冒険者と魔物
森の夜は深く、肌を刺すような冷気が空気に張りついていた。
焚き火の小さな光だけが、エリカの存在を浮かび上がらせる。
彼女は、マントの襟を深く引き寄せながら、火の前に膝を抱えて座っていた。
そのマントは、昼間、森の外れで気絶していた猟師から奪ったものだった。
殺してはいない。ただ、眠らせて、最低限の衣服と水筒、地図を拝借した。
下には神殿から支給された戦衣を着ている。白に金の装飾が入った、目立ちすぎる服だ。
だが今は猟師の粗末なマントが、その“異物性”を少しだけ隠してくれていた。
──カサッ。
焚き火の音とは違う、葉を踏む小さな気配。
瞬間、エリカの体がわずかに動く。
マントの中で足を開き、手のひらは地面をとらえ、全身の重心を落とす。
「……火なんか焚いてて平気か?」
声がした。男の声だった。
敵意は薄い。だが油断はできない。
火の明かりに浮かび上がったのは、簡素な革鎧をまとい、大剣を背負った一人の青年だった。
疲れてはいるが、動きに無駄がない。旅慣れしている。目は油断なく、言葉に余裕がある。
「名乗っとく。俺はカイル。冒険者だ」
「追ってるわけじゃない。……ただ、道中でおかしな噂を聞いて、確かめに来ただけだ」
「どんな噂?」
エリカは立ち上がり、距離を保ったまま問う。
剣には触れていないが、いつでも動ける構えだ。
「魔法が通じない少女が逃げたって話だよ。帝国も王国も血眼で探してる。
……お前、まさかとは思うが、その“当人”じゃないよな?」
エリカは何も言わず、目だけで相手を射るように見据えた。
その無言が、全てを物語っていた。
「安心しろ。通報する気も、売る気もない。
……俺は、誰にも雇われてないし、誰にも従う気はない。
ただの通りすがりの冒険者だ」
カイルはそう言って、剣を外して地面に置いた。
手のひらを見せて、火の近くに腰を下ろす。
だが、エリカは座らない。
火を挟んだ距離を保ったまま、じっと見つめていた。
「……よく平気で近づいてきたわね」
「まぁな。あんた、俺を殺す気がないのは見ればわかる。
でも、俺のことはまだ信じてない。……それも、わかる」
エリカの目がわずかに細まった。
否定も肯定もしない。
だがその無言が、今の彼女の答えだった。
しばらくの沈黙のあと、カイルがぽつりとつぶやいた。
「……人、殺したか?」
「……まだ、してない」
「しなかった理由は?」
「……自分を、守るだけで精一杯だった。
それ以上を望んだら、私が私でいられなくなる気がして」
カイルは何も言わなかった。
火が、ぱち、と音を立てて燃え上がる。
やがてエリカは、ようやくその場に腰を下ろした。
けれど、剣の届かぬ距離を取ったまま、目は彼を一度も離さなかった。
「……今夜だけ、火を見ててくれる?」
「もちろん」
エリカは肩の力を少しだけ抜いて、空を見上げた。
雲の切れ間から、月がのぞいていた。
──今もなお、彼女の中で「信じる」という行為は、手の届かないところにあった。
だがそれでも、“利用する”ことはできる。
名もなき少女と名乗る冒険者。
その夜、二つの影は火の揺らめきの中で、ぎこちなく共に在った。
夜明け前の森は、光のない銀色に染まっていた。
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──翌朝
焚き火の残り火をかき消すように風が吹き抜ける。
鳥の鳴き声はなく、虫の音も消えていた。
エリカはそれを、**“静かすぎる”**と感じた。
「……カイル、起きて」
囁くような声で、それでも十分だった。
彼は即座に目を開け、手を剣にかける。
「気配、だな」
「三体。こっちに向かってくる。速い」
言葉を交わしたのは、それだけだった。
カイルが剣を抜き、エリカはロングソードを手に取る。
だが、鞘からは抜かない。まだ“斬る”ことはしない。
木々の間から、暗褐色の毛並みを持つ獣が姿を現した。
長い爪、赤い眼、噛み砕かれた獲物の骨をくわえたまま唸り声を上げる。
「……あれは、フォルクウルフ。中型の魔物だ。単体でも厄介なのに、三体かよ」
カイルが一歩前に出る。
「お前は斬れねえんだろ? なら、俺が囮になる」
「待って。斬らなくても、止める手はある」
エリカがマントを脱ぎ捨てた。
その下の戦衣が朝の冷気にさらされ、風にたなびく。
剣は背に回し、代わりに彼女の足元が、わずかに沈んだ。
魔物が吠える。飛ぶように襲いかかる。
その瞬間、エリカが地を蹴った。
静かだった。
音はなく、ただ動きだけがあった。
すれ違いざまに放った掌底が、魔物の側頭部を弾き飛ばす。
ごつ、と重い音。
一体目は空中で回転し、木に叩きつけられて動かなくなった。
続けて、二体目。
爪を振りかざす動作の内側に踏み込み、逆腕を巻き込んで捻る。
軋んだ関節音、制圧、そして後頭部に踵が叩き込まれた。
残る一体が吠えながらカイルに向かって突進するが──
「悪いな、こっちも元傭兵でな」
カイルの剣が、地面に叩きつけられるように振り下ろされる。
だがそれは刃を使わず、ただ“抑えつける”一撃だった。
魔物三体、すべて即死はしていない。
だが二体は昏倒し、一体は意識をなくした。
「……殺してないのか。あの威力で、よく加減できたな」
「骨の軋む方向さえ間違えなければ、壊すだけでいい」
エリカはそう言って、肩で息をした。
「なるほどな。……こいつは、噂通りじゃ足りねぇ」
カイルが火打石で新しい火を起こしながら、ぽつりと呟いた。
「お前、斬らなくても、世界に風穴を開けられるかもしれない」
その言葉に、エリカは返さなかった。
ただ少しだけ火の揺れを見つめ、ゆっくりとマントを羽織り直す。
──その同じ朝。
帝国軍前線駐屯地では、黒銀の鎧に身を包んだ男が、馬にまたがろうとしていた。
その名は、ヴァルター・エングレイヴ。
魔導騎士団第七席。雷属性魔導の使い手にして、“帝国の処刑剣”。
彼の手には、一通の密命書が握られていた。
> 《魔導が通じぬ者を発見次第、確保または即時排除せよ。》
> 《抵抗の有無は問わない。》
帝国の“刃”が、ついに動き出す。
だがそれは、かつて誰も見たことのない“剣姫”との遭遇の始まりでもあった。