使って横に滑る。
剣道の間合いと、空手で鍛えた反射と踏み込み。
打ち合いの中に、まるで“打撃格闘”のような駆け引きが垣間見えた。
「ほう、拳の技も混じってるか。……だが、まだ浅い!」
ゲルダの気力が揺らぎ、風がうねった。
「《風刃三連》!」
左からの斬り込み、すぐさま右からの斜め斬り、最後に跳躍して上段から一撃。
風の流れに乗るような三連撃。
それを、エリカはすべて木刀で捌いた。
(……風の“乱れ”が、攻撃の先に出る)
魔法ではない。これは、自然エネルギー“気力”による技。
だが、それでもエリカは確かに“感じ取って”いた。
「っは!」
最後の一撃を受け流し、逆に踏み込んで体勢を崩させる。
彼女の突きが、ゲルダの肩に木刀の“峰”を押し当てた。
沈黙。
そして、次の瞬間――
「……ふっ。なるほど、“無刃流”に似て、非なるもの」
ゲルダは肩をすくめて笑った。
「お前の構えも、技も、型も……常識から逸れている。だが、戦いの芯は通っている。これは本物だ」
木刀を下げたエリカは、無言で礼をした。
試験終了後、彼女は見事“D級冒険者”に認定される。
ギルド内にはすでに彼女の噂が広まり始めていた。
──あの金髪の少女。魔法に頼らず、気力に飲まれず、ただ身体ひとつで風を裂いた剣士。
“無銘の剣姫”──その二つ名が、後に生まれることになる。